篠崎信八郎

生年 弘化2年
出身地 常陸松川
役職 平隊士→見廻組並御雇
略歴 平利秀。慶應元年5月、土方の江戸での隊士募集に応じて上洛。

慶應3年3月に伊東らが御陵衛士として新撰組から分離したときには同行せず、6月に幕臣に取り立てられた後に、脱走して御陵衛士に合流。

同年11月の油小路の変の際には、伊勢に遊説中で、12月には阿部十郎らと、近藤の妾宅で沖田総司を襲ったが留守であり、その日、近藤を富山弥兵衛らと襲撃する。

翌年、鳥羽伏見の戦いが始ると、綾小路俊実にしたがって挙兵。相楽総三らと赤報隊を結成。その後、独走する相楽たちと別れて帰京し、一度投獄されるがすぐに釈放。その後奥州を転戦する。
事件 近藤勇狙撃事件
最期 田口次郎に暗殺された(篠原談)とも、中西登に殺されたとも(阿部十郎談)。
墓所 戒光寺
一言メモ 彼が暗殺される話しは、子母澤が書いてます。

戒光寺・・・京都市東山区泉涌山内町29

新撰組を離隊して、御陵衛士に
なってからは「佐原太郎」と
名乗ったので、墓碑銘も
「佐原太郎」となっています。

墓碑の剥落が激しいですね。
戒光寺墓地の
御陵衛士墓所。

佐原の墓碑は
一番手前の左。