コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。



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日本から見た韓国併合反日史観を糺す

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 閔妃暗殺 / 武断政治 

三・一運動の弾圧 / 独立運動家の弾圧と拷問

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それに対する反論



▼ 閔妃暗殺
明成皇后(閔妃)は親露派と連結して、日本の侵略勢力を排除しようとし、このため日本の侵略者らは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こした。(韓国高校歴史教科書1996年版より)


閔妃暗殺事件で日本人を厳しく非難している韓国人であるが、その時に朝鮮人も行動を共にしていたことは意図的に無視されている。人数的には朝鮮人のほうが多かったにもかかわらずである。朝鮮の実権を掌握していた閔妃は、西洋列強の植民地化の危機下にありながらも自らの一族の繁栄のために、敵対する大院君一派との内部抗争に明け暮れていていた。しかも享楽に心を奪われて莫大な国費を浪費していたため徴税は一層厳しくなり、役人の不正ともあいまって民衆の苦しみは極限に達していた。そのような現状に危機感をいだいた朝鮮政客は、閔妃を暗殺しない限り朝鮮の独立と近代化は実現しないと考えていた。そのことは、南下政策を進めていたロシアを引き入れて、排日政策を進めていた閔妃を排除しないことには、日本の独立も危うくなると考える三浦公使らの考えとも一致した。こうして閔妃暗殺の事件となるのである。
「日韓共鳴ニ千年史」 名越二荒之助 平成14年 明成社
韓国を訪問した日本人がショックを受けることの一つに、閔妃(日本ではビンヒ、原音ではミンビ)殺害事件」があります。閔妃というのは、李氏朝鮮末期の、王妃(皇后)ですが、それを暗殺したのは日本人ではないか、と韓国側から詰め寄られるのです。閔妃の遭難碑は、国立民族博物館の側に建っています。(中略)これらの碑の前には、油絵で書かれた二枚の大壁画が掲げられています。その一つは壮士風の男二人が、日本刀を振りかざし、閔妃がキッと睨み返したものです。そしてもう一つの壁面には、閔妃の死体を焼いている惨状が画かれています。(中略・朝鮮人も行動を共にしたのに、日本人しか描かれていない。)天安市の「民族独立記念館」に行けば、殺害現場が等身大の蝋人形で再現されています。ここでも日本刀を振りかざした日本人が襲いかかり、血が飛び散っています。これは迫力があり、この惨状を目にした者には惨劇が焼きついてしまいます。韓国の国定教科書(中等教育用)にも「日本人が明成皇后(閔妃)を殺した」とはっきり書いていますし、修学旅行でこれらの絵や蝋人形を見た韓国の生徒たちの心の底に日本の暴虐ぶりが強烈に印象づけられるに違いありません。(中略)以上のような私の体験をもとに、ここでは「閔妃暗殺」について考えてみましょう。

三国干渉と親露派の台頭

李王朝末期の朝鮮には、高宗という国王がいたのですが、優柔不断で、名目上の存在に過ぎず、実際は国王の実父である大院君と、王妃である閔妃とが主導権争いに終始していました。それに宗主国である清国と結ぶ派(事大党)と、金玉均ら日本の近代化に学ぼうとする独立派(開化党)との思惑もからんで複雑多岐な権力争いが続き、とても正確に全貌を言い尽せるものではありません。宮廷内の蝸牛角上の争いは特に陰湿でした。閔妃が舅(しゅうと)の大院君を抑えて実権を握りだしたのは一八八二年の「壬午軍乱」が契機と言われます。閔妃が実権を握ると、「まず閔妃一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるため彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元」(金熙明『興宣大院君と閔妃』)しました。閔妃は聡明多才、権謀術数に長じ、陰険にして残忍。妖婦型の逸話もたくさん残っています。独立党の金王均らは閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないとして来日し、前章で述べたような「甲申政変」を起こし、一時は政権を獲得しました。しかし閔妃の画策で清の大軍を導入し、金玉均の革命は三日天下で終わってしまいました。二度ならず、三度までも閔妃によって清軍を大量に導入したのです。「閔妃を亡きものにしない限り、開化も独立も実現しない」というのが心ある朝鮮人の願いであり、「閔妃撃つべし」は日本人の声ともなりました

そして明治二十七年(一八九四)、日清戦争が起ります。この戦争は宣戦の詔書(明治二十七年八月一日渙発)に「朝鮮をして禍乱を永遠に免れ、治安を将来に保たしめ、以て東洋全局の平和を維持せむと欲し」とあるように、朝鮮の確固たる独立と、アジアの安定のための義戦でした。当時の清国はまだ世界から「眠れる獅子」と警戒され、日本の勝利を信ずる国は皆無といってもよいほどでした。しかし開戦すると日本は連戦連勝し、明治二十八年一月七日、高宗は歴代の国王と王后を祀っている宗廟の霊前に於て、国政改革の施政方針(洪範十四条)を宣布しました(甲午更張)。その中には、「朝鮮は清国に依付する慮念を断ち、自主独立の基礎を確建する」とあり、清国との宗属関孫を断絶すること、そして国政は国王が各大臣と協議して採決し、王妃その他が干渉しないこと、などが謳われていました。更にその年の二月二十七日には、日本の教育勅語(明治二十三年発布。我が国の教育指針)に倣って「教育勅語」さえ公布しました。

しかし日本が日清戦争に勝利し、下関条約に調印したのが四月十七日。その直後の四月二十九日には早くも日本は露・独・仏の三国干渉に屈従し、遼東半島を手放さざるを得ませんでした。閔妃は西欧列強にはとてもかなわない日本の姿を見ると、掌を返したようにロシアに迎合してゆきました。ロシア公使はウェーベルという切れ者で、たちまち閔妃の心を掴んでしまいます。日本の顧問官が日夜心血を注いで作った法律や勅令を悉く無効にする詔勅を下し、閣僚は閔派、親露・米派で固めてゆきます。更には日本軍が育成した朝鮮の訓練隊も、解散させる気配を見せました。このまま推移したら日清戦争の成果は烏有に帰してしまいます。閔妃暗殺に参加した小早川秀雄の手記『閔妃暗殺』によれば、「朝鮮とロシアの関係を放置するならば、朝鮮はロシアのものになり、これは東洋の危機であり、日本の危機である。宮中の中心である閔妃を除けば、ロシアは相手を失う」とあります。同様の趣旨は、クーデターを背後にあって指導した三浦梧楼公使の「観樹将軍回顧録」(観樹は三浦の号)の中にも見られます。当時既に西欧列強は虎視眈々とアジアを狙っていました。イギリスはアヘン戦争によって清国を半植民地にし、インドを支配下に置いて、一八八六年にはビルマ全土を領有。フランスは清仏戦争に勝つと、カンボジア・ラオス・ベトナムを領有し(一八八五年)、ドイツも東方侵略を目指しています。ロシアはアイグン条約(一八五八年)によって沿海州を手に入れ、朝鮮にまで手をのばしています。このままゆけば朝鮮はロシアの支配下に置かれ、日本はロシアと戦わねばならなくなる。この際、閔妃一人を犠牲にすればこれが防げる、という思惑が日本人の間に働いたわけです。

閔妃暗殺のクーデター

それに閔妃暗殺を狙ったのは、日本人だけではありません。閔妃暗殺は反閔妃派の朝鮮政客の願いでもありました。閔族の横暴甚しく、怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮した李周會将軍(りしゅうかい・元軍部次官)や、日本軍に養成された訓練隊長の李斗[王+黄]、禹範善等は、特に危機感を抱きました。その頃、ウェーベル公使は閔妃を使って最も規律厳正な訓練隊の解散を画策している情報が入りました。彼ら反閔妃政客の上に何時危害が及ぶか予断を許しません。彼らは悶々の情を抱いている大院君を押したてて事を起こそうとしました。三浦公使は「首謀者は大院君、実行部隊は朝鮮の訓練隊」というシナリオを描いていました。しかし朝鮮人だけではとても実行できないと知り、日本の民間有志も続々加わりました。当時朝鮮にいた与謝野鉄幹も、ひとかどの志士気どりでいたのでしょう、次のような歌を詠んでいます(『東西南北』より)。
  韓山に 秋風立つや 太刀なでて われ思ふこと なきにしもあらず

三浦公使は、決行日を十月十日(明治二十八年)と定めていましたが、十月七日朝鮮政府は訓練隊の解散と武装解除を通告してきました。訓練隊を解散させられたら、使うことができなくなってしまいます。そこで翌八日未明、事を起したのです。俄か作りの日朝混成軍の中で誰が手を下したのか。その経過については色々の説があって、正確に事実を掴むことはできません。騒然たる混乱の中で、女性三人を殺しています。時に午前八時三十分、閔妃四十五歳。その後、閔妃とおぼしき者の遺体を焼き捨てたのです。閔妃を抹殺して意気あがる大院君は、総理大臣金弘集に命じて閔派の閣僚を罷免しました。組閣を終った金首相は、閔妃のために速かに国喪を発するよう大院君に言上しました。しかし大院君は「王妃は廃して庶人にするつもりだから、国葬は行なわない」と言明しました。庶人にするとは平民にするというわけで、皇后から一挙に平民に格下げしたのです。それどころか閔妃の罪悪を挙げる詔書を、国王に出させました。日本は列国との修復を図るべく、井上馨を特命全権公使としてソウルに派遣しました。彼は大院君に対して、「死ねば皆仏になる。過去を水に流して王妃の菩提を弔って、民心の安定をはかること」を勧めました。しかし閔妃を復位させ、「明成皇后」の諡号を贈り、国葬を行なったのは、大韓帝国が誕生した後の明治三十年十一月のことでした。

全責任を負って処刑された李周會将軍

閔妃殺害事件をめぐってロシア公使ウェーベルは動き始めました。そのこともあってか、外国の政府代表は大院君政権の承認を拒否し、直接、高宗国王との交渉を主張しました。しかし、どの政府も国益を重視して、この暗殺問題で日本に抗議した国はありませんでした。日本政府としては欧米諸国との不平等条約(関税自主権や外国人を裁判する権利が日本に認められていなかった)を改正するという悲願もあり、対外的な配慮もあって三浦公使以下四十余名を広島の獄に送り、裁判にかけました。それを知った李周會は悩みました。彼はかつて国王に対して「閔妃と奸臣を宮廷から遠ざけ、国王親政を実現するよりほか、国家の滅亡を救う道はない。それができなければ、自分の首を斬って貰いたい」と死をもって諌言したことがあります。その時国王は聞き容れず、李周會を宮廷外に追い出してしまいました。それ以来彼は官を辞し、野に下って日朝の志士と往来し、八方画策しておりました。そしてこのたび閔妃事件が突発し、三浦公使以下は獄に繋がれました。彼は「日本が我国のために尽してくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない」として閔妃暗殺の全責任を負い、自分が閔妃を殺害したと供述し、他の二人(尹錫禹、朴鉄)と共に処刑されました。時に明治二十八年十月十九日、五十三歳。

三浦梧楼公使は広島の獄中でこのことを知って痛哭し、次のような七言絶句の詩を作りました。
  廃沢荒山玉尚存 銀難国歩哀王孫
  無由一束供青草 涙向西天灑義魂
  〈荒廃した朝鮮にも玉のような心があった。朝鮮国の前途を思えば気の毒に堪えない。自分は獄中にいるため献花することもできず、西の空に向かって李周會の義魂に涙を注ぐのみである。)
刑の執行後、李周會の遺骸は逆徒として山に棄てられ、遺族も国法により死刑に処せられようとしました。しかし、夫人は子供を連れて地方に遁(のが)れ、行方をくらますために母子は生別し、幾多の辛酸を嘗めました。母子が再会できたのは日韓併合後のことでした。昭和四年、頭山満、内田良平等は有志から資金を募り、遺骨を龍山の瑞龍寺境内に移し、処刑された三人の顕彰碑を建てました。


閔妃(明成皇后)は国家の衰亡と国民の困窮を顧みることもなく、自らの一族の繁栄だけを追い求めた傾国の権力者で、清の西太后のような存在だった。
「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社
傾国の政治家・閔妃の登場 (灰色文字は管理人注)

大院君は自分に従順な娘を、高宗の王后としようと捜していた。大院君は妻の閔氏の実家の紹介で、兄弟も姉妹もいない15歳の閨秀(後の閔妃)のことを知った。閔妃は困窮した家庭の育ちで、8歳で父母と死別していた。しかし、賢かったために、親戚のあいだで評判がよかった。そこで大院君はこの親も兄弟もない閔妃を高宗の姫に決め、王妃として冊封した。閔妃は王妃になって宮中に入ったものの、王妃とは名ばかりの存在だった。高宗は当時、宮女である李氏を愛して同居しており、正妻である閔妃にはまったく関心を示さなかった。だが、閔妃はいっさい、愚痴をこぼすこともなく、よく礼儀作法を守ったから、宮中で称賛された。その間、李氏は高宗の寵愛を独占したが、男子を出産し、完和君と命名した。祖父である大院君は、大いに喜んだ。閔妃は大院君が満足する姿を見て、不満と嫉妬を爆発させた。そして隠していた爪を、秘かに用いはじめた。天性の政治的手腕を発揮して、大院君に対する謀略をめぐらした。

大院君は閔妃に対して警戒心をまったくいだいていなかったために、油断していた。閔妃は、そこに乗じた。閔妃は、大院君の反対勢力を糾合して、自分の勢力を構築するかたわら、夫の高宗の愛を独占しようと、あらゆる努力を傾けた。そして、1874年に、男子を出産した。後の純宗王となった王子拓である。大院君は、ようやく閔妃の・戚族一派が策動しているのを見抜き、李氏の子である完和君が長男であったことから、世子(世継ぎ)として冊封しようとした。閔妃と大院君との闘争が激化した。彼女は利発だった。閔妃は側近の李裕之を北京に派遣して、清朝から拓を嫡子として承認してもらうことに成功した。

閔妃は、摂政の大院君から嫌われて権力の座から遠ざけられていたあらゆる階層と連絡をとり、不満勢力を抱き込んだ。自分を中心とする政治勢力を形成したうえで、儒生の崔益鉉を煽動して、大院君の攘夷鎖国政策を弾劾させた。崔益鉉は国王に上訴した。閔妃と大院君との溝は日増しに深まり、爆発寸前に追った。だが、ここでは国王の意志が絶対だった。国王を掌中に入れていたのは閔妃のほうだった。1873年、大院君は9年余にわたった摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。そうして高宗の親政が始まった。が、高宗はあいかわらず酒色に耽っていたから、実質的には閔妃の専制となった。高宗は、妻の閔妃が実父である大院君を追放して、戚族と勢道の悪政を復活させても、享楽に心を奪われていた。李朝の王たちは倫理観を、まったく欠いていた。大院君が失脚したことによって、実権は閔妃一族に移った。閔妃一族の開化党による新政権は開化政策に転換して外国に門戸を開放し、日本や欧米列強との間に修好条約を結んだ。このために、開化党と、清への忠誠を誓う事大党との間の軋轢が、深刻化した。

閔妃は王子拓を世子として冊封するために莫大な資金を費やした。そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。「巫堂ノリ」は巫女(シャーマン)たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施した。当時の国家の財政状態は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。これは法外な浪費だった。宮廷の要路(重職)の顕官たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。閔妃は、狂気の宮廷に君臨する女王だった。また、閔妃は音楽を好んだので、毎夜、俳優や歌手を宮中に招いて演奏させ、歌わせた。そして自分も歌った。俳優や歌手たちに惜しみなく金銭を撒いて、遊興した。
(中略)
日本のおろかな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いたことがあるが(角田房子著「閔妃暗殺」と思われる)、閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。このような韓国史に対する無知が、かえって日韓関係を歪めてきたことを知るべきである
(中略)
李朝は信義がまったくなかった。そのために国際的な信頼を得ることも、まったくできなかった。高宗は、実父の大院君と后の閔妃とのあいだで激しい闘争が繰り広げられている間も、傍観をつづけて、多数の犠牲を出した。閔妃の政策も、ある時は清国に接近し、ある時は日本に擦り寄り、親清かと思えば、親日に変わり、日本を捨てると、ロシアと結んだ。庶民の生活を思いやることが全くなかったのは、李朝の支配者の通弊であったとしても、高宗の実父であり、恩人であった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかして逮捕させるなど、智謀家ではあったが、その行ないは倫理に大きくもとったものだった。背恩忘徳の生涯であった。高宗も、閔妃も、大院君も、ただ権力を維持するために、その時々、力がある外国と結んで利用し、政治をもてあそんだ。

「李朝滅亡」 片野次雄 1994年 新潮社
国王と王妃の堕落ぶりは、目に余るものがあったらしい。ある側近は、宮中の腐敗ぶりを、次のような文章で手記に留めている。
『宮中はつねに長夜の宴を張って歓楽を尽くし暁に至るが常なるが、故に国王も閔妃も寝所を出ずるのは、いつも午後になるのが常習なり。かくして政務、謁見は、つねに午後に決まれり。斯の如くにして、宮中の空気は益々混濁腐敗し、魑魅魍魎の巣窟たる観を呈し苛性百出、百姓は冤罪に泣き、誅求に苦しみ、怨嗟の声八道(朝鮮全土をさす)に満つ…』

「わかりやすい朝鮮社会の歴史」 朴垠鳳 石坂浩一・清水由希子訳 1999年 明石書店
明成皇后に対する評価は、20年あまりに及ぶ彼女の執権期に施行された政策とその結果に基づいて、冷静になされなければならない。明成皇后を頂点として閔氏一族が執権した1873年から1895年までは、わが国にとって非常に重要な時期であった。押し寄せてくる西洋列強、根幹から揺らぐ封建体制、新たな変化を求める動き、こうした多様な勢力が絡まりもつれ合って壬午軍乱、甲申政変、東学農民革命などの事件が起きた。

大院君の対応策が「鎖国」であった反面、明成皇后の対応策は「門戸開放」であった。明成皇后は、1876年に日本と結んだ丙子修交条規を手始めにアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどと次々に修交条約を結んでいった。明成皇后に、西洋列強との修交を積極的に勧めたのは清の北洋大臣、李鴻章である。朝鮮における清の既得権を守りつつ、西洋勢力を引き入れて日本の独走を防ごうという考えからであった。夷をもって夷を制すという清の「以夷制夷」政策である。

人によっては、明成皇后が『卓越した明敏な判断力をもとに西洋各国と同等な立場で条約を結び、<以夷制夷政策>をとることによって日本を牽制した』と激賞したりもする。しかし、外国勢力を引き入れて自領を争いの場にした行為は、「以夷制夷」の本来の意味からはかけ離れている。のみならず、この時、朝鮮が西洋と結んだ条約が明らかに不平等条約であったことはすでに解明済みの事実である。

結果はどうあれ、門戸開放した朝鮮の当時の当面の課題は自主的な近代化を成し遂げることであった。西洋の先進文物を取り入れ、富国強兵と産業振興を目指すと同時に、古くなった封建制度を捨て去って新たな秩序を打ち立てなければならなかった。明成皇后と閔氏政権は、この内どれ一つとして満足にできなかった。その結果、どの勢力からも支持を得られなかった。開化反対を叫び壬午軍乱に参加した群衆は、明成皇后を攻撃の的にし、甲申政変を起こした開化派も東学農民軍もすべて明成皇后と閔氏一族の打倒を叫んだ。誰からも支持を取り付けられなかった明成皇后は、外国勢力に頼った。壬午軍乱と甲申政変を武力で鎮圧し、明成皇后が再び執権できるようにしたのは清であった。東学農民革命が起こるや清に援軍を申し入れて日本軍上陸の口実を提供し、その結果、わが地を日清戦争の戦場とした張本人は、まさに明成皇后であった。

『わが国の全羅道管轄下にある泰仁・古阜などの村に住む民は粗暴で狡猾な性格をしており、普段から統治するのが難しいといわれてきました。最近になって東学教匪が不逞の輩どもを一万名余りも集めて十以上の村を攻略し… 壬午軍乱、甲申政変と、わが国に二度起きた内乱は皆、天朝兵士の力を得て平定いたしました… 』。
閔泳駿が、ソウルに滞在していた清の総理朝鮮通商交渉事宜、袁世凱のもとを訪ねて援軍を要請した際に手渡した手紙である。日清戦争がわが国で行われたのは東学農民革命のせいではなく、明成皇后率いる閔氏政権の腐敗と無能、外国勢力依存のためであったのである。

閔妃が現代の韓国で高く評価されているのは、王妃殺害という異常性で日本人の贖罪意識を引き出し、その上に立っての対日糾弾を行えるカードとして使えるからであろう。

閔妃(明成皇后)の北朝鮮での評価は、「列強に依存して政権を維持し、人民に対する苛酷な搾取を行った」と否定的。
Link 韓国・中央日報日本語版 明成皇后、北では「保守勢力の擁護者」


閔妃と大院君の権力闘争史は、そのまま李氏朝鮮亡国への歴史でもある。植民地化の危機に際して、適切な対応策を取ることもなく党派争いを繰り広げ、お互いに外国勢力の力を借りて敵対勢力を弾圧した。閔妃は大院君に何度も命を狙われていたのである。
ニューヨーク・タイムズ 1908年4月5日号 (「外国新聞に見る日本4」 1993年 毎日コミュニケーションズ)
(アメリカにおける朝鮮についての最高権威であるジョージ・トランブル・ラッド博士の記事)

故王妃暗殺の下手人は日本兵だという説については、三浦将軍(公使)が暗殺計画に荷担し、一部の日本人壮士たちが韓国兵を援助したことは、どうも事実のようだ。しかしこの王妃は、頭はよかったが朝鮮の玉座にとってすら恥となるほど最も残酷な人物の一人で、何年も国王の父、大院君と政争を続けており、この間両派閥の殺し合いはまるで毎年の挨拶交換のように行われてきたものだ。

「朝鮮の悲劇」 F.A.マッケンジー 1908年 (渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫)
(著者のマッケンジーはロンドンのデーリー・メール紙の朝鮮特派員で朝鮮に対し同情的であった。 *注 閔妃と大院君に関する個所の抜粋です)

大院君は、摂政としてその子である国王高宗が未成年である間、政権を掌握していた。彼は、その統治の初期、貴族勢力に対抗して王権を確立するため、強硬な路線をとった。徹底した鎖国主義で、かの最悪のキリスト教大迫害も、彼の治世下で行なわれた。国王が成年に達したとき(1873年)、大院君は、これまでと同じように、事実上の統治者としてとどまろうとはかった。彼は当初、「大老」の称号を与えられて、玉座の影からその勢力を維持していた。しかしそれも、国内に新しい勢力が台頭してきたため、長く続かなかった。懦弱であった国王は、閔家の息女と結婚したが、王世子(世継ぎの王子)が生まれてからは、王妃(閔妃)の権勢は日々に大きくなっていった。この王妃もまた、大院君その人と同じように、彼女なりに果断な性格の持ち主であったから、やがて二人の間に極めて激しい争いが起こった。王妃の兄閔升鎬が領議政(総理大臣にあたる)になって。大院君の職権を次々と剥奪していった。しかし、大院君とてそうたやすく追い出されるわけもなかった。彼は、数多くの扇動的なたくらみに着手した。ある日、王妃の寝室の一隅が爆破されたが、それは、大院君の部下がそこに爆薬を仕掛けたからだ、と人々によって噂された。またある日、領議政の閔升鎬は、王宮からと思われるひとつの箱を受け取った。彼の家族たちがその内容を見ようと周囲に集まった。ところがその箱の蓋を開けたとたん、それは爆発した。それは偽装爆弾であった。そしてこの爆発によって領議政およびその母と子が死亡した。その箱は大院君から来たものであった。

(1875年江華島事件 鎖国から開国へ)
日本との条約(日朝修好条規 1876年)は、大院君の反対を押しきって締結されたものであった。それで、大院君はただちに、それを王妃攻撃の武器として用いたが、1882年に至るまで大院君に好機は到来しなかった。同年5月、朝鮮とアメリカ合衆国とのあいだに条約の調印をみた。それによって、アメリカに対して朝鮮は門戸を開放したのである。その年の夏、朝鮮は大干ばつに見舞われた。穀物は枯れ果て、政府の財源は枯渇して、軍人や官吏の給料は不払いとなり、食料も欠乏した。人々は、『これは天の怒りだ』とか『我々は外国人の入国を許した。そしてその結果がこれだ』とかささやきあった。大院君の部下たちは忙しく東奔西走していたが、1882年7月23日夜半、彼らに率いられた暴徒の群れは、政府高官の私邸を襲い、彼らを寸断した後、ついに王宮へと侵入した。軍人たちもこの暴徒の群れに合流し、統治層を打倒せよとの激しい叫びは口々に爆発した。国王は奇跡的にも逃れたが暴徒たちは、閔妃だとばかり思い込んだ死体を凝視していた。誰もが、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと考えていた。しかし、閔妃は、暴徒の侵入の報に接するやいなやいち早く用意を整えた。すなわち、一人の侍女が閔妃のいる王宮で毒薬を飲み、閔妃はこっそり自分の部屋を抜け出したのであった。そして下僕の一人が彼女を背にして、怒り狂う暴徒の群れをかきわけてくぐり抜け、安全な場所へと逃れ去ったのである。暴徒の他の一群は日本人を襲撃した。街路上で離れ離れになっていた日本人たちは、たちまちにして殺害された。また多数の群衆が日本公使館を襲撃し、建物に火を放ったので、日本側は撤退せざるをえなかった。彼らは闇にまぎれてソウルを抜け出し、済物浦(今の仁川)へ落ちのびたが、途中で襲撃を受け、5名が殺害された。彼らは海上に逃れ本国に引き揚げたのであった。(この事件を壬午軍乱と呼ぶ)

日本国内では、朝鮮に対する即時報復説が台頭した。国内各地からの義勇兵志願者たちは、朝鮮におもむいてこれらの野蛮人どもと戦うことを許可するよう騒ぎ立てたが、日本政府は、これに対して懐柔的な方策を採った。公使花房義賢は、多数の武装護衛隊をしたがえて再びソウルにのりこみ、朝鮮政府に対して賠償を要求した。一方中国は、暴徒鎮圧のため4000名の軍隊を派遣した。閔妃は、逃避先から保護を求める要望書を北京に送り、大院君を犯罪的行為を犯した一派であると指摘した。これに対して大院君は、自分の計画が失敗したのを見て、花房に対して、これらの暴徒は自分の強力な制止努力にもかかわらず突発蜂起したものだと弁明した。中国の軍隊はソウル市街をその支配下に置いた。いっぽう日本政府は、巨額の賠償支払い、新しい公使館の設立、そして貿易・旅行上の特別の便宜供与を朝鮮政府に約束させた(漢城条約)。中国の軍隊は、残酷な方法で暴徒を処刑した。大院君自身も自由に行動することを許されなかった。彼は中国軍陣地の宴会に招かれたが、彼がそこに到着するやいなや海岸に連れて行かれ、そして船に乗せられて中国に送られたのである。李鴻章は、彼を罪人として白塘沽に送り、大院君はそこに、数年もの間拘留されたが、しかしこの白塘沽でも大院君は、いろいろな方法で、王座に対する策謀を引き続きはかったのである。。日本公使館襲撃と中国の干渉とは、後になって、日清戦争により解決されるに至る問題を引き起こしたのである。閔妃は、王宮に帰ったが、その勢力は以前にも増してよりいっそう増大した。

1886年、大院君はその抑留地(中国)から帰国し、日本人官憲たちと友好同盟を結んだ。かつては国王を後見したこともある大院君も、今ではすでにその栄誉の大部分を剥奪され、その寵愛する甥の投獄を防ぎうるだけの権勢さえも、今はもうもっていなかった。しかし、彼はまだ、数多くの秘密の手下たちに対して、その忠実な奉公を要求することが出来たから、これらの人々を通じて、徐々に活動を開始した。

(1894年 東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり日本は朝鮮に出兵、続いて日清戦争となる)
日本軍は朝鮮の首都ソウル支配の配備をとった。7月23日日本軍の一隊はひそかに王宮に向かって進み、はしごを使って塀をのりこえ、王宮護衛兵とわずかな戦闘を交えたのち、王宮を占拠した。日本は大院君を呼び寄せた。大院君は、このような動きの中で日本に協力し、再び政権の座についた。しかし、彼は、日本側のとった措置に驚いて、自分の新しい権力を行使しないまま、数日後にその職務を放棄した。日本軍護衛兵が王宮から撤退した頃、閔妃一族の政権からの放逐が行なわれたのである。ほんの数ヶ月前までは、この王国の重要ポストのすべてを掌握していたのであるが、それが公職から一掃されて、国家の新しい諸部署の中にはただの一人も居ない、というほどになってしまった。

(日本が日清戦争に勝利するも獲得した領土を三国干渉で放棄させられる)
新しい勢力が、朝鮮の面前にしだいに強力に立ち現れてきはじめた。帝政ロシアが東方への道をとりはじめたのである。シベリア横断鉄道が太平洋岸に向かって敷設を急いでいたし、ソウルではロシアの手先たちが無遠慮にその進出政策を押し進めていた。大院君の一時的な勝利は長く続かなかった。王妃が再び前面に立ち現れてきたのである。王妃は次々と自分の一族の者たちを引き立てて官職に復帰させた。王妃は、時には日本とともに、また時には日本に敵対して、密謀を重ね、それによって週ごとにその勢力を増していった。そしてその年の夏までには、年老いた大院君はまったく退けられてしまった。次に王妃は、(開化派の)朴泳孝の打倒を進めた。彼は、自分を大臣の職から罷免するという命令に接したとき、身の危険を察して日本公使館に保護を求め、日本の汽船に搭乗して脱出し、かろうじて逮捕を免れたのである。彼は、『王妃は抜け目のない、野心に満ちた女性である。彼女にはただ一つの目的がある。それは閔氏一族に権勢を掌握させることである。閔氏が統治を掌握する限り朝鮮には何らの変化をも生ずることはないであろう。今日の我が国民は、まったく王妃のものであって、その思いのままに取り仕切ることが出来る。国民の生命や財産でさえも王家に所属しているのである』と、語ったという。

夏も深まった頃、王妃が日本の利権に対して直接的な敵対行為をしていることが次第に判明してきた。9月の初め、三浦梧楼が公使として赴任してきた。彼は、自分自身が常に王妃の頑固な妨害を受けていることに気がついた。彼の計画という計画はすべて、王妃によって挫折せしめられた。王妃は日本にとって恐るべき人物の一人であり、三浦もそのことを知っていた。ちょうどこの頃、大院君とこの新任公使とは互いに接触し始めた。日本人の説明では、大院君の方から密かに三浦に接近したのだという話だが、おそらく、杉村が、両者の仲介役となって、行動の手順などを計画したものであろう。大院君は再度権勢の座につくことを切望し、三浦は衰退の一路をたどる日本の勢力挽回を願望していた。両者の願望の前に立ちふさがっている王妃を払いのけさえすれば、ことはすべてうまく運ぶはずであった。双方は、行動路線について何度も協議し、お互いの果たすべき役割はすべて順調にとり進められた。10月3日、三浦、杉村、そして朝鮮政府の軍務衙門および宮内府の顧問であった岡本柳之助が、彼らの騒動の計画を決定するため日本公使館に集まった。大院君が、その復帰の後、実際の国政関与において自制すること、ならびに、日本の望む通商上および政治上の特権を供与すること、これが明確に公約されなければ、行動は起こさないことになっていた。この要求は文書に作成された。もし大院君がこれらの要求に同意すれば、日本軍、日本警察はもとより、朝鮮軍つまり日本人によって教育され統率されていた『訓練隊』は、王宮に侵入して、国王をとらえ、王妃を殺害した後、大院君の執政を宣言するはずであった。すなわち、日本側報告公文書の正確な辞句を引用すれば、『(大院君、入闕ヲ援ケ)其機ニ乗ジ、宮中ニ在テ最モ権勢ヲ擅(ほしいまま)ニスル王后陛下ヲ殪(たお)サント決意シタ』(明治29年1月20日広島地方裁判所予審終結決定書)である。岡本は、大院君をその孔徳里の私邸に訪問し、その文書を示して参加を促した。当時すでによわい八十歳に達していた大院君は、その子息や孫とともにそれに同意し、彼自身は日本の保護下におかれる、と文書をもって約束した。


血を血で洗う李朝の内紛。閔妃は義父大院君を清国に讒言(ざんげん)して失脚させただけでなく、殺害を図った。
「黄○著 梅泉野録 ―近代朝鮮誌・韓末人間群像―」 朴尚得訳 1990年 図書刊行会 ○=[王+玄]
(梅泉野録は李朝末期の野史として重要な資料、著者の黄[王+玄](こうげん)は韓国併合に痛憤して自殺)

閔妃の大院君殺害陰謀

壬辰(高宗29年、1892年)春、盗人が雲[山+見]宮に入ったが、捕えられなかった。大院君が排斥されて、もう永いこと経った。往き来する者がいると、奇禍にあうので、客人が永いこと杜絶え、門の外は草で塞がれていた。

しかし、明成王后(閔妃)は、あくまでも彼を忌み嫌った。ひそかに殺害しようと、陰謀をはかった。事は極秘に付され、多くは外部に聞かれなかった。ある夜、大院君は気持ちが暗く、ぼんやりし、独り寝るのは厭になった。枕や布団などで、まるで人が寝ているかのようにつくろっておいた。寝室に移り、座って、様子を伺っていた。しばらくして、戸を叩く音がしたので、往ってみると、匕首(あいくち)が枕に刺さっていた。侍者は色を失った。大院君は『とり乱したことを言ってはならない。これは、きっと鬼かばけものの仕業であろう』と言った。

翌日、府大夫人・閔氏(大院君夫人)が、とても驚き、すぐ宮中に入り、王の前で泣きながら訴えた。王は、じいっと見ているだけであった。閔氏は泣きながら出た。都下の人びとは伝えあい『寒くもないのに体が震える』と言った。

その後また、ある夜、大院君が不安で、以前あったことと似たことが、起こりはしないか、と思われた。嘆いて『おかしなことだ。私がどうして、ついに死なずにいられようか』と言った。とうとう起き出し、家の前の軒あたりを散歩していた。突然、部屋の中が急に崩れ落ち、火の玉が家屋の梁を打った。思うに、火薬が続けて爆発したものである。大院君は急ぎ、命じて、小さな客間と山亭の竈(かまど)の焚き口を調べさせた。ふたとこに、それぞれ、一斗ばかりの火薬の塊があった。しかし、火縄に、尚まだ熱が及んでいなかった。小さな客間は、その子、李載冕が居住し、山亭は、その孫・李○鎔が居る処である。

翌日、大院君は家のものに向かい、『私たち祖父、子、孫は、みな、同じ年で、今年生まれになった』と言った。三世代がともに、この年月日に再生した、と言うのである。

朝鮮では王族に対する殺害が驚くほど多い。李朝500年の間に16人の王子と数十人の王族が党派争いなどで処刑、殺害された。高宗皇帝も1898年にコーヒーに毒を盛られるという事件があり、皇太子が深刻な後遺症を負った。


閔妃暗殺は三浦公使の指示による日本人の手によるものとされているが、朝鮮人の部隊も参加していたことはほとんどの書物で無視されている。この事件の最中王宮内に居たロシア人技師が、閔妃暗殺の惨劇と朝鮮人部隊の参加を目撃していた。下記の文は当時朝鮮を旅行していたロシアの軍人が聞き書きしたものである。
「朝鮮旅行記」 ゲ・デ・チャガイ編  井上紘一訳 1992 平凡社東洋文庫
『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章 カルネイェフ(ロシア参謀本部中佐)

1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君(国王高宗の父)がかなりの役割を演じていた。(中略)

午前3時、王宮を日本軍(守備隊)が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、北東門に集結したのは、日本人によって教育された朝鮮兵(訓練隊)約300人である。(中略)宮中では、日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかとなるや否や、国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。(中略)

午前4時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、差掛けはしごを伝って王宮の壁を北側からよじ登った。南壁をよじ登った者たちが銃撃で歩哨を追い散らして、正門を開けたので、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。一方、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、差掛けはしごを用いて北の小門を乗り越え、銃撃によって宮中の衛兵(侍衛隊)を追い散らした後に、門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居間では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びる日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い刀を帯びる日本人だった。

彼らは中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打擲するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと考えた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺しだした。日本人らは婦人たちに襲いかかり、王妃の引渡しを要求するのだった。王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃はここにいないと答えていた。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって、彼女が廊下へ逃げ出すと、一人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえ刺し殺した。しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林に運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。

日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、そして彼とほぼ同時に三浦公使も王宮に入った。彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥奪し、平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。

<同書解説から>
特に印象に残ったのは、カルネイェフが伝える閔妃暗殺の現場報告である。これは恐らく、現場に居合わせて一部始終を見届けたロシアの建築家セレドニン・ソバチンに直接取材した聴書であろう。
(これはロシア軍参謀本部中佐の報告書であり、日本とロシアが朝鮮をめぐって厳しく対立していた当時の時代背景も考慮する必要がある)
この事件に朝鮮兵も参加していたことからも分かるように日朝だけの問題ではなく、朝鮮内部の主導権争いも複雑に絡み合っていたのである。閔妃はか弱い王妃ではなく、政敵を次々に葬っていた冷酷非情な権力者で、大院君とも激しく対立していた。

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▼ 武断政治
〔憲兵警察統治〕 国権を奪われた後、わが国は日本が植民地文配のため設置した朝鮮総督府によって、弾圧を受けるようになった。朝鮮総督は行政、司法、軍事のすべての権限を持っていた。武力で韓民族を弾圧するため、憲兵警察制を実施した。韓国人のすべての政治活動は禁止され、集会、結社の自由まで奪われた。その間活動してきた愛国啓蒙運動団体も解散させられた。また、皇城新聞や大韓毎日新聞など民族新聞の発行が禁じられ、多くの愛国者が逮捕されたり、命まで失ったりした。朝鮮総督府は、韓民族を脅かしたり、屈服させたりするために、一般官吏はもちろん、教員にまで制服を着用させ、刀まで着けさせた。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997版より)

統監府・総督府は無法社会を法治国家にする為に統治初期には武断政治をおこなざるをえなかった。
「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
「両班(ヤンバン)は、自分たちのすべての特権については非常にうるさく、少しでも敬意を失するものがあれぱ、残忍な報復を下す。その一つの実話を次に引用しよう」
「みじめで、みすぼらしい風体をした一人の両班が、郡衙(役所)の近くを通っていた。そこへ、泥棒を捜していた4人の捕卒が行き会い、その外見にやや疑念を抱き、もしかするとこれが自分たちの捜している者ではないかと思って、ぶしつけな尋問をした。すると、両班は答えた。『はい、そうです。私の家までついて来てくだされぱ、共犯者も教えますし、盗んだ品物を隠している場所も教えます』」 「捕卒たちがついて行ったところ、この両斑は、家に帰り着くやいなや、召使いたちと数人の友人を呼んで捕卒たちを捕えさせ、さんざん殴りつけた。そのあと、そのうちの3人からは両目をえぐり取り、残る1人からは片方の目だけをえぐって、次のようにどなりつけて彼らを送り帰した。『この野郎ども。わかったか。これからはよーく見て歩けっ。お前らが郡衙に帰れるように、目の玉1つだけ残してやったんだ』」


「国民の歴史」 西尾幹二 平成11年 扶桑社
当時の朝鮮は、両班、中人、常民、奴婢の厳然たる四つの身分制があった。両班の横暴には目に余るものがあり、下の階級の者に対し生殺与奪の権を持っていたとさえいわれる。

朝鮮民衆は日本統治時代になって、日本警察による両班取り締まりを大いに感謝したほどだったという。ただし、朝鮮人の補助憲兵や巡査が日本の権力を借りて今度は宿怨を晴らす恐ろしいシーンを展開し、『後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる』(今村鞆『歴史民俗朝鮮漫談』昭和三年)

「朝鮮亡滅」 ホーマー・ハルバート (「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より)
(李朝期の司法について)裁判は金次第でどうにでもなり、多額の金を提供するか、裁判官を畏怖させるほどの有力者を後ろ盾にもっていることを見せつけるかしたほうが、必ず有利な判決にありつけることが世間一般の常識になっている。この国では、富と官職とは、事実上は同義語である。

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
たとえば、統監府時代に、平理院首席補佐官として招聘された中村竹蔵の回顧によれば、当時の平理院院長、李允用は李完用(韓国併合当時の大韓帝国政府の首相)の兄で、宮廷からの信任が厚く、判事、検事の任免は、すべて院長の意思のままに行なわれ、司法制度は存在していなかったという。大きな案件も院長の指図を仰いで裁判しており、いったん判決を下した事件でも、勝手に「特旨に依って減刑す」と変更し、判決が官報の内容と異なることもしばしばあった。官廷と関係する人物には、死刑判決を下してもすぐに上からの命令で書き直され、「特旨に依り死一等を減ず」というありさまであった(『朝鮮に於ける司法制度近代化の足跡』友邦協会)。また、『朝鮮事情』(ダレ著、金容権訳・平凡社・東洋文庫)は、両班は世界中で最も強力で傲慢な階級と述ベ、彼らが強奪に近い形で「農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない」と述べている。(中略)アーソン・グレブストの『悲劇の朝鮮』には、「(李氏)朝鮮はきわめて盗賊の多い国家で、城塞(ソウル)の外で夜を過ごすことは大変危険だった。ソウルの外廓には人命を蝿の命ほどにも思わぬ山賊やならず者で溢れていた」と記されている。李朝末期の司法は、拷問で自白させ、賄賂が横行していた。判決は賄賂の多少によって決められた。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。




武断政治の象徴とされる反日義兵運動弾圧は、日本差別主義者による復古運動で、民衆の支持を得ないものであった。
「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
憲兵は朝鮮半島の各地に駐在し、「極悪非道」弾圧をしたか

義兵運動が起こった直接の原因は、閔妃殺害事件(1895年10月)と断髪令(同年11月)の強行であったともいわれる。二つの事件は、少しずつ積み重ねられてきた反日感情が、儒生の義兵決起の呼びかけによって火がつき、燃え広がったという。いわゆる乙未義兵である。儒生の忠孝思想がその綱領となっている。すぐに平定された第一期の義兵運動の代表的人物らはすべて儒林の人たちである。乙未義兵は、反日抗争が大義名分で、儒林の保守的な前近代的思想に根差していたので、露館播遷、金弘集内閣の倒壊、断髪令の中止によって、尊皇壌夷の大義名分を喪って、終息してしまった。解散した義兵は「火賊」「東匪」「活貧党」に変身し、匪賊、義賊化して、農民革命に走った。反近代的な性格が強く、どちらかというと乙未義兵運動は、反日復古運動であった。

日露戦争以後の義兵は、ほとんどが「倭寇討伐」を唱える「討倭」義兵であった。朝鮮半島の民族運動に関しては、ごく少数の「親日的走狗」や「韓奸」の反動を例外として、全民族的な反日抗争としてよく強調されているが、朝鮮近代史を自らに都合よくつまみ食いしているだけである。ことに義兵運動に関しては、歴史叙述と数字に自己矛盾と思えるものがじつに多い。第一に統監府政治以後は、日本の憲兵警察が朝鮮半島の隅々までに駐在し、「極悪非道」な弾圧と虐殺を意のままにしていたとよく書かれている。しかし、朝鮮半島の憲兵警察の数字と行政区域をいくら照らし合わせてみても、隅々まで憲兵警察を駐在させることは不可能である。統監府時代から三・一独立運動に至るまで、朝鮮人と日本人を合わせた憲兵警察の総数は、初期の千人ほどから最高七千人まで、人数が年々増加していったとされてはいるが、各面(村)まで駐在させるには、数字的に不可能であった。併合当時の行政区は、13道12府、317郡4322面であった。

19世紀から20世紀中期までの東アジア大陸各地では、匪賊が極めて多く、ソウル以外の地方は、盗賊が跋扈し、たいへんに治安が悪かった。前述した憲兵警察の数でいえば、治安維持だけで精一杯であった。ましてや朝鮮半島の全民衆的抗争に対処するには、対露防衛の二個師団まで総動員しても、全民衆蜂起には絶対に勝てないというのが常識であった。全承学編『韓国独立運動史』によれば、16年間に及ぶ義兵総動員数が6万人、倭軍警察の死者127名、義兵側(民衆を含む)の死傷者1万4500余名。『高等警察要史』(総督府慶北警察局編)の数字では、日本政府側の死者336人、義兵の死者1万7779人という数字となっている。日本軍の行動については、「殺戮、放火、掠奪、暴行など、この世のものではない地獄図」と書かれ、「死者数千人」の概数から「死者三千人」と、あちらこちらの義兵の死者数が書かれている。姜在彦の『朝鮮の儒教と近代』(明石書店)には、1907年8月から1909年末までの間に殺戮された義兵数が1万6700人、負傷者3万6770余名に達しているとしている。義兵の数から見ても、けっして劣勢ではなかったし、戦意も低くなかった。武器の不足と兵士としての訓練不足だけが事実であったのだろう。

しかし6万人以上の動員に加え、天の時、地の利、人の和の面から見ても、なぜ劣勢の日本軍警に対してはほとんど散発的狙撃しかできなかったのか。それは義兵の軍資金が人民から過度に徴収され、匪賊との区別がつかず、日本軍警に対する抗争というよりも、一進党員やいわゆる「敵の走狗」「韓奸」や「政敵」狩りが主要な攻撃目標で、いわゆる「倭軍警」に対する正面切っての戦闘はあまり行なわれなかったからであろう。たとえば『韓国独立運動史』に出ている「倭軍警」の死者127名に対し、「敵の走狗」が1250名という10倍の数字を見れば、朝鮮人同士の殺し合いとも捉えられる。このような数字から見ると、16年に及ぶ義兵闘争は、結果的には全民衆の共鳴と支持を得られずに、自然消滅したというのが、歴史の事実ではないかと判断できる。というのも、初期の乙未義兵は、ほとんどが烏合の衆であったから、反日抗争に勝てないのは無理もなかったのである。

しかし、1907年(丁未)以後の義兵は、関東義兵将李殷[+]の関東軍だけでも6000人といわれ、13道、48陣合わせて総勢1万人にものぼる。しかも高宗皇帝の譲位後、解散された新式教練を受けた軍人が多数参加し、新式武器も多数備わっていた。国権回復という大義名分もあった。義兵にも忠魂義胆があり、粉骨砕身の決意を持っていた。天の時、地の利、人の和から見て、全国の義兵を糾合して一挙に「統監府」を撃破することも可能ではあった。しかし、それが失敗し、四散したのは、衆望を集めた総大将の李麟栄が、進軍前夜、父親の訃報に接し、喪に駆けつけてしまったために、指揮権を放棄せざるをえなかったからだともいわれている。「孝」という私の大義が、民族という「公」の大義よりも大切であると、総大将も義士たちもみな認めている以上、「義兵運動」とはいったい何たるものであろうか。
(中略)
日本政府側では「義兵運動」について、たいてい「匪賊」として評定するのは、その生態と経緯からいけば、けっして歪曲ではない。いわゆる「義兵」は、正式な軍隊とは違って政府や巨大な「反乱組織」からの補給を得ることが難しい。数週間もたてば食糧が断たれてしまう。食糧が足りなくなって、農村を襲うという行為に出れば、農民から敬遠されるのは、ごく当たり前のことだからだ。住民の支持を得られなくなった義兵は、山間部に逃げ込むと、貧しい農村や集落では食糧を供出することができず、義兵が匪賊に変身して、村を略奪した。農山村を義兵の襲撃から守るには、逆に憲兵警察と手を組んで、「討伐団」を組織して村を守らなけれぱならなかった。それが義兵運動のたどった自己崩壊の運命であった。民族運動とは、また別次元の問題である。

義兵の反日抗争は、思想的には「衛正斥邪」の延長で、李朝への忠君愛国や復辟の色彩が強く、しかも義兵指導者には地方割拠、土匪化の傾向があったので、近代的な民衆民族運動として発展するまでには至らなかったのだ。義兵運動の指導者は、大部分が朱子学の名分理念に固執し、伝統的封建的身分秩序を維持しようとする儒林と王朝の高官たちであった。そのイデオロギーとは、衛正斥邪、近代文明を拒否する超保守的な身分秩序と華夷秩序を守ろうとするものにすぎない。
(中略)
衛正斥邪思想は、基本的には伝統的儒教思想の正統性と純粋性を守ろうとする両班・儒者たちの保守的イデオロギーであり、李朝防衛の義兵運動の思想として大衆を支持基盤として、反侵略、自主独立を掲げたという点から、朝鮮の保守主義的民族主義の原形と見るのが一般的である。しかし、東学運動も義兵運動も、時代背景が多少違っていても、排外的、反侵略的という点では、清国の義和団運動と同質的なもので、それは民族主義の原形というよりも、「華夷思想」の変形として、むしろ反「民族主義的」、あるいは非近代的国民主義的なものではないだろうか。

東学運動以後の義兵運動とほぼ同じ時期に、台湾でも「義兵」運動があった。その激しさは、日清戦争以上であった。数字だけを見ると、日清戦争当時の日本軍戦死者は、8395人、台湾領有の平定戦争の戦没者は、9592人と、単純比較では日清戦争を上回っている。だから、台湾から見た朝鮮半島の「義兵運動」といわれるものは、ただ一部の「衛正斥邪」論者が匪賊と手を組んだ反日運動にすぎなかった。大多数の朝鮮民衆は、むしろ「日韓合邦」を李朝の悪政からの解放として喜んでいたと見るのが、「客観的」分析として正しい歴史認識に近いのではないだろうか。

「中国・韓国の歴史歪曲」 黄文雄 1997年 光文社
朝鮮総督府の統治の中でもっとも非難されているのが、「武断政治」といわれる「憲兵警察」の統治であった。では、なぜ反乱の多い台湾は「警察統治」のみで、逆に反乱の少ない朝鮮が「憲兵警察」と二本立てとなったのか。それはフランスの憲兵と警察の治安制度を模倣した朝鮮統治の特殊治安方式である。匪賊の多い地区は憲兵で、都市と港湾は警察の駐在だけにした。実質的に、警察だけでは、朝鮮人警官の汚職が多いので、憲兵の監督が必要であった場合もある。しかし憲兵・警察二本立ての治安は、きわめて好成績を残しているのも事実である。明治41年10月から翌年の8月の初年度に、犯罪者3万4400人、780回もあった傷害事件が、5年後には45人、5回にまで激減したのだ。1902年の韓国官費日本留学生で、その後「大韓新聞」社長となった李人植が書いた新小説「銀世界」に、抗日義兵は強盗と書いている。もちろんそれは朝鮮人義兵に限らず、いかなる国のゲリラであろうと、どういう主義や思想の大義名分があろうと、正規軍とは違って、3日や1週間ぐらいたてば、物的補給がなくなり、すぐ強盗に変身するのは、歴史の鉄則である。朝鮮義兵もそうだった。農民からの支援はけっして「民族」という大義名分だけで支えられるものではない。だからむしろ農民にとって厄介な存在として、朝鮮半島以外にしか活躍の基礎をもたない。実際に治安に携わる憲兵警察の人数は、それほど多くはなかった。当時の朝鮮人口1300万人に対して、憲兵警察は、朝鮮人警察官4440名を入れて総数7712名にすぎなかった。今日の東京都総人口1200万人に対し、2万5000人の警官配備に比ぺると、3分の1以下である。人口600万人に対して警察官が3万人もいる香港と比ぺると、朝鮮総督府の「憲兵警察」政治とはいかなるものか、多言する必要もなかろう。統計数字を見るかぎり、1人平均の警官数は、朝鮮では台湾の約半分にすぎなかった。それは朝鮮人が、朝鮮総督府に従順であるというよりも、総督政治を理解していたとしてもよかろう。

「武断政治」をおこなったのは1919年まででそれ以後は「文化政治」とよばれる。

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▼ 三・一運動の弾圧
三・一運動〕 日本の武断統治に反発し、1919年、大規模な三・一運動が起きた。日帝の警察と軍隊は、平和的な方法で独立万歳を唱えながらデモを行なう人々に対して、銃剣をもって過酷な弾圧を行なった。死傷者は2万名を超え、逮捕者は5万名にのぼった。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997版より)。

「韓国・中国歴史教科書を徹底批判する」 勝岡寛次 2001年 小学館文庫
1919年に起こった三・一独立運動を韓国の教科書は、日本軍の残虐さだけを強調して書いている。だが、事実は「平和的な方法で独立万方歳を唱え示威をする人々」だけではなかったのである。全国的に及んだこのデモは、地方では暴徒化し、警察署・村役場・小学校等を襲い、放火,投石・破壊・暴行,惨殺を行って手がつけられないありさまとなったのだった。日本側は治安出動を強いられたのであって、決して韓国の教科書の言うように、「無差別虐殺」を行ったのではない

韓国の教科書の記す犠牲者の数も、問題である三・一運動の犠牲者数は今も正確なところは不明で、韓国の教科書が依拠したと思われる朴殷植『朝鮮独立運動の血史』では、死者7509名、負傷者1万5961名と記されている。しかし、著者の朴殷植は当時亡命していて韓国におらず、この本の中で「今回の独立運動は…確実な実態調査を得ることは難しい。いわんや、海外にあって、ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるものだけであってみれぱ、その事実調査の困難さは推して知るべきであろう」と断っている・総督府の調査では、死者553名・負傷者1409名であり、韓国側の主張とは10倍以上もの開きがある。(名越二荒之助『日韓2000年の真実』)

総督府の調査も完全なものとは言えないだろうが、海外にあって「新聞報道や個人の伝聞的報告」だけで書かれた『朝鮮独立運動の血史』の数字だけを、何の疑いもなく教科書に褐げるのは公平さを欠く。しかも、韓国の教科書も本文では2万名と言い、コラムでは3万名以上と言っており、この事実一つをとっても、いかにいい加滅な数字を並べているかということが明らかである。


「「反日韓国」に未来はない」 呉善花 2001年 小学館文庫
三・一独立運動について、韓国の国史の教科書には、無差別の銃撃よって7509人が殺され、1万5961人が負傷させられたとあります。総督府の資料では死者553人、負傷者1409人と大きく異なります。また日本の教科書には5万人の死傷者が出たと書かれているものもあります。北朝鮮の人が書いたものでは、村に火をつけて村民もろとも焼き殺したことまであったとあります。

総督府の資料は村ごと月ごとの事実関係を示して集計されたものです。韓国の教科書のものは、上海にいた人たちが、新聞記事や伝聞を元に作った資料をまとめて翌年に出した書物(朴殷植『血史』)にある数字をそのまま引き写したものです。日本の教科書や北朝鮮の人の記述は何に基づいているのか不明でわかりません。

「歴史を偽造する韓国」 中川八洋 2002年 徳間書店
(韓国の教科書は朴殷植の『独立運動之血史』の記述に基づいて、総督府による三・一事件の弾圧を糾弾している)
(韓国の教科書では)監獄(刑務所)に収監された人数は「5万人」と、実際の6倍にしている。朝鮮全土に当時、刑務所は監獄8、分監12しかなかった。三・一事件で収監されたのは約8500名で、定員オーバーであった。「5万人」という人数の収監能力などは物理的に途方もない。入監者数については、朝鮮総督府が正確に把握しており、1919年5月10日現在、8437名であった。韓国の教科書は出鱈目な数字を書いている。

ホラー小説の類である『独立運動之血史』が何ら信憑性がないのは、次の記述一つだけで充分だろう。両手・両足を切断された人間が即死しない、そればかりか手がないのに自分で衣服を着ることができる、足がないのに自分で歩いて帰宅できる、というのである。また、手足を切られたあと3日間も食事を与えられずとも元気で官憲を罵倒しつづけたという。マンガでもここまでの描写はできない。つくり話もほどがある。『血史』の虚偽性は、議論以前である。

「女子高等普通学校(当時の女子中等学校の名称)の廬永烈は、裸体で十字架の上に仰臥させられた。日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて廬永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(菰)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。…が質問して、「お前はこれでもなお『万歳』を叫ぶつもりか」と言った。彼女はこれに答えて、「独立が達成できなければたとえ死んでもやめない」と言った。…数日間も食事を与えないで、三日目にふたたび拷問を加えた。…やむをえず、衣服を抛(ほう)りかえしてよこし、きびしく警責を加えた後に釈放された。……」(231〜2頁、212頁)

また、『血史』は1919年3月の1ヶ月間で収監されたものは「数十万人をかぞえ…」(212貢)としているが、前述したように実際には1万人にもならない。そればかりか30頁ほど前の183頁では収監人数を「4万7000名以下」としていた。なぜなら、そこでは「逮捕者4万6948名」と記述しているからである。逮捕者からかなりの即時釈放者を引いた残りが収監者である以上、これ以下になるからである。このように、『血史』では、「数十万人」という212頁と、「4万7000名以下」という183頁の、収監者数が10倍も異なる。『血史』のはその時その時に思いつくままの捏造数字であるのは明らかだろう。

要は、『血史』の数字や描写を引用していたすべての研究書・専門書は、完全なる歴史歪曲、歴史偽造のそれであって、いっさいの学術的価値はない。ということは、この『血史』に基づく、在ソウルの「歴史館」は、「ホラー映画」と同類の、空想と妄想で創った「東洋一のオバケ屋敷」となる。真実を求めず歪曲と偽造の韓国とは、根本において「文明以前」であり、野蛮国である。『血史』のような品性も知性もない嘘だらけの作品を書く人物を数多く出したこと自体、韓国は国家として恥ずべきだろう。

中川氏は同書で朴殷植著『独立運動之血史』の嘘記述を数々暴いている。朝鮮人の主張・証言には嘘や誇張が多く、十分な検証が必要なことは多くの人に指摘されている(当サイトのこちらを参照)。

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府の時代には、反体制的な暴力抗争やテロリズムに対しては、断固として法律で裁き、極刑にしたことは事実である。しかし三・一独立運動をはじめ、民族主義運動、社会主義運動に対しては、大量検挙を行なったものの、実刑者はそれほど多くなく、処罰も案外と寛容であったことも事実である。

戦後の李承晩政権時代には、反体制学生運動弾圧や光州事件、さらに済州島の「4・3事件」のような「虐殺」といわれる歴史的事件が発生したが、「日帝36年」と比較して、文明的であるとはとても思えないのだ。少なくとも戦後、李承晩政権後の朝鮮戦争をへての10年間、あるいは15年間の韓国社会と比べると、日韓併合後の10年間、あるいは統監府統治からの15年間は、むしろ「日帝」時代のほうが、朝鮮の社会としては安定していた、と言うべきではあるまいか。戦後の李承晩政権は1960年、学生運動(4・19革命)で追われるまで、評判は芳しくなかった。たとえぱ、済州島の「4・3事件」における3万人虐殺は、すべてアメリカ軍政支配下で、アメリカ軍のせいにしたとしても、居昌事件(1951年、市民700余人を共産ゲリラ容疑で虐殺)では、国会調査委員会の調査では、各地方で虐殺された市民が8500余人と報告し、立法、司法、行政機関が合同で「良民虐殺事件処理特別措置法」まで制定した。また、国民防衛軍事件(1951年)では、10万人が虐殺され、100万人の第二国民兵を飢えと疫病に追い込んだ。さらに保導連盟事件では、韓国の『ハンギョレ新聞』や『時事ジャーナル』によると、30万人の虐穀があったと告発している。

たとえば、総督府時代以来の民族運動の指導者は戦後、呂運享、金九をはじめ、ほとんど暗殺や虐殺、連行、死刑の運命にあい、あまりにも悲劇的な死をとげているが、この事実をどう考えるのだろうか。そのような朝鮮半島の厳しい政治的現実は、総督府時代と比べて、どう説明するのであろうか。


総督府の弾圧は李朝の残酷支配や戦後独裁政権の大量虐殺と較べるとはるかにマシである。

「中国・韓国の歴史歪曲」 黄文雄 1997年 光文社
「日帝三十六年」の歴史は、たいてい抗日運動、独立闘争一色に塗られているが、けっしてそれだけではない。たとえば、朝鮮人の社会運動には、民族運動や社会主義運動とともに、親日派の社会運動もあった。「日韓併合」は、当時の国際情勢下で、一部の朝鮮人にとっては、やはり一つの夢であった。たとえば、李容九は、二代目の朝鮮統監につぎのように進言した。「国防の堅固なるを世界万邦に輝かしめることは、いわゆる檀君、箕子四千年の不滅の大典を興し、新羅・高句麗三千里の江土を不変の土台の上に築くことでなくて何でありましょうか」とまで主張している。かつての抗日東学軍の大将であり、一進会の指導者であった李容九は、憂国愛族の志士、愛国者か、それとも事大主義者で、外勢迎合の走狗、親日派=売国奴なのか、戦後にも論争があった。かつて東学軍抗日義兵として5万の東学軍を率いて、名声を博した李容九進歩会は、天道教の三世大道主孫秉煕の一進会とともに、合同一進会をつくって、以後、日韓合邦推進の主役となっている。

公称100万人の会員があった一進会が、日露戦争当時、無償奉仕で日本軍に協力したのは歴史的事実であって、抹殺することはできない。たとえばソウルから満鮮国境の新義州までの鉄道建設に、一進会員は15万人、軍用物資の運搬に25万人以上が協力したといわれる。



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▼ 独立運動家の弾圧と拷問
憲兵警察の主要任務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を捜索し処断することにあった。彼らには即決処分権があり、わが民族に対して思いのままに笞刑(むちうち刑)を行った。(韓国高校歴史教科書1996年版より)
韓国の独立記念館には、日本官憲による独立運動家に対する拷問の光景を再現した蝋人形が展示され、日本人は残虐な民族だとの強烈な印象を訪問者に植え付けている。独立運動を行なった朝鮮人に対して、酷い仕打ちを加えたことは事実だろう。しかし残酷な刑罰は、李朝の悪政として朝鮮を訪れた外国人達を恐れさせたものなのだ。総督府は残酷な刑罰を廃止し、監獄の改善を行なったのが歴史的事実なのだ。

李朝時代の監獄と残酷な刑罰
「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
(著者のグレブストは1904年日露戦争の取材のため朝鮮に入った。)
朝鮮の監獄――山賊の頭目の死刑を最後まで見る

いよいよ待望の監獄見物のときがきた。私たちは立ち上がって庭に出た。窓に鉄格子があり錠のかかった小さな建物の前で足を止めた。錠をあけ、高い門柱をくぐって、天井の低い部屋にはいっていった。足元には古びてすっかり壊れてしまった汚らしいかますが散らばっており、壁には何本もの鎖や滑車、石塊などが掛かってあった。障子にはあちこち穴があいており、屋根にも隙間が多くて、吹きつける風に室内はまるで氷のように冷たかった。

ちょうどここに、囚人が14名収監されていた。彼らは皆壁のほうに身を寄せ合って座っている。あるものは先端や地面にまで達する長い首枷をはめられており、またあるものは片足または両足に足枷をかけられている。囚人たちはこれ以上ない不潔さで、伸び放題の髪が肩にまでかかっている。

彼らは何をするのにも億劫と言ったふうで、私たちが入ってきたときにもまったく関心を示さない。写真を撮ろうと私がカメラを向けたときですら、まばたきひとつしなかった。全員3年以上こにいるということだ。うち二人はなんと12年間も閉じ込められたままだという。片時も首枷をはずされたことがなく、囚人服も着古してぼろぼろになってはじめて新しいのに取り替えられるのである。口にするものというと、おかずなしのご飯のみで、野菜はそれこそ稀にしか出ないという。刑期中に獄死すると国費により城門の外の窪地に埋められるが、これについて親戚のものはまったく知らされることがない。そればかりか刑に服している間も、家族の面会だけでなく音信さえ厳しく禁じられている。

監獄を後にして私たちは再び庭に出てきた。低い二つの塀の間の小道を行くと、高い塀に囲まれたもう一つの狭い庭に出た。そこで私たちは珍奇な場面を見ることができた。

大きな厚い枷を肩にかけ、足に鎖をした20人あまり塀に沿って座っている。片隅には好奇心いっぱいの人々が立っており、もう一方には端正でない軍人たちが地面に小銃を投げ捨てたまま、大きくて平たい岩の上に座っている。庭の中央に膝の高さほどの長い台が置かれ、その上に男が一人縄を打たれたままうつ伏せになっている。下半身はふくら脛まで、上半身は肩まで着物をはいで、尻など胴の部分が完全に裸にされている。

しなやかに撓み揺れる竹の鞭(むち)を手にした男が数人、両手を縛られた囚人の両側に突っ立っている。彼らの頭上には半開きの傘を思わせる油紙製の雨天用帽子があるため、降り落ちる雪から繊細な笠を保護できるようになっている。

囚人は笞刑(ちけい)の宣告を受けたのであるが、刑の執行命令を待つ間に、執行人らは縛られた囚人の後頭部のすぐ上の虚空を鞭で切りながら嬉々としている。鞭が囚人の耳元を過ぎるときのその音はぞっとするものであろう。囚人は怯えた視線でこの残忍な遊戯を追い、すでに鞭が肉に食い込む痛みを感じているかのように全身をけいれんさせる。

刑の執行はすぐに始まった。看守長が命令を下すと、二人の執行人がそれぞれ配置についた、彼らは最後にもう一度鞭を空中で鳴らしてみてから笞刑を開始した。最初のひと打ちは鋭い音で、銅色の尻は真っ赤な痕跡を鮮やかに残した。哀れな囚人はびくっとして全身を縮めたので、縛ってある板が倒れんばかりであった。二度目の鞭で、彼は骨にしみるような悲鳴をあげた。その体が13回も繰り返しめった打ちにあうや、悲鳴をあげていた囚人も結局気を失ってしまった。

すると、刑の執行が一時中断となり、囚人の頭の上に冷水がぶっかけられる。囚人はひとしきり体をぶるっと震わせてけいれんを続けたが、意識を取り戻した。

彼は呻きながら許してくれと哀願した。しかし法の執行にはいささかの情の挟まれることも不可能で、彼にはまだ笞刑12回分が残っていた。こうして刑の執行が終わってみると、囚人の体はもはや人間のそれでなく、ただの血だらけの肉塊にすぎなかった。

縄がとかれると、意識不明状態の彼は台から転げ落ちて、傷だらけの背中を地面に当てたまま倒れている。ズボンが乱暴に引き上げられ、上半身の着物も同様に下げられた。頑強な両腕が彼の方をわしづかみにしたかと思うと、彼をずるずる引きずって庭を過ぎ、近くの監房に放り込んだ。そこではおそらく、同房の者たちが彼の悲惨な姿を目のあたりにして、自らの罪とその代償とを再びひき比べてみたことであろう。

こんどは小さな建物から別の囚人が引き出された。40歳台に見える男で顎のひげをぼうぼうに生やしており、体はというとすっかりや痩せさらばえている。悪臭が漂い、その目にはすでにあきらめの光がさしている。痩せ細った体を包むぼろ服は、彼がそれまでいた監獄がいかに汚く不潔なものであるかを物悲しく語って余りあった。

彼は朝鮮でもっともひどいといわれるヤカ(場所不明)という監獄からたった今護送されてきたのである。数年間、山賊の頭目としてヤカ地方を恐怖の渦に巻き込んだという。噂によると、最後の一年間だけでも彼の手によって奪われた命は20人を越えるという。官軍との血戦の末彼はついに捕らえられ、死刑宣告を受け、今日まさに私たちの目前でその一生を終えることになったのである。

準備は、あっという間にととのった。さきほどの苔刑のときに使われたあの血のついた縄が、こんどは彼の足をしっかり縛りつけることになった。それから両腕が両脇に縛られて少しも身動きできぬようになった。すると、執行人は彼の体を押して、彼はバランスを失ってその場に倒れた。いまや囚人は、死刑が執行されるまさにその場面に例れる身となった。

死刑執行人はさきほど笞刑を行った同一人物たちだ。彼らは太い棒を手にして現れた。
「棒で何をするんだろう?」 
私が尹に尋ねた。
「棒で笞刑を行うつもりなのだろうか。もしそうなら両足ともだめになるだろうに……。あの棒は普通の鞭とは違うでしょう?」
尹は私の言ったことを看守長に通訳した。看守長は小さな目を残忍そうにまばたせながら質問に答えてくれたが、その言葉は通訳を介さなくとも態度ですぐに理解できた。

すっかりおじけづいて顔色が白紙のようにあおざめていた尹はいまや真っ青になって、全身をぶるぶる震わせている。もう口が開かないといった態度で、しきりに唾を飲み込んでばかりいる。ついに、
「神様。これは酷すぎる。もうだめ、私は……」
そのようなことをとぎれとぎれに言うと、私がとらえるひまもなくさっと消え去った。その後死刑執行のむごい場面を見ながら、私は逃げていった尹のことをどれほど羨んだか知れない。

棒の使い道は、チュリの刑罰を与えることにあった。囚人の足の内側に棒をはさんで、執行人たちは、自分の体重をすべて棒の片側にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は、聞いていてもじつに凄惨なものだった。足の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声も囚人の凄絶な悲鳴も止まった。全身縛られた状態であるにかかわらず、上体を起こした死刑囚は、ほとんど座った姿勢になった。

顔には、死人のそれのようにまったく血の気がなく、唇は、固く閉じられてひとつの細い真っ青な線になっている。両の目は白目をむいており、額からは冷たい汗が雨のようにしたたり落ちた。首が力なく垂れた。体がだらりと地面にのびた。死刑執行人が棒をはずし、乱暴な手つきで実際に完全に手足が折れたかどうか調べている間も、囚人は、何も感じない死んだ羊のごとくじっと倒れたままだった。

死刑が執り行なわれる間、まわりでは見物人が目を見張りながら見ていた。彼らは、首を長く伸ばしながら、一瞬たりとも見逃すまいと息を詰めたまま悲劇の現場を見守っていた。

ただ、首伽をはめられた囚人たちだけは、まるで対岸の火事を見ているようであった。彼らは、一言も交わさず前方を凝視するばかりだ。自分たちも、いつかこのような自にあうかもしれない。たとえ刑場の露となるさだめを免れた者であっても、刑期をつとめる間に少なくとも一度はなんらかの拷問を経験している。そのときの苦痛が、他人の痛みを目のあたりにしながらも無関心でいられるようにしたのかもしれない。

気絶した囚人は、ややあって意識をとりもどした。カなく首を左右にゆすりながら呻き声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは、囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を絞めて殺し、その死体をどこへやら引きずっていった。

見物人が一人二人と散り、軍人は見物人を囲いの中へ追い込むように囚人たちを獄舎に入れた。看守長は満足げな表情で私を門のところまで見送ってくれた。おそらく彼は客を手厚くもてなすという東洋の美徳をじゅうぶんに発揮して、すべての参席者の期待に答えることができ、そのことがとても嬉しかったのだろう。じっさい、私の期待も必要以上に満たされていたのである。

ところが私には疑問がひとつ湧いてきた。この国にキリスト教が布教されてもうだいぶ経ったし、西洋の文化大国がこの国の行政の各部門を助けてからも一日二日でないのに、なぜ今だのこのような野卑きまわりない拷問が続いているのか。エンバリーの言うように、獄内の出来事に関する生きた証拠が整っていないという、それだけの理由だろうか。それともほかの理由がまだあるというのか。

理由がなんであれ、こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという点だ。異教徒の改宗に汲々とするあまり、そのまま見過ごしてはならない実状には盲目となってしまう私たちキリスト教徒の態度は、私たちに残された大きな課題のひとつである。

(グレブストが滞在したころの韓国社会は、日本統治時代に入る直前であった。日本は日露戦争に勝って、さまざまな分野で韓国に対する干渉を強めていた。)

残酷な拷問・刑罰は李氏朝鮮の悪政の象徴として、当時朝鮮を訪れた外国人の旅行記・報告書などに数多く記されている。


以下の写真は上記文章と同時代ですが直接の関係はありません
「別冊一億人の昭和史 日本植民地史1朝鮮」 1978年 毎日新聞社より

李氏朝鮮時代の牢屋 (動物園ではない)


首枷をした囚人たち(首の部分だけ穴の開いた板を着装している)


笞刑(ちけい)を受ける囚人(ムチを振り上げている場面で囚人は臀部むき出し)


チュリの刑を受ける囚人(両脚の間に二本の棒を差し込んでいる)


独立記念館の展示物で、拷問を行なっているロウ人形は日本人ではなく、朝鮮人が朝鮮人を拷問している場面だったのだ。
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
これらの報告を読んでいると(管理人注: 同書の中で上記のグレブストの本の拷問場面を引用している)、思い出すのは韓国の天安市にある「民族独立記念館」のことです。この記念館でもっともショッキングなのは、日本の警官が朝鮮人を拷問している蝋人形の場面です。暗黒の中で光線に照らし出された拷問の模様は、5場面に及びます。私の連れていった学生達は、『見ておれない、まるでホラー・ビデオだ。日本人はこんな残虐なことをしていたのか』と言います。修学旅行にやってきた韓国の小・中学生たちは、その前で日本人への憎しみをかきたてます。私は眺めながら、もっと深刻なことを考えていました。こういう拷問のやり方の中に、ここに紹介した外国人の報告の描写とダブる所があると気づいたのです。当時日本は、朝鮮人を憲兵や警察の補助員として使っていました。直接の取調べは、言葉の判る朝鮮人が当っていたのです。だから拷問を行なっているのは朝鮮人であるところに、悲劇の深刻性があったのです
(中略)
日本が韓国の警察制度の近代化に乗り出したのは、1910年になってからでした。警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しました。一般に韓国民衆を弾圧するためと即断されがちですが無差別に行われる韓国官憲の横暴や拷問を防ぎ、「義兵」などと称して行なわれていた山賊まがいのことや、親日派韓国人へのテロ、襲撃を防ぐためには、断固たる措置が必要であったのです。しかし日本人は語学ができず、民情にも疎いので憲兵・警察の補助要員として韓国人を募集しました。当時、日本人憲兵1007人、韓国人憲兵補助員1012人、日本人巡査2265人、韓国人巡査3428人で、いずれも韓国人の方が多かったのです。ところがこの補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らすものが多く、悪弊を直すのに困りました。今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3年)には、『朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる』と述べています。

Link 日韓関係の近現代史 拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風

Link 平和資料館きぼうの家 / 松代大本営
戦時中の松代大本営の工事を非難している朝鮮人が、リンチにあってチュリの拷問を受けた者がいると証言しているが、チュリの拷問などというものは日本にはなく朝鮮人しか知らないはずだ。朝鮮人同士の争いで起こったか、あるいは嘘を言っているのかもしれない。

総督府は、李朝時代の裁判の不正義を正し、野蛮な刑罰を廃止するとともに、監獄の改善を行った。
「歴史を偽造する韓国」 中川八洋 2002年 徳間書店
日本型「司法」への中傷と誹謗 *韓国併合は1910年

近代司法制度がすでに確立していた日本にとって、李氏朝鮮を引き継ぐ「旧韓国」の司法は「近代以前」というより「文明以前」であった。スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が1904年に朝鮮国内を旅行取材した『悲劇の朝鮮』は、監獄内を自分の眼で見たときの笞刑(ちけい・ムチ打ち刑)執行の光景と拷問死刑の光景を記録しているので、この「文明以前」がよくわかる。拷問死刑は、まず棒を死刑囚の脚の問にはさみ死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕く、次に腕と肋骨を折る、最後に絹紐で首を絞める、というものであった。死刑執行の前に、わざわざ残酷にも全身の骨を砕いたり折るという拷問など、当時の日本では信じられないことであった。が、そのような野蛮な残虐性が朝鮮であった。

マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(原著1908年)も次のように記しでいる。死刑囚でない単なる禁固刑のものも、監獄の都合で殺すのが朝鮮の実情であった。「監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された」

しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。例えば、朝鮮総督府が定めた1912年の朝鮮笞刑令が「朝鮮人に限り之を適用す」(第13条)であることをもって、朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、それは「旧韓国」の『刑法大全』(1905年〉にも定められている。しかも『刑法大全』は杖刑を廃止し、そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。

朝鮮が日本国に併合された以上、日本国の刑法が等しく適用されねばならず、『刑法大全』は無効となった。だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。しかし、日本は3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる、朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して、つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、あるいは数円ですら罰金を払うとなれば僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。懲役や罰金を見逃す便法であった。このため、朝鮮笞刑令第4条は、「罰金1円を笞1、懲役1日を笞1」に換算する旨を明記した。当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。それほど高額な1円が笞1で済むのである。すなわち、朝鮮笞刑令とは「大岡裁き」で、刑罰を温情的に軽滅する定めであった。また、「笞刑令施行規則」(1912年)の第1条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。

また、笞の長さは1尺8寸(55cm)、厚みは2分5厘(7.6mm)となった(「施行規則第11条」)。痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。それ以前の朝鮮の笞は長さは3尺5寸(106cm)、厚みは2分7厘(8.2mm)であった。日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。しかし、この笞刑令をもって、「朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧」の法律であったなどと、荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。あるいは、「反日」的言動をなした者を弾圧するために、この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。(朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された)

朝鮮人の残虐性は、日本人にはとても正視できない。文化の相違であろう。例えば、死刑に際して面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする(シャルル・ダレ「朝鮮事情」)。福澤諭吉を始め日本に多くの知人をもっていた、金玉均が1894年3月に上海で暗殺されたあと、翌4月、朝鮮政府はその遣体に対して首を刎ね、四肢を切断して、胴体を漢江に棄て、頭や四肢を京畿道の竹山に捨てたという。日本が定めた笞刑令(1920年に廃止)を中傷し歪曲する暇があるなら、残忍な刑罰や不法・不正だらけであった朝鮮司法について、ありのままの正しい歴史を明らかにすべきであろう。

監獄(刑務所)の文明化

朝鮮の刑務所(監獄)の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった。食事はおかずなしの雑穀のみであった。さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に殺害して「処理」していた。日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)は、朝鮮の受刑者にとって地獄から天国に引越しをしたようなものであった。

国分三亥( こくぶさんがい、1908年に「旧韓国」の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長)は、朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったと、次のように回想している。
『監獄は独立して存在しないで、全く警察の一部にすぎない…。(1908年になって)日韓協約の趣旨に基いて(旧韓国政府は)司法機関を創設して監獄は司法部に所管を移され…たけれども、……(京城の)鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、……獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました』(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

柿原琢郎(1920〜22年の総督府監獄課長)は、上記と同じ座談会で、平壌地裁次席検事として実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、次のように思い出している。
『狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、ただ無理押しに押し寵めてゐました。1坪に15、6人も押込むありさまで、在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので1日に)3、4回交替にて横臥せしめた。作業上の設備も被服交換の準備なく、…終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした』(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

しかし、日本の努力で1910年末にはすべての朝鮮の監獄での1坪当りの収監者数を3分の1の「約5人以内」に下げたのである。そして、1913年頃には、それが「約2.9人」まで大改善された(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)。「畳2枚に3名」であるから、いつでも横になって寝ることが可能になった。刑務所が受刑者サイドでこれほどの改善がなされたのは、1919年からの新しい総督(斎藤実)のもとで230万円の巨額で監獄の近代化と大拡張を実施したからであった。

ついでに、朝鮮併合直前の朝鮮の裁判所の実情を、旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵が拷問のことを回想しているので紹介しておきたい。裁判所すら拷問するのが、朝鮮の実情であった。中村竹蔵は1907年に平理院(「旧韓国」の最高裁判所)に配属となり、ここですら拷問が実施されているのを目撃したのである。
『平理院では法廷の取調の際にしばしば拷問を行ふことがあつたから、たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して之を廃止するよう厳重に要求すると、…院長は午後遅くなって出勤するようになつた。……私が退庁するのをまつて夜中に依然拷問行ふことが判り、…』(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

当時の朝鮮では刑事被告人だけでなく、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問していた。島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)は回想する。
『私の在職中の出来事で大きなものと思ふのは拷問禁止のことであります。私は着任後しばしば拷問を行ふのを目撃しました、……その禁止方を伊藤博文総監に具申しついにそれが法令となつて表われた』(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

Link 朝鮮日報日本語版 / 日本の高校生が「西大門刑務所歴史館」を見学
Link 中央日報日本語版 / 東京正則高の学生ら、西大門刑務所で「平和学習」

日本の高校生が見学してショックを受けたのは、総督府時代の文明化した刑務所である。彼らが李朝時代のおぞましい監獄風景や、戦後韓国で行なわれた残酷な拷問の説明を受けていたら、別の感想を持ったに違いない。

戦後韓国の拷問は日本統治時代よりも酷いものだった。
「醜い韓国人 <歴史検証編>」 朴泰赫 加瀬英明 1995年 光文社
加瀬
(第二次大戦後の)南朝鮮過渡政府のときから、警察が恐怖政治を行なっていた。混乱期だったということから、理解することもできますが、日本統治時代よりも、ひどいものでした。ヘンダーソンは先の著書(『韓国渦巻きの政治』)のなかで、1947年なかばに南朝鮮で7000人の政治犯を含む、2万2000人が投獄されていたが、「日本時代の2倍近くに当たる」といい、また、1950年の韓国財務部の発表を引用して、全国21ヵ所にある刑務所に、5万8000人が収監されているが、「国会の調査によれば、このうち50〜80%が国家保安法違反によって捕らえれた者である」と、述べています。
そして、「拷問――腎臓を殴打する、水漬け、電気ショック(「電話」と呼ばれる)、親指を縛って、身体を天井から吊るす(「飛行機」)、唐辛子を無理やりに大量に食べさせる」ことが、ひろく行なわれていた、と書いている。また、警察の腐敗が目にあまり、1948年には警察官の賄賂収入が、給料の「50倍から80倍に当たった」と、述べています。


私は拷問を受けた人々を取材したことがありますが,唐辛子を無理やりに食べさせるなんてことはできませんよ。これは、まず、人の顔を濡れた布で覆ってから、唐辛子を溶いた真っ赤な湯を、ヤカンから目や、鼻腔に、流し込むんです。コチュゴモンという拷問です。「電話」は、昔の手動式電話がありますね。陰陽の電流を流した線を、被疑者の指につないで、電話器の取っ手をまわすんですよ。これも、効きますよ。



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