持衰(じさい)
魏志倭人伝に「
持衰(じさい)」という役職の人物の話が出てくる。
持衰とは、倭人が魏という国に朝貢に行く際の船に乗っていく特殊な役目をする人のことである。
岩波文庫の「魏志倭人伝」には次のように訳されている。
「その行来、渡海、中国に詣でるには、恒に一人をして梳(くしけず)らず、?蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。
これを名づけて持衰と為す。もしも行く者吉善なれば、共にその生口、財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便(すなわち)これを殺さんと欲す。その持衰謹ますといえばなり。」
すごい役目である。頭髪はボサボサで体中シラミだらけ、当然衣服は垢で汚れたままである。
肉は食べてはならず、女性との接触はご法度。
こういう男性を船に乗せていき無事に目的(往復渡海)を達成すれば、この男は最大級の保障を受けられるがそうでないと殺されるのである。
この持衰の衣服の汚れ髪の乱れにシラミなどがある状態は、神に対する冒とくで天罰が下る行為だと考えてしまうが、この倭人の時代はそうではないようである。
女性を避けたり、肉を食わないなどは、けがれを持たないための不作為的行為で、神の怒りを享けない善き状態を保持することになり、後の世の神官など、神に接する人々の姿と同じである。
一方作為的に髪の汚れやシラミを身体に持ち続ける行為は、後の世の身を清めるのとは相反する行為である。
このように倭人の時代における自然の荒ぶる事態を忌避する為の鎮魂的行為には、二面性があることが分かる。
触らず食さずの清めの身の状態と汚(きたな)き汚(よご)れの身の状態という一つの身体でありながら二面性の状態で乗船することが、災難回避の特別職的な持衰の使命で、安全に船旅をするための条件なのである。
穢れのない状態とそうでない状態は、日本書紀をはじめとする神々の書に記載されている荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)の両御魂を兼ね備えた一柱の神の御魂の状態にどこか似ている。
「あら」は、平静の乱れた状態で、古典学者石井庄司は、「万葉集が和歌革新の原動力となっているところは、実にこのあらさのためであると思う。
あらは生まれながらの穢れざる美しさである。」と述べている。
生まれながらの状態、自然のままの身体の状態と解せば、美しき穢れなき状態であるのかもしれない。
歴史雑考