長篠・設楽原の戦い
ながしの・したらがはらのたたかい
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『長篠・設楽原布陣図』
〜織田・徳川軍陣地〜

5月18日、設楽原に軍を進めた織田信長は、上平井の極楽寺山に本陣を定めた。その先連吾川の西岸
には馬防柵を三重に作り始める。
5月20日、信長は本陣を松尾神社北側の茶臼山に進め翌日の決戦を迎える。
織田・徳川軍は南北に流れる連吾川西岸に馬防柵を築き、弾正山の台地斜面に陣を布く。
台地東側には大宮川が流れ、そこにも一部一重の馬防柵を築いた。その北部に茶臼山がある。
連吾川、大宮川を天然の堀として利用していた。家康は最前線の弾正山台地南端部に本陣を
置いた。
対する武田軍は連吾川を挟んで東側の信玄台地斜面に対陣。南北に長く延びた陣型だが、
その両軍の間はわずか200〜300m程である。

【左上】極楽寺・織田信長本陣跡 織田信長が設楽原に来て最初に本陣を置いた所。北部山地からなだらかに
下ってきた丘陵地の突端部になる。
【中上】信長旗本地 平井神社 極楽寺跡の南面にある小山に現在の平井神社がある。
【右上】平井神社より東側の眺め 1.2q程先に弾正山台地が見える。その間は平坦地である。

【左上】新城市設楽原歴史資料館から見た茶臼山 かなり小さいが中央の独立した山が茶臼山。資料館は武田方の内藤昌豊陣地の
付近にあり、設楽原の戦い関連の展示もある。そこの屋上からの眺め。
【中上】茶臼山本陣跡 決戦を控えて極楽寺で軍議をひらき、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
そして茶臼山に本陣を移し指揮をとった。すぐ北側に羽柴秀吉を配置、徳川家康を最前線の弾正山に配置
した。
【右上】本陣下にある段郭 この一帯は中世の山城であったらしい。現在本陣跡には茶臼山稲荷社が
まつられ、昔は石段の両側に天正の白山祠などが並んでいたというから、その時の遺構かもしれない。
南斜面は公園化されている。
<駐車場有り 5台 県道21号を禅海寺方面に入る。案内板あり。>

【左上】茶臼山より弾正山台地方面 ここは大宮川の谷で、写真の正面弾正山台地の裏側が
激戦地の連吾川の流れる谷。
【中上】長篠役設楽原決戦場の碑 弾正山南端、家康本陣の近くに碑が立つ。
【右上】信玄台地より弾正山南端部 山県昌景陣地より見た家康陣地となる。真ん中に連吾川が
流れ、わずか200m程の距離である。

【左上】家康物見塚跡 家康が陣頭指揮した所といわれる。奥には信玄台地、山県昌景陣地が見える。
【中上】徳川家康本陣地 現在八剣神社があり、物見塚より大宮川方面へ降りてきた所。
ここは短い手紙で有名な「一筆啓上」発信の地で、家康家臣の本多作左衛門重次が設楽原の陣中で書いたものである。
八剣神社南側にある現在の東郷中学校付近が発信の地。「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」
お仙は嫡子仙千代のことで後に
丸岡城6代目城主、丸岡初代藩主となった本多成重のこと。
【右上】家康本陣より信長本陣茶臼山の眺め 家康は最前線に陣を構え多大な犠牲を払った形である。
信長に援軍を頼んだいきさつと、当時の信長の権力の強大さがわかる。

【左上】一重柵建設地 弾正山背後の大宮川にも一重柵が建設された。ここは家康本陣の背後になる。
【中上】連吾川沿い馬防柵再現地 設楽原歴史資料館から連吾川に下って行くと織田軍陣地側に
100m程に渡って再現されている。実際は全長2qに及んでいたという。
【右上】織田軍式馬防柵 織田軍と徳川軍の馬防柵には攻口(出入り口)の設け形に違いが認められて
いる。中上写真が徳川軍式。柵の向こうが信玄台地、天王山で内藤昌豊陣地である。

【左上】馬防柵構築再現
柵の前には堀をつくり防御性を高めていた。
後ろは弾正山台地が広がり、結構急な斜面である。狭い連吾川の谷とあわせ、武田軍を誘き出させて
鉄砲射撃を加えるには絶好の地であろう。

【左上・中上】岡崎信康本陣地 松尾山 家康の長男信康は大宮川の背後、松尾山に本陣を置いた。北側には
信長本陣があり、東側正面大宮川の先に家康本陣がある。現在松尾神社が建っている小山である。
【右上】信康本陣より東側、弾正山方面 この決戦で父家康が最前線に立ち、背後にいた信康は
どのような気持ちであったのか・・・

【左上】茶臼山麓より羽柴秀吉陣地方面 信長本陣のさらに北側、大宮川上流の谷奥になり、
戦線からはかなり離れている。
【中上】陣地跡の石碑 現在の牛倉集落の高台の奥にある。
【右上】秀吉陣地より南側の眺め 右に見えるのが信長本陣茶臼山。大宮川の谷が広がっていく。
【左上2枚】織田信忠本陣地 天神山 信長の長男信忠は信長の背後に陣を置き後詰めの形である。
現在は野辺神社が建っている。
【右上2枚】北畠信雄本陣地 新見堂山 信雄は信長の次男で北畠具房の養子となったため北畠姓となる。
織田軍の最後方の陣である。
現在は新城保険センター、特養老人ホーム麗楽荘がある。極楽寺跡から用水路沿いの道を東へ進むと
信雄、信忠、岡崎信康本陣跡と続いている。

【左上・中上】大久保兄弟陣地 徳川軍の最右翼にあたる。連吾川下流域にあたり、ここまで来ると
台地が無くなり平坦地が広がる。この付近には馬防柵は無く、そこを突いて武田軍最左翼山県軍が回り込んで来たため、
ここでも激戦が繰り広げられた。
【右上】川路城址 この付近に勢力を持っていた設楽氏の城で、連吾川下流、大久保兄弟陣地の
すぐ北側にある。連吾川、大宮川は豊川に合流するが、下流域はかなり深い谷を形作り、それを
利用して防御性を高めていた。
【左上2枚】川路城趾 お鷹井戸 設楽氏の代々の城主が鷹狩りを好み、鷹の飼育に温度変化の少ない
城内井戸を利用し、この井戸を「お鷹井戸」と呼んでいたと伝えられている。
背後の林は連吾川沿いに続いており、15m程の崖状の谷である。
【右上2枚】小川路城趾 川路城の南約200mに位置する。大宮川沿いにあり、ここもやはり
深い谷となっており、それを防御に利用していたのであろう。
遺構としていくつかの郭が確認できる。
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