「さて、どうしたものか……」
わたしはジラルドの恋人の部屋を訪れ、考えを巡らせていた。昼前に眠ったまま夕方になっても起きる気配がない。まぁ当然だとは思うが。
「う、ん……」
恋人はぶるっと身震いすると、うっすらと目を開いた。気だるげに見上げられた青の瞳にわたしが映る。しばし色のない瞳が私を見つめていたが、徐々に覚醒したらしい。
「え、え? きゃあっ」
短い悲鳴をあげると布団を握ってベッドの隅まで後ずさりしていった。
見知らぬ男がベッドの横に居たのだから、当然の反応だとは思う。軽く息を吐いて、
「何もするつもりはない。わたしはジラルドの知り合いだ」
わたしは両手を軽くあげてみせた。人間達はこうして和解すると聞いている。
「ジラルド、の?」
嘘は言っていない。
彼女の瞳から幾分か恐怖が消えた。しかしまだ警戒の色は濃い。
このまま話を進めて良いものかと悩みはしたが、のんびりしている時間はない。
その時はすぐそこまで差し迫っている。
「ジラルドのことだが」
言うと、恋人の体がぴくっと震えた。「……彼、どうしたの?」と不安げに聞き返してくる。
時間がないというのに、わたしは一瞬躊躇した。
先程まで傍らに居たジラルド・アミの顔を思い浮かべると、どうもその事実を口にするのが躊躇われるのだ。
これはこの恋人への同情か? それとも……いや、そんなはずはない。
わたしは、死神だ。
軽く息を吸い込み、
「彼は死んだよ」
その息に乗せて無感動に、無表情に言葉を吐き出した。
わたしは死神だ。わたしは死そのものだ。そうとも、わたしは動揺などしていない。
「死……」
ジラルドの恋人が青ざめていく。
「嘘、嘘よ! でたらめ言わないで!」
そのまま空を飛んで行くのではという勢いで布団を跳ね飛ばし、わたしの襟首に掴みかかろうとする。
しかし伸ばされた手はわたしをすり抜け、勢いを殺せなかった恋人は反対側の壁にぶつかる形となった。
破裂にも似た衝突音。
「な、ん……」ぶつけた肩を手でおさえながら、彼女は怒りとそれ以上の戸惑いとを含んだ表情をわたしに向けてきた。
「あなた一体、」
「わたしは人が死神と呼ぶ存在だ」
震える声を遮って、私は自分の存在を明かす。
腕を水平に伸ばし、指をぱちんと鳴らして大振りの鎌を呼び出した。黒光りする柄がわたしの手に収まった。
刃が窓から差し込む夕陽を反射して、まるで血に染まったようだ。死神の鎌が血に染まることなど決してありはしないけれども。
伸ばした腕を水平に移動させ、硬直するジラルドの恋人へ鎌を向けて言い放った。
「お前も、死ぬよ」
恋人の瞳が見開かれる。ぎゅっと唇をかんで、肩を抱く指が肉に食い込みそうな勢いだった。
理由は彼女もよく分かっているようだ。
腕を下ろし、恋人の様子を観察する。
ジラルドよりも綺麗な金糸の髪。
死ぬときには赤黒く変色してしまっているだろうが、白く綺麗な肌だ。素直にそう思う。
死神のそれとは違い、健康的な白さを誇っている。
ジラルドがこの人間を大切に思うのも頷ける。気丈に振舞っているがどこか危なげで、儚い。
触っただけで毀れてしまいそうな硝子細工の繊細さが彼女にはあった。
死の前日、ジラルドは彼女を心配する言葉ばかりを羅列し、死の直前までその名を口にしていた。
『幸せになってほしい』『僕のことは忘れてほしい』『生き続けてほしい』――最期の最後まで、自分が死ぬことについては何も言わなかった。
あいつの口から出るのはいつもいつも、恋人の名だった。
自分の死に関してあまりにも無関心だったのだ。
わたしが最初に感じた違和感の正体はこれかもしれない。
人は死に直面した場合、大人しく受け入れる者も居れば、激しく拒む者も居る。
どちらにせよ、死に対してなんらかの反応を示すのだ。
しかし、ジラルドにはそれがなかった。自分の死を受け入れたわけでも、まして拒否しているわけでもない。
本当に、無関心だった。
死そのものであるわたしの本能とでも言うべき部分がそれを敏感に感じ取って、違和感として心に引っかかっていたのだろう。
「あんたが」
ジラルドの恋人が口を開いた。地の底から響いてきているような低い声。
あまりにも長い時間沈黙していたため、一体なぜ彼女が言葉を発したのか分からなかった。
そうだ、わたしはジラルドの話をしていたのだ。
肩を抱いた腕はそのままに、垂れた前髪の隙間から覗く青い瞳だけが先程までとは明らかに違う空気を含んでいた。
わたしはそれを表す言葉を知っている。
「あんたが……たのね」
一歩、踏み出される細い足。――激しい憎悪と共に。
「あんたが、ジラルドを殺したのねっ!」
叫ぶや否や手近にあった椅子を掴み取り、わたしに向かって投げてきた。椅子はわたしを通り過ぎ、反対側の壁にぶつかって砕けた。白いベッドに茶色の木片が散らばる。
「許さない……許さない! 許さない許さない許さない許せない!」
書物や花瓶などを手当たり次第に掴んでは投げてくる。
そのたびに後ろの壁にぶつかり、ベッドに散らばっていった。
「落ち着け、落ち着いてくれ」
わたしが殺したわけではない。……人間に姿を見せるのはこれで最後にしよう。やはり面倒だ。
「ど、どうしたんだ!?」
騒ぎを聞きつけたこいつの父親が血相を変えて扉を開けて入ってきた。
部屋の惨劇を目にした父親はぎょっとした表情で言葉を失う。
それも無理ない。父親には娘がひとりで喚き散らして、あらゆるものを手当たり次第に投げつけているように見えるのだから。
「おい、どうし……」
我に返った父親が娘に触れようとした瞬間、彼女はその手をすり抜け脱兎のごとく駆け出した。
部屋を飛び出し、階段を乱暴に下りていく足音が耳に届いてくる。
足音はやがて遠ざかり、玄関が閉められるのを最後に完全に消えた。
「やれやれ……」
わたしはうろたえる父親を横目に部屋を出る。もちろん律儀にドアからなどではなく、壁をすり抜けて直接外へ出た。
家々の屋根より大人二人分ほど高い位置まで浮き上がって止まる。
「なんだってこう、人間というのは面倒なんだろう」
それに加えて、なんだってこうまでも身勝手なのだろうか。
相手のことばかりを考えて、しかもそれがまったく見当違いな思い込み。更には自分に無関心……そんなのは身勝手すぎる。
ジラルドの家へと向かう小さな人影を視界の端に捉え溜息をついた。
仰いだ天から降り注ぐ光はどこまでも赤く、血が降っているようだった。
あいつが何度も吐き出した色だ。あの儚い少女がこれから染まる色だ。
わたしは小さく、溜息を吐いた。
ジラルド、ジラルド、ジラルド……!
ともすればすくんで止まりそうな足を動かし、彼の家を目指す。
「はぁ、はっ、はぁっ……」
体中が熱い。ぼうっとする。息が苦しい。でも歩みを止めるわけにはいかなかった。
予感はしていた。でも覚悟はできていなかった。彼の死を、感情はもちろん理性すらも拒否している。
いつの間にか溢れていた涙で滲む視界に、見慣れたジラルドの家が飛び込んできた。
ノブを回すのももどかしく、ほとんど体当たりする形で家に転がり込む。
「ジラルド!」
愛しい名を呼びながら、まっすぐ彼の部屋へ向かった。
返事がないのは寝ているせいよ。そうに決まってるわ。言い聞かせ、彼の寝室の扉を開けた。
「ジラル……ド」
部屋には、誰も居なかった。ただ血まみれのベッドだけが、この暗い室内の主のように在り続けている。
「どこ? ジラルド、どこに居るの? ……どこに居るのよぉ!」
悲鳴に近い叫びをあげてベッドに近づく。足元をちょろちょろと走り回るねずみが鬱陶しい。踏みつけて、蹴飛ばしてやった。
ここはジラルドの部屋よ? 彼が居ないからって、ねずみが勝手に入って良い場所じゃないの。
「そうよ、ジラルド。どこに……」
「彼は教会裏の共同墓地だ。そんなに逢いたいのなら行ってみると良い」
声と共に、唐突に浮かび上がる黒い影。ベッドの上にふらふらと浮いている。さっきの死神だ。
「墓地? 墓地ですって!? まぁ、なんてひどいの。病気の彼をあんな暗い所へ置き去りにするなんて!」
昨日の光景が頭を掠める。私は踵を返し急いで墓地へ向かった。待っててジラルド、今すぐ家に送ってあげるわ。
たまにすれ違う人が私を見てぎょっとした顔をし、急ぎ足で離れていく。でもそんなの気にしてる余裕なんてない。寂しい墓地でジラルドが私を待っているんだもの。
暗くなり始めた空の下、私は教会を目指す。
「あの女……狂ったか」
憐れにも踏み潰されたねずみを見下ろして嘆息する。
あの恋人、既に発病している気がするがもはや痛みも感じなくなっているのか。平然と走っている姿には恐怖すら覚える。
「なんにせよ、見届けよう。最期の時まで――」
主を失った部屋を離れ、私も墓地へと飛び立った。
あれだけ激しく動いたのだから、体は悲鳴をあげているはずだ。きっと墓地で気でも失っているだろう。そのまま目覚めなければ楽に死ねる。
――暗く湿った墓地に着いてすぐ、わたしはその予想が大きく裏切られたことを悟った。
「ジラルド、どこ? ジラルド、ジラルドォ……どこなのよぉ!?」
わたしは戦慄した。
ぽつぽつと赤い斑点の浮いた顔を、同じく赤黒い手で掻き毟り、髪を振り乱して叫んでいた。
その瞳は毒草に実る果実のように暗澹とし、野生動物のように獰猛で、しかしそれでいて艶やかな光を放っていた。
「どこ、どこ、どこよぉ! 返事をしてよ、ジラルド!」
狂った叫びは空気を震わし、夜の墓地に暗く陰惨な雰囲気をもたらす。
決して返事をするはずのない恋人を探し続ける女。死神のわたしでさえ……いや、死神のわたしだからこそ、彼女の死に対する絶対的な『否定』と『無視』に恐怖を感じた。
わたしが見守る中、狂人は墓場を徘徊し周囲をねめつけている。その狂気の視線がふと、ある一点を見つめて止まった。墓石群より少し奥にある、無造作に積まれた死体の山。
その一角に居たのだ。彼が。まだ腐敗はしていないものの、かろうじて残っていた肌色も土色に染まり、赤と不気味なコントラストを描いている。
「ジラルド、見つけたわ!」
恋人は狂気と狂喜に染まった声をあげ、その山に走り寄る。頂上を飾っていた彼の体を引きずり下ろし、その生気を失った顔に頬を寄せた。あの父親が見たら卒倒しかねない、異様な光景だった。
「おい」
わたしは耐え切れなくなって彼女のすぐ背後に降り立ち、ジラルドを抱きしめて座り込む背中に声をかける。
「……あんたは」
反応はないかと思ったが、意外にもこちらを振り向いた。私は絶句する。振り向いた顔も、首も、手も、半ば以上を赤に侵されていた。美しかった顔も、今では見る影もない。
唯一、瞳だけが異常なまでに濃い輝きを保っていた。
「また私からジラルドを奪いに来たのね」
「彼は既に死んでいる。そしてお前ももう少しで……」
「嘘よ!」
わたしの言葉が終わらないうちに叫ぶ恋人。
「ジラルドが死んでいるですって? 馬鹿なこと言わないで!」
頑なに彼の死を拒み、彼の体を少しでもわたしから遠ざけるかのように抱き込む。ここまで死を否定する人間に、わたしは初めて『苛立ち』というものを感じた。
「何故分からない、こいつは既に死んでいるんだぞ!」
大股に近づき、ただの肉塊に縋る恋人を突き飛ばした。
その手でジラルドの首を掴み上げ、見せ付けるように遠方へ投げ飛ばした。鈍い音を立てて地面とぶつかる体。
「い、いやあぁぁ! なんてことするのよぉ!」
「いい加減にしろ。あいつは死んでいるんだ」
血相を変えて叫ぶ恋人に、わたしは冷たい視線と言葉を放つ。
「そんなの信じないわ……」
恋人は立ち上がり、死神以上に青白く、そして赤い顔でふらふらと歩き出す。わたしの横を通り過ぎる瞬間、その瞳が既に何も映していないことに気がついた。精神的にも肉体的にも、半ば以上死んでいたのだ。
「ねぇ、ジラルド。そうよね?」
地に伏したジラルドの頭をそっと膝に乗せ、愛しそうにその頬を指でなぞる。彼が答えることは決してないというのに。
「ねぇ、ジラルド。ねぇってば……ねぇ! なんとか言って、言ってよ!」
「……っ!」
反応のないジラルドに対して徐々にいらついてきたのか、その細い指が彼のまだら顔に食い込んでいく。深く、どこまでも深く。
「止めろ、そいつはもう死んでいるんだぞ!? いくら話しかけたって無駄だ!」
「五月蝿い!」
一喝。最早わたしを見ることさえしないで、彼女はジラルドの顔を締め付ける。文字通り狂った言葉を投げかけながら。
「ジラルドが死んだなんて嘘よ嘘ようそようそようそうそうそうそうそうそ……!」
言葉の区切りさえ曖昧になる程早口に呟き続ける。いつの間にか彼女の周囲に黒い影が出来ていた。夜の闇よりも更に昏い影が。
幻影などではない。この女の狂った死の気配につられて、死神が集まってきたのだ。わたしは人間に存在を示すためヒトの形をしているが、姿を見せる気がない死神は黒い影が蠢いているようにしか見えない。それが我々の本来の在り方なわけだが。
「……なぜ認めない。そいつは死んでいるというのに」
わたしの呟きに、恋人はぴたりと言葉を止めた。そのままの姿勢で虚ろな瞳で静かに彼の顔を見下ろし続ける。わたしは唐突過ぎる変化に戸惑った。
「ジラルド……私は、私は……」
声に合わせて集まった黒い影が徐々に近づいてゆく。一体何が起こると言うのだ。
「貴方と生きていけさえすれば良かった! 貴方さえ居れば病気になろうと関係なかった! なのに、なのに……!」
ごぼ、と血を吐く。ジラルドの顔が真っ赤に染まる。限界が見えてきた。彼の顔に食い込む指を外し、両手で顔を覆って叫んだ。
死の影はまた一段と濃くなる。
「私を置いていかないで、貴方が居ない世界に意味なんてない! 死なんて嫌いよ! 私に近寄らないで! 消えてよ!」
――刹那。
唐突に影達が激しく蠢き出し、あるいは弾け飛び、あるいは静かに消え、あるいは少女の体に吸い込まれてしまった。
「こ、こんなことが……」
後ずさり、有り得ない光景に目を見開く。
あの人間の死を否定する激しい「思い」が、我々の存在を消しているなど。そんなことが起こり得ると言うのか……!
「くっ」
死の起こす薄ら寒い暴風は、彼女を中心にその規模を徐々に大きくしていく。
ある大陸のハリケーンを彷彿とさせるが、唯一の違いはこの暴風には誰も気づかず、そして被害はまったく出ないという点だろう。
それが幸か不幸かはわたしにも分からないが。
元凶である少女は立ち上がり目を見開いて、しかしその瞳が何かを映すことはなく、ただ立ち続ける。
気を抜けばわたしも危うい。だがこの場を離れるわけにはいかなかった。最後まで見届けると決めたのだから。
己を侵蝕されないように意思をしっかりと持ち、棒立ちの少女を見守った。はるか虚空を見つめかすかに震える体に、死の影が落ちる。
「ああぁ――」
薔薇色の唇が僅かに動く。その口から漏れるのは恐怖とも喜びともつかない呻き。死が、また弾け飛ぶ。
瞬間、恋人は糸が切れたようにがく、と膝をつき、胸を押さえながら明らかな苦痛を滲ませた声を漏らした。
――と、少女の影が唐突に弾けた。その衝撃に押されたのか完全に倒れこむ華奢な体。ぎち、と骨の軋む嫌な音がした。
風が一段と強くなる。目を開けているのも辛く、わたしは少しだけまぶたを落とした。狭い視界に地面を這いずる少女だけが映る。黒い影と赤い血に侵された体は、徐々に、徐々にその輪郭を失っていった。少女の頼りない手はそれでも、愛しい男の体を求め彷徨っている。彼の体が死神の破裂によって弾き飛ばされたことも知らないで、ひたすら辺りを探っていた。
……今気づいたが、死神が纏わりついているだけだと思っていた少女の金糸は、完全にその色を失い我々の象徴である闇色に変わっていた。
「ジラ、ルド」
恋人はついに何を掴むこともなく、その呟きを最後に動かなくなる。
闇との境界が曖昧になったその体に死の闇が群がる。風も一層激しく吹き荒れ、ついにわたしは固く目を閉じ、自分を保つことに集中せざるをえなくなった。わたしを、死を消さんとする強固な意思は絶え間なくわたしを蝕み、執拗に迫ってくる。
安息の闇さえ、今は敵だった。
わたしはひたすら待ち、耐える。この闇が収まるのを。この風が止むのを。それは永遠のように感じられたが、実際はほんの数分だったのかもしれない。
「終わった、のか」
やがて風が収まり、墓地は死ではない本当の闇に満ちていた。先程までとなんら変わりない風景。一箇所違いを指摘するならば……
「初めまして。貴方も死神よね?」
ついさっきまであの恋人が倒れていた場所。そこに、十二、三歳程度の黒いローブを羽織った少女が佇んでいた。手には闇の中にあってなお侵されることのない銀の輝きを放つ鎌が握られている。その手に赤い斑点はなかった。
「この村、私が全員担当するわ。貴方は別の所へ行ってちょうだい」
夜の闇に溶けてしまいそうな少女は黒い瞳で真っ直ぐにわたしを見据える。そこには毒草の果実の暗澹さも、野生動物の獰猛さも、艶やかな光も存在はしていなかったが、わたしは一目で気づいた。
これは死を否定し続けた女が迎えた、皮肉な末路だということに。
死そのものであるが故にもっとも死と縁遠い存在。戻ることも進むこともなく停滞し続ける「個」。それが死神だ。
風が吹き、死神の証である闇色の髪が軽くなびいた。かつての鮮やかな金糸は面影さえも残っていない。しかし五、六歳は幼くなった今でなお、その美しさと儚さは健在だった。
案外わたしも、忘れているだけでこうして誕生したのかもしれない。……いやよそう、そんな考えは。
「ではお言葉に甘えさせてもらうよ。わたしは疲れた」
言って、わたしは安寧の闇にその身を溶かしていった。
「……」
圧倒的な死を纏ったまま、死女神は墓地を出た。大地を踏みしめるたびに、そこに生えている草花や、大地そのものが悲鳴をあげる。
それらにさしたる感慨も抱かず、死女神はゆっくりと歩き続けた。教会が見えなくなり、未だに明かりのついている二階建ての家も通り過ぎ、まっすぐ前を見据えて。
やがて前方に一軒の家が見えてきた。どこよりも真っ暗で、ぼろぼろで、人の気配はない。中に入ると、血にまみれたベッドだけが帰らぬ主を待ち続けていた。
「……?」
ふいに感じた死の気配を追うと、潰れ、虫にたかられたねずみが一匹横たわっていた。
――あぁ、あの時の。
少しずつ、しかし確実に消えていく記憶の糸を手繰り寄せ、死女神は納得した。次の瞬間にはもう、思い出せなくなってしまったが。
「――なんだったかしら、ここ」
この家に来る前は覚えていたが記憶は完全に零れ落ち、最早何も思い出せない。大切な場所だった気がする、大切な人だった気がする。……いくら考えても、白紙になった記憶からは何も得られなかった。
「時間の無駄、ね」
無表情に呟き、死女神は考えるのを止めた。たん、と軽やかに舞い飛び家を後にする。失った記憶に執着する必要などない。記憶など必要ない。
私は死神、生まれた瞬間から死んでいるのだから。
月光の下、煌めく鎌を握り締め。その顔に浮かぶのはどこか感情が欠落した笑顔。
死女神は白銀の切っ先を掲げて、呟いた。
「みんな、死ぬわ」