第5章 公用語として使わ
れていた信州
市川長野県立歴史館長は、「信州」という呼び方について「公式には『信濃国』を用い、
信州はその略称として用いられていたのである。」と解説されている。
ここでいう「公式」が何を意味するのか少し考えさせられた。
江戸期においては徳川の幕藩体制下長野県下には多数の藩や天領、旗本領が点在していた。
北佐久郡望月町は、町になる前は、「本牧村」「布施村」「春日村」「協和村」の4村であった。
さらに時代を江戸期に目を向けると小諸藩1藩の支配ではなく年代により複雑に支配の先が異なっ
ている。
1647年(慶安1年)ごろを見ると「小諸藩領」「青山因幡守宗俊(青山領)小諸城が管轄」
「天領」の3箇所に、1662年(寛文2年)ころは、「小諸藩領」「甲府領(甲府城主松平左馬
頭綱重領)」「祢津旗本領」の3箇所に支配が代わっている。
明治元年ころは、「小諸藩領」「天領」「岩村田藩領」「祢津旗本領」であり幕末嚮導隊の桜井
常五郎の生まれた春日村は、天領と岩村田藩領に分かれており桜井の家は天領であった。
常五郎は、春日村堀端の桜井新助の3男として天保3年(1832年)に生まれた。常五郎の直系の子孫はいないが、上記の新助次男弥八郎(赤報隊関係者に名が出ている)の子孫は現存している。
長野県史資料編(明治)戊辰戦争P178資料No140「慶応四年二月 嚮導隊桜井常五郎等取調書」
には「信州佐久郡春日村百姓弥八郎弟にて・・・・」と記載されており、同P186資料No145「慶応四年三月 佐久郡春日村桜井常五郎等賊徒処刑状留」には信州佐久郡春日村桜井常五郎」と記載されている。
このころの幕末混乱期における文書には「信州・・・」と藩の公式文書に記載されており略称的な呼び方と断定するには無理なような気がする。
律令体制下における「信濃国」は国府を意識した呼称であるが、支配が幕藩下の各藩の体制下では、国称下の一部分の感が強い。
長野県のような県行政の下ならば一国意識が強いが、各藩等が対等ならばそうもいかない。
したがって「信濃国」とはせず「信州」としたのであり「略称」ではない。
6章 保福寺峠
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