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昨年の12月15日の歳時記にて「来年の大河ドラマ『天地人』を楽しみにしている」と書いた。 その『天地人』もスタートしてから早や9か月が経ち、いよいよ佳境に入った。 昨年も、このドラマの主人公・直江兼続について熱く語らせていただきましたが、とにかく、私はこの直江兼続という武将が大好きである。 大好きであるが故に期待も大きく、ついつい細かいところまでも気にしながら見てしまいますが、今年の大河ドラマも、期待を裏切らない素晴らしい作品だと思います。 戦国武将ファンの中にも直江兼続のファンは大変多い。兼続のことを嫌いだという人は殆ど聞いたことがない。 たしかに、兼続は武将である。世が戦国であるがゆえに、政治を行う上で武力は必要不可欠である。それは言うまでもない。 しかし、兼続は武将である以前に、その業績から超一流の政治家であったことは間違いない。 兼続が政治家として初めて手腕をふるったのは、1583年に行った信濃川の治水工事だ。 当時の新潟は、広大な湿地帯で、米どころか、農作物など何一つ収穫できる土地ではなかった。 兼続は、その新潟の中心を流れる信濃川を治水することによって、湿地帯を無くし、新潟を農作物が育つ肥沃な土地へ甦らすことに成功した。そして、今では“米どころ”として世界的に有名な新潟平野の基礎を造った。 このときの兼続は、まだ23歳の若さであった。しかも、その当時の新潟は、敵対する新発田家が支配していた土地で、その土地を大規模な治水工事によって田畑にしてしまうなど、そんな発想は、いつも未来を見ていた兼続にしかできない離れ業であった。 その後も、兼続は農民に田畑の開墾を奨励し、越後の平野部全域に新田開発を進め、越後を日本有数の米どころとし、豊かな国へと変革させていった。 また、金山の開発や道の整備など公共事業にも力を入れ、行政改革や自由化を推し進め、越後一国を農業だけでなく、殖産、商業、鉱業といったあらゆる面で飛躍的に経済発展させた。 もしも、秀吉の望んだように、兼続が越後だけではなく、国政にも参加していたならば、この国のありようは、今とは大きく変わっていたかも知れない。 直江兼続は、国家の政治を執ることなく上杉家の一執政としてその生涯を終えた。 しかし、兼続の政治家としての理念や行政官としての行動力は、その後の為政者たちに大きな影響を与えている。 関ヶ原の後、徳川幕府が政治を行うわけだが、その幕府の重職を担う譜代大名たちは、敵方であった兼続のところへ、政治家としての心得を学びにこぞって訪れている。 その中でも、家康の懐刀といわれた本多正信などは、「直江兼続こそが当代一流の政治家である」と、自分の息子を直江家の養子として入れ、兼続の下で政治家としての心得を一から学ばせている。 徳川幕府は、大きな混乱もなく、約300年間続くわけだが、幕府の核となる政治理念は、兼続から引き継がれたものであるといっても過言ではないだろう。 では、何故、兼続がこれほどまでに当時の政治家達から尊敬され、崇拝されたのか。それは、勝ち組のときも、負け組のときも、どちらのときにも見事な政治手腕を見せたからではないだろうか。 上杉家は、豊臣政権の晩年には五大老の一人として、会津120万石の大大名となっていた。その他にも、兼続自身に与えられた米沢30万石、庄内、佐渡といった広大な所領を治め、それらの所領は兼続の政治手腕によって劇的に繁栄していった。 その後の関ヶ原では、上杉家は負け組となり、その時代の定法として、負けた者は全てを失い、表舞台から姿を消すことになる。 しかし、上杉家は、勝ち組であった大名家でさえ数多く廃絶させられる中、幕末まで家名を存続させることができた。それも兼続の政治家としての力量が十分に発揮された故だと思う。 1601年、上杉家は家康から関ヶ原の罪を赦され、家名の存続も許された。この事実も兼続あってのことである。 しかし、上杉家の断絶は許されたものの、会津120万石は召し上げられ、上杉家は兼続の領地である米沢30万石に減封させられてしまった。 この緊急事態にも兼続は見事な行政手腕を発揮するのである。 この時代、大名が減封された場合、減らされた石高の分だけ家臣も召し放つのが通例であった。 しかし、兼続は石高が四分の一になってしまったにもかかわらず、一人も召し放つことなく、上杉家の家臣とその家族3万人を米沢に連れていった。この兼続の決断には、当時の大名達は皆驚愕したという。 米沢に移ってまず兼続が行ったことはワークシェアリングだ。 四分の一に減ってしまった財政で、3万人の家臣団を養わなければならない。その為には家臣達に身分に関係なく、大幅な減収を強いることになる。 兼続は再分配をする上で、自らには極限までの質素倹約を果たし、自らが再生への手本を示した。その後、この米沢でも新田開発、城下の整備、殖産興業、鉱山の開発といった公共事業に力を入れ、家臣を一人もリストラすることなく、表高30万石の米沢を、実高53万石にまで経済成長させた。 こういった負け組の逆境からの立て直しを、本多正信はじめ全国の大名やその家老たちが目の当たりにして、政治家である兼続に対してますます尊敬の念を抱くようになった。 勿論、兼続が尊敬されたのは政治手腕だけではなく、その人柄によるところが大きい。 当時の大名や領主は、農民から搾取してその身分を保証していた。にも拘らず、ほとんどの領主は農民を人間扱いしていなかった。 当時としては、それがごく普通の考え方だったが、兼続だけは「武士は農民によって生かされている」と、そういった明確な思想を持ち、農民を人間として対等であると認識し、農民に慈愛の念と尊敬の念を抱いていた。 そして、兼続の最大の魅力は、正義を貫くこと、人を裏切らないこと、この二つに尽きるだろう。 人は、正義の心を持つだけでも難しい。持つだけでも難しいのに、それを貫くとなるとそれは至難の業である。 兼続は、その至難の業である正義を、自分の命が奪われてしまうかも知れない瞬間においても迷わず貫いた。 正義、慈愛、勇気、高潔、知恵、平等、これらの全てを持ち合わせた日本人は、日本の歴史の中で直江兼続しかいないだろう。 あともう少しでドラマのほうも終わってしまう。終わってしまったら、もう一度、兼続に関する書籍を読み返してみようか。 そう、今、日本は政権交代だの何だのと毎日のように政治家や官僚たちがテレビの画面に映し出されている。だが、この中に“直江兼続”はいったいいるのだろうか?と、ふと思ってはみたものの、出たのは深いため息だけだった。
9月といえば、何と言っても「防災の日」です。 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方を中心にマグニチュード7.9の大地震が発生した。 この地震で、全半壊した家屋が25万戸、焼失家屋が44万戸、津波による流失家屋が868戸、死傷者・行方不明者合わせて25万人という甚大な被害を被った。 皆さんご存知のように、9月1日の「防災の日」は、この関東大震災を教訓とし、防災意識を高めようと制定された記念日だ。 つい最近も、私の住む伊豆半島で震度6という、かなり大きな地震があった。 いつものように、午前3時に仕事を終えて眠りにつき、爆睡中の午前5時、その激しい揺れは突然やってきた。 最初は夢かと思い、やや目が覚めてからはメニエール特有の目まいの発作かと思ったのだが、激しい音が聴こえていたので、発作などではなく、これは地震だと理解した。 揺れがなかなか収まらないので、このまま大きな地震になってしまうのかなぁと不安も感じたが、幸いにも、それ以上大きくならずに終わってくれた。 その日は、家族・友人・クライエントの方々から「大丈夫?」のメールが夜まで続いた。 そりゃ震度6と聞けば誰だって心配になりますよねぇ。 一つ一つメールを読みながら、「心配してくれる人がこんなにいるんだなぁ」と、目頭を熱くする想いだった。 幸いにも、私の居る熱川地区は、伊豆半島の中でも地盤が硬いらしくて、周辺より震度で1〜2程度揺れが弱まるらしい。 10年前の地震のときも、隣町の伊東では古い家屋が何軒か倒壊してしまったようだが、熱川ではまったく被害が出なかった。 まぁ、そうは言っても油断大敵ということで、今年も9月1日に地域の防災訓練に参加してきた。 今年の防災訓練は、昨年と同じ下田へ行ってきた。 下田の防災訓練は、大都市で行われるような大規模な訓練ではなく、比較的コンパクトな訓練だ。 しかしながら、その内容は充実していて、県警・海上保安庁・消防・陸上自衛隊などの各組織が、ヘリコプターによる救助者の搬送、海上での救助、海上から陸上への救助者移動、陸上での救命活動などの多彩な訓練が行われ、その見事な動きに、一市民として安心や心強さを感じることができる。 その他にも、救急救命士によるAEDの使い方や、起震車による地震体験などもあり、普段忘れがちな防災意識を、心身共に思い出させてくれる。 地震は、何時、どこで起こるかわからない。 近頃は防災に無関心な人たちが多くなったと聞く。だが、いざ災害が起こったときに、日頃から防災意識が有ると無いとでは、“生き抜く”という点で大きな違いが出てくると思う。 防災訓練も平日に行われると、参加したくても参加できない人が多くなってしまうと思うが、せめて、避難経路の確認や三日分の水と食料の確保など、自分でできる最低限の防災はやっておいたほうが良いと思う。 これは余談ですが、私が下田の防災訓練に行くのには、一つだけ防災意識とは別の理由がある。 それは、まことに不謹慎ながら、陸上自衛隊のカレーライスが食べられるということだ。 下田では、訓練が終わるころになると、辺りになんとも美味しそうなカレーのにおいが漂い始める。 『野外炊具1号(改)』で作られるカレーライスの味は絶品である。 カレーに相性の良い、やや硬めのご飯と「これぞカレー!」という王道をゆくルーとのハーモニーは、一度食べたらやみつきになってしまうほど美味しい。 お前はカレーライスが食べたくて防災訓練に行くのか?!と聞かれれば、理性では「いいえ」と答えられる。しかし、ふいに聞かれて本能で答えてしまったならば「はい」と言ってしまいそうな自分がいる。 もう少し正直に言うと、今年も下田に行った最大の理由は、あのカレーライスの味に釣られてしまったからです!(誤解のなきよう申し上げておきますが、陸上自衛隊は、カレーライスで参加者を釣っているわけではありません。) 来年も下田の防災訓練に行ってしまいそうです。 地震の神様!どうかこの不謹慎おやじをお許しください!