若菜は、サッカーに飽きた光輝たちにせがまれて、近くの川原の土手に来ていた。
「えーっと。死神、さん? あなた、私に憑いて何してるの?」
 ダンボール滑りに夢中の子供たちを土手の上に座り込んで眺めつつ、隣に立つ黒服の少女に尋ねた。
「今日は暇だから」
 死神の答えは簡潔極まりない。若菜はこっそり溜息をついた。
 光輝の手当てのために一旦自宅へ戻った若菜に、この死神はさも当然と言わんばかりの態度でついてきたのだ。とりあえずその時「私は、あなたたちを殺したりはしない」と言っていたので、多少恐怖はやわらいだ。嘘かもしれないが、一応信じることにした。疑っていたらキリがないからだ。
「暇だから人間に憑くって言うの? それって凄く迷惑なんだけど」
 多少の余裕を取り戻した若菜は、死神にもそれなりに言えるようになった。しかしこの死神は若菜の言葉など意に介さないで、常に淡々と、自分のペースで話す。
 人間の言葉に耳を貸す気はない、と言う訳ではないらしい。質問すれば一応は答えが返ってくる。
「私はあの時、人間に姿を見せていたつもりはなかった」
 死神の言う「あの時」とは、ベンチに座っていた時のことだろう。若菜は次の言葉を待つ。
「普通、まだ死ぬ予定ではない人間に死神の姿は見えないけど……死神に見せようという意思があれば人間にも見えるのよ。特に意味がないから、やらないけど」
 死神は語る。虚空を見つめながら。
「あなたには、私が見えた。見たところ霊感があるわけではなさそうだし」
 自慢ではないが、生まれてから今日まで幽霊の類は一度も見たことがない。その記録は今日で止まってしまったが。
 若菜は頷き、続きを促す。
「そうなると、理由は二つにひとつ」
「若菜お姉ちゃーん、一緒に滑ろうよーっ」
 死神の言葉が終わらないうちに、ダンボールを持った光輝が土手を上がってきた。若菜の腕を取って「行こう」と連呼する。
「あ、今はちょっと……」
 死神との会話の途中だ。しかも肝心なところがまだ聞けていない。困ったように死神へ顔を向けると、すでにそこには誰も居なかった。
「……具合、悪いの? だいじょうぶ?」
 硬直する若菜を見て、光輝が不安そうな声を出した。
 しまった、と思う。光輝の母親は今インフルエンザにかかっていて、家事もまともに出来ない状態にある。若菜まで倒れてしまったら、光輝が母代わりとして心の拠り所に出来る人間が居なくなってしまうのだ。若菜の母も見舞ってはいるが、光輝が懐いているのは自分なのだから。しっかりせねば。
「ううん、心配しないで。ほら、ダンボール貸してみなさい。お姉ちゃんが超特急に乗せてあげるわ」
 笑ってみせると、光輝は顔を輝かせた。若菜はダンボールを受け取り立ち上がる。少年たちが滑って遊んでいるそばまで歩き、その後ろを嬉しそうに光輝がついてきた。

「ひとつ、私に連絡がないだけで、その人に死が迫っている――」

 その若菜の背に、酷く透明な死神の声が届く。



「若菜、浅倉さんとこにこれを持っていってあげてちょうだい。あと昼間にご飯炊いておいたから、お粥作ってあげて」
 厚い雲が夕陽を隠し、そんな頃合い。少年たちのお守りを終えてリビングでテレビを見ていた若菜に、母が小さな鍋を手渡した。ふたを開けずとも、シチューの良い匂いが漂ってきた。
「はいはーい、行って来まーす」
 若菜は鍋を受け取って「今夜は記録的な大雨に……」と言っている天気予報を消した。お隣さんとこに行くと言っても、ここはマンション。廊下をちょちょっと歩くだけだ。天気など関係ない。
「柿沼です、入りまーす」
 インターホンを押し、断ってから玄関を開ける。予め連絡してあるので、鍵はかかっていない。
「若菜ちゃん、いらっしゃい」
 玄関に入ってすぐ、光輝の母親が寝室から出てきた。大事を取って家事には復帰していないが、だいぶ良くなってきたようだ。
「あら? その子は……見ない顔だけど、お友達?」
「え?」
 おばさんの視線は若菜の後ろに注がれていた。嫌な予感がする。
「……」
 恐る恐る振り向くとそこには、予想通り先程の死神少女が無表情で立っていた。
「あ、あんた、なんで……!」
 若菜は驚きすぎて言葉もない。
「何故って、私はあなたに憑いて」
「うはー! わー!」 
 奇声を発して死神の言葉を掻き消し、コンロの上に鍋を置いて、おばさんに言った。
「ごめんなさい、この子すぐに帰してきます!」
「あら、せっかく来てくれたのに……もし良いなら、うちでお夕飯を食べていかない? 若菜ちゃんのお母さんの料理は美味しいのよ。親御さんには私が連絡するし」
 優しく微笑むおばさん。笑顔を向けられた死神少女は逡巡して、
「遠慮するわ」
 と短く言った。おばさんは心底残念そうな顔をしたが、「また来てね」と笑顔に戻った。
「……」
 若菜はここに来て初めて、妙なとっかかりを覚える。土手で、この死神はなんと言った?

『普通、まだ死ぬ予定ではない人間に死神の姿は見えないけど……』

 違う、もう少し先。

『見たところ霊感があるわけではなさそうだし』

 霊感を持っている人なんて滅多に居ないだろう。これも違う。

『そうなると、理由は二つにひとつ』

 そう、理由。なんだったか。

「ひとつ、私に連絡がないだけで、その人に死が迫っている」
 若菜の思考を読んだように、玄関の扉を開けた死神が、彼女にも聞こえるかどうかの音量で呟いた。はじけるように視線を向けると、死神もこちらを見ていた。
「ふふ、また来るわ」
 意味ありげに笑うと、玄関の戸を閉めて出ていってしまった。
「あの、おばさん、私そこまで送ってきます!」
 おばさんの返事も待たずに、若菜は飛び出した。
 死神はまるで予想していたとでも言うように、真正面の宙に浮いていた。
「そして、二つめ……」
 唐突に、分厚い雲が雨を降らす。
「――長い間死の近くに居る場合、稀に他の死神が見えることがある」
 穏やかとさえ言えるトーンで、死神は言った。
「死に、長い、間……」
 死神の言葉を反芻する。自分に死が迫っているとは思えない。若菜は現在、健康そのものだ。
 長い間死の近くに居る人物。若菜にも死神が見えるのだから、相当近しい人物だろう。
 身近な人で、今最も死に近いと言ったら、ひとりしか居ない。
「まさかおば、さん?」
 絶望的な気分で尋ねるが、若菜の問いに死神はまったくの無反応だった。肯定も否定もせず、ただ浮かび続ける。若菜はかすかな苛立ちを覚えつつ、
「ねぇ、どうなの?」
 語気を強めて尋ねた。
「私に、死神にとって、誰が死ぬのかは問題じゃない」
 死神は本当にどうでも良さそうに答えた。小脇に抱えていたノートパソコンを開き、器用に片手で操作し始める。
「重要なのは、誰かが死ぬという事実」
 指は軽やかにキーボードの上を流れる。たんたん、とキーを叩く音がやけに鮮明に耳に届いた。一体何をしているのか、若菜には見当もつかない。
「……」
 雨は酷くなる一方だ。



 浅倉光輝は薬局の入り口に立って、空を見上げていた。お使いに出た時は降っていなかったが、いざ帰ろうと思った矢先に、この土砂降りの雨。
 途切れることを知らない雨は激しく地面を打ちつけ、光輝を阻んでいるかのようだった。
「かさ、持ってない……」
 途方に暮れて呟く。母に持っていけと言われた気がするが、うっかり忘れてきてしまったのだ。不安に、薬局の袋をぎゅっと胸に抱く。暗い空が一層不安を煽る。
 ――早く帰らないと、お母さんが心配する。
「走って行けばだいじょうぶ、かな?」
 家で光輝の帰りを待つ母を思い浮かべながら、不安を振り切って、光輝は意を決して駆け出した。



 光輝の家に戻った若菜は、「もうだいぶ気分が良いのよ」とのんきに微笑むおばさんをむりやり寝室に戻した。
「これで良し、と。死神、居るの? 出てきなさいよ」
 あんなヤツ呼び捨てで十分だ。若菜はダイニングに仁王立ちになり、虚空に向かって囁く。
「居るわ。どうしたのかしら?」
 刹那の間も置かず、空間が揺らめいて死神が宙に姿を現す。手には何も持っていない。
「私の目の届く範囲に居て。おばさんの魂を狩らせたりは、しないんだから」
 寝室の方まで届かないよう潜めてはいるが、気迫のこもった声。しかし死神はそんなものどこ吹く風と言った様子で、「鎌は使わないけど……ご自由に」と床に足をつけた。一応若菜の言葉には従ってくれるらしい。最悪の場合若菜自身も魂を取られるかと思ったが、死神は鎌を出す気配もなく、ただ静かに若菜を見上げて立っている。こっそり安堵の息を吐いた。
「ご飯作ってくるけど、ちゃんとそこに居るのよ。おばさんはもちろん、光輝くんにも近づいちゃだめだからね」
 そこまで言って、はたと気がつく。
 ――そう言えば光輝くんはどこに? 奥で寝ているのだろうか。
「あぁ、あの子供なら」
 若菜の表情を読んだのか、死神が口を開く。まさか、と体が強張る。
「少し前にお使いに行ったわ」
「へ? お使い?」
 あまりに普通な答えに間抜けな声が出る。しかし最悪の事態ではないようで、安堵する。
「間に合うかしらね」
「何が?」
 死神の呟きに、安心したせいか少し緩い声で応答した。しかし死神は質問には答えず、
「良いことを教えてあげましょうか?」
 死神の異様な赤さを持つ唇がかすかに歪む。笑みの形に。
 すぅっと地面から離れ、どこから出したのか、ノートパソコンを開く。
「長い間死の近くに居た人間は、稀に他の死神が見えることがある」
 それは先程聞いたばかりだ。若菜はなんと答えて良いのか分からず、沈黙する。
「あなたは何か勘違いしているようだけど……」
 無表情に戻った死神が続ける。
「『死』と言うのは死神のことを指すのよ。私たちは、言ってみれば、死の擬人化」
 そして、と頭上からまっすぐ若菜を見下ろして、死神は若菜にとって最悪の言葉を放った。
「死神に憑かれている人間は、他の死神を見ることが出来ない」
「……っ」
 自分とおばさんに近しくて、死神が見えていない人物。若菜の母? 違う。光輝の母に死神が見えることを考えると、少し遠い。
 もっと「二人に」近い人物。
「――光輝、くん?」
 声が掠れているのが自分でも分かった。死神は沈黙したまま若菜の答えを否定も肯定もしない。その態度が、酷く若菜の神経に障った。
「どうなの? 答えなさいよ!」
 最早声を潜めるなんて出来なくて、ほとんど叫びに近い声で問い詰める。
「それは自分の目で確かめるべきよ、若菜さん」
 若菜とは対照的に、死神はあくまでも平坦な声で話す。そして空気に溶けたかのように、一瞬で消えてしまった。
「わ、若菜ちゃん? どうしたの?」
 同時に、声に驚いたらしいおばさんが寝室から顔を出す。若菜はほとんど掴みかかる勢いで、おばさんに迫った。
「光輝くんはどこに!?」
「え? 光輝なら薬局までお使いに行ってるけど……あら? もうこんな時間なのね。若菜ちゃん、悪いんだけど少し見て……」
 おばさんの言葉が終わらないうちに、若菜はかさを拝借して飛び出した。外は豪雨で、そこかしこを川のように水が流れている。
「光輝くん……っ」
 薬局は昼間子供たちと遊んだ川の向こうだ。
 若菜は駆け出す。この雨だと若菜の足でも十五分前後かかるかもしれない。
 とにかく、夢中で走り続けた。
 数分後、土手に辿り着く。どこかで光輝と鉢合わせになるのでは、と期待を抱いていた若菜は、徐々に絶望の色が広がっている胸を押さえながら、更に走る。と、その時。

 ――……て……たす……――!

 若菜はかすかに聞こえてきた声に足を止める。よくよく耳を澄まして、目を凝らして、雨で増水し、勢いを増した川を見つめる。茶色く濁った水の中を、木の枝やらが流れ、そして――
「光輝くんっ?」
 視界が悪いため不確かだが、誰かが、流されまいと必死に何かを掴んでいるのがかろうじて分かった。
 奇跡的に若菜の声が聞こえたのだろうか。 光輝が若菜を見た――が、その一瞬気を抜いたのかもしれない。 光輝は激しい水の流れに押され、若菜の目の前で濁流に飲まれていった。
「あぁっ、光輝くん!」
 若菜は悲鳴をあげ、かさを投げ捨て、上着や靴を脱ぎ散らし、躊躇いなく氾濫する川へ飛び込んだ。



 死女神は、空から二人の様子を見守っていた。豪雨の中に居てもまるで濡れていない体。まるで雨が厭っているように、死女神の周りに水は降っていない。
「刹那の対面、か。若菜さん、思ったよりも頑張ったわね」
 誰にも聞き取れない程の小さな声で呟く。
 浅倉光輝と言う少年が水に流され、若菜が川へ飛び込んだ。
 ノートパソコンを開き、時間を確認する。「光輝の担当者」から聞いた話だと、あと数分で彼は死ぬ。
 若菜に「私はあなたたちを殺したりしない」と言ったのは嘘じゃない。 死神が直接手を下す訳ではないし、仮に取り憑くことを殺すと表現したとしても、死女神が憑いた若菜は死なないし、光輝に憑いていたのは別の死神だ。
「お前さぁ、服務規程違反ギリギリじゃねぇの?」
 唐突に声が響いた。口調は軽いのに、暗い闇のような冷たさを持った声だ。
「あら、どうして?」
 一ヶ月も人間に憑いていたやつに言われたくない。
 下界の様子から目を離さず、さして驚きもせず受け答える。今、水に翻弄されながらも若菜が光輝の体を掴んだところだ。
「あの人間、死んじまったらどうすんだよ」
 一瞬のうちにして死女神の横に現れた黒い影は、彼女の周りをうごめきながら続ける。
 あの人間とは柿沼若菜のことだろう。死女神はその言葉に「彼女に自殺の意思はない」と言うだけに留まった。 柿沼若菜の寿命は確認済みだ。自殺さえしなければ、彼女はまだ当分死なない。
 黒い影は「なるほどな」と納得し、また別の質問を投げて寄こした。
「そんでお前、何がしたかったわけ?」
「随分とおしゃべりね、あなた」
 死女神は溜息をつき、初めて黒い影を見た。
「たいした意味はないわ。今日は更新日だから……ただの暇つぶしよ」
「ひひひっ、本当にそうかねぇ……?」
 黒い影がひと際よじれ、うごめく。どうやら笑うとそうなるらしい。
「本当よ。何故疑うの?」
 死神同士は横のつながりが薄いため、お互いに出会うことは少ない。珍しさに、若菜に取り憑いてその様子を見ていた。嘘ではない。
 しかし影は、死女神をからかうように笑いながら言葉を続ける。
「本当はあの光輝とか言う人間を、助けようとしたんじゃねぇ? ひひひっ、俺は知ってるぞ、お前の過去を」
「あの人間が助かるわけないでしょう」
 寿命が変わるなら、死神は一体何をやっているんだ。
 下界に視線を戻す。若菜が光輝と共に岸へ上がろうとしていた。
「それに、死神に過去などない。それはあなたも同じだと思うけど?」
 特になんの感慨も抱かず、黒影の言葉を否定した。それは太陽が東からのぼり西に沈むのと同じで、あえて口にするのも馬鹿馬鹿しい程の常識だった。
 それを聞いた黒い影は、一層よじれ、はじけ、そして収束する。さも可笑しそうに声を出し、
「そうだ、そうだな。俺に過去などない。死神は生まれたときから死んでいるのだから」
 と歌うように言った。
「あぁ、俺は帰るよ。仕事終わったみたいだからな」
 唐突に笑いを収めると、黒い影は忽然と姿を消した。
「……」
 死女神が下に視線をやると、岸に上がった若菜が、光輝を胸に抱えて喚いていた。 小さな体を揺さぶり、頬を叩き、命の灯火を雨から守るように抱きしめていた。
「…………」
 しばらくそれを見つめていた死女神は、日が沈んだと同時に送られてきた仕事内容を確認して、この場から姿を消した。