闇夜の子

 その子が産声を上げたとき、彼女は心底ほっとした。


「こっちだ、逃がすな!」「追え!」「早く殺すんだ!」
 男たちの怒号が響く夜の森を、彼女は赤子を抱えて逃げ回っていた。星の煌きさえも届かない、深い森だ。恐怖に押しつぶされそうになる足を懸命に動かしていた。
 赤子は状況が分かっているのか泣き喚いたりせず、おとなしく母の腕に収まっている。おそらく理解しているのだろう。この子は頭が良い。
「あう、あー」
 赤子が小さく声を出した。その口から覗くのは小さくも鋭い牙。吸血族の証だった。正確には、人間とのハーフ……禁忌とされている、混血児だった。
「大丈夫よ、お母さんが守ってあげるからね……」
 彼女はよしよし、と我が子をあやして、音を立てぬよう慎重に進んでいく。この先に何があるのかは分からなかった。けれど、あの悪魔のような村人から逃れられるのなら、どこだって良い。とにかく離れなければ、自分だけでなくこの幼い命も奪われてしまう。それだけは避けたかった。
「見つけたぞ、悪魔め!」
 はっとして振り返ると、右手に刃、左手に明かりを持った男たちが喚きながら走ってくるのが見えた。あんな奴ら、彼女が本気になればすぐに片付く。彼女はそっと自身の牙に触れた。しかし……死んだ夫に「もう二度と人間を殺さない」と誓ったのだ。その誓いだけは偽りたくなかった。
 彼女はひたすら走る。闇を切って、どこまでも逃げ続ける。この子を守るためなら地の果てまでだって行ってやる。
 けれど、そんな彼女の決意を嘲笑うかのように、世界は残酷な手を伸ばす。
「あ……」
 深い谷が、道を絶つ。遥か下は闇に紛れて見ることさえ叶わない、暗く底知れない谷間だった。確か緩やかな川が流れていたと思うが、音は聞こえない。彼女は唇を噛んだ。
 背後から野蛮な声と共に村の男たちが姿を現した。刃を向けられた瞬間、彼女の頭を甘い誘惑が掠めた。
 ――殺しておしまいよ、闇に葬ってしまいなさいよ。
 ――誓いなんて、破ってしまえ。
 それはこの上ない名案のように思えた。あいつらを血祭りに上げて、生きて……
「それはだめだわ」
 呟く。男たちがじりじりと間合いを詰めてくる。明確な殺意を持って、刃を煌かせている。
「私は誇り高き吸血の一族……約束は、決して破らない」
「何言ってんだ、てめぇ」
 男の一人が吠えた。それが合図だったかのように、彼らは一斉に向かってきた。
「私たちは闇に愛された種族。大丈夫よ」
 彼女は我が子の頬に口付けると――谷間に放った。
「きっと闇が守ってくれるわ……お願い、私たちの分まで生きて」
 次の瞬間、鋭い切っ先が彼女の腹を、足を、首を刺した。闇色の血が溢れる。支えを失ったように体が傾く。男たちが歓声とも悲鳴とも取れない声を上げたが、彼女は気にしていなかった。
 最後に見た我が子の瞳は、幾ばくの不安も絶望もなく、母の言葉を肯定してくれているようだった。
 ――あの子ならきっと、大丈夫……確信を持って、彼女はその意識を闇に沈めていった。
「あなたは望まれて生まれてきたのよ。何があってもそれだけは、忘れないでほしい……」
 闇夜に抱かれて消えていく、我が子の姿をその目に焼き付けながら。