永倉新八

生年 天保10年
出身地 江戸下谷の松前藩邸の長屋
役職 副長助勤、二番隊組長、剣術師範→見廻組格
略歴 載之。松前藩士長倉勘次の子として生まれる。
神道無念流を岡田十松と百合本昇三、心形刀流を坪内主馬に学び、この坪内の道場で島田魁と出会う。

いつからか試衛館に出入りするようになり、、文久3年に浪士組に参加し上洛。
浪士組本隊の江戸帰還が決定すると、3月10日には芹沢派とともに京都残留を希望し、12日に会津藩御預浪士組の一員となり、15日には会津藩邸を訪問し、22日提出の板倉勝静への建白書にも連名している。
大坂力士乱闘事件にも参加。元治元年の池田屋事件にも参加する。その後増長する近藤に対しての建白書を会津藩に提出するなどしたが、9月には将軍上洛要請と隊士募集のために江戸へ下る近藤に同行し10月に帰京した。

慶應3年6月に幕臣に取りたてられ、12月の近藤狙撃事件には二番隊を率いて現場に急行している。
慶應4年1月の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、3月の甲州戦争にも参戦。

その後、原田左之助らと靖共隊を結成して副長となり、新撰組と袂をわかった。
4月の江戸開城後、鴻ノ台に脱走し、旧幕府軍に合流し日光を目指す。今市の戦いに苦戦し、援軍を求めて会津に向かうがそれもならず、結局江戸へ帰ることになる。

その後、旧幕府軍が蝦夷でまだ戦闘状態にある時期に松前藩に帰参。藩医杉村松柏の養子となり、杉村義衛を名乗る。明治9年ごろから板橋駅前の新撰組慰霊碑、高幡不動尊境内の「両雄殉節之碑」などの建立に奔走する。
事件 八月十八日の政変、池田屋事変、禁門の変、油小路の変、鳥羽伏見の戦い、甲州戦争
最期 大正4年1月5日、虫歯をこじらせて敗血症で死亡。享年77歳。
墓所 寿徳寺境外墓地、里塚霊園、松光院墓地
一言メモ 新撰組史上、最強の剣客は彼かもしれませんね(^^)

里塚霊園・・・北海道札幌市清田区里塚468

札幌の里塚霊園です。
札幌駅からタクシーで
4000円ちょっと。

福住駅からバスが出ています。

松光院墓地・・・岡山県岡山市飽浦

西飽浦バス停下車してすぐの、松光院墓地にあります、長倉本家の墓です。この墓のとなりに、永倉さんの一生と「竹の心ろ一筋」の歌が刻まれている碑があります。
永倉さんの歌碑。

JR岡山駅から
西飽浦まで、・・・

バスで50分ほど。

寿徳寺境外墓地・・・東京都北区滝之川7丁目

JR板橋駅東口を出てすぐ。
マクドナルドの向かいです。

横には、「近藤・土方の墓」と
書かれた新撰組慰霊碑が
あります。