- 深井氏
深井氏は和村深井に拠る。一説に滋野氏の貞元親王深井氏の家に御座し加澤湯に浴す。深井氏の女奉仕し、幸ありて男を産む、滋野幸恒これとなりとの傳あれば旧氏にして名族たる知るべきなり。
後世海野氏に属し、其の代官たりしが如し。
實徳二年海野本郷御符之禮五貫六百文、代官深井依満、康正三年御射山に海野本郷亀千代丸始て當候、代官深井肥前守治光御符之禮三貫三百文と見え、寛正二年花會に海野青木郷代官深井肥前守治光御符橙二貫三百文と見え、治光は寛正御射山にも、同六年五月會にも見えたり。
応仁三年御射山に海野本郷肥前守滋満御符之禮三百文見え、翌文明二年には治光見え、同三年、六年には深井肥前守滋光未見ゆ。減光は滋満と同一の人なるべし。同七年には海野荘海野信濃守氏幸代官深井肥前守滋光見え、同九年五月會の明年御頭定に深井郷深井肥前守滋光と見え、同十二、同十三、十五、十六、十七年にも見ゆ。
長享二年花會に明年御頭定に海野代官深井代初勘解由左衛門尉満信見ゆ以上三十八年間を通覧するに深井氏に依満、治光、滋光、満信の四名記せらる。
天文年中の頃にや菊月二十四日深井右衛門尉棟廣が高野山蓮花定院の宿坊たるの文書あり、小県郡深井氏にてもあるべし。
- 深井海野次郎左衛門
海野氏の幸氏以後伝説多し、諸系普を比較するに世代において数世の差違を見るあり、父子相承において転倒するあり、是れおそらく海野氏の一族夥しく繁延し、立家するもの頗る多く、後世断絶せるあり、存続せりあり、其本宗もまた滅ぶるありて、同族の起伏興亡変遷知るペからず、之を以て其族中僅かに存続せる支流が其祖を本系に求め、以て吾其本宗を承ぐと称するにあたり、かくの如き結果を来たしたるにはあらざるか。
嘉暦四年三月諏訪王宮五月会に付、御射山頭役結審之事に二番五月会分、左頭棒荘半分、陸奥左近大夫将監右頭狩田郷内、東條村和田隠岐入道。流鏑馬赤須、東山甲斐治大河原鹿塩地頭等。御射山左頭塩田庄半分陸奥入道。右頭海野庄内、岩下郷海野次郎左衛門入道知行分、付国分寺南條、並善哉塩野両郷地頭等と見え、七番五月会分に右頭海野荘内、深井、岩下両頭等深井海野次郎左衛門入道知分と見え(守矢文書)たる。
※ 嘉暦4年・・・1329年
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