生年 | 不明 |
出身地 | 播州小野 |
役職 | 副長助勤、四番隊組長、柔術師範 |
略歴 | 藤原誠忠。播州小野藩士の子に生まれ安政年間に藩を追われて大坂で柔術の道場を開いていた。 入隊は文久3年5月までにしており、坊主頭であったと言われている。 |
事件 | 八月十八日の政変、池田屋事変、 |
墓所 | 光縁寺 |
最期 | 彼には有名な「壬生心中」と言われるエピソードがあります。 慶應元年、隊士たちと酒を飲んだあと芸者に送られて四条大橋を通りかかったときに、浪士「安西某」とすれ違いささいなことから口論となり、松原は安西を斬ってしまうのです。 しかし斬ったあとで気の毒に思った松原は安西の懐をみると、銭入れに住所が書かれた紙があったので、遺体を背負ってそこへ届けることにしました。 するとそこには、綺麗な奥さんと病気の子供がいたんです。そこで思わず「お宅の御主人は四条大橋で何者かと斬り合っていた。拙者は助太刀しようと思ったが、すでに斬られたあとだった。不憫に思い遺体を運んできたわけである。」と言ってしまいました。 その後隊務のおりを見てそこへ通うようになり、病気だった子供も亡くなってからはもう恋仲になっていました。 これを聞きつけた土方に「人の妻に恋慕した男がその主人を殺しておいて親切面で近づいて自分のものにした、という武士がいたとしたら、松原君、どう思う?」と言われ、松原は激昂し、切腹を図ったのですが、篠原泰之進に途中で見つかり失敗に終わりました。 その後平隊士に降格。で、隊務もおろそかになり、やがて「安西の妻」と心中を図った・・・という話しです。 これは子母澤の創作とも言われていますが、彼のお葬式代が異常に高いために「心中を隠蔽するために豪華な葬式」を行ったのでは?とも言われてます。ただ、切腹を図り失敗したことは本当で、その傷が悪化し、死んだとも言われています。 |
一言メモ | 播州小野藩の史料に、「松原忠次」の名前で出て来るんですよね(^^) |
光縁寺・・・京都市下京区四条大宮西 |
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光縁寺の墓碑。 一番右に 「松原忠司誠忠」と、 あります。 |
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光縁寺の新撰組隊士墓碑全景 |
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一番左が 松原の合葬墓 |