信濃大門箚記

安曇野の春

光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
光城山からの安曇野
早春賦の碑から有明山

13日昼頃、安曇野の早春賦の碑の傍の桜を見ながら松本へ向かう途中、豊科町光にある光城の桜の坂道が目に入った。
この城は山城で戦国初期の海野一族の光氏の山城である。
標高は911メートルなかなかの山である。山道のは、桜が植えられ山頂まで続いている。下から見ると標高差のため墨絵のように濃い部分から薄い部分へ白い帯が山頂へとつながっている。
 平日なので人は少ないが50人ほどの人が山道から山頂付近にいる。
この光城の山から西方向を見ると目の前に常念、蝶、燕の山々が見え眼下に安曇野が広がる。
よく見る安曇野の絵は、この位置からの眺を描いているようだ。
 海野氏は長野県の小県郡東部町(現東御市)を中心に平安期に栄えていた滋野氏の流れであるという。大伴氏の末裔、渡来人御井氏の末裔とも言われどちらにしても古族である。  
六文銭の家紋というとすぐに真田家を連想する人が多いが、六文銭は元々海野氏の家紋である。
真田家は早い段階に滋野氏から別れ真田町菅平に勢力を張っていた豪族で、下克上の戦国期に正統滋野氏を名乗るため正統海野氏を群馬でだまし討ちにし系図の乗っ取りを謀った。
 本来の海野氏の末裔(現東御市)の人々は、戦国期終了後郷里に帰農し六文銭の家紋を守り今日に至っている。
 滋野氏は古来から諏訪氏とも関係が深く、守屋文書の御山祭にその名を残し、諏訪市の沖田地籍の矢島氏は、六文銭である。


13章

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