東信史学会機関誌「千曲」第18号・第19号に掲載されている一志茂樹氏の「名族真田氏の発祥について」によれば、「真田氏は大伴氏の流れをくむもので真田地籍に私牧を持つ豪族で後に国牧をつくったものたちであり、滋野氏の系図のできる頃より多くみて200年、少なくとも150年ぐらい前に真田氏は存在していたと考えねばならない。」と真田氏の大伴氏からの発祥の可能性を示している。
「大伴」をとらえると北佐久郡望月町には、大伴神社がある。 この大伴神社の祭神は、金井重道氏・望月政治氏共著による「望月氏の歴史と誇り」によると、7章 大伴神社考
月読命・須佐之男命・大己貴命・少名彦命・天忍日命・天道根命
その他の神となっており、「天忍日命」は、大伴氏の祖である。
「古事記」によれば、天孫邇邇芸命が筑紫日向の高千穂の嶺に天降りたときに、天忍日命、天津久米命の2神が天孫の御前に下がったとされている。
大伴氏の系図は、「続群書類従」の「大伴氏系図」によると、
となっており、健日命は、初号武日命で日本武尊東征のときに、吉備武彦と共に従軍している。
「北佐久郡志」では、祭神を武日命・月読命で一説には、武居大伴主神であるとしている。
古代大伴神社の所在地であるが、延長5年(927)に延喜式50巻ができその中の神名帳に佐久式内社の中に大伴神社が記載されている。しかしながら、望月町の大伴神社がこの式内社の大伴神社と同一のものである確証は、佐久市野沢に伴野という地名があることなど、諸説があり確定していない。
この点について、栗岩英治氏は
「佐久郡に大伴神社があり、和名抄に伊那郡伴郷(神稲村中心)があり、吾妻鏡に伊那と佐久に伴野庄があります。平成天皇の御語が大伴であったので大伴を皆伴としたという点から見ると、大伴之郷大伴の庄が、伴野郷伴野庄となったものでありましょう。」としている。これに対して「信濃古代史考(大和岩雄著)」よれば、「大伴之郷(庄)の大伴が伴になったとすれば、伴郷(庄)と書かれるべきものである。」
と述べている。大伴神社の社地について「北佐久郡志」は、「この神社は、現在は本牧村望月宿の南方、鹿曲川が作った河成段丘上に鎮座している。ここに遷座する前の旧社地は伝説によると、望月の北5町ほどの字『椀の木』という場所で、そこには現在でも古宮、上宮、下宮、宮跡などの地字名が残っているという。」とあり現在の古宮地籍がそれに該当する。
次に信濃における大伴氏と渡来人についてであるが、5世紀後半の飯田市の溝口古墳から衝角付甲(しょうかくつきかぶと)と三角板鋲留短甲(さんかくいたびょうどめたんこう)が出土しているがこれは当時の兜と鎧である。古墳の周辺には馬の埋葬があり機内政権とつながりのある馬の生産に関わった有力者の墓ではないかと言われている。
当時の機内政権は、東国地方を支配するために岐阜県から神坂峠を通り前線基地を飯田地方に設けたと思われる。馬を飼う技術そのものは渡来人の技術といわれ、武具と鉄器そして馬による武装により東国支配は行われた。
「日本書紀」の武烈天皇(499〜506)3年11月条に天皇が大伴室屋大連に
「信濃国の男丁を発して、城を水派邑に作れとのたまふ。仍りて城上と日ふ」
とあり大伴氏が信濃国に関係していることが分かる。したがって、当時の指揮官は大伴氏である。甲斐の国一の宮にある浅間神社の宮司の古屋氏の系譜は、近年大伴氏の古系譜と注目されている。その系譜の中の「室屋大連公(大伴室屋大連)」の譜文には、
自遠明日香大宮至飛鳥八釣大宮五朝供奉長谷朝倉大宮朝丁酉年十一月朔為大連 (トホツアスカの大宮から、アスカヤツリの大宮に至る五朝にお仕え申し上げました。)
と書かれている。
上記の表から大伴室屋大連は、西暦412年ころから487年ころまでの間仕えたことになる。したがって日本書紀の武烈天皇(499年〜506年)の記事は大伴室屋大連ではなく金村大連公が事実ではないかとされている。
この点について「信濃古代史考」も「『日本書紀』の大伴室屋大連については、金村の誤記か雄略紀の記述がまちがって武烈紀にまぎれこんだかのどちらかであろう。」としている。
1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に記載された「獲加多支歯(雄略天皇)」でも分かるように東国への大和王権の進出は、大伴室屋が仕えた雄略天皇朝であり大伴氏が古代東山道を通り東国へ何らかの影響(支配権)を有していたことが推測される。
溝口睦子氏の「古代氏族の系譜」によると「丸子連については、『仲丸子』が『新撰姓氏録』にカナムラ裔として出ているし、また、黛弘道氏の丸子部に関する詳細な研究によって、大伴氏との密接な関係が指摘されており、大伴氏の同族であろうことは充分に予想されるところであった。」ということである。
北佐久郡に隣接する小県郡には丸子町がある。長野県地名大辞典(角川書店)によれば、
まるこ 丸子<丸子町>には、かつてこの地に勢力を張った大豪族にちなんだ地名で、その源は古代豪族丸子部氏にまで遡る可能性もあり、上丸子の沢田大塚古墳は同氏に関わるものとも言われる。
とのことで丸子部が存在していたことを匂わせている。
そこで大伴氏との関係であるが、新編姓氏家系辞典(秋田書店)では、
「丸子連相模[大伴氏族]丸子部の首長。大伴氏を称するものが多い。後世丸子部の多くは大伴連の配下に移っている。前數條に見えるように、丸子部で大伴安積連、大伴山田連を賜る族は大伴連配下の丸子部この国の氏人は万葉集廿に、「鎌倉郡上丁丸子連多麻呂」などが見える。」
と書かれており、丸子部の首長が丸子連で大伴氏と関係を有する部族である。
現丸子町にいたとされる丸子部が大伴氏と関係する部族という確証はないが後記する小県郡に居た大伴氏の事実を見ると一概に否定できない。
丸子部が丸子町地域に勢力を延ばした時期であるが、一代約25年とみると6世紀以降ということになる。
日本霊異記に「大伴連忍勝は、信濃国小県郡嬢里の人なりき。……」ではじまる話がある。
「嬢里」は「信濃古代史考」によれば、 「『和名抄』は童女郷と書き、高山寺本は『乎无奈』、流布本は『乎無奈』と訓んでいる。現在の小県郡東部町と上田市神川東岸を併せた地域に比定する点では諸説は一致している。」とあり、この大伴連忍勝は、宝亀5年(774)の甲寅の春の3月に死んだが、生前の善行により生き返る。というのが内容で氏寺を持つほどの豪族であったらしい。天平13年(741)2月24日国分寺建立の詔がありその後信濃国分寺建立[信濃の歩み 信濃毎日新聞によれば天平勝宝2年(750)]されたのだが、国司によって行われた国分寺建立のころに氏寺をもつということは余程の勢力を持っていた者と考えられる。
このことから、雄略天皇(457)〜光仁天皇(781)朝にかけ大伴連と名乗る豪族が小県郡、北佐久郡に勢力を張っていたことが考えられ、望月町に鎮座する大伴神社の存在は、古代東山道の道筋とも関係して大和王権の東征の拠点で指揮官として従事した大伴氏が、また、その一族がその氏神を祭つたものとみられ、5世紀後半の段階あるいは、その後に先祖の最初に居住した地域にと考えたのではないだろうか。