第三話
記憶をなくす前のセイラは何者だったんだろうって、あたしはよく考えた。
あの優雅(ゆうが)な立ち居(い)振舞(ふるまい)といい、上品な物腰(ものごし)といい、どう考えてもただの平民とは思えない。
どこかの国の大貴族のお坊ちゃんか、ううん……もしかするとそれ以上の身分だったかもしれない。
でも、それならどうしてセイラは、供人(ともびと)も連れずに、たった一人で現れたりしたんだろう?
この国に来る途中で、ほかの者は迷子になってしまったのかしら?
それとも、セイラの方がはぐれて、この国に迷いこんでしまったのかな……?
あたしの憶測(おくそく)は、どこまでいっても、答えの出ない堂々めぐりを繰り返すばかりだった。
そういえば一度、セイラに請(こ)われて、外に出られるようになったばかりの頃に、あたしたちがセイラを見つけた場所に連れて行ってあげたことがあった。
わずか半月ほど前は一面の銀世界だった所も、春が深まるにつれすっかり様(さま)変わりしていて、若草の緑が萌(も)えわたる野原になっていたっけ。
あたしはそこで、セイラがどんなふうに空から舞い降りてきたかを話して聞かせた。
セイラは遠い目をして、長いこと空を見上げていたけど、格別なにかを思い出したようすはなかった。
あの時セイラは気を失っていたんだから、それも当然かもしれない。
ただ、あたしがセイラを運んできた光輪(こうりん)の話をすると、ひどく難(むずか)しい顔をして考えこんでしまったんだわ……。
あの不思議な光の輪は、一体なんだったんだろう?
セイラが地上に着いた途端(とたん)、玻璃(はり)が壊れるような、甲高い音を立てて消えてしまったけど……あんなものは、今まで一度も見たことがないわ。
セイラの国では、あれに乗って人が空中を運ばれていくのかしら?
あははっ、それって、まるでタンポポの綿毛みたいだわね。
そんなことを、あたしがとめどなく考えていると、どこからか、妙(たえ)なる笛の音が流れてきた。
この山荘には笛を吹く者なんていないし……誰だろう?
聞いたことない調べだけど、すがすがしい音色だわ。心が洗われるような気がする。
そう思ったあたしは、桔梗を呼んで聞いてみた。
「さっきから笛の音が聞こえるんだけど、どなたかこの近くに来てるの?」
桔梗は、おかしさを隠しきれないようにクスクスと笑った。
「いいえ、姫さま。あの笛の音の主(ぬし)は、セイラさまですわ。権(ごんの)大納言さまが昨年、山荘に来られた折(おり)に置いていかれたものを、セイラさまが見つけて、鳴らしていらっしゃるのです」
「セイラが――!」
あたしは、すぐさま笛の音のする方に駆け出した。
記憶を失くしているセイラに、まさかこの国の笛が鳴らせるなんて、想像さえしてなかった。
セイラって、ほんと、あたしを驚かすためにいるような奴だわ……。
セイラは庭先に下りて、簀子縁(すのこえん)に腰かけながら、笛を鳴らしていた。
あたしが勢いよく駆け込んでいくと、つとその手を止めて、こちらを振り返った。
「綺羅(きら)姫、どうかしましたか?そんなにあわてて……」
それから、なにかを思い出したようにクスリと笑って、人なつっこい表情を見せた。
「そういえば、綺羅姫はいつもあわてていますね」
「セイラがあたしを驚かせるからよ!ねえ、セイラって笛が鳴らせたの?」
「ええ、そうみたいですね。なんとなく鳴らせるような気がして、手にとってみたのですが……」
セイラは、手にしている笛をもてあそびながら、ため息まじりに苦笑した。
「どうも、笛にさわるのは久しぶりのようで、なかなか手が思うように動いてくれないんです」
「それだけ鳴らせれば充分だわ。えっ……待って、今久しぶりって言ったわよね!」
その時、あたしは突然、あることを思いついた。
「ちょっと待ってて!セイラ」
あたしは急いで納戸(なんど)に取って返し、桔梗を呼んだ。
「桔梗!ここに入れてある、父さまが置いていった笙(しょう)や琵琶(びわ)を出して、セイラのところまで持ってきて!ついでに、あたしが以前使ってた筝(そう)の琴(こと)もね」
あたしは、山荘においてある管弦(かんげん)の一切合財(いっさいがっさい)を、セイラの前に並べたてた。
「これはね、この国で使われてる管弦の楽器よ。セイラ、この中で笛のほかに演奏できそうなもの、ある?」
「ある……と、思う……けど?」
セイラは、あたしの迫力と勢(いきお)いに気圧(けお)されしたように、目を丸くしながらそう答えた。
「じゃあ、やってみて」
それからほどなくして、あたしは唖然(あぜん)としてしまった。
なんてことだろう――!
セイラは並べてあった管弦の全てを、演奏することができた!
笙(しょう)も琵琶も、おまけに筝(そう)の琴まで……!!
ただ、演奏できたっていうだけじゃない。
そのどれもが、とても初めて手にしたとは思えないほど、流麗(りゅうれい)で幽玄(ゆうげん)な調べをかなでたのだった。
筝(そう)の琴にいたっては、その鮮やかな指さばきといい、うっとりするような音色といい、まさに至妙(しみょう)の技と言えるほどだった。
ふと横を見ると、桔梗もあっけにとられた顔をしている。
無理もないわ……。
そりゃあ、篁(たかむら)も琵琶は結構(けっこう)うまかったりするけど、音色(ねいろ)の素晴らしさは、セイラとは比べ物にならない。
都の公達(きんだち)にだって、それぞれの名手と言われる方はいるけど、全ての管弦をこれほど完璧にこなせる人なんていないと思う。
ましてやセイラはまだ十七歳で、しかも異国の人間で、だから、この国の管弦なんか演奏できなくて当然なのに……。
「セイラ……あんた、何者?」
あたしにそう聞かれて、セイラはひどく困った顔をした。
あたしがセイラの前に管弦を並べてみせたのは、笛を鳴らしているセイラを見て、もしかしたら身体で覚えていることなら、記憶を失っていても思い出せるかもしれないって思ったからだった。
まさか本当に演奏できると思ってたわけじゃなくて、ただ、なんでもいいからやらせてみて、セイラにできることを、試してみたかっただけだったんだけど……。
その思いつきは、ものの見事に的中(てきちゅう)した!
セイラは、雅楽寮(ががくりょう)の楽師(がくし)も顔負けの、並はずれた管弦(かんげん)の奏者(そうしゃ)だってことがわかった。
でも、そのことは逆に、もっと大きな疑問を生むことにもなってしまった。
なぜセイラには、この国の管弦を、あれだけたくみに演奏することができたのか?――
それを、セイラに問いただしてみても、答えられるはずがない。
セイラは記憶を取り戻したわけじゃなくて、単に、身体が覚えていることを、覚えている感覚のままに演奏したにすぎないのだから……。
なぜ?――と聞かれるまでもなく、一番とまどいを感じて、それを知りたがっているのは、あたしたちよりもセイラの方なんだと思う。
あたしは、自分なりに知恵をしぼって、なにかうまい説明がつかないものかと考えてみた。
この国の管弦は、もともと唐から伝来してきたものだから、桔梗の言うように、セイラが唐の国にいたことがあるんだとすれば、演奏できてもおかしくない。
セイラは、記憶をなくす以前、たとえば、唐の宮廷(きゅうてい)おかかえの楽師(がくし)のようなことをしていたんだったとしたら(それにしては、気品がありすぎるような気もするけど)一応の納得はいくと思った。
ところが――セイラにできたのは、それだけじゃなかった!
次の日、あたしは、今度はセイラに筆をとらせてみた。
するとセイラは、鮮(あざ)やかな筆づかいで、手本のつもりで書いたあたしの文字がみみずの這(は)った後にしか見えないくらい、墨跡(すみあと)も麗(うるわ)しい見事な手蹟(て)をしたためてみせたのだった。
その上、庭から見える景色を、さらさらと山水画(さんすいが)風に描き上げてみせたりもした。
まるで、この程度のたしなみは当たり前、とでもいうようにいともあっさりと……。
それからというもの、あたしは、それ以上セイラをためそうと思わなくなった。
セイラは、一体何者なのか――?
その答えを知るのが、あたしはだんだん怖くなり始めていた。
セイラにできることを知れば知るほど、どんどんセイラがあたしの手の届かない存在になっていきそうな気がした。
あたしは強(し)いて、疑問の箱のふたを閉じることにした。
たとえ何者だったとしても、セイラはセイラよ。それでいいじゃない――あたしはそう思うことに決めた。
2.青嵐(せいらん)
セイラが元気になってから、あたしはよく、セイラを外に連れ出した。
お弁当を持ってお花見に行ったり、白木蓮(はくもくれん)や、水仙(すいせん)の群生(ぐんせい)している場所を教えてあげたり、杉林の中を散歩したり……。
そんな時に、セイラの笛の音を聞かせてもらうのが、あたしのなによりの楽しみだった。
セイラはずっと快活(かいかつ)になり、よく笑い、頼みもしないのに心安く山荘のまき割りや水くみを手伝ったりもした。
セイラがそこにいるだけで、山荘の雰囲気がパァ―っと明るくなるようだった。
あたしは、二人でずっとこの山荘で暮らすのも悪くないなあ、なんて思い始めていた。
そんな頃、山荘に、都の帝からのお使者がやって来て、文を届けていった。
あたしがそれに目を通していると、セイラのかき鳴らす、華やかな筝(そう)の琴の音色がもれ聞こえてきた。
あたしはにんまりとして、文を懐中(かいちゅう)におさめると、セイラのところへ向かった。
「綺羅姫?誰かお客人が来ていたようだけど……?」
この頃になると、セイラもだいぶ打ちとけて、親しみのある、くだけた言い方をするようになっていた。
「もうお帰りになったわ。文をいただいたのよ。へっへぇー、誰からだと思う?帝(みかど)からよ」
「帝?この国の帝は、そんなふうに気軽に誰とでも文のやりとりをなさるの?」
「ううん。めったにないことよ。でも、あたしは昨年帝のお手伝いをしたことがあるから、それで仲良しになったの。どお?すごいでしょ!」
あたしは懐中から取り出した文を、自慢気にセイラに見せびらかした。
セイラは興味をひかれたように、キラキラと目を輝かせた。
「文には、なんて……?」
「早く元気になって、都に戻ってきてくださいって。ほらね」
あたしは文を広げて、セイラに手渡した。
そこには、春の歌に寄せて、恋心を詠(よ)みこんだ歌が二首つづられていた。
『春来ぬと 目にはうつらじ 心にも
君がかへると きかぬかぎりは』
〔春が来たというけれど、あなたのいない春は、わたしの目にはなにもかも味気なく、素っ気なくうつります。あなたが都に帰ってきたという、うれしい報(しら)せを聞くまでは、わたしは本当に春が来たとは思わないことにしましょう。(ですから早く帰っていらっしゃい)〕
『み吉野を しかもかくすか 春霞(はるがすみ)
香(こう)をだにはこべ しのぶ心に』
〔春霞が、あなたのいる吉野の山をすっかり隠している。せめては霞よ、吉野の花の香と一緒に、あの人の香(のする文)なりとわたしのもとに届けておくれ。わたしはこんなにもあの人のことをいとしく思っているのだから〕
「ねっ、代筆(だいひつ)なんかじゃない、ちゃんとした親筆(しんぴつ)よ。あたしも、これでいて結構、意外な方と親しかったりするわけよ。どお、驚いた?」
ほーっと、セイラの口から感嘆(かんたん)の声があがった。
「見事な筆跡(ひっせき)だね。人柄(ひとがら)がしのばれる……。綺羅姫は、帝に大切に思われてるんだね。これが、歌っていうもの?」
「そうよ」
あたしは、歌の意味を一通りセイラに読み解(と)いて聞かせた。
「セイラも、この国にいる間は、お歌の一つや二つはつくれるようにならなくっちゃね。この先、恋文も書けないわよ」
ははは……と軽く笑って、セイラはこたえをはぐらかした。
「ところで、帝はどういったお方なんだい?」
「うーん、そうね……はっきり言って、あたしは好きなタイプよ。年の頃は二十二歳ぐらいかしら。きりりとした眉と目をしていて、精悍(せいかん)な顔立ちをしてるわね。帝のわりには、今どきの公達(きんだち)みたいななよなよしたところがなくて、頭も切れるし、行動力もあるほうよ……だけど、難点はこれね」
あたしは、セイラから受け取った文に、チラッと目を落とした。
「そりゃあ、帝は凛々(りり)しくって美男子(ハンサム)だし、あたしのこと気に入ってくれてるのは、ちょっとだけうれしかったりするけど、それでなくたって帝のまわりには、お美しい女御(にょうご)さま方や女官が大勢いるんだから、なにも後宮に入るつもりなんて全然ないあたしにまで、ちょっかい出さないでほしいのよね。おかげであたしと篁の結婚まで、のびのびになってしまってるし……。こういうとこが自信過剰っていうのか、浮気性っていうのか……要するに、気に入ったものはなんでも自分の手元に集めたがる性分なのよ。独占欲が強いんだわ、きっと!」
その時突然、あたしの背中を、ゾクゾクーッとものすごぉく嫌な悪寒(おかん)が走った。
そうよ!セイラみたいになんでもできて、まれにみる美形を、あの帝が欲しがらないはずがない。
もし、帝がセイラのことを知ったら……絶対放っておかないわ!
セイラは男だから、いくらなんでも、まさか後宮に入れられるようなことはないだろうけど、でも帝は、必ず一人占めしようとするに決まってる!
「ふーん、なんだか面白そうな方だね」
帝のことをよく知らないセイラは、のん気ににこにこ笑ってるけど、あたしは、心配事の種がまた一つ増えたような気がした。
「それで、綺羅姫はいつ、都へ帰るの?」
「うん……もう少ししたらね。セイラの記憶もまだ戻ってないし……」
歯切れの悪いあたしの返事を聞いていたセイラは、急に、真面目(まじめ)な顔をして言った。
「私はね、綺羅姫……都へ行ってみようと思ってる」
「えっ!」
あたしはドキッとした。
たった今、セイラを都へ行かせないほうがいいって、思ってたところだったから。
「考えたんだよ。私が、どこの誰かはわからなくとも、おそらく、どこか遠い所から、はるばるこの国にやって来た……。それにはなにか理由があったはずなんだ。なにかの目的がね。都に行って、それを探し出せるかどうかわからないけど、記憶の手がかりを得るためにも、私は都へ行ってみるべきだと思う。……綺羅姫には、これまでずいぶん世話になったね。感謝してる」
そういって微笑(ほほえ)んだセイラの目には、強い決意がこめられていた。
「ダメよ!」
あたしは思わず叫んだ。
「セイラ一人で都に行くつもりなの?あたしは、セイラが記憶を取り戻すまで、責任を持って預(あず)かるって決めたんだから。セイラが都に行く時は、あたしと一緒に行くのよ!」
セイラの瞳(ひとみ)が、急速にかきくもった。
「これ以上、綺羅姫の世話になるわけにはいかないよ。右近衛少将殿にも悪い。私のような者がそばにいることを、きっと気にしてるだろう」
ふし目がちにセイラにそう言われて、あたしははたと、セイラが目覚めてから、篁にまだ一度も文を書いていなかったことに気づいた。
篁は、今だにセイラのことを、天女だって思ってることだろう。
「た、篁のことなんて、気にすることないわ!そんな心のせまい人だったら、婚約はこっちからお断りよ!あたしはセイラの友だちになるって約束したんだもの。セイラは約束を破るの!?」
あたしは必死で抵抗した。
このままセイラと離れ離れになるなんて、それだけは絶対嫌だった。
「綺羅姫……」
セイラは、至極(しごく)困りきった顔をした。
思案に窮(きゅう)したような、憂(うれ)いと焦燥(しょうそう)が入り混じったような……。そんな複雑な目をして、あたしを見つめていた。
あたしが都へ帰るのをためらっていたのは、本当のことを言うと、セイラをずっと一人占めしておきたかったからかもしれない。
都へ行ったら、セイラはきっとみんなの注目を浴びるだろう。
銀色の髪に、紫の瞳の超美形っていうだけでも、充分人目を引くのに、あの優雅な物腰で、どんな管弦だってたくみにこなしてしまうんだから、みんなが放っておくわけがない(もっともセイラには、あんまりそういう自覚がないみたいだけど……だからこそよけいに始末が悪いのよね)。
なかでも一番やっかいなのが帝だった。
都に行ったセイラを、黙って見逃しておくはずがないもの。
あたしには、都に行って帝の目にとまったセイラが、面倒に巻き込まれるのが今から目に見えるようだった。
それになによりも、都に帰ったらあたしは、今みたいに、好きな時に好きなだけセイラと一緒にいるっていうわけにはいかなくなってしまう。
名門の姫君ともなると、一日中邸の奥の御簾(みす)の中におさまって、おとなしくしていなければいけないわけよ。
自分から殿方(とのがた)に会いにいくなんて、もってのほか、ということになるのよね。
たとえ、セイラを都のあたしの邸(やしき)に連れていったとしても、邸の中は広いから、セイラだって篁に遠慮(えんりょ)して、そうそう会いになんて来てくれなくなるだろうし……。
そんなことを考えていると、セイラがあたしから遠く離れていってしまいそうで、その夜、あたしはいつまでたっても眠れなかった。
眠れないまま起きだして、格子戸(こうしど)を開け、簀子縁(すのこえん)に出てみた。
少し離れたところにつってある吊燈籠(つりどうろう)が、風のせいか、かすかにゆれている。
空には、きれいな下弦(かげん)の月が懸(か)かっていた。
その月明かりに照らされて、庭のはずれにぼんやりとした人影が見えた。
一瞬ギョッとした後で、すぐに胸をなでおろしたのは、その人影の長い髪が、月明かりを受けてキラキラと白く輝いていたからだった。
「セイラ……!」
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