和宮親子内親王1 はじめに
『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』より2 での
>>さて、朝廷との協調のために京都から徳川家に正室として入った女性の中で、
>>一番有名な人といえば、和宮ではないでしょうか。彼女については稿を変えて
>>書くことにします。
を受けまして、和宮について色々考えてみようかと思います。
まずは『国史大辞典9』(吉川弘文館)から、サラリと和宮の生涯に目を通
しておきましょう。
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ちかこないしんのう 親子内親王 一八四六〜七七 江戸幕府十四代将軍徳川
家茂夫人。仁孝天皇の第八皇女。母は権大納言橋本実久の女典侍経子。弘化三
年(一八四六)閏五月十日誕生。幼称和宮。嘉永四年(一八五一)七月有栖川
宮熾仁(たるひと)親王と婚約したが、万延元年(一八六○)四月に至り、幕
府は幕権強化のため公武一和を標榜して宮の将軍家茂への降嫁を奏請、再三請
願を重ねた上、天皇の要望をいれて鎖国の復旧を誓約したため、天皇はついに
聴許を決意し、宮も承諾を余儀なくされた。かくて同年十月幕府の奏請は勅許
せられ、翌文久元年(一八六一)四月宮は内親王宣下を受け、同年十月京都を
発して江戸に下向、翌二年二月十一日婚儀が挙げられた。しかし結婚後わずか
四年余にして慶応二年(一八六六)七月家茂に死別、同年十二月剃髪して静寛
院と称した。この後政情は著しく緊迫し、やがて明治元年(一八六八)正月朝
幕開戦となったためすこぶる苦境に立たされたが、必死の決意を以て徳川家救
解のために朝廷に嘆願し、その家名の保全を果たした。ついで徳川家の駿河移
封の終わるのをまって翌二年二月京都に帰住、在住五年余ののち七年七月再び
東京に移住した。十年八月脚気療養のため箱根塔ノ沢に赴いたが、九月二日衝
心により同地で死去。享年三十二。法諡を好誉和順貞恭大姉といい、東京芝山
内の徳川家墓域に葬った。なお明治六年二品に叙せられたが、十六年八月七回
忌にあたり一品を追贈された。 (武部敏夫)
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悲劇の皇女といわれる和宮の波乱に富んだ生涯は32年という短さで幕を閉
じました。
◆なんで和宮?
『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』の後書きに、気になる事が書かれ
ていました。遺骨改葬・調査中の著者らの元に寄せられたという手紙です。そ
れによると、和宮は明治10年より前、明治4、5年に京都へ向かう途中で盗
賊に襲われて自害し、同行していた岩倉具視によって明治10年までそのこと
が伏せられていた、というのです。
また、有吉佐和子の『和宮様御留』では降嫁したのは和宮ではなく身代わり
の女性だった、などとも書かれています。
生前は朝廷と幕府の間で政略上のモノとして振り回された上に、死後も尚、
あれやこれやと言われる和宮に興味を持った私みずぼうは、奇しくも今、和宮
の逝去の時と同じ年!なのでした。
以下、和宮の遺体について・和宮の生涯・和宮身代わり説などについて、と
続きます。
※静寛院親子内親王というのが正式な名称になるかとは思いますが、一般的に
知られている、和宮(親子内親王)という名称を使います。
※資料の詳細については最終章にて明示します。
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