富山弥兵衛

生年 天保14年
出身地 薩摩
役職 伍長
略歴 四郎。源豊国。
元治元年12月までの京坂における隊士募集に応じて入隊し、同月の編成では松原忠司の七番大炮組に所属した。
薩摩藩が新撰組の内情偵察のために入隊させようとしたが、疑惑を持たれて拒絶されかけたが、伊東甲子太郎の口添えによって入隊が許されたとも。

年次不明ながらも川島勝次を斬殺した。
慶應3年3月、伊東らが御陵衛士として分離すると、随従同志の身分で同行。同年11月18日の油小路の変では、現場に急行し、待ち伏せていた新撰組の襲撃を受けるが、逃走する。

同年12月には、阿部十郎らと謀り、近藤を狙撃。暗殺に失敗する。鳥羽伏見では薩摩軍に属して戦い負傷したと伝わる。
事件 奈良浪士探索、油小路の変
最期 越後出雲崎で、水戸諸生党に捕らえられ脱走したものの、追手によって殺害。梟首された。
墓所 戒光寺、教念寺、金谷山医王寺
一言メモ 出雲崎町の富山が殺された場所付近も行きました。本当にたんぼでした。司馬さんの「新選組血風録」の「弥兵衛奮迅」の最後の部分、まさにその通りだったんだな・・・・と感じました。しかし、出雲崎は意外と近い。

教念寺・・・新潟県三島郡出雲崎町吉水1031

教念寺の富山の碑。

墓じゃないのでは?
という声もあがるかも
しれませんが、遺体がここに埋葬されているんで、墓と思ってお参りしてきました。
教念寺境内。

この道を進んで右に
曲がると階段があります。

それをひとまず登って、
右に行くと富山の碑が
あります。

金谷山医王寺・・・新潟県上越市寺町2−13−9

医王寺にあります
「薩藩戦死者墓」です。

この墓の土台の陶板に
富山の名前があります。

戒光寺・・・京都市東山区泉涌寺町山内町29

戒光寺墓地の
富山弥兵衛の墓。

富山四郎の名前で
刻まれています。