信濃大門箚記

3章 大山田神社考 

 下伊那郡下条村は、小さな村だが峯竜太で全国的に有名になった。

その下条村陽沢(ひさわ)の鎮西地籍には、大山田神社という「『延喜式神祇名帳』延長5年(927)完成」に掲載されている神社がある。

 「延喜式」には、信濃関係の48座の大小神社が掲載されていて現存する大きなものとしては、諏訪大社、穂高神社がある。

 伊那郡下には、阿智村の阿智神社と下条村の大山田神社の2社のみが掲載されている。

 延喜式とは、平安時代(794年から1184年)のいわゆる律令社会にあって「延喜式」の式とは、律令格式の式すなわち律令の施行細則である。

 延喜5年(905)に編纂が開始されたことから延喜式と呼ばれ50巻からなり9巻・10巻が神名帳と呼ばれる神々のリストである。

 この時代の中央政府には、神祇官という役所があり年に4回、四時祭という4つの祭りがあり、その内2月4日の祈年祭りが一番重要な祭りで、これは天皇の名で行う稲の豊作祈願の行事である。

 この祈年祭には、朝廷から幣帛というお供え物が下賜(かし)されこの下賜される対象神社の名が延喜式内に記載されていることから式内社と呼ばれる。

 大山田神社の祭神は、「大己貴命(おおなむちのみこと)本社」「応神天皇 八幡社」「建御名方命 摂社」「鎮西八郎明神(源為朝)末社」である。

 摂社とは、本社のに付属して本社に縁故のある神様を祭るものであり、本社の神が大己貴命(別名大国主命)で、その子である諏訪神の建御名方命をお祭りしてある。

 応神天皇は源氏の神様で、源氏の勢力下には必ず八幡社として存在する。

 大山田神社は元々鎮西地籍にあったわけではなく最初の鎮座地については、「下条村睦沢山田河内(かわちではなくゴウチ)説」「阿南町深見字東条の山田説」があるが、山田河内説は地元に伝承もなく説得力に欠く。

 山田説は、山田地籍に山田池明神という古い神社があり祭神が大国主命であることからこの地が最初の鎮座地といわれている。

 鎮西地籍には、鎮西というお名前のお宅が3戸あり、その中の造園業を営む鎮西家は、歴代大山田神社の神主の家で古文書には神社を山田から下条村の菅野に移し、その後現在の地に奉祀したと書かれている。

 ここで疑問に思うのは、今でこそ道路が整備され飯田からもさほど遠くない阿南町の山田の地だが、古代においては大変交通弁が悪かった場所に見える。

 阿智神社は東山道御坂峠にあり交通の要所の地であり、諏訪大社は諏訪族の拠点、穂高神社も安曇族の地にある。

 それに比して元大山田神社周辺にはそれを窺わせる場所や道もなくあるとすれば天竜川である。

 おおむかし信濃川から入った集団。

姫川から安曇へ入った集団と川が利用された。当然に天竜川も同様のことが考えられる。

さらに下条村睦沢(むつざわ)の粒良脇(つぶらわき)地籍には、二柱神社という神社がある。祭神は、旭尊(きゃくそん)天白神と喜久理比売命(きくりひめみこ)である。

 県内の神社の中で祭神として「旭尊天白神」を奉祀しているところはない。村ではこの神を天照皇太神ではないかとしている。古事記の天照大御神、日本書紀では天照大神または日神、、先代旧事記は天照太神、古語拾遺は日神のことである。

 しかし「旭」は諏訪神の建御名方神に使われる場合があり「旭神社」と呼称するところもある。

 「天白神」は、県内の天白神社を見ると白長羽命、天之御中主神、素戔鳴命、天棚機姫命、豊受比売命、倉稲魂命と多種であるが、星の神で太一(北極星)と太白(金星)が一体となった神という人がいる(沢史生氏)。

 「喜久理比売命」については、この神社が白山権現とも呼称され全国の白山信仰が祭神を菊理媛神(くくりひめかみ)とすることから同神である。

 東方出版の「真言密教と古代金属文化」によると「白山媛『菊理媛神』も一応日本書紀神代の巻に記録されているが黄泉の国に通う道に存在し、黄泉の国すなわち海の向こうの国、韓国の神かもしれない。」で鉱業部民(製鉄技術専門)が奉祀する神だという。

 素戔鳴命(すさのうのみこと)は、木の神、航海の神の面もあるが産鉄民で洲砂の男、砂鉄堀を我職業とする者たちの奉祀する神でもあるというのである(「古代山人の興亡」井口一幸著)。

 この二柱神社には、何ゆえか近くから産出される「カナクソ石」なる褐鉄鉱の塊が置かれている。奉られているのではない。不思議である。


4章 信州と信濃国 

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