滝山城たきやまじょう![]() 滝山城は武蔵国守護代大石定重が北方約2qにある高月城から大永元年(1521)に移ってきた といわれる。その後大石定久の時、天文15年(1546)北条氏康が河越の夜戦に勝つと、定久は 関東管領武蔵守護である山内上杉氏を見限り、北条方に属した。 氏康は次男を定久の養子に送り大石源三氏明と名乗った。後の氏照であり、滝山城は実質上北条氏の 支配となった。 永禄12年(1569)10月滝山城は関東に侵入した武田信玄軍によって、二の丸まで攻め込まれたが、 そこでくい止め、退けている。 天正12年(1584)頃、氏照は滝山城から、国境に近い 八王子城へと移った。 【左】多摩川対岸より 滝山城は多摩川の段丘上に築かれた城で、北側から東側は多摩川と その断崖によって守られている。 ![]()
【左】本丸より多摩川の眺め 北条氏にとって北関東、東関東進出への拠点となっていた。 また、多摩川の水運物流を押さえる意味もあったと考えられている。 『滝山城要図』
![]() 【左上】本丸 本丸と中の丸は舌状台地の最深部に位置し、周囲は断崖である。 本丸内部は二段になっている。 【中上】本丸桝形 本丸には桝形虎口が二カ所あり、中の丸、堀底へとそれぞれつながっている。 【右上】本丸、中の丸間の堀 この堀を多摩川の方へ下りていく道が搦め手と思われる。 〜大手から二の丸へ〜 大手、信濃屋敷、小宮曲輪方面からの三方の尾根が二の丸部分で一つになる。各尾根へは桝形虎口を設け、 空堀を土橋で渡って馬出へ、さらに土橋を渡って各外曲輪へと繋がる。堀に囲まれた二の丸と 外側の馬出のラインが、滝山城の防御線となっている。
![]() 【左上】大手方面 大馬出の西側からスロープを下った南側には大きい曲輪が 一つあり、土塁が東側一帯と曲輪内を仕切るようにそこから中に向かって数カ所延びている。 南端部に堀切状に空堀を配し、地山へと道が続いている。現在は細い山道が あるだけであるが、大馬出の正面であるので、ここが大手と思われる。 【中上】大馬出東側の空堀 二の丸周囲の他、比較的なだらかな斜面である城域南から西側にかけての外側に 大規模な空堀が巡らされている。 【右上】二の丸への土橋より大馬出方面 二の丸の南側に大馬出、二の丸への土橋の途中にも小馬出 があって、空堀外側の帯曲輪と連結する。
![]() 【左上】二の丸桝形 大馬出からの桝形で車道による破壊が無いため、良い状態で残る。 【右上】二の丸より帯曲輪 南側空堀の向こうに帯曲輪があり、二の丸、大馬出から「千畳敷」曲輪へ とつながっている。 〜信濃屋敷から二の丸へ〜
![]() 【左上】大馬出から東側屋敷方面 土橋というにはやや広い帯曲輪状の地を通って家臣屋敷のあった 広大な曲輪へとつながる。「信濃屋敷」、「刑部屋敷」などの呼び名が残る。 【中上】二の丸より家臣屋敷方面馬出 屈曲した道、そして馬出状の曲輪を間に挟んで土橋を2カ所渡り、二の丸へと入る。 【右上】家臣屋敷より二の丸虎口 桝形と曲輪より低くなった道を通ってやっと二の丸内部へと 入ることができる。 〜小宮曲輪から二の丸へ〜
![]() 【左上】小宮曲輪空堀 滝山街道から中の丸へ続く現在のメイン道路であるが、家臣屋敷群があった小宮曲輪の下を通る。 曲輪外縁部には空堀が巡らされており、状態よく残っている。 【中上・右上】千畳敷から二の丸へ 土橋、馬出を通る屈曲した道が二の丸桝形へ。車道が造られた ため、桝形や馬出の部分が少し判りにくい。 二の丸周囲の空堀、そして三カ所の虎口には馬出、桝形が造られ、屈曲した道により横矢をかけることができるようになっている。 あらゆる技術を駆使して守られた二の丸はまさに防御拠点だったことがわかり、武田信玄が 攻城した時にも二の丸が落とせなかったことが理解できる。 その後、氏照は八王子城を築いて完成前に移るが、政治、経済的中心地でもある滝山城を捨て、 山城である八王子城に移った行動には疑問が残る。ただ、豊臣秀吉の大軍に備えた行動であろうか・・・
![]() 【左】山の神曲輪付近 城域最北部にある曲輪でこの付近は大規模な普請は無く、山城の雰囲気がある。 外周部の空堀で画されてはいるが、小宮曲輪から尾根続きで、本丸とは深い谷を挟んで対している。ほぼ独立した状態である。 【右】小宮曲輪へ続く東斜面には家臣屋敷があったと思われる曲輪群が連なる。
![]() 【左】大日堂 多摩川の対岸拝島にあり、この付近に武田信玄が本陣を構えたといわれる。 寺の歴史は古いが、北条氏照が滝山城築城に際し、鬼門除けとして現在地に 移し、戦後天正年間に氏照の重臣石川土佐守が娘の眼病を祈願し平癒により再建したという。 【右】段丘崖上にあり、現在は見通しづらいが滝山城のある段丘が見える。 |