1 古族深井氏の研究に当たって
長野県の東信地区の東部町は、平成16年の北佐久郡北御牧村との合併で東御市となった。旧東部町和(かのう)地区には、深い地籍があり、室町期には小県郡下の深井郷として存在していた。その後上深井、下深井地籍に区分されたが、明治になってからは小県郡和村となり字名で東深井、西深井になった。
現在、東深井には、深井姓の方々が居られる。
中でも深井幸p宅は、祖先の深井棟廣が、海野氏の家臣で戦国期に村上氏と海野氏との戦いで海野棟綱とともに上州追いやられた。
その後戦国混乱期における一族の存亡をかけての内紛により、真田氏の配下となったが、策略家真田氏により深井棟廣、海野棟綱の兄弟は忙殺された。
その後深井棟廣の養子深井綱吉も真田の手により忙殺されたが、その子深井三弥は真田昌幸の家臣となり孫深井外記は幸村の家臣となり一族の存亡を願ったが幸村の配下となた深井外記は1614年(慶長19年)の夏の陣で討ち死にした。
深井外記の子深井右馬助は真田信之の家臣となって松代に移ったが、元和8年(1622年)に真田信之家臣団48騎が松代を退去した事件があっり、その際に48騎の一員であった深井右馬助は、旧地(深井郷)に帰農することを決意し東深井に戻った。
私がこの古族に興味を持ったのは、東信地区における渡来人、滋野氏、海野氏、真田氏を研究すると、調べれば調べるほど深井氏の存在が気になったからである。
深井幸p氏の父は亡深井 正(次男であるが家督を相続、長男は深井小太郎で、小太郎は海野小太郎の子孫であることからその祖父深井邦信が命名したとのことである)氏である。
深井 正氏がご存命であったころ、長野郷土史研究会の小林計一郎先生が訪れ調査されたとのことで、先生の著書「真田一族」にも紹介されている。
2 伝説
深井幸p氏宅には、一つの伝説が残されている。
この伝説については小学校教諭で上田地方の民俗風習を研究されていた箱山貴太郎先生の著書「上田付近の遺跡と傳承」にも以下のとおり掲載されている。
東部町祢津に山陵宮獄神社というのがあって、貞元親王の陵に把つた神社であり、四ノ宮権現ともいっている。
四ノ宮というのは貞元親王が清和天皇の第四の二皇子と言う意味であり、この皇子は琵琶の名手であったという、宮中で琵琶を弾いていたとき、その音の美しさに聞きほれて燕が迷い入り、糞をしたとき、その糞が皇子の眼に入って、眼病になって加沢の温泉に治療に来ていて、深井某の娘を側女として生まれたのが海野氏である。と東部東深井深井正、深井信司氏の系図にある。
貞元親王が琵琶の名手であり、祢津の四ノ宮権現の前には巫女がたくさんいたこと、下之条の両羽神社にも巫女がいたことなどから察するに、貞元親王の後と称する滋野氏なるものは、芸能を伝える仕事をもって社会に広まっていったものたちかもしれない。
平安時代の末から平家琵琶を語る法師が諸国を回って歩いて各所にいろいろの伝説を生じさせているが、滋野氏にもそうした要素が多分にあったと考えてもよいようである。
上田市田町に配当屋というのがあったが、ここは、江戸時代まで琵琶法師その他芸能をもって生活をする人達の管理をするところであった、ここの管理は深井氏が長くしていたという。
という内容である。
箱山先生は、私が東信の小学校の生徒であったころ同じ学校に居られ父母が親しかった関係で、悪ガキであった私はよく親しみをこめて怒られたが、その後地方史に興味を持つなどないので今となれば残念である。
3 貞元(貞保)親王と深井某の娘
この伝説については、松代の真田氏が下克上の世の一族の発起の正当性を天皇家との血族を根拠とするために作り上げた物語で、その真偽は江戸期の国学者も述べているところである。
しかしここで重要なのは、真田氏が何故に「深井某」を利用したかである。
この伝説は、「信州加澤郷薬湯縁起」として群馬県鹿沢温泉紅葉館の小林康章家にも残されていると、群馬県嬬恋村の広報誌「広報つまごい」にも掲載されており広く知れ渡っている話であり昭和8年小山眞夫著「小県郡民譚集」では「信濃国深井の某が・・・」となっている。
当時の人々にとって滋野氏を東信地区に民間での各種伝説が残されているのであるが、親王名については「貞元」「貞保」のどちらかが使われている。この意味でもその真偽は明らかである。
この民間伝承についたは、滋野氏を祖とする望月氏に関し研究した望月町大伴神社宮司金井重道・望月政治著「望月氏の歴史と誇り」に、「貞保親王(清和帝第四皇子)三代実録による。貞保親王母藤原高子 号南宮、桂親王、延長二年六月葬ず、元慶八年甲辰年(884)夏五月貞保親王に滋野姓を賜う。これは名門の家滋野貞秀の継続せしむるためである。親王に関する諸伝説は佐久、小県郡内いたる所にまことに多い。多いということは滋野領があり、領民に親しまれ尊敬され、それが具体化され表現されたものであろう。温泉地、山、谷、神社、寺院、恋愛、民間行事にいたるまで、際限もなく盛り沢山にどこへ行ってもある……」とその多さを語っている。
伝説における深井氏の存在は、伝説が作られた当時の人々にとっては、「深井氏は古族である。」との認識があったということを示しているのではないかと考えられるのである。
深井氏の歴史目次へ