「ジラルド、死んじゃだめよ」
私は彼の眠るベッドの傍らにしゃがみ、彼が吐いた血で汚れたシーツを握り締めて励ましの声をかけた。高熱に浮かされたジラルドは虚ろな瞳と表情でわずかに首を動かす。その顔には大小様々な赤黒い斑点が浮かび上がっていた。
彼の部屋にはベッドと、背の低い棚と、それ以外は何もなかった。所々崩れかけた石壁の隙間をねずみが行きかってさえいる。発病したその日にほとんどのものを処分してしまったそうだ。私にはそれが、彼が自分の死を予期しているかのようでどうにも気に入らなかった。
「大丈夫よ。黒死病にかかっても生き残ったという人の話を聞いたことがあるわ。ジラルドもきっと……」
……そんな話聞いたことはない。
でも彼が死ぬなんて納得できなかった。誰よりも勤勉で、誰よりも優しくて、誰よりも私を愛してくれたジラルドが、そんな簡単に死ぬはずがないわ。私は自分自身に言い聞かせるように「大丈夫、大丈夫よ」と繰り返した。
来年結婚する予定だったジラルドが黒死病を患ったと聞いたのは、彼が発病した翌日。この小さな村の地主でもある私の父が、深刻な顔をして彼の発病を告げに来た時は、私の心臓が先に止まるかと思った。
黒死病がヨーロッパ全土に蔓延っているのは前から知っていた。けれど、どこかに私は、私の知り合いは大丈夫と言う思いがあったことは否めない。
お父様には止められていたけど、私はこっそりジラルドの看病をしに彼の家へ通うようになった。
「……感染るよ」
ほかの言葉を忘れたかのように大丈夫と繰り返す私に、ジラルドは薄く目を開け、荒い息の合間合間に声を乗せて私を心配してくれる。
大変なのはジラルドで、心配すべきは私なのに、彼はいつも他人を、特に私を一番に考えてくれる。私としてはすごく嬉しい。だけど今は、自分のことだけに専念して欲しいというのが本音だ。
「私なら平気よ、ジラルド」
安心させるように微笑み、血臭が染みつき乱れた彼の金髪を撫でる。
「香水もつけてきたし、ほら、ちゃんと香草も焚いているわ。分かる? 今日はローズマリーよ」
だから私のことは気にしないで、と付け加えた。彼は意識があやふやなのか、視線は私を通り越してどこか虚空を見つめていた。
「……本当に大丈夫なのか?」
そのまま視線を動かさず、かすれた声で苦しそうに呟く。
私がもう一度大丈夫、と言おうとした時だった。
外から重く響く教会の鐘の音が聞こえてきた。夕刻の鐘だ。
「あ……いけない、もうそんな時間なのね。帰らなくちゃ」
彼の部屋には窓がないため、少し時間が掴みづらい。あまり遅くなると、お父様が心配するかもしれない。
しかしそうは言うものの、私は未練がましく彼の金髪を撫で、もう一方の手で彼の赤黒い斑点が浮かびカラカラになった手を握る。感染っても良い。ずっとこうして居たかった。ここでこの手を離したら、もう二度と会えないような気がしてならない。
「――」
彼が小さく、私を呼ぶ。早く帰りなさい、と言うことなんだろう。
これ以上彼に心配をかけるわけにはいかない。私は「また明日も来るわね」と無理に笑顔を作り、後ろ髪を引かれる思いで彼の部屋を後にした。
ジラルドの恋人が部屋の扉を閉めた瞬間、わたしはほっとため息を吐いた。彼女とは今日で三度目の面会となるわけだが、どうも落ち着かない。二人の世界を覗き見しているようで、少々後ろめたい気分になる。つい先程、彼女が居るにもかかわらずジラルドが話しかけてきた時はどうしようかと思ったよ。
「しに、がみ……」
視線を天井に固定したままのジラルドがわたしを呼ぶ。黒スーツの襟元を正しながら「なんだい?」と聞き返したが、彼の用件は分かっている。
「彼女が死ぬかどうかについては、わたしにも答えられない。寿命の正確な日数は我々の上司しか知りえないことだからね」
ジラルドが次に何か言うより早く、わたしは答えた。それに対してジラルドは何も答えず、す、と目を閉じて寝入ってしまった。荒く苦しそうな息遣いだけが部屋を支配する。
この時代、ヨーロッパ大陸に住む人間の死のほとんどが黒死病によるものだ。わたしも死神として多くの黒死病患者を見てきたが、このジラルド・アミとか言う人間は、ほかのどの人間とも違う雰囲気を有していた。わたしはそれを明確に表す言葉を知らないが、強いて言うならそれは「欠落」かもしれない。
ある感情の欠落。うむ、微妙だな。
わたしがジラルド・アミを見つけたのは四日前、発病する前日のことだった。そして姿を現したのは発病当日だったと記憶している。
黒死病が蔓延し、死が当たり前のように、目に見える形ではっきりと日常に入り込んできたこの時代。
人間の魂が死した後に輪廻の輪へ送るという役目を持つ死神は――普段と比較しての話だが――多忙を極めていた。わたしも例外ではない。本当なら姿を見せるつもりはなかったのだ。
死神が意図的に人間に姿を見せた場合、その人間が十日以内に死ぬ予定の者だったらそいつが死ぬまで憑かなければいけないからだ。
その間は基本的にそいつから離れることは出来ない。
だがそんな暇があったらもっと早く死ぬ人間の魂を運んだ方が効率が良いだろう。
わたしは床を凝視していた視線を仰向けになってベッドに横たわるジラルドに向ける。
「げほっ、かは……っ」
ちょうどその時、眠るジラルドの顔が咳と共に苦しそうに歪められた。
あの時もこうだった。
わたしが初めてジラルドを見たとき、彼は狭くて汚いこの部屋で、ベッドに腰掛けて苦しそうに咳き込んでいた。この暗い部屋で孤独に戦い続けていたのだ。
激しく咳き込み、時には嘔吐する彼に対して、わたしは傍観に徹することが出来なかった。姿を現したわたしは存在を示し、震える彼の背中を軽く叩いてやったのだった。何故あんなことをしたのかは自分でもよく分からない。彼の震える肩を見ていたら、姿を現さなければ、と言う正体不明の強い衝動に駆られたのだ。
「――っ」
ジラルドが眉根を寄せて何事か呟く。かすれ気味で聞き取りづらかったが、おそらく恋人の名だ。
呟きながら、数回堅い枕に乗せた頭を左右に動かす。動くたびにわたしの闇色の髪とは対照的な金糸が揺れた。
「やれやれ、人間とは脆弱なものだな」
たった数時間の孤独にも耐えられないのか。死神は生を享けた……と言うのはおかしいか。はっきりと明確な自我が芽生えた瞬間から孤独と共に存在していると言うのに。
「う、がはっ……死、神。彼女は……」
「先程帰っただろう。まだそんなに経っていないぞ」
悪夢に恐怖して、目を覚ましたのだろうか。虚ろな瞳と不安定な声音でわたしに問いかけてきた。
「あの子、とは来年の、収穫期に結婚する、はずだったん……だ」
そのまま、ジラルドはそよ風にも掻き消されてしまいそうな小さな声で、時折咳込みながら、ぽつりぽつりと自分の胸の内を語りだした。
「あら、いけない」
私は教会の前でハッと足を止めた。ジラルドのことを考えながら歩いていたら、家を通り過ぎて教会まで来てしまったらしい。
「戻らなきゃ……ん?」
踵を返しかけた足を止めて、私は固まる。夕陽を受けてオレンジ色に染まる教会の裏手、暗く湿った墓地から異臭が漂ってくるのだ。
「なんだろう……」
止めれば良いのに、私は好奇心を刺激されて墓地へと足を向けた。雑草が生え放題の地面を踏みしめて、教会の陰からそっと覗いてみる。
十字架の墓石群の少し奥に、私の腰くらいの低い山があった。最近この辺りは来てなかったけど、いつの間にあんなものが出来たのかしら。
教会に遮られてほとんど陽光の届かない墓地。私はじっと目を凝らしてその山を見つめた。
そしてその山を形成するモノのひとつと――目が合った、気がした。
「ひ……っ」
それは黒く変色し、腐敗が進み、虫にたかられている死体の山だった。力なくだらんとした首がこちらを向いていて、その開きっぱなしの虚ろな瞳が恨めしそうに私を見つめている。
「あ、あああぁぁ……」
ガチガチと歯が鳴る。今更になって見たことを後悔した。薄汚れぼろぼろの服、苦しみに染まった顔、例外なく黒ずんだ皮膚。
あれは皆、黒死病に命を奪われた人たちだった。埋葬すらしてもらえず、神の御許へ行くことすら叶わない。
「……っ」
一瞬だけ、強い風が吹いた。
どさり、と山の頂上に捨てられていた体が落ちる。男の人。ジラルドと、同じくらいの――
「あ、ああぁ……いやあぁぁっ!」
私はついに駆け出した。
ジラルドとあの死体が重なって見えて、怖くて、自分が許せなくて、どうにかなってしまいそうだった。
足がもつれて上手く走れなかったけど、なんとか家まで辿り着けた。後ろ手にドアを閉めて、しばらくドアに背を預けて荒い息を吐き出していた。
「ど、どうしたんだ?」
二階からお父様が駆け下りてくる。私はなんでもない、と早口に言って、目の前にやって来たお父様の横をすり抜けて二階へ上がった。そのまま自室に飛び込み、ベッドに倒れこむ。心臓がうるさい。さっきの死体の顔が頭に焼き付いて離れない。
あの暗い双眸が、私を睨み続ける。
「嫌よ、いやぁ……ジラルドぉ……」
自然ともれる嗚咽。シーツに顔を押し付けて、私はひたすら泣いた。目じりに浮かぶ涙はすぐにシーツに吸い込まれ、姿を消していく。
「ジラルド……」
私が彼の名を幾百回と呟いた頃、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「起きているか?」
続いて、遠慮がちなお父様の声。私は慌てて涙をぬぐって、ぐちゃぐちゃになってる服を整えてお父様を迎え入れた。
「大丈夫か? 随分目が腫れているが……」
部屋に入るなり、お父様は気遣わしげに私の頭を撫でた。ごつごつした優しい手からぬくもりが伝わってきて、私を安心させる。昔からお父様の手は大好きだった。お母様が早くに死んでしまって、私はこの手に育てられたんだもの。
「心配しないで、お父様。大丈夫よ」
椅子を勧めながら笑顔を作る。お父様は、私がジラルドの家へ行っていることを知らない。秘密を作りたくはなかったけど、黒死病患者の所へ行っているなんてバレたら卒倒しかねない。
私はベッドに腰掛けて「それで、なんのご用?」と平静を装う。
「あぁ、別に用という用はないのだが……」
歯切れの悪い返事。お父様は逡巡する様子を見せ、組んだ手を膝に乗せて重々しく口を開いた。
「お前……ジラルド君の家へ行っているね?」
「……っ!」
私は息を呑む。知っていたの?
私の反応を見たお父様は「やはりか」と溜息をついた。私はかける言葉も見つからずベッドの上で呆然とする。
気まずい雰囲気が私たちの間に横たわる。先に沈黙を破ったのはお父様だった。
「黒死病の恐ろしさはお前も知っているだろう」
ゆっくり、言うべき言葉を模索しているかのように話すお父様。私は頷きつつも「でも」と反論しようとしたが、目で制され口をつぐむ。お父様はさっきよりも大きな溜息を吐き、あごひげを撫でつけながら続けた。
「明日以降、彼の所へ行くのは止めなさい。もちろん婚約も破棄だ」
「そんなっ!」
私は立ち上がり、悲鳴をあげる。
「では、誰がジラルドの看病をすると言うの!? 誰が彼を励ましてあげると言うの!? 誰が、いったい誰が……!」
「落ち着きなさい」
お父様は私の名前を呼び、自身も立ち上がって私を座らせようとする。
いいえ、いいえ、いいえ! 落ち着いてなんか居られないわ。お父様はジラルドを見殺しにしろと仰るの? ジラルドを孤独に死なせよと仰るの? そんなの……そんなの、耐えられない!
「嫌よ、嫌! お父様の冷血者!」
お父様の手を振り払って、自分のどこからこんな声が出るのだろうと疑いたくなるほどの叫び声をあげる。昂る感情に誘われて、涙があふれてくる。
「ジラルドが何をしたと言うの? お父様は、彼がどれだけ苦しんでいるのか知らないんだわ。彼がどれだけ怖がっているのか、知らないんだわ!」
衰弱して、一声発するのさえ苦しそうにするジラルド。彼の苦痛に歪む顔が、黒ずんだ手が、脳裏をよぎる。
「彼が頼れるのは私だけなのよ? 私しか、彼の看病をする人は居ないのよ? お父様はその私に、もう行くなと仰るの?」
「それがお前のためだ、分かってくれ。娘を黒死病と分かっている者の所へ行かせたくはないのだよ」
聞き分けのない幼子に言い聞かせるかのような、その響き。
「彼はもう長くはないだろう。いくら看病したところで、もう助かる道はないんだ」
「そんなこと言わないでっ! 彼は助かるわ、病気を治して、私と結婚するんだから……っ」
ついに涙が零れた。唇が震える。怒りとも恐怖ともつかない激情に、体全体が硬直する。両腕でしっかりと自分を抱き、涙に濡れる顔でお父様を睨みつける。
「諦めるんだ、彼は――」
「もし、もしジラルドが死んだら――私も死んでやるわっ! 彼を独りにはしな……つっ」
私の言葉が終わらないうちに、乾いた音がこの狭い部屋に響いた。じわじわと頬が熱を帯び、痛みが広がっていく。私は頬を押さえて、呆然とお父様を見た。
「滅多なことを言うもんじゃない」
叩かれたのだと理解するのに、少し時間がかかった。
「――今後、ジラルド君の家へ行くのは禁止する。分かったな」
強い調子で言い捨て、お父様は部屋を出ていった。しばらく閉められた扉を見つめていたが……
「うっ、ひっぅ……彼が、彼が何をしたと言うのよ――!」
糸の切れた人形のように床に座り込み、涙が枯れるまで泣き喚いた。
翌朝、私はいつも通りジラルドの所へ行く準備を始めた。お父様の心配も分かるけれど、香水もたくさんつけているし、彼の家ではちゃんと香草も焚いているし。うん、大丈夫よ。
私はお父様に気づかれないように、慎重に自室のドアノブを回し――
「……何よ、これ」
ノブはがちゃ、という音を立てただけで決して回ろうとはしなかった。外から鍵がかかっている。
「お、お父様! お父様っ!」
私はドアを叩き、鍵をかけた犯人であろう父を呼ぶ。無視されるかと思ったが、意外にも返事はすぐに返ってきた。
「あぁ、お早う。昨晩は良く眠っていたようだね。朝食はすぐに持ってくるから安心しなさい」
ドア越しに聞こえる、お父様の声。その普段となんら変わりないトーンに苛立ちを覚え、さらに激しくドアを叩いた。
「そうじゃなくて、どういうつもりなのよっ?」
「こうでもしなければお前はまた彼の所へ行くだろう。親として、子を守るのは当然だ」
お父様は毅然と言い放つ。反論を許さぬその響きに、私は一瞬口をつぐんだ。
「お前の気持ちを知らないわけではない。だが、彼に近づくのを許すことはできない」
たたみかけるように言って、お父様の気配は去っていった。残された私はドアにもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。冷たい木の感触を肌で感じながら、私は心も冷たくなっていくのを感じた。
ここは二階。近くに飛び移れそうな木もなければ、壁に足をかけられそうな取っ掛かりもない。カーテンは短すぎて、窓から垂らしても下にはとてもじゃないけど届かない。
あまりにも残酷な現実を前にし、昨日枯れたと思った涙がまたじわじわとあふれてくる。ジラルドが発病してもう数日経った。発病してすぐに死んじゃう人も居たから、それを考えると今まで生きていた方が奇跡だったのかもしれない。
おそらく、彼は今日、――死ぬ。
そんな暗い確信が私の中にあった。彼の家へ行くたびに強く感じていた、寒気のする死の気配。それが昨日は一層強く感じられた気がした。その感覚を思い出し、身震いする。私は両手で自分を固く抱きしめて、ぎゅっと目を瞑った。なんだか頭がくらくらする。昨日から神経を使いっぱなしだったから、そのせいかもしれない。
私はもつれる足を引きずりながらベッドへと倒れこんだ。
少し、眠ろう。少し前に起きたばかりなんだけど、少しだけ。
「ジラルド……」
最愛の人の名を呼びながら。最愛の人の死を恐れながら。
私は眠りに落ちていった。