天正年間から元和年間における深井氏


  天正10年(1541)武田信虎勢は、小県郡を手にいれるため村上義清と手を結び、海野氏、祢津氏、矢沢氏を攻めた(海野平合戦)。

  この時の海野氏の棟梁は、海野棟綱で、重臣は、深井右衛門尉棟廣であった。

  この戦いで海野棟綱の長子の海野幸義は、村上義清と戦って現神川の地にて討死にした。この幸義の死去年月については

   天文元年  (1532)    天文10年 (1541)

の2説がある。

  ここに至って海野一族は、窮地に陥り海野棟綱は羽尾入道幸全を頼り上野(現群馬県)に避難した。

 羽尾氏は、海野一族で鎌倉中期に海野幸房が上野国吾妻三原庄下屋に居住しこれを祖としていた。

  海野棟綱の重臣の深井右左衛門尉棟廣については蓮華定院文書にあるように山内殿様上杉憲政に海野氏への援軍を求めたのを最後に古文書には海野棟綱とともに以後登場しない。

  上州への避難に際しては、先祖の墓を恥かしめられないようにするため地中に埋めており、現在部落の東側に先祖塚として残っている。

   その後、天文20年(1551)真田幸隆が村上義清の戸石城を落とすまでの10年間は、深井郷及び海野郷は、混沌とした状況にあった。

  10年余りの混乱後、海野郷は武田信玄、真田幸隆らにより海野衆の手に戻り、永禄10年(1567)8月7日には、海野衆は、下之郷大明神生島足島神社に起請文を捧げ、武田信玄に異心なきことを誓っている。この時の海野衆の名に

    真田右馬助綱吉

    海野左馬亮幸光

がある。

  この真田右馬助綱吉については、真田右馬佐頼昌の長男ではないかと最近指摘されている。

  この名については、起請文上は真田右馬助綱吉となっているが「眞田右馬之亮綱吉」で法名は「壽泉院眞相勸喜大禪定門」である。この人物は、東部の興善寺と高野山蓮華定院には元和9年庄村金右衛門により供養されていることが記録されている。

  深井幸p氏の過去帳によると「眞田右馬之亮綱吉」の子は

    眞田右馬之亮綱重 (法名深井院實譽宗眞居士)

  である。

  あくる、諏訪矢沢文書によると永禄11年(1568)7月26日には、諏訪社上社、御射山祭頭役を深井氏が勤めており、深井氏とは真田右馬助綱吉(深井綱吉)であり深井郷は、深井氏の領地として以前の状態に復帰したことを示している。

  深井幸p氏所蔵(信濃資料集参照)の元和8年(1622)両深井貫高知行高辻文書「深井右馬助」の名があり安定した知行が認められる。

  両深井とは、東西の深井を意味し、東深井は、深井右馬助が西深井は庄村金右衛門が知行していた。



深井氏の歴史目次へ