コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。




植民地統治の検証 3 反日史観を糺す

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植民地支配の総論 / 日本の善政1 

日本の善政2 / 独立による財産請求権の清算

 日本が朝鮮にした数々の悪行を懺悔しよう!


植民地統治の検証 1

ソウル南大門付近の変遷を見る 鉄道・道路の建設
土地の侵奪 飢餓輸出 農民層の没落 森林の伐採
経済活動の抑圧 会社設立の制限


植民地統治の検証 2

ハングル・朝鮮史教育の禁止 / 
創氏改名と皇民化政策
 神社参拝の強制 / 強制連行 / 従軍慰安婦 
大東亜戦争と上海臨時政府




朝鮮植民地支配の総論

アメリカ人による日本の朝鮮統治の評価
「日本・アメリカ人にとっての鏡」 ヘレン・ミアズ 1948年 (「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より)
「1894年7月29日に、韓国におけるわが代表であったシル氏は、次のように書いている。『日本は韓国に対して非常に親切に行動したいと思っているように見える。日本は断乎、中国の統治権の軸を解き放って、弱小な隣国を援け、その独立国としての立場を強化することのみを希望しているように見える。即ち日本は、韓国国民に平和と繁栄と開化をもたらすような諸改革の実行を支援しようとしている。この動機は知識層の韓国官吏の多くを喜ばせているし、また、アメリカでも不賛成なことはなかろうと私は思う』 (中略)」

「今日、日本による朝鮮『隷属化』を非難するのにあたって、われわれは朝鮮において日本政府は、例外的なぐらいにひどい植民地統治をやったという。しかし、病院、学校、朝鮮人の政治への参与(地方行政の場合)、通信、産業の発達、資源の開発など、通常『進歩的』発達の標準として認容されている基準から判断すれば、日本の記録は、通常の植民地母国の標準、いや、はるかにそれに、立ち勝っていた。今日、日本の朝鮮統治を非難する者はその根拠を、日本の主要な目的が朝鮮大衆の福祉よりも、日本自身の国家の安全の確保と経済的財政的福祉にあった、ということに置くのだ。しかし、そのような状態は、すべての西ヨーロッパ植民地母国によって、当然なことと容認されているのである」

「朝鮮において悪かったことは、日本の統治ではない。植民地制度そのものであった。1894年当時、アメリカ人のシル氏が日本の改革計画に賛同して、『国民に平和と繁栄と啓発をもたらすもの』と評価したとき、おそらく氏はこの人道主義的な言葉をまじめに書いたことだろう。日本人は、朝鮮国民の『指導』の責任が日本にあるとする理由を説明するのにあたって、朝鮮のように長年の虐政でひどく痛めつけられた国民には、『独立』などは不可能であるといった。おそらく日本人はそのとき、今日、われわれが同様なことを口にしているのと同程度に、真剣なことだったろう」

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
李朝時代は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。統監府以前の朝鮮社会は、司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生はほとんど顧みられず、河川、林野が荒廃し、道路、橋梁もなく、港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。それから20年後の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学(せきがく)ブルンナー博士は、朝鮮農村の実状を視察して、地方の古老にも接して今昔を比較し、天と地ほどの差が見られることに驚嘆した。朝鮮総督府は人さらい、草賊(盗賊)暗躍、飢民あふれる李朝末期の社会に、産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった。

「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
(灰色文字は管理人注)
(著者の鎌田澤(沢)一郎は、戦前の朝鮮に16年間滞在し、京城郊外に民族経済文化研究所を設立した朝鮮研究家で、6ヶ年にわたる宇垣総督の政策顧問を勤めて、農村振興運動の推進に大いに貢献し、朝鮮の民生向上に大きく貢献した人物で、戦後その経験を買われて、セマウル運動(新しい村運動、実質的には宇垣政策を発展させたもの)の指導のために何度も韓国に招かれている。)

カイロ会談やヤルタ秘密協定に於て、台湾や朝鮮は日本の領土から離れては行つたが…(中略)永年の施政の歩み方が、スペイン、ポルトガル、オランダ等にその端を発する西欧式植民政策のごとき、搾取弾圧にあらずして培養と融和にあつたことをこの機会に於て事実を基礎とし、数字の上に於て、科学的に認めるべきであると思ふのだ。(中略)生蕃(国家に服属しようとしない台湾原住民)とマラリア蚊の棲む南海の小島台湾に、蕃民の宥和宣撫に成功して、治安を確立し、電源を開発して生産を起し、二期作の進歩的米作技術によつて、莫大な米を増産するに至り、尨大(ぼうだい)な砂糖産業を起して、一億に近い人口の砂糖自給を完成し、樟脳、薬品その他の輸出物資の科学的造成に成功、現住島民の生活水準を著しく高め、往年の瘴癘(しょうれい=熱病や皮膚病)悪疾の小島変じて宝島となり、遂には蒋介石並びにその尨大なる国民軍を養ひ得、中国共産党垂涎の的になつてゐる台湾は、トルーマンの「後進国の未開発地を開拓して生産を起し、当該住民の生活水準を上げて人類の福祉を増進すること」を半世紀の昔からすでに日本が実践して来てゐることの実証になるのだ。台湾所属の決定がもし住民の自由意思による投票となるならば、恐らくはその八割五分が日本へ投票するであらうと心ある台湾人が言つてゐることは決して故なしとしないのである。

朝鮮は歴史的立場が根本から異なる為に、決して台湾に於ける本島人(台湾人)の如き感情をもつことは出来ないであらう。しかし事態を公平に認める良心をもつ人々は、併合前のあの混乱と貧窶(ひんる=貧苦のためにやつれること)な状態とに比して日華事変勃発前までの平和と繁栄とが、如何に朝鮮民族の生活を高度に上げたかを認めるに吝(やぶさ)かでないであらう。昭和七年国際連盟のリットン調査団一行が、京城を訪れて宇垣総督と会見したが、そのとき一行中のアメリカ代表マッコイ少将は、初対面の宇垣総督の手を握るやいなや、左の感想を洩らして挨拶に代へたのである。

「自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。それは、今回の長い旅行における大きい収穫であつた。同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧(は)ぢている。何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、相変らず匪賊(盗賊)が横行し、産業も振るはず、赭土(あかつち)色の禿山の下で、民衆は懶惰(らんだ)の生活を送つてゐるものとばかり思つてゐた。然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、皆吾々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、農民は水田に出て、孜々(しし)として耕作に従事し平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏(まと)い、治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、満州に比べて実に隔世の観がしたのである。これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを卒直にお歓びすると同時に、今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう」とその言を著者はその席で聞いてゐたのである。団長のリットンは英国人であるから苦い顔をして、ぢつと見てゐたが、由来率直なアメリカ人気質として、そんなことにはお構ひなく正直に述べて笑つてゐた。マッコイ将軍はその後陸軍をやめ、極最近までアメリカにおける極東委員会の委員長をしてゐたのは、そのころの満州や朝鮮の調査経歴の為であらうと思はれる。

マッコイ将軍の言葉の中の、まづ治安が確立し、見渡す山河が青くなつたのは寺内(総督)の武断政治と植林政策の為であり、水田耕作が拡大されて、もとの海中にまで稲が稔るに至つたのは、斉藤(総督)・下岡の産米増殖企劃(きかく=企画)であり、そのころ急に工業地の煙突から活発な煙を吐くに至つた事実は宇垣(総督)産業開発政策の為であつた。併合当時僅か八百四十万石の生産に過ぎなかつた米が、やがて二千五百万石を算するに至り、毎年平均八百万石を日本内地へ移出し、その代金で朝鮮の人々は安価で豊富な衣料、金物、雑貨その他の生活物資を整えることが出来た。又新工場が次々と設立されて行つたから、世界一の自然増加をもつ人口をも吸収することが出来て行つたのである。

人口の自然増加の比率は、そのころ日本が世界一であつたが、その本土よりも朝鮮の方がやや高率であり、併合時一千三百万の人口が、終戦当時三千万近くに殖えてゐた。だから、日本にとつて人口問題の解決は、朝鮮は全然その対象にはならなかつたのである。何故かならば日本人が朝鮮に住んでゐる数と、朝鮮人が日本に入国してゐた数とは、つねに匹敵し、時に朝鮮人の方が優勢であつたからである。人口の急激な増加は、未開国に平和と産業を与へ、衛生施設が上昇したときに起る現象であることは、今更言ふまでもあるまい。その培養経済政策による生産の上昇は平均して二百倍に達し、鉱工品の如きは物によつて五百倍、五千倍に達し、全くの無から有を生む尨大(ぼうだい)な生産品も現はれて来た。

ただ学校の数はいつの時代にも足りなかつた。由来朝鮮人は古い文化をもつことを誇りとする民族だけに、教育についてはつねに熱心であつた。平和と安定がつづいたために勃然として教育熱が起こつて来たが、予算の関係と、高等遊民の問題とがからまつて、下は小学校から上大学に至るまで、その拡張が朝鮮人の希望する様に出来なかつたことは気の毒であつた。教育の為なら金はいくらでも出すといふ民風であつたから、私立学校を許せばまだまだいくらでも学校の拡張は出来たであらうが、私学が民族主義と共産主義の温床となることを恐れて、之を極度に制限した。従つて根本的には培養と融和、一視同仁でありながら、文化政治の基本となるべき学校問題で差別をつけ大学の入学比率を設けたり、小学校の校舎や教師が足らず折角の向学熱を押へる様な結果になつて了(おわ)つたのだ。但(ただ)歴代総督の教育方針は、まづ義務教育を一日も早く完成し、徹底的に文盲退治をやり、その上高等教育を完全平等の域に進めるつもりで、差別をしたり制限を設ける意図は全然なかつたが、辛うじて補給金で賄つて来た予算の関係で漸進主義で行くより外に途がなかつたのだ。

歳入の基礎となるべき税金は、日本人に重く、朝鮮人に軽かつた。昭和十二年度において内地における国民一人あたりの課税額平均六円三十五銭八厘であつたとき、朝鮮人のそれは、只の八十八銭五厘であつた。又先進国が植民地における唯一の大衆課税であつた人頭税と塩税はとらず、朝鮮人は本土の日本人よりも一俵一円五銭安い塩を嘗めることが出来てゐた。だから併合以来つねに朝鮮総督府の予算は赤字つづきで、大体毎年平均一千三百万円位づつの補給金を出さなければ均衡予算とはならなかつたのだ。時に三千万円以上の補給金を出したことも珍しくなかつた。随つて国家予算に於て十数億、民間投資に於いて五十億を本国から持出してゐた。かくて朝鮮の経済社会は、容易に資本主義の初期にすら達し得ず、未だ搾取の対象にさえなつていなかった。それは資本主義の前提である封建社会をもたなかつたからである。

かかる段階に於いて終戦を迎へたのであつたが、国家財政の面と民間投資と民衆課税の実際から判断し、日本の植民政策は搾取にあらずして、未だ培養過程にあつたと言ふことは出来るとともに、その教育政策の如きも財政上最高の比率は出してもせいぜい一面一校の完成位で、朝鮮人の最も希望する教育方針が漸進主義となつて了つたが、それにしてもソ連や中国、印度、仏印(現ベトナム地域)、ビルマ、タイ、蘭印(現インドネシア地域)等東欧や東南アジア諸国に比ぶれば、朝鮮の普通教育は、その就学率に於いても又文盲退治に於ても遥かに進歩してゐたといふことは出来るのである。教育は漸進主義であつたが、一般の文化水準は急速に上昇した。何分五千年の歴史を誇り、アジアの先進国を以て任ずる朝鮮民族である。与ふるに平和と生活の安定を以てすれば、文化を向上させる能力は充分にもつ素質はある。その本来の素質を発揮させることが出来て三十五年間にその文化水準は非常に高まり、国際人としても次第にひけをとらぬ状態となりつつあつたのだ。

さらに昔日の満州と同じく匪賊横行の朝鮮が、白頭山麓の山の中でも、人跡未踏の小島に行つてもつねに枕を高うして眠ることが出来、戸締りの必要も、夜警の必要もなかつた時代が顕現し、李朝時代の惨酷な刑政に比し、一応人権の自由が尊ばれ、ほつと安心して真面目に働ける時代が続いたことを回顧するとき、愚かな総督もあり、失政百出の不満も勿論あるが、大局より見て、日本の統治と朝鮮民衆の生活の関連性は、決して搾取弾圧の連続ではなく、培養と融和のゆとりある史的段階をもち共存共栄の実を挙げて、マッコイ将軍の語るがごとく、東洋の驚異が顕現してゐたことは、間違ひのない事実だ。今次の動乱(朝鮮戦争)によつて、地上の建設物、文化施設等の多くのものが壊滅したとは言へ、残る有形無形の潜在力は、大きい復興の基底となつて、その力を発揮すべく、尚今後虚心坦懐な協力によつて、生ずる生産の復興と、貿易の振興は、必ずや日韓経済繁栄の素を作り、三十五年間の共苦労は、決して無駄でなかつたことを、両国民が自然に覚る日が遠からず来るであらう。

「日本と韓国」 八木信雄 昭和53年 日韓文化出版社
(灰色文字は管理人注)
(著者の八木信雄氏は朝鮮総督府の官吏で終戦時には全羅南道の知事であった。)
総督政治に対する外国人の評価


(上記の鎌田沢一郎著「朝鮮新話」から宇垣総督と会見したマッコイ少将の談話をを引用している)マッコイ少将の言葉の中に「貴国の植民政策が妥当であって」という個所があったようだが、外国人にしてみれば、韓国の統治は植民地主義で相当ひどいことが行われていると思っていたのに、実際に目分の眼で見てみたら、全く予想外の立派な統治が行われていたということで、そんないい評価になったんじゃないかな。

その点、僕も同感だね。僕が全羅南道知事として終戦を迎えた際、この道(どう)に進駐してきた米軍首席軍政官のリール・W・リーズ少佐(イリノイ州在住の応召弁護士)が、僕に向ってこんな感想を漏らしたことがあるんだよ。
「自分は沖縄方面から来たのだが、こちらに来るまでは、日本の統治下における韓国の現状は実に悲惨なものだと聞かされていた。ところが、実際の姿は聞いていたのとは違って、道路交通網は普及し、しかも鉄道は自分の国と同じく広軌である。水利灌漑施設の行き届いていること、学校校舎の立派なことなど、全く驚きに耐えない」というふうにね。これは、今まで総督政冶に関与していた敗戦日本国人の知事に向かって、韓国の解放を齎(もたら)した戦勝米軍軍政官が漏らした言葉だから、本人の目に映じ心に思ったことを極めて率直に吐露したものと断言して差支えないと思うんだ。

日本は朝鮮近代化のために多額の税金を投入し、その収支は赤字であった。
「教科書が教えない歴史(4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社
大正時代に、石橋湛山というジャーナリストが調べたところ、日本国民1人当たりの国家予算の支出は10円45銭であり、植民地1人当たりの国家予算の支出は9円46銭でした。両者の間にはほとんど差がありません。両者の経済格差を考えると、日本は植民地に大変な国家予算をつぎ込んだことになります。それに対し、植民地から得られる収益は支出をはるかに下回りました。つまり、日本は台湾や朝鮮から経済的利益を得ていたとはいえないのです。むしろ、日本人は植民地を本国並の水準に引き上げようと懸命に努力をしました。これは、ヨーロッパ諸国が植民地から大量の富を収奪したのと大違いです。

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮の財政を支えつづけていた日本の補充金と公債
朝鮮総督府時代の朝鮮半島経営については、今日よくいわれているような「日帝36年」の植民地収奪というよりも、日本人の税金を注ぎ込むことによって、朝鮮半島の財政をずっと支えてきたというのが歴史的事実である。朝鮮総督府は、朝鮮人を圧迫したり、搾取したり、収奪したりというよりも、税金を注ぎ込み、近代国家として育てようと奮い立っていたのである

朝鮮総督府財政を支える財源については、朝鮮国内の税金などの取入だけでは足らず、その一部は公債によって支えられていた。その公債の98%は、日本の金融市場からのものであった。朝鮮の公債は、予算上の歳入不足を補填するいわゆる赤字公債ではなく、原則として事業公債に限定され、殖産興業に投資する公債であり、産業資金ともいえる。この公債によって土地、資源の開発、殖産興業が進展した。朝鮮半島は、海外からの借金によって国民経済を支えるという経済構造が、終戦後、半世紀以上たって、OECDに加盟した今日に至っても、ほとんど変わってない。明治44年には、借金、公債が国家予算に占める割合は22%であった。昭和5年には、公債の割合が6%まで低下したものの、昭和20には18.4%となった。
(中略)日本政府からの財政補充金には、たとえぱ製鉄奨励金、増炭奨励金などもあり、朝鮮半島はおんぶにだっこを続けていた。各種補充金は、昭和19年までに一般経費の補充金として4億3000万円程度に達していた。それは朝鮮半島が貧しく、自力で開発ができず、外債に頼らざるをえなかったからであるが、今日に至っても、その構造はまったく変わりがないのではないだろうか。
鴨緑江、豆満江の架橋13ヵ所の予算は、じつは満州国から出たのであった。
今日までの「日帝36年」に対する批判は、ほとんど朝鮮総督府が民度・民力の向上に懸命な努力を続けてきた歴史的事実に触れることなく、ひたすら日本人と朝鮮人との物質的な強弱の格差、支配者と被支配者の関係のみを取り上げることを目的としている。それはきわめて歪んでおり、歴史歪曲ともいえる。朝鮮半島は、統監府時代から「保護国」として日本に保護されながら、総督府時代に入りいっそう過保護にされつづけたのであって、財政面のみならず、政治、経済、文化のあらゆる面にわたってそうであった。「日帝36年」とは、植民地搾取という見方とは逆に、日本国民からの"支援"で支えられてきたのだ。併合以来、年に千数百万円から二千万円の一般経費補充金が、朝鮮総督府特別会計に補填されつづけ、財政運営を支えてきた。それは総督府の財政関係担当者が日夜奔走し、機会のあるたびに帝国議会や大蔵省に働きかけた賜物である。その補充金は、ほとんどが朝鮮半島の産業と国土開発、民生安定と福祉向上に注ぎ込まれており、今日のODA援助以上のものである。


「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府は今日、「日帝三十六年」支配の象徴であり、いわゆる「日帝」の「七奪(国王、主権、土地、資源、国語、人命、姓名を奪ったこと)」の先頭に立ったと批判され、また、朝鮮近現代史研究といえば韓国、朝鮮人がその「日帝」といかに英雄的な戦いをしてきたか、という叙述ばかりとなっている。さらに、朝鮮総督府は、評価すべきものは一つもなく、「搾取」「迫害」「抑圧」「弾圧」「虐殺」だけを行なったという批判もある。朝鮮近現代史学者は、たとえば法治国家を目指した司法制度も、朝鮮半島土地調査も、治山・治水事業も、鉄道・道路建設も、朝鮮米増産計画も、ハングル教育政策も直視していないのだ。

朝鮮総督府が全精魂を注ぎ、その目標としてきたものは、「朝鮮半島の近代化」であった。朝鮮総督府の土地調査事業も、産米増殖計画も、農山漁村振興運動も、北朝鮮開拓などもすべて近代化推進のシンボルであった。朝鮮総督府が李朝末期の体制と弊風、少なくとも土地制度、租税制度の改正、財政の破綻、官僚腐敗などの病巣を手術し、ことに階級的身分制度――身分差別の撤廃、公私奴婢の廃止、解放、女性再婚の自由保障、笞刑(むちうちの廃止、一族まで罪を被る罪人縁坐法の廃止など、法治社会の確立と個人の独立、人格の尊重、などなどは、どの一つを取り上げても、朝鮮総督府の開発独裁が必要であった。

両班に代表される朝鮮の伝統文化は、勤労を蔑視し、無為徒食で怠惰な生活をもって聖人君子の道と考え、それを民族性にまでするに至った。この伝統文化を根絶しなければ、朝鮮半島の近代化は不可能に近かった。だから、朝鮮総督府は、「弊風」と見なされる伝統文化を否定して、新しい体制に立て直すことこそが、新しい時代に生き抜くためになくてはならぬ方法だとした。

日本人は、李朝社会に「近代化」を教えたのだ。「近代化」という言葉が適切でないなら、「西洋の衝撃」といってもよいであろう。明治維新以後の日本の「近代化」は、日本列島から朝鮮半島を経由して、大陸まで到達したのだ。ありし日の日本人にとっては、それはむしろ天命であり、いわゆるその時代の使命感であった。「善意の悪政」や「悪意の善政」などといわれようと、その「同化主義」とは、文明開化時代の一つの理想であり、それを天命として国家、民族の興起とともに、近隣にも無理やりに押し売りしようとした。しかし、私はそれをおせっかいだとは見ない。仮りにそれが相手の意思を尊重していなかった「強制」であったにしても、私は非難しない。そういう時代だったのであり、場合によってはそれが必要だったからである。

朝鮮近代史を語る場合には、普遍的な論理ではなく、一つ一つ個別な史実から論議していかなければならない。少なくとも日本列島と朝鮮半島の問題に関しては、時間のスパンをもっと引き延ばして、李朝朝鮮時代から分断後の朝鮮半島の歴史に至るまでの間で「日帝三十六年」を振り返らなければならない。

朝鮮の歴史を知れば知るほど朝鮮人自身での近代文明化と独立は絶望的であったことが分る。当時の朝鮮人の中でそれを自覚していた者たちが民族の将来を日本に託して日韓併合を望み、日本もそれに応えて朝鮮の近代化に尽力したことを韓国人は知るべきである。


日朝交渉において植民地時代の謝罪と賠償を行うことが当然であるかのごとくマスコミが報じているが、戦後の早い時期、まだ朝鮮の併合前後の状況をよく理解していた人たちが存命であった時代は、韓国・朝鮮人の主張する謝罪と賠償など妄言以外の何物でもなかったのである。
「親日派のための弁明」 金完燮  荒木和博・荒木信子訳 2002年 草思社
対韓請求権と対日請求権 (灰色文字は管理人注)

日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、朝鮮には60万の日本人が居住しており、日本にはおよそ200万人の朝鮮人が暮らしていた。朝鮮半島の38度線を境に北側にはソ連軍が、南にはアメリカ軍が進駐し日本軍を武装解除させ、占領地帯として軍政をはじめた。この過程で米軍は、1945年12月19日に「米軍政法令第33号=帰属財産処理法」を制定し、韓国内にある日本の財産をすべてアメリカ軍政庁に帰属させ、日本人はその財産を没収したのち日本に追放した。北朝鮮でもおなじ措置がとられた。日本人は故郷を離れて10年、長くは30年以上苦労して基盤を築いた朝鮮半島から、日本出身という理由だけで無一文の乞食となって追い出された。日本は敗戦国であり、このような措置に抗議できるはずもなく、1951年に日本の独立を決定したサンフランシスコ講和条約でも、これについてなにひとつ抗議できなかった。アメリカ軍政庁とソ連占領軍によって押収された日本人の財産は、政権の樹立とともに韓国政府と北朝鮮政府に委譲され、韓国ではこの財産に敵産(敵の財産)という名前をつけて権力者が分けあった(敵産払下げ)。

敗戦後、朝鮮半島にいた日本人は長い歳月をかけて築きあげた財産を奪われて日本に追放されただけでなく、朝鮮人に殺害されることさえあった。国そのものを喪失し、アメリカ軍の統治を受けていた日本はこうした犯罪行為にたいして、ひと言も抗弁できず、1952年にふたたび主権を回復したのち、ひとつふたつと資料を取集し、ようやく実態を把握できた。これはいってみれば35年間財産をわけずに暮らしでいた夫婦が別れることになったのと似ている。朝鮮が日本から独立するにあたっては、取り決めるべき点を公正に話しあって合意に達する過程が必要だった。だが残念ながら日本は発言を封じられた状態だったので、一方的に日本側に不利な結果になったといえる。その後、国交樹立のため韓日会談が開かれたとき、韓国側ではこうした日本の立場に配慮し、日本人殺害と財産剥奪にたいしては謝罪するかあるいは最低限、遺憾の意を表明しなければならなかった。そして私たちを朝鮮王朝の圧政から解放し、多額の資金と人材を投入し文明開化させてくれたことにたいして、公式に感謝の気持ちを伝えなければならなかった。そのあとで日本人が納得できる誤ちを指摘し、また韓国人の誤ちも認めて、たがいに信頼を築き理解しあってこそまともな交渉が可能なのだ。しかし韓国側はこれまで自分たちの誤ちをまったく認めず、朝鮮の文明開化と近代化にたいする日本の貢献と成果を無視したままだ。むしろ朝鮮が被害者だと一方的な主張を述べたてるだけであり、こういう状態では韓日関係の緊張が緩和することを期侍するのは容易ではない。

日本政府はアメリカ軍政下にあった1949年から、朝鮮、台湾、サハリンなど、奪われた領土の財政処理問題を調べはじめた。この過程で専門家である鈴木武雄東大教授を呼んで意見を聞いたが、鈴木教授の見解は日本の立場を公式に代弁するに足るものとして内外で多くの理解を得て論議を呼んだ。その概略ははつぎのとおりだ。
日本の朝鮮統治が欧米強国の植民統治にも勝って朝鮮人を奴隷的に搾取し、その幸福を蹂躙したといふ論告に対しては正当な抗弁の余地があると私は信ずるのである。否、強いて言ふことを許されるならば、事志(ことこころざし)と違つた多くの失敗もあるが、日本の朝鮮統治は、理想としては、所謂(いわゆる)植民地支配を指向したものではなかつたのである。(鈴木武雄「朝鮮統治の性格と実績――反省と反批判」大蔵省管理局付属在外財産調査会『日本人の海外活動に関する歴史的調査(朝鮮編(下))』第11分冊所収)
第一次世界大戦前夜、20世紀初頭の世界情勢並に世界思潮とその時までおかれて来た朝鮮の状態――即ち如何なる意味においても完全な独立国として自立する力を有(ママ)たなかつた朝鮮の状態を顧みるとき、これは必ずしも日本のみが責めらるべき貪婪(どんらん
・欲が深い)なる膨張政策とは言ひ得ないであらう。(同前)
朝鮮の経済がこのようなミゼラブル
(みじめで貧弱)な状態から、併合後僅か三十数年の間に今日見るやうな一大発展を遂げるに至つたことは慥(たし)かに日本の指導の結果であると言ふも過言ではない。(同前)
以上によつて明らかな如く、朝鮮財政が臨軍費の一部を負担したことを以つて財政面における朝鮮の搾取を結論することは些(いささ)か早計である。否、財政面においては、朝鮮に対する日本よりの援助は差引プラスであることが注目せられねばならぬ。(同前)(以上、原文はすべて旧字)

先ず指摘したい点は、日本のこれらの地域に対する施政は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでないことである。逆にこれら地域は日本領有となつた当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト
(低開発)な地域であつて、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもつぱら日本側の貢献によるものであることは、すでに公平な世界の識者――原住民をも含めて――の認識するところである。そして日本がこれら地域を開発するに当たつては、年々国庫よりローカル・バヂェット(地方予算)に対し多額の補助金をあたえ、又現地人には蓄積資本のない関係上、多額の公債及び社債を累次内地において募集して資金を注入し、更に多数の内地会社が、自己の施設を現地に設けたものであつて、一言にしていえば日本のこれら地域の統治は「持ち出し」になつていたといえる。
……次にこれらの地域において長年にわたつて平和的な生業を営んでいた日本国民は全部放逐され、日本資産は公有財産のみならず彼らの努力により平和裏に蓄積された私有財産までがすでに事実上剥奪されており、平和条約においてそれが確認されるのではないかと思われる点である。割譲地の居住民及び私有財産にたいするかかる苛酷な措置は全く国際慣例上、異例のことに属する。
……これらの地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され、世界各国とも久しく日本領として承認していたものであつて、日本としてはこれら地域の放棄には異存がないが、過去におけるこれら地域の取得、保有をもつて国際的犯罪視し、懲罰的な意図を背景として、これら地域の分離に関する諸問題解決の指導原則とされることは、承服し得ないところである。(外務省平和条約問題研究幹事会「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」国立国会図書館憲政資料室所蔵『対日平和条約関係準備研究関係第五巻』所収、1949年)

鈴木教授の発言は論理性があり、敗戦国である日本の鬱屈した立場をひとつひとつよく指摘している。荒地と変わらない未開な土地を譲り受け、長いあいだ情熱をそそぎ、教育をほどこし、社会体制を整備し、莫大な金を投資して社会間接資本を構築した。それなのに感謝の言葉もないどころか、犯罪だと非難されているのだから、日本人の立場としては憤慨せざるをえない。鈴木教授の発言は、敗戦後、日本政府の立場が初めて内外に知られる契機となったが、いまだに韓国ではこれを「鈴木妄言」と呼んで非難している。

ぜひとも読むべし
Link 日韓関係の近現代史
 韓国・北朝鮮に謝罪は不要 
/ 日朝交渉に当たって


われわれ現代人が歴史を論じる時は、感情を排した公平で客観的な立場で批評すべきで、韓国人や反日左翼のように『日本の植民地支配は人類史上最悪の搾取だった』と一方的に断罪してはならない。下記のリンク先は生活者の立場から植民地台湾を語ったもので、その内容は韓国人の主張とまったく異なっており、日本人にとって驚き以外のなにものでもない。
Link 中華週報のHP 「日本人に知らせたいもう一つの台湾史」
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もう一つの植民地・台湾の歴史教科書を読むことで、韓国の歴史教科書がいかに偏向した記述をしているかが理解できます。
Link 中華週報のHP 教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む 

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韓国の教科書に載らない日本の善政 その1
総督府による農業政策の成功で飢饉がなくなり餓死者がでなくなったことと、近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったうえ乳幼児死亡率の低下で人口が爆発的に増加していった。 (なんと植民地36年で倍増)

朝鮮半島では疫病が頻繁に流行し多くの死者がでた。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
伝染病問題は、朝鮮半島で飢饉以上に頻繁に発生した。飢饉に続いて、連鎖的に疫病が襲いかかった。もちろん、それは朝鮮半島に限らず、中国大陸においてもそうであった。朝鮮半島では、17世紀の中葉ごろから、平均2.6年に1回の割合で疫病が大流行した。趙珠氏の『19世紀韓国伝統社会の変貌と民衆意識』198ぺージ)によれば、17世紀の中葉ごろ〜19世紀の中葉の間に、年間10万人以上の死者を出した疫病が6回もあった。1749年の全国大疫病では、死者50万人以上とも記録されている。「民乱」や「倭乱」、「胡乱」といった戦争以上に、朝鮮半島の人命を奪ったのは、ほかならぬこの疫病の大流行であった。著名な自由主義者で、植民地論者の新渡戸稲造は、「植民地経営の要は、衛生の改善にある」という植民地論を展開したほどである。

李朝は、天災と疫病のたび重なる発生をそのまま放置した。李朝末期となると、朝鮮の高官たちは、ほとんど政権争奪に明け暮れ、いわゆる「三政紊乱」‐−政治腐敗、官庁の綱紀紊乱、官吏の横暴が絶頂に達し、もはや治山、治水や疫病を退治する余力がなくなっていた。



日韓併合以前のソウル・釜山は極めて不衛生な都市だった。伝染病がしばしば起こり多くの人々が死亡した。
「韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―」 黄文雄 2002年 徳間書店
「日帝」以前のソウルは世界一不潔な都市

 …首都ソウルでさえ非常に不潔であった。当時の洋夷(西洋人)の目からみても、日本人からみても、日清戦争前のソウルは、世界一不潔な都市だったという。細井肇(朝日新聞記者・自由討究社創立)の「漢城の風雲と名士」(「政治史」第77巻、ペリカン社、豚犬的生活5)にある記述は比較的わかりやすいだろう。

『韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花が場所も嫌わず狼藉と咲き乱れて居て、足の踏み場もなく潔癖者は一見その不潔と臭気に驚くのだ…。現に、この国の中央都会の地たる京城の如き、一名を真の帝都と緯号(あだな)されて居る程で、至る処人糞或いは牛馬糞を見ざる無で、紛々たる臭気は鼻を襲ひ眼を顰(ひそ)めぬ者とてはない。そこで京城市内を流れて居る川の如き各戸より、排泄する糞尿を混じ、その水は一種の黄色を帯び、ドロドロとなって居るなど、実に眼もあてられぬ光景で、洗濯などに遣って居る。なんと鼻持ちならぬ咄(はなし)ではないか。毎年夏期になると伝染病が流行し、その伝染病に罹(かか)る患者の多くは韓人で、非常なる大流行を極め何千人を驚かすは珍しくない……』

氏は、京城の糞は煙管(キセル)、虱(しらみ)、妓生(キ−セン)、虎、豚、蝿などとともに、韓国の七大名物として取り上げている。また、韓国の首都ソウルでもこの有り様なのだから「世界一の糞の国」だと称し、その糞を処理するのは犬と豚であるとも言っている。

「在日朝鮮人―歴史・現状・展望」 朴鐘鳴編 1995年 明石書店
日清戦争に従軍して朝鮮に渡った兵士の一人は次のように記している。『 …さらに驚きは、聞きしに勝る不潔である。道路は塵糞にておおわれ、不潔の大王をもって自ら任ずる豚先生、子分を引き連れ、人間どもを横目で睨みつつ、道路を横行する。臭気鼻をつき、嘔吐をもよおすなり… 』 (浜本利三郎著・地主愛子編「日清戦争従軍秘録」青春出版社1972年)

「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
当時の韓国を訪れた外国人は筆をそろえて、いかに不潔だったかに、驚いている。

ビショップ夫人は「ソウルは汚ないことと臭いことでは、世界一である」と書いている。『25万人の同市民は地上に瓦または藁を並べた一階屋の下に潜り込んで生活している。いや、不潔な道路に蠢動(しゅんどう)していると形容したほうがよいだろうか。その道路は広くても二頭の馬が並ぶことができない。狭いところで一人の荷を担いだ者が往来を塞いだほどである。路傍には悪臭が芬々(ふんぷん)とする溝があり、路面は埃まみれの半裸体の子供と、獰悪(どうあく)な犬とによって占領せられている』

『市街の中心を西から東へ流れる下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄している。そのために下水道の泥は真っ黒で幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている』

『南山の中腹に日本公使館があるが、木造で白塗りの建物としてはあまり感心できない。その麓に日本人居留地があり、約五千人の日本人が小さな天地をつくっている。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反対に清潔でよく整って気持ちがよい』 (「三十年前の朝鮮」バード・ビショップ 1925年)


「炎は流れる 第3巻」 大宅壮一 昭和39年 文藝春秋
統監府の外務部長として赴任した小松緑の書いたものによると、
『京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな低い屋根に泥ぬりの荒壁というありさま。それに道路がせまい上に、石塊出没して凹凸状をなし、そのそばの土溝(どぶ)には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。この穢路(わいろ)の奥にあった一軒の日本家が著者の借住居であった。そこへ統監府から時々書類をもって往復する小使でさえ、通るたんびに命がちぢまるといっていたくらいだから、その非衛生的穢状が察せられるであろう』
そこで、何かの折りに、小松は伊藤博文にそのことを話したが、
『やせてもかれてもここは王城の地だ。そんなことがあるものか』
といって信じなかった。だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が出席して、小松の話がウソではないことを知り、さっそくツルの一声で、統監官邸のある南山のふもとに、日系官吏のために官舎が建てられることになったという。

「悲劇の朝鮮」アーソン・グレブスト (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
釜山で朝鮮が私に与えた第一印象は、さほどいいものではなかった。道は狭く不潔で、家屋は低くて見栄えがしなかった。日本のように人目を引く商店や、古い寺などもない。四方から悪臭が漂い、戸外にはごみが積もり、長い毛をだらりと垂らした犬が集まってきては食べ物をあさっている。あちこちに乾上った下水道があるが、そのべとべとした底ではいろんな汚物が腐りかけている。そしてその中で髪の毛の長い子供たちが遊んでいる。朝鮮の海辺の村落を通り抜け、車夫らは道がより広く比較的きれいな、日本風の市街地へ向かった……


不衛生な環境であったため疫病がたびたび流行したが、医学の立ち遅れていた朝鮮では、病気治療や伝染病予防は迷信にすがるしかなかった。
「韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―」 黄文雄 2002年 徳間書店
韓国の医療史や疫病史を見ると、たいていは巫女(シャーマン)をはじめさまざまな信じられない迷信によって治療を行っていた。グレブストの『悲劇の朝鮮』のなかに、いくつかの治療法が書かれている。たとえば、牛糞を塗る。ヒマワリの種を湯がいて食べる。患者がモモの種を二つに割り、一方に「日」の字、もう一方に「月」の字を書いてハチミツで再びくっつけて一気に飲み込む。小さな蛙を3匹生きたまま丸飲みする(腹痛に即効)。重症の場合は、煮たカササギを1羽、あるいは焼いた犬の足を4本食べるといい。あるいは、茄でた熱い海藻を腹のまわりに巻く。じっくり沸かしたお湯に40歳の女性の髪の毛を入れて飲む。ガマガエルを地面に仰向けにし、その腹を3度叩いて地中に埋め、また掘り出してから紐でしっかり縛ってから火で焼いて粉にして水で飲む、など。こういった民間療法は、数千年来ほとんど変わっていなかった。

ところが、大韓帝国の最後の皇太子(純宗)の妃・純明皇后は、こういった民間療法の医者にかかって死んでしまった。皇太子妃ははじめ、腹が腫れた病気にかかり、女医たちに診てもらったところ、「ご懐妊」との診断であった。女医たちは高宗からご褒美をもらったが、間もなく大変なことになると察知して逃げてしまった。妊娠ではないとわかった高宗も、あわてて韓国一の名医に診てもらい、妃の腹に悪霊(鬼)がすみついたと信じ、城門の戸板をはがして煎じて妃に飲ませたものだった。その数日後、妃はあえなく逝去した。韓国最高の名医でさえ、この有り様である。韓国の医療衛生状況が、いかなるものだったかが窺い知れるだろう。

「白凡逸史 -金九自叙伝-」 梶村秀樹訳 1973年 平凡社東洋文庫
(金九は独立運動家で、上海にあった大韓民国臨時政府の主席であった。)
父の子供の頃の別名は「孝子」だった。それは、祖母が亡くなる時父が自分の左手の薬指を小刀で切ってお祖母様の口に血を注ぎ入れられたところ、いったんよみがえられ、三日間生き延びられたことからきているという。
(中略)
わたしは、以前祖母の亡くなられる時、父上が「断指」をなさったことを思い出し、わたしもせめて「断指」でもして、一刻でも父の命を延ばしたいと思った。だが、わたしが「断指」するのをごらんになれば母上が心を痛められるだろうと思うと、それもできず、その代わりに自分の腿(もも)の肉を一切れ切り取り、血は器にとって父の口に流し込み、肉は火にくべて、「薬です」と言って父上に差し上げた。それでも目立った効験がないので、血と肉の量がまだ足りないのだろうと思って、私は再び小刀をとり、前のものよりもっと大きく肉を切り取ろうとした。ざくっと切りこんではみたが、切り取ろうとするととても痛く、傷口がついただけで切り取ることはできなかった。『「断指」や「割胯(腿を割きとること)」は孝子のすることで、私のような不孝者にはそれもできないのだ』と、自らを欺いたのだった。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
この街道沿いでも村々のそばには、村人をコレラなどの伝染病から守るという、先が二股になった柱が立っていた。その日ある四つ辻を通ったとき、ねずみ捕りのような穴を数ヵ所あけた細くて小さな丸木が道に転がっていた。穴のひとつは木の栓でふさいである。簡単に見落としてしまいそうな木切れなのに、馬夫は用心深くそれをまたいで通り、馬にも踏ませない。栓をした穴にはどこかの家に病をもたらした鬼神が、ムダンつまり呪術師の魔術で閉じこめられている! 通行人はこの丸木をまたいで通るのが正しい。日暮れとともに丸木は土に埋められる。

李朝時代の迷信と民間療法の記録写真
Link 村山智順所蔵写真選 生活の中の鬼神

日本統治近代医療衛生制度が確立される。
「醜い韓国人 朴泰赫」 1993年 光文社
日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、病幕(ビョンマク)の設置だった。日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、しばしば住民の一割ぐらいが病死した。それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、伝染病による死者がでると、その家の井戸の上に筵(むしろ)をかけたうえで、厠(かわや)を焼き払った。厠は家の外につくられていた。

日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、伝染病患者を隔離する病舎をつくった。多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、改装したものだった。

私が少年だったころには、通学路の途中に、道から150メートルほど離れた田園のなかに病舎があったので、子ども心に恐ろしく思ったものだった。多いときには、80人近くの病人が収容されていた。

それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、家の外で死ぬことを客死(ケクサ)と呼んで、惨めな死とみなした。そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。

しかし、病幕と国立、あるいは道立病院がつぎつぎと建てられるようになると、患者が隔離病棟に収容されるようになったので、伝染病は姿を消すようになった。私たちの村では病幕が、私が小学5年生になったときまであった。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、同付属病院の創立を皮切りに、公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、いずれも規模が小さかった。本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。1909年から慈恵医院の官制が発布され、その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、地方の隅々まで医療制度が整備され、賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。

各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。中国大陸では1930年代に入ってからも、相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、朝鮮総督府時代からであると言える。

朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、猛威を振るっていたハンセン病退治のために、救ライ事業として世界的規模を誇り、もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、6000人以上を収容した。このような破天荒的な努力について、朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。

朝鮮人は疫病死と餓死の恐怖から解放された。

朝鮮人人口の推移、急激な増加がみてとれ李朝時代と比べると倍増している。総督府による医療衛生制度の導入と食糧増産政策によって、これだけの人口が養えるようになったのである。韓国人と反日左翼は総督府の植民地経営の善政を一切認めないが、これは輝かしい成果の一つではないのか?
「朝鮮総督府統計年報」  朝鮮総督府編 
年次 年末常住人口・(注)1944年は5月
1910(日韓併合年) 1312万8780人  (注)初期の調査は精度が低いとされている
1915 1595万7630人
1920 1691万6078人
1925 1854万3326人
1930 1968万5587人
1935 2124万8864人
1940 2295万4563人
1944 2512万0174人 (この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた)

2001年小泉内閣は、日本のハンセン病患者に対し強制隔離など非人道的取り扱いがあったことを謝罪し補償金を支給した。しかし朝鮮のハンセン病政策は、自分たちの処遇改善を総督府に要求して勝ち取った結果なのである。
「ソウルに刻まれた日本」 鄭雲鉉 武井一訳 1999年 桐書房
(日本統治時代)歴史はただ一度だけ、総督府の前でデモ事件があったことを記録している。

今は治療術がよくて問題はないのだが、その当時、「ハンセン病」は「天の制裁(天刑)」と呼ばれていた。彼らは家族から捨てられ、当局にとっても蔑視の対象でしかなかった。彼らはどんな形であろうとも保護を必要とすることと、同時に周囲の関心を喚起させる必要を感じたあまり、植民地時代に「デモ」という形で意思表示を強行したのであった。

1932年、朝鮮全域から集まった「ハンセン病」患者600名の行進者は、光州から歩いて12日で京城に到着した。警察も憲兵も、ハンセン病患者ということで彼らを怖がって彼らの行進を阻止できなかったのだ。行進は崔興[+]牧師が指導した。結局、総督府当局はハンセン病患者の代表、崔牧師と宇垣総督の単独面談をとりもって事態を収拾した。旧朝鮮皇室と、日本の皇室、そして朝鮮内の有志が寄付金を寄託し、その金で小鹿島の療養施設を拡大し、この事件を契機にハンセン病患者の治療政策を新たに考究したという。



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韓国の教科書に載らない日本の善政 その2
朝鮮総督府が、朝鮮半島で断行した最大の改革の一つは「門閥廃止」、「万民平等」という社会改革であった。それは、朝鮮史上、初めての階級差別の廃止であった。
「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社 (かっこ内管理人補足)
朝鮮の社会革命の難しさの根源は、その伝統的な身分階級制度にある。甲申改革当時の金玉均ら改革派たちの主張によれば、朝鮮社会の門閥や封建的身分制度こそ不平等の根源、国政腐敗、国力衰弱の主因と指摘している。両班階級は、その能力や才能とは無縁な生まれつきの血縁関係によって規定される伝統的な身分制度であった。朝鮮半島は、1894年になって、ようやく「四民平等」を宣言した。そのときから、賎民(奴婢など)もやっと両班や良人と同じように戸籍を持つように戸籍法が改正された。しかし、甲午改革は「三日天下」ですぐに失敗した。朝鮮総督府は、実質的に法律によって階級差別廃止を行なったのであった。

李朝末期には、奴婢が公賎(官庁に所属した奴婢と私賎(両班などに所有された奴婢)に分けられ、私賎は男子が少なく、女子がほとんどであった。婢(女の奴隷)は日韓併合当時、まだ一人三十円で売られていた。婢に特定の夫はおらず、何人かの間で替えていくのが風習であった。しかし、婢は主人の所有物であったから、その生まれた子供もまた主人の所有に属し、その子もまた転売されていくので、婢の子孫は、女子であれば、ほとんど世々代々奴隷として浮かぶ瀬あらんやといわれた(まさしく性奴隷)(『朝鮮農業発達史』『同・政策編』小早川九郎編著、友邦協会)。

朝鮮農民は、両班に差別され、白丁(被差別民)がまた農民に差別された。この階級社会ではトラブルが絶えなかった。このような朝鮮社会の病弊は、けっして一朝一夕で克服できる問題ではない。今日の韓国社会に至ってもそういえる。甲申改革は「三日天下」で失敗に終わったから、国王の命令によって「甲申政綱」が回収されたために、その正確な原案を知ることができない。今日に伝わっている「甲申政綱」の具体的内容は、資料によってその詳細が多少異なる。いずれにしても近代国家としての本格的社会改革は、朝鮮総督府からであったというべきだろう。

また、李朝時代の地域的差別は、西北地方と東北地方の出身者が、完全に官界から排除され、官吏は中央だけから送られた。もちろん、国家による地方差別は公然と制度化された。『経国大典』には、咸鏡道、平安道、黄海道の人は、官憲への登用はもちろん、鷹師への起用さえ禁止する条項があったほどだ。平安道人は、平安道奴、西漢、平漢、平奴、避郷奴と蔑視されていた。朝鮮総督府はこれらの差別を廃止したが、残念ながら、今日の韓国社会では、地域的な差別が厳然として存在している。それは朝鮮半島の永遠なる民族的課題とさえいわれている。このような見捨てられた地方民、つまり東北、西北朝鮮の地方民は、被差別民だから、門閥を重んじる京城の両班たちは、ほとんど西北地方の人との婚姻を禁止し、つき合いさえなかった。というのは、東北、西北の地方民は、ほとんど任官を受けられなかったので、婚戚関係を持ったところで何の役にも立たないからである。ましてや京城の人間から見れば、東北、西北地方は、重罪人の禁固や流配の地にすぎなかった。咸鏡道人を「水売り」、「咸鏡道奴」、「咸鏡ネギ」と軽蔑し、敬遠するのは、伝統的な差別意識からくるものであった。

人種差別や地域差別は、朝鮮半島だけではなく、日本人社会にもある。韓国人、朝鮮人に対して、優越意識を持っている日本人のいるのは確かであろう。しかし、李朝社会ほどの人種差別と地方差別を持つ民族は、ほとんど考えられない。朝鮮総督府は、日韓合邦後、「内地延長主義」の原則をずっと堅持しつづけていた。それは朝鮮半島にとって、まさしく破天荒な政治原則であった。仮りにそれがしばしば有名無実であっても、少なくとも李朝以来、あるいは遠く溯れば三韓、三国時代以来の地域差別、さらに李朝以来の階級差別の歪みを是正する、一つの大きな契機となっていた。今日の韓国社会は人種差別にも、地域差別にも、悩みつづけている。しかし、階級差別を法的に禁止したのは朝鮮総督府時代からである。朝鮮総督府の時代は、多くの失政もあったことは確かであろうが、政治的変革以上に大きな社会変革を完遂した。この事実については、李朝体制を視野に、その延長としての朝鮮総督府とは何かをその原点から見ることが必要ではないだろうか。

李朝社会は、なぜあれほどしつこく自ら韓民族を両班、中人、良人(常民)、賎民に分け、厳しく階級差別したのであろうか。その理由は「礼儀之邦」という考え方にある。法治社会が確立される前に、階級社会を規定するものは「礼」であった。中国では周の時代には、だいたい「繁文縟礼」こまごまと規定されている規則・礼式など)によってすべての人間関係が規定されていた。「法」が「礼」に代わって人間の社会的諸関係を規定するようになったのは、春秋戦国時代からである。朝鮮があれほど「朱子家礼」(朱子学による規範)に心酔し、繁文縟礼にとらわれつづけてきたのは、その国王、両班を中心とする階級支配を維持するために、必要だったからである。

近代国民国家の「国民」を創出するために、朝鮮総督府が断行した「奴婢の解放」は、もし朝鮮社会の牢固たる階級制度について、多少でも歴史認識があれば、それはリンカーン大統領の「奴隷解放」以上のものと驚嘆かつ称賛するに違いない



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韓国の教科書に載らずマスコミも報じない
韓国独立による両国間の財産・債権などの請求権の清算完了と経済協力
「日韓誤解の深淵」 西岡力 1992年 亜紀書房
日本の敗戦によって日本の朝鮮支配は終了する。1951年のサンフランシスコ講和条約によって日本は朝鮮の独立を承認し、国と国、国と国民(法人を含む)、国民と国民の間の財産、債権、請求権に関しては特別な取り決めを結んで処理することとなった。韓国は亡命政権の活動などを根拠に戦勝国としサンフランシスコ条約に加わりたかったのだが、連合国側はそれを認めなかった。そのため同条約21条で日本が支払いを約束した「戦争で受けた物質的損害と精神的損害に対する賠償を受ける権利」は認められなかった。わかりやすく言えば、韓国については分離独立に伴う両国国民間の未清算部分の清算だけが認められたのだ。

1952年から始まった日韓交渉では、この財産、債権、請求権に関する交渉がひとつの大きな柱となった。韓国側は日本に対して8項目の「対日請求権要綱」を提示した。(1966年大蔵省印刷局発行『時の法金別冊・日韓条約と国内法の解説』より引用)

(1) 朝鮮銀行を通して搬出された地金返還
(2) 日本政府の対朝鮮総督府債権の返還
(3) 日本降伏後に韓国から送金された金品の返還
(4) 韓国に主事務所を置いていた法人の在日財産の返還
(5) 韓国法人または韓国自然人の日本国または日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金およぴその他の諸請求権の弁済(本項の一部は下記の事項を含む。 1、日本有価証券 2、日本系通貨 3、被徴用韓国人の未収金 4、戦争による被徴用の被害に対する補償 5、韓国人の対日本政府請求恩給関係その他 6、韓国人の対日本人または法人請求 7、その他)
(6)〜(8)は略

この中の(5)の3〜7が、戦争に動員された韓国人の補償と関連があるわけだ。ちなみに「(5)の7その他」に関しては注目すべき情報を関係者から聞いた。交渉の過程で韓国側自らが「その他」の中身は「今後起こりうるかもしれない諸問題」であると主張していたというのだ。現在韓国内にある「従軍慰安婦は65年当時議論されなかったのだから新しく請求できる」という主張は当時の韓国側の解釈とも矛盾することになる。

一方日本側はこの8項目要求に対して、根拠のあるものは支払う準備があるが、立証責任は韓国側にあるという立場をとった。その上で日本側の要求として、日本人の在韓私有財産に対する補償を求めた。どちらが多いかを計算すると日本側の取り分の方が多いという主張だったのだ。当時日本人の在韓財産はすべて米軍が没収し韓国政府に委譲しており、日本はサンフランシスコ条約でその効力を承認していた。しかし、1907年制定のハーグ陸戦法規によれば、占領軍も占領地の私有財産を没収することはできないとされているから、日本人の私有財産に対する対価は請求できるという理屈だった。日本は1957年にアメリカ政府の解釈に従いこの主張を取り下げたが、その時韓国側の取り分を計算する際、日本人の私有財産が韓国政府のものとなった点を「関連あるもの」として考慮するという了解をとりつけることに成功した。

その後、1961年に政権の座についた朴正煕大統領の強力なリーダーシップのもと、この問題は実務レベルを離れ、経済協力と抱き合わせの形で一括解決されることとなった。それが1965年日韓国交回復の際に締結された「財産及ぴ請求権に関する問題の解決並ぴに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」である。

この第一条で日本は韓国に無償で3億ドル、長期低利の借款を2億ドルを、10年間にわたって供与することが決められた。またそれ以外に日本からの3億ドル以上の民間借款の提供も約束された。ただし、このうちいくらが韓国への未清算部分の支払いなのかはまったく明らかにされていない。

第2条では韓国の独立に伴う未清算部分の解決が終了したことに関して次のように書いている。「1 両締約国は、両締約国及ぴその国民(法人を合む)の財産、権利及ぴ利益並ぴに両締約国及ぴその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された(a)に規定されるものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」

その上この協定について合意された議事録の中には、「協定第二条に関し、同条1にいう完全かつ最終的に解決されたこととなる両国及ぴその国民の財産、権利及ぴ利益並ぴに両国及ぴその国民の間の請求権に関する問題には、日韓会談において韓国側から提出された『韓国の対日請求権要綱』(いわゆる8項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって、同対日請求要綱に関しては、いかなる主張もなしえないこととなることが確認された」と記されているのだ。

こうした条文を読めば、無債有債5億ドルを韓国政府にまとめて供与することによって韓国人戦争犠牲者へのいかなる補償もすべて終了したということは明白である。当時、日本の外貨準備高は18億ドルであった。また、65年当時韓国の手持ち外貨は1億3000万ドル、貿易赤字が手持ち外貨を上回る2億9000万ドルの時期での5億ドルという額は日・韓両国にとってもたいへんな金額だったことも明白である。

(中略)
韓国側関係者にも考えてもらいたことがある。日本からの5億ドルの資金は、農業近代化、浦項製鉄所建設、中小企業育成、科学技術開発、昭陽江多目的ダム、京釜高速道路建設などに投入され、66〜75年の10年間に経済成長寄与率20パーセント、経常収支改善効果年平均8パーセントという実績を生み出した。「漢江の奇跡」と呼ばれる朴政権下の急速な経済成長に、過去の清算を目的として日本が提供した資金が有効に活用されたということは、日韓両国関係者の努力の結果として高く評価するべきだ。フィリピン、南ベトナム等への「賠償」資金の使途と比べてきわめて有効な使途であったといえるだろう。

重ねていうが資金の使途をどうするかはその国の主権行為であってそれについて要求があればそれぞれが自国政府に提出すべきことである。韓国は韓国なりの有効な使途を作ったが、それになお問題があれば韓国政府が解決するしかない。

ところで、民間人に対する補償は日韓国交回復後10年間延期された後、75年に「軍人、軍属または労務者として招集され1945年8月15日以前に死亡した者」が対象となり、その直系遺族約9500人にそれぞれ30万ウォンが支払われた。しかし負傷者を含む生存者にはまったく何もなされていない。ある意味でいえば、韓国人戦争犠牲者たちは経済発展という国家民族の大事のために多少我慢させられてしまったということだ。別の言い方をすれば、韓国政府は戦争犠牲者を含む国民全体が絶対的貧困から解放されるために日本からの資金を使うという選択をし、その政策は目標を達成したのだ。

また、それと同時に日本金融機関への預金、債権など財産関係についての補償も実施され、9万3685件、66億4100万ウォンが支払われている。元従軍慰安婦の韓国人女性が92年3月下関郵便局を訪れ、6〜7000円の軍事郵便貯金の払い戻しを請求したと、新聞などで報じられたが、もし彼女に日本側が払い戻しをしたら、65年の協定のすべてが崩壊してしまうということは明らかだろう。また、従軍慰安婦として当時のカネで6〜7000円の貯金(当時東京でかなりの家が一軒買えた)が出来たという事実も、その置かれた状況が一般で思われているような奴隷的なものとはかけ離れていたことを示すものといえよう。

それから、在日韓国人の元軍人・軍属に対する補償に関して韓国政府の民間人補償でも除外されているから、日本人と同等にすべきだという要求が出ている。しかし、65年の協定により日本人は韓国における財産をすべて失い、韓国人も日本における財産(貯金、債権等をも含む)をすべて失った。それに対して日本政府は日本人に一切補償しなかったが、韓国政府は請求権資金の一部を使い前述したような補償を実施した。ところが、在日韓国人だけは日本における財産を失うことがなかったのだ。ここでたいへんな優遇を受けているのである。だから、韓国政府は民間人補償から在日韓国人を排除しているのだろう。

もし不公平が残るとすると軍人・軍属・労務者として死亡した者の遺族が在日韓国人のなかにいた場合だけであり、その場合も当然自国の政府に対して救済を求めるべきものなのだ。もし在日の旧軍人らが日本人の間軍人らと同じ救援を日本政府から受けるとすると、財産を失った本国の人たちに比べて財産はそのままの上、援護も格段手厚く受けることになって衡平を失してしまう。

ところが大多数の韓国人ほ、日本からの資金がどのように使われ、いかなる効果を上げたかをまったく知らされてこなかった。マスコミも書かないし、学校でも教えていない。65年に国交が回復して以来、両国閣係者の努力により日韓両国はさまざまな紆余曲折はあったが友好と協力を積み上げてきたことは確かだ。その肯定的側面についての議論が余りにも少なすぎはしないか。日本が植民地時代にいかに残虐な弾圧をしたのかをロウ人形で再現している独立記念館を訪れるたぴに思うのは、65年の国交回復以降の友好協力関係についてなぜ展示がないのかということだ。請求権資金の約4分の1が投入された浦項製鉄所でも、一日平均数百人による内外の見学者に、一切そのことを説明していない。日本人は戦前の歴史をもう少し知る必要があるが、韓国人にも65年以降の歴史にもう少し、目を向けてもらえないだろうか。


Link 現代コリア・オンライン 戦後補償の欺瞞(上) 、(下)

一般国民に知らされることのない日本の援助
「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社
感謝されない日本の技術援助

韓国鉄鋼業は、日本からの技術導入の恩恵を、もっとも受けている。浦項製鉄所を見学したとき、ぼくは、現在の日本との関係など、意地悪な質問を、韓国側の案内役にぶつけてみたが、言を左右にして答えてくれなかった。

ぼくの友人T氏が、提携先の製鉄会社の社員である。かれの依頼で、その会社の独身寮で講演を頼まれたときのショックは、いまだに忘れられない。かれは、「うちの会社には、韓国が好きな人間は、一人もいないでしょう」と言った。

ぼくも見学してきたが、韓国の浦項製鉄は、日本の最新鋭工場と、同じレイアウトになっている。単一工場での出銑能力では、日本と同じだが、人件費などの相違から、受注量がいまや日本をしのいでいる。だから、単一の工場では世界最大の生産量ということになる。

この工場の建設にあたっての苦労話をさせたら、日本最大のこの製鉄会社の社員には、いくらでも言い分はある。「確かに契約として、会社として、やったことでしょう。だけど、それだけじやないんです。日本人は韓国に負い目を持っています。だから、このプロジェクトを成功させなけりゃいけないという使命感をみな持っていました。サラリーマンだって、生身の人間です。ほんの一言でいいんです。韓国語にも、ありがとう−−カムサ・ハムニダって、言葉があるでしょう。要は、気分の問題なんです。日帝36年を持ち出されると、こっちとしては、なにも言えません。うまく言えないけど、すべて終わったあとで、ぜんぶ自分たちがやったっていう態度にでられると、こっちとしても我慢しなけりやいけないと判っていても、割り切れない気持ちになるんです」友人を通して、このとき知り合った製鉄会社の同僚は、こう言ったものだ。

この類の日本人の不満は、あちこちで聞かされた。これは、直接に聞いたものではないが、日韓共同プロジェクトとして、ソウル市の地下鉄一号線の工事は、日本の技術援助で完工した。だが、その開通式にあたっては、日本の援助には一言も言及されなかったという。


「日本と韓国」 昭和50年 朝日新聞社刊
『「日本にもこんな地下鉄があるか』。道案内の女子学生にこう聞かれてびっくりした。ソウル駅から青涼里駅まで7.8キロ。1974年8月、陸英修大統領夫人が凶弾に倒れた日に完成した地下鉄はソウルっ子の自慢のタネである。が、この地下鉄の建設に日本の経済・技術協力があったことは韓国民には全然知らされていない。「韓国の独力で完成した」という宣伝がゆきわたり、日本の協力については「外国の援助もあり」とつけ加えられる程度である。これにはソウルに住む日本人は一様に割り切れない思いでいる。後宮駐韓大使もこうした日本人の気持ちを代弁して「ひとことでも日本の経済協力が関与していることをいうよう配慮」(大韓商工会議所セミナーでの演説)して欲しいと遠慮がちに訴えたほどだった。

新日鉄の協力でできた浦項製鉄所にしても同じことだ。実際に功績のあった日本人実業家たちには勲章が贈られ、この国の知識人たちのあいだでは日本の協力があったことは知られてはいるが、一般民衆はほとんど知らない。「あきらめてますよ」と日本企業のソウル駐在員たちはいう。どうせ、かつて日本がこの国を支配した「三十六年」がある。なにをしたって日本は陰の存在。表に出て、いいように思われることはない、と。

韓国政府や韓国マスコミは、日本の資金援助や技術協力の成果を完全に黙殺している。これでは一般の韓国人が、日本は過去の清算をしようとしないという不満を持つのは当然である。同じことは韓国の歴史教科書にも当てはまる。日本の善政を一切認めず全てを否定的に書くため、『日本の植民地支配は人類史上最悪の支配であった』などと臆面もなく与太を飛ばす者がでるのである。日本に対する見方が、日本統治体験世代より戦後生まれのほうが厳しくなったのは、マスコミ報道・学校教育で反日人間が拡大再生産された為であろう。まさに歴史歪曲の結果である。

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以上で日本の朝鮮に対する植民地経営の検証をしてきましたが、朝鮮近代化のためとはいえ相手のことを考えず善政の押し付けをしたという面があって、朝鮮(韓国)人にご迷惑をおかけしたことは事実だから、是を是とし、非は非として日本が朝鮮にした数々の悪行を懺悔しよう! 下のリンクをクリックしてちょ

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