信濃大門箚記

針塚古墳


 渡来人系の古墳ではないかといわれている古墳に積石塚古墳があり、松本市の東方の須々岐水神社の近くにある針塚古墳は、この積石塚でありかつては数十基の積石塚があった。

 古墳の500メートル南側には薄川が流れ、古墳を形成する積石の石はこの川の石が使われている。この古墳の上に立ち西方向を眺めると常念岳等の山々が広がる。古墳の造営の頃は、前面に田園が広がり、春先や晩秋の頃には、山の雪のコントラストも美しく、すばらしい景色であっただろうと思われる。

 積石塚は、中国大陸のスキタイ人の古墳や北朝鮮と中国との国境付近にも見られ騎馬民族征服説の江波氏と作家の森浩一氏が北朝鮮の史跡を訪れ、地元の考古学者の案内で詳しく解説している内容が数年前にNHKで詳しく放送された。
 朝鮮民族側からすれば日本列島征服の歴史的事実で、包み隠さず紹介しており古代史の研究者にとっては最高の資料である。
 
スキタイの古墳もNHKで同時期にロシアと日本の共同発掘の様子が放送された。遺体本体の部分は、積石塚の上部ではなく地下式であったが、印象に残っているのは馬も一緒に埋葬されていたことである。  スキタイ神話には古事記、日本書紀に類似する物語(海彦、山彦)があるという。
 騎馬民族には、渡海技術はなく短時間に日本列島への進出は難しくある程度の朝鮮半島での海洋系民族との接触も必要であろう。

 針塚古墳をマオイの墓と呼ぶ人がいる。続日本紀の延暦18年(799年)の高句麗人の卦婁真老(ケルマオイ)が須々岐の姓を賜っている記載があることからそう呼んでいると思われる。  針塚古墳は5世紀後半である。高句麗は562年に滅んだ国で、ケルマオイの一族は200年以上も滅んだ祖国の卦婁という官職名を使用していたことになる。
 この点について金達寿氏は、「信濃は高句麗国だったんです。」と「学生社 古代の高句麗と日本」で述べている。
 須々岐水神社には、海洋民族の名残と思われる伝統のお船祭りが現存する。
 騎馬民族、海洋民族が渡来したとすると日本列島は単一の民族による形成ではなく複合的なものであるが、日本人には他国人とは異なる大脳の機能発達があり、「自然との一体感を感じる」という独特のものの見方を持っているという人がいる。  島国のはっきりした四季折々の自然の変化は、住む人間の民族性に変化を与えるものと思われる。

歴史雑考