上田小県誌における深井氏
    
年号 記載内容
嘉暦4年 3月
(1329)
守矢文書(諏訪郡宮川村・守矢真幸氏所蔵)
諏訪上宮五月會付流鏑馬之頭・花會頭与可為同前御射山頭役結番之事七番五月會分 右頭、海野庄内深井、岩下両郷地頭、深井海野次郎左衛門入道知行分
長篠2年 
(1458)
諏訪御符博之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
海野本郷、代官深井肥前守治光
寛正3年 
(1462)
諏訪御宿穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸 氏所蔵)
海野青木郷、代官深井肥前守治光
寛正4年 
(1463)
諏訪御符橙之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
深井肥前守治光
寛正6年 5月
(1465)
諏訪御常橙之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
青木、代官深井肥前守治光
応仁3年 
(1469)
諏訪御符穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
海野本郷、代官深井肥前守滋満
文明2年 
(1470)
諏訪御宿橙之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
青木、海野知行、代官深井肥前守治光
文明3年 
(1471)
諏訪御符穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
深井、肥前守滋光 諏訪上社花会役に小県深井深井氏にあてる。
文明6年 
(1474)
諏訪御符穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
青木、深井肥前守滋光
文明9年 
(1477)
諏訪御符穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
 深井郷、深井肥前守滋光
文明12年 
(1480)
諏訪御符穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
海野庄、信濃守氏幸、代官深井肥前 諏訪上社御射山祭頭役を深井滋光にあてる。
文明13年 5月
(1481)
諏訪御符穏之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
深井肥前守滋光 諏訪上社御射山祭頭役を深井滋光にあてる。
文明15年 5月
(1484)
諏訪御箒橙之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
五月會明年御頭足 青木、海野信濃守氏幸、代官深井肥前守減光 諏訪上五月会頭役に海野氏幸深井滋光らあてる。
文明16年 
(1485)
諏訪御宿穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
海野庄、海野信濃守氏幸代官深井肥前守滋光 諏訪上社御射祭頭役に深井滋光をあてる。
文明17年 
(1486)
諏訪御符穫之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
深井滋光
長享2年 
(1488)
諏訪御符禮之古書(諏訪郡茅野町・守矢眞幸氏所蔵)
長享2年花會明年御頭足 海野代官深井代初、勘解由左衛門尉満信
天文10年 菊月24日
(1541)
蓮華定院文書(和歌山県・蓮華定院所蔵)
御書中の如く、不慮の儀を以て、當国上州へ棟綱罷り除かれ・・・深井棟廣(花押)
永禄11年 
(1568)
御頭役請執帳(諏訪市神宮寺・土橋満麿氏所蔵)
諏訪上社御射山祭を小県深井氏にあてる。
天正7年 2月6日
(1579)
上諏訪蓮宮帳(諏訪市神宮寺・諏訪頼宣氏所蔵)
 海野郷、深井
天正11年 
(1583)
御頭足(茅野市高部−守矢眞幸氏所蔵)
 諏訪上社、本年頭役科に深井郷等をあてる。
天正15年 
(1587)
御頭足(茅野市高部・守矢眞幸氏所蔵)
諏訪上社、今年の頭役科を海野庄・青木郷・深井等よりあつめる。
元和8年 
(1622)
深井文書(小県郡東部町・深井正氏所蔵)
元和八年両深井貫高知行高辻一三拾貫弐拾五文 深井右馬助

(1)海野郷が始めて文献に出てくるのは。
  天平時代(729〜765年)頃の朝廷への納入と推定される正倉院御物の麻布に「信濃国小県郡海野郷戸主爪工部君調」という墨書があり、その頃すでに海野郷が存在していたことを示しておりその後平安前期(800年頃)に成立した「倭名類聚紗」によれば東部町地方は「童女郷」と読んでいたと記載され奈良朝前期(715年〜)には「海野郷」が正式の呼称であった。

(2)殿下領
   上記史書「吾妻鏡」の文治2年(1186年)の条には、殿下領の荘園として「海野荘」が記載されている。 殿下領とは、三后(皇后・太皇太后・皇太后)と皇太子に言上するときに用いた敬語であり平安初期から摂政関白に用いるようになった言葉である。  摂政関白となったものには「殿下渡領」と言う一定の領地が与えられていたが鳥羽院政下に入って荘園整理の政策がゆるんで鳥羽上皇の庇護をうけた前の関白藤原忠実は、この「殿下渡領」のほかに新しく摂関家領というべきものを制定し、分割しないで摂関家だけに相続する所領をきめこれが「殿下領」である。  文治2年の海野郷は、これにより関白藤原忠実の嫡系が相ついで摂政関白となり、その曽孫基通が京都近衛室町に住み近衛家を称したので近衛家領と呼ばれていたことから、近衛家の所領ということになる。

(3)海野荘内における「深井」
 「深井」の地名が最初であるか、氏をもつ者がその土地に土着しここから同地区または地域を「深井」の地と称するようになったのかを確実に根拠を示すことは現在できない。
古文書上の掲載文を手掛かりにすると嘉暦4年3月(1329)鎌倉後期諏訪上宮七番五月会の守矢文書に海野荘内、深井、岩下両頭等深井海野次郎佐衛門入道知行分との記載があり海野荘内に「深井」という地籍があったことを示すととともに、そこは(深井)海野次郎左衛門入道という者の領地であったことを示している。ここに(深井)と記したのは同文書の2番五月会の部分に岩下郷海野次郎左衛門知行分と記載されていて海野荘内「深井」も海野次郎左衛門であろうと解するものがいるためで(深井)と記したのである。しかし、文書内に「海野荘内 深井・・・等深井海野・・・・」とあれば「深井海野次郎左衛門入道」と名乗る者がいた事実と見るのが自然である。しかも、その後の守矢文書を見ると、「長禄2年(1458) 海野本郷、代官深井肥前守治光」と記載されており海野荘内における「深井氏」の代官職は継続的であり突如出現して代官職を行っているものではなく海野氏の血縁的繋がりを明確に示している。しかも上田小県誌第一巻歴史編上の「深井氏」を見ると

守矢文書の「寛正4年(1463)深井肥前守治光」とあることから深井郷は深井肥前守治光の給地であった。

と記載していることから海野氏とは特別な関係があったのである。  以上のことから1329年頃鎌倉後期には海野氏と血族的関係にある深井氏が存在していたことになる。


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