生年 | 文政11年1月15日 |
出身地 | 美濃厚見郡雄綱村 |
役職 | 諸士調役兼監察、伍長→見廻組並、改役 |
略歴その1 | 近藤伊右衛門の次男として生まれ、両親を失ったのちに、母方の親戚筋である永縄家や川島家に寄宿し、29歳で江戸へ出て飯田町の坪内主馬の道場で心形刀流を学ぶが、この間にこの道場に出入りしていた永倉新八と出会う。 その後、上洛して丹波屋定七方の入り婿となったが、大垣藩島田才の望まれて養子となる。 |
略歴その2 | 新撰組に入隊したのは文久3年5月までのことで、5月25日に壬生浪士組34名が連名で幕府に提出した上書に名前を載せた。 諸士調役兼監察を務め、池田屋事変にも参戦。慶應元年夏の編成では、二番隊伍長となる。が、なぜか幕臣取り立てのときには「平士」になっているんですよね(^^;) 慶應4年1月に鳥羽伏見の戦いに参戦。伏見奉行所の塀の上から永倉を引き揚げ救出した話しは有名。江戸引き揚げ後、甲州戦争にも参加。その後、五兵衛新田、流山での屯集にも参加。近藤が投降後は一切を土方と行動をともにする。 |
略歴その3 | 蝦夷渡航後は、松前城戦などを戦い、改役に。明治2年5月15日、弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容されたのちに名古屋藩に預けられる。明治6年に釈放されたのちは京都で西村さとと結婚、5男1女をもうけた。剣術道場の経営などを経て西本願寺の守衛として働く。 |
事件 | 新撰組の通史上、芹沢暗殺以外の全て(^^;) |
最期 | 明治33年3月20日持病の喘息の発作が出て死亡。享年72歳。 |
墓所 | 東大谷墓地 |
一言メモ | 終生土方の戒名が書かれた布を肌身離さずに生きた。維新後に榎本武揚に「旧交を温めたい」と連絡されても絶対に会いに行かなかった。また、西本願寺の記録に「新撰組が(屯所として利用していた)西本願寺を去っていったあとも一人の隊士だけは残り、終生お念仏を唱えて同志たちの菩提を弔った」とあるが、これは島田のことなのだろうか? |
東大谷墓地・・・京都市東山区 |
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この写真は、 平成13年まであった 島田魁の墓碑です。 現在はありません。 |
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