「あ、そうだ……今日はお休みだわ」
 死女神は膝に乗せたノートパソコンの画面を見て、少し残念そうに呟いた。画面には上司グリムリーパーからのメッセージが表示されている。曰く、「本日は死神免許更新日のため、休暇を与える。更新は早めに行うこと」だそうだ。言われなくても、更新は朝一番に行った。更新し忘れて死神業務を停止させられてしまっては困るからだ。
 指をぱちんと鳴らして、手に鎌を召喚する。先ほど更新したばかりの、死神免許。なんとなくいつもより刃の切れ味が良さそうに感じられる。だが別に誰かを切ったりはしない。そんなことをしたら服務規程違反で消されてしまう。
「それにしても、退屈……」
 パソコンの電源を落とし、自分の座っているベンチの脇に置いた。そして周囲を見回してみる。
 秋も終わり、そろそろ本格的な冬がやって来る時期。死女神が居るのは住宅街にあるそこそこ大きな公園で、子連れの母親が数人談笑しているのが見える。中にはお守り役なのか高校生らしき少女も居て、数人の子供たちと一緒に駆け回っていた。まだ昼前だが、それなりに人が居るのは日曜日だからだろう。
 皆思い思いの髪型、服装、装飾品を身につけて己を飾っている。それに対して自分は――と言うより死神は、髪も瞳も服も靴も、全て黒だ。彼女は以前人間界で見たノースリーブのワンピースとロングブーツが気に入り、自作してそれ以来ずっとそれを着ている。色が黒なら服装自体はなんでもありなのだ。
「仕事、貰おうかしら」
 あまりの暇さに、ついにはそんな考えにまで至る。
 更新日は休日ということを忘れていたために、仕事の連絡が来るのを待つ間ずっと公園の風景を眺めていたが、退屈の度合いが臨界点を突破した。いつもなら死神遣いの荒い上司に溜息を禁じえないが、今日だけは彼の死神遣いの荒さが恋しかった。
 思い立ったら即行動、死女神は脇に置いたノートパソコンを膝に乗せて電源を入れた。開いた黒い画面には「D.S.Nに接続中」という淡白な白文字が静かに浮かび上がっていた。接続の進行状況を告げるパーセンテージのメーターが少しずつ右へ伸びていく。
 五十パーセント、六十パーセント……九十パーセント、百――

 ――とん、とんと、とととと……

 メーターがあと数秒で満ちようかという時に、足元で何かが跳ね、転がる気配が生まれる。視線を足元へ向けると、サッカーボールが蹴られた余韻を惜しむかのようにかすかに揺れていた。
 そして、

「すいませーん! ボール取って貰えますかぁっ?」

 明らかに自分に向けられた、先程眺めていた女子高生のものと思われる大声。近づいてくる軽快な足音。
「私が、見えるのね」
 ボールに視線を向けたまま呟く。その理由は二つにひとつ。
 ベンチより少し手前で、足音が止まった。女子高生の困惑した気配が風に乗って流れてくる。死女神はゆっくりと視線を足元から上へ、そして正面へと向ける。その緩慢な動きが、かえって女子高生の感情を煽ったようだ。ぶつかった視線には驚愕、困惑、躊躇、恐怖、後悔が渦巻いており、そして――
「なるほど……」
 予想通りの光景。これで、少なくとも退屈とはお別れできそうだ。
 しかしどうしてそこまで青い顔をされているのか。冬にノースリーブの服を着ているせい?
 死女神はノートパソコンを置いて立ち上がる。ざりっ、と砂が乾いた音を発する。その拍子に、ごぉん、と重く響く音を立てて鎌が倒れた。女子高生がびくっと体を強張らせる。
 死女神は倒れた鎌と青い顔をする少女とを交互に見て、

 ――あぁ、仕舞い忘れてたわ。

 と合点した。



 ごぉん、と鈍い音を上げて、黒服の少女の横に立てかけてあった「大きな銀色の鎌」が倒れた。
「――あぁ、仕舞い忘れてたわ」
 自分と鎌を見比べて、少女が納得したように呟く。こんな場所で鎌を持つことの異常性については、完全に意識が及んでいない、そんな呟き。
 その消え入りそうな細い声は、儚く不確かで、しかしそれでいて確かな存在感をまとう少女にはぴったりの透明な声だった。だが、それはともするとこの少女から現実味と人間味を奪い、幻想の中を生きる人形のような印象を与える要因となった。
「えーっと、その」
 黒服の少女を見つめながら、柿沼若菜は脂汗を浮かべていた。背筋を走る寒気は決して冬の北風だけのせいではない。この新たな寒さには、対策にと重ね着したトレーナーやパーカーなどなんの意味も成さない。
 あの重量感、質感、そして圧倒的なまでの存在感……どう見ても本物の刃だ。何故そんなものを、この小学校高学年程度の少女が持っているのか。
 若菜はひたすら混乱した。
 仕舞い忘れた? こんな大きなものを一体どこに仕舞う? そもそも、何に使うと言うのだ。
 こんな、こんなまるで――死神の鎌のようなものを。
「若菜お姉ちゃーん。何してるのーっ? ボールはーっ?」
 十数メートル後ろから唐突にかけられた、待ちきれなくなった子供たちの声に心臓が跳ねる。
 意を決した若菜は震える指先でボールを示して、
「こっちに投げて、貰えます?」
 自然と敬語になる。
 近づきたくなかった。近づいた瞬間、この人形めいた少女に鎌で切り殺されるんじゃないかと思った。
「それは無理。ここは人が多すぎるわ」
 そんな若菜の勇気に対して、黒服の少女はあっさりと首を振って拒否してきた。若菜は言葉に詰まる。理由が意味不明だ。人が多いと、なんだと言うのだろう。
「もう、若菜お姉ちゃん、どうしちゃったんだよ? 早く続きやろうよ」
「あ、光輝くん……」
 ついに我慢の限界が来たのか、子守りを頼まれた子供のうちのひとり、浅倉光輝が隣までやって来ていた。この異常な少女よりも少し幼い、小学校低学年の男の子だ。一人っ子の若菜は、家が隣同士と言うことも手伝って光輝を本当の弟のように可愛がっている。母親同士の仲も良く、言ってみれば家族ぐるみのお付き合いだった。
「ボール、僕たちのチームが貰っちゃうからね!」
 言うや否や、光輝は小走りにボールへ駆け寄る。
「光輝くん、危な……!」
 ぶつかる。最悪、切られる。
 若菜は血相を変えて光輝を呼び止めようとした。だがその言葉が終わるよりも早く、光輝が少女とぶつかり――
 そのまま、するりと少女の体を通過した。
「えっ?」
 若菜は目をこする。見間違いなどではない。確かに、ボールを取ろうと屈んだ光輝は、少女の腰の辺りに頭を突っ込んでいた。少女の姿は透けている訳ではないので、光輝の肩から上が切断されてしまったようで、気味が悪かった。
「ゆ、ゆゆっゆう、」
「私は人が死神と呼ぶ存在」
 幽霊、と言おうとした若菜を遮って、少女は死神と名乗った。
「若菜お姉ちゃん、行こっ!」
 光輝が立ち上がる。少女のことは見えていない様子だ。
 死女神は気にせずに言葉を紡ぐ。
「今日一日だけ、行動を共にさせて貰うわ。宜しくね、若菜さん?」
 笑顔の光輝と重なった、少女のなんの感情も浮かんでいない顔が、静かに告げた。
 そして若菜が言葉に詰まっている間に、忽然と姿を消したのだった。
「……っ」
 息を呑む。――消えた? 手品か? 頭が麻痺したように動かない。
 硬直する若菜の服を、光輝の手が「早く早く」と引っ張るのを感じ、曖昧な笑みを浮かべてその手を握る。若菜は激しく憂鬱な気分で子供たちとの遊びに戻った。
 幽霊かと思ったら、死神。そんな物語世界にしか居ないはずの存在が、先程まで目の前に立っていた。その上、自分に憑くと宣言までされた。
 若菜は薬などやっていないし、過去に幻覚を見たことなど一度もない。自分はまったくの正常だと、主張できる。
 信じない訳にはいかなかった。
 光輝を始めとする数人の子供たちは、誰ひとりとして彼女の存在に気づいてはいないようだ。皆何事もなかったように、夢中でサッカーボールを追いかけ回している。
「若菜ねーちゃん、シュートだ!」
 突然呼ばれた自分の名にはっと我に返ると、ちょうど少年からボールをパスされた。いつの間にかゴール付近まで来ていたらしい。光輝の守る、サッカーゴールに見立てた鉄棒がもうすぐそこまで迫っていた。
「よぉっし!」
 若菜は力を込めてボールを蹴り飛ばす。ボールは勢い良く風を切り、鉄棒に吸い込まれるようにして進み――
「へぶぅっ」
 あろうことか、ゴールキーパーの光輝の顔面に激突した。そのまま倒れる、小さな体。
「えっあ、光輝くん!」
 慌てて駆け寄り、抱き起こす。物凄い勢いでぶつかったが、鼻血以外は特に問題なさそうだった。安堵の息を吐く。「光輝、大丈夫かよ?!」と他の子供たちも集まってきた。
 当の光輝は状況があまり飲み込めていない様子で、自分の顔に手を当てたり周囲を見回したりしていたが、やがて痛みを認識し始めたのだろう。目じりに大粒の涙が浮かんできた。
「わ、ごめんね光輝くん! お姉ちゃんちょっと気合込めすぎちゃって……」
「へいき……僕、平気。心配しないで、若菜お姉ちゃん」
 浮かんだ涙を払って、光輝は若菜に笑顔を向けた。赤くなり、鼻血もいまだに出続けている顔で、健気にも笑ったのだった。強がっているのは明らかだった。自分に心配をかけまいと、必死に笑顔を作る光輝が可愛くて、若菜も微笑んだ。
「うん、ごめんね。それじゃあ、お姉ちゃんとちょっと顔を洗いに行こうか」
 元気に頷く光輝の手を引いて、若菜は公園の水道へと向かった。
 光輝が顔を洗っている間、何気なく空を仰ぐと――
「……!」
 あの死神が、こちらを見てかすかに、どこか感情が欠落したような顔で、嗤っていた。