信濃大門箚記

1章 海野郷戸主爪工部


海野郷は現在の東御市に古代にあった地名です。

今は東御市になったが、古代の旧東部町には「信濃国小県郡海野郷」という場所があった。

長野県で義務教育を受けた人ならば郷土史の時間に必ずこのことを知る機会がある。

 校倉造(あぜくらづくり)で有名な奈良の正倉院の宝物に信濃国の刻印が押され「小県郡海野郷戸主爪工部君調」と墨字で書かれた麻の布紐があるからである。

 「爪工」は「つまたくみ」とか「はたくみ」とか読むらしいが、万葉仮名でないので正確には分からない。いつごろの物かというと地名の「郡」の部分かある程度の目安になる。「国、郡、郷、里」の郡郷制に改められたのは霊亀元年(715)でそれ以降であることが分かる。

「郡」制度の前の「郡」に当たる呼称は「評」で、これらの変更の定着は天平12年(740)ころだといわれている。

 「爪工」については、「爪」とは高い人の顔を直接見えないようにするための長い柄の団扇・翳(さしば・きぬがさ)」で薄い布や鳥の羽で作られたものであるという。  官職要解には「造蓋(ぞうがい)を作る者」とあるから蓋(ふた)状のビーチパラソルに近いものかもしれない。「工」であるからそれを作る人たちが「爪工部」集団で住んでいた。

 日本後記の延暦18年(799)12月5日の条に小県郡に飛鳥時代(593〜641)朝鮮半島から渡来した人たちの子孫(高麗家継等)が日本の御井という姓を朝廷から賜ったことが書かれている。

 大和朝廷の大和(日本)統一のための東北部進出は、鉄と馬の力(武力)であるといわれている。この技術は日本固有のものでなく大陸文化である。須恵器土器ひとつを見ても薄手の器の技術は大陸文化なのである。

 大伴氏(当初は大伴連)は久米部(来目部)・丸子部(大伴連の一族)とともに大和朝廷の軍事部族であり多くの大陸系技術を従いながら東北地方に向かった。軍の進出は補給が必要で各地区に拠点を置き古代の牧場の遺跡がある所がその場所である。  このことから大伴氏の関係者が各地区に住人として一部が残るのは当然で、日本霊異記という古典に宝亀5年(774)小県郡嬢(おうな)の里に大伴連勝という人が住んでいたことが書かれている。

 万葉集には大伴一族に関係ある作者が多い。このことについて語る人が少ないが藤原氏が宮廷貴族として文学上においては懐風藻のような漢学的な知的教養を前面に出したものを残すのに反し、大伴氏はこれに対抗し「言葉の命を支える母なる大地である民族生活」にその抒情的芸術を見出し「万葉集」残した(国文学者 西郷信綱)。

 以上のことから小県郡下には、大伴氏系の人々が多いことから東歌、防人の歌の中にはその関係者が多いと思われ、そうなると「知具麻」の万葉歌は小県郡の川で「千曲川」が相当と思われる。

浅間山


2章 渤海国人船代へ

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