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最近の映画はむずかしい

先日も市川昆監督の「四十七人の刺客」をテレビでやっていましたが、高倉健 の大石蔵之助が「主悦は討ち入りに連れて行く」と言うと、奥方の浅丘ルリ子はなにか言って隣の部屋へ行ってしまいますが、 後ろ手にしめたふすまにたもとをはさんでしまいます。はさまったたもとのアップがあって、場面がかわりますが、たもとの アップの意味がいまひとつよくわからなかった。最近の映画は画面の解釈を全く観客にゆだねて先へゆくのですね。

ここで、もし、たもとを見てふと表情を曇らせる高倉健のアップがしばらく続けば、長男の死を覚悟した母親の狼狽がもう少しわかり やすかったし、大石にも奥方にも感情移入できたのではないかと思います。「主悦はもう元服してひとりの武士として生き なければならない。自分は父親として、先輩として、主悦に武士の生き方=死に方を教えなければならない。断じて自分ひとりが 死ぬのがこわくて長男を道連れにするのではない。しかし、母親としては、辛いことだろう。自分はそのことをよくわかっている つもりだった。しかしふすまのむこうで泣き声を殺している彼女の気持は、自分には決して本当に理解できないということが、 今の今はっきりわかった。自分は彼女にとっていったい何なんだ。仇討とはなにか。忠義とは?武士道とは?」そういう万感を 込めた表情の演技は、高倉健はおはこだと思うんですが。

小津安二郎の名作「晩春」のラストで、ひとり娘の原節子を嫁にやったあと、家に帰ってきた父親・笠智衆はだまってりんごの皮 をむきます。台詞のない画面がつづきます。やもめの笠智衆しかいないがらんとした家の中がときどき写し出されます。その中で かれはりんごをむきつづけます。なんの説明もありませんが、この画面の意味は観客のだれもがわかります。----娘が居れば、 彼は自分でりんごの皮をむくことは決してなかったであろう。彼ひとりしかいない家の中で、かれは黙々と皮をむいている。 カメラはじっと彼をみつめている。かれは黙って何を考えているのか。カメラは笠智衆の心の中を写すごとく、りんごをむく彼 をじっと注視している。彼が何を考え、なにを感じているか、いうもさらなり。いうもおろかなり。---観客には彼の気持ちが わかります。台詞で言われなくとも、映画をはじめから見てきた観客にはよくわかるのです。説明的なセリフが無い分、感動は いっそう高まります。

現代の映画は極力説明を排した、画面の連続からなっています。「晩春」のラストの数カットのような場面で全編が作られている のです。そのため、ひとつひとつの画面の意味は観客の一部の者にはよくわかっていないかもしれません。わたしの父親はかなり の年になりますが、最近の映画(洋画)は1回みただけではわからない。2回みてやっと意味がわかると言っています。

そこへいくと、むかしの映画はわかりやすかった。黒沢明の映画でさえ、たいへんわかりやすく作ってありました。「七人の侍」 では野武士の人数をわざわざ、石の数であらわして、画面に表示して見せてくれていました。また「天国と地獄」では、観客に 見るポイントを台詞で教えてくれました。「麻薬の売人と犯人の間でヤクの受け渡しがあるはずだ。その一瞬の手の動きを 見逃すな!」と刑事が尾行の打ち合わせの前にいうのですが、それは、その後の台詞のない延々たる尾行シーンの見るべき ポイントを観客にしらせているのです。そのひとことがあるために、観客はわかったとばかりによろこんで、その後のシーンの 緊張について行くのです。


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