伊東甲子太郎

生年 天保6年
出身地 常陸志筑
役職 二番隊組長→参謀
略歴 前名を鈴木大蔵。後名を伊東摂津。

鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。九番隊組長三木三郎は実弟。神道無念流、北辰一刀流を使う。

父の閉門蟄居にともない母方の里で三郎と過ごし、水戸へ出たのちに剣術と水戸学を学ぶ。江戸深川佐賀町の北辰一刀流伊東誠一郎道場に入門し、その娘の婿となり道場を継ぐ。

元治元年秋、東下中の藤堂平助の勧誘を受け、新撰組入隊を決意。しかし、その目的は新撰組の思想を勤皇化するためとも言われる。

同年10月に、伊東派同志は近藤とともに上洛。慶應3年には新井忠雄とともに、九州を遊説する。この時に「宇田兵衛」の変名を使用。

帰京後の慶應3年3月13日、孝明天皇御陵衛士として、新撰組から分離。8月には同志と長州寛典の建言書を柳原光愛と板倉勝静に提出し、新井忠雄とともに再び九州におもむく。9月には篠原泰之進とともに、徳川慶勝の上洛要請のために名古屋へ出張する。
事件 奈良潜伏の浪士探索・慶應元年、2年の長州訊問使。
最期 慶應3年11月18日、近藤の妾宅で宴会をした帰途、油小路七条で待ち伏せていた大石鍬次郎らによって刺され、本光寺の門柱石に座り、「奸賊輩」と叫んで死んだとも自刃したとも。
墓所 戒光寺(光縁寺に埋葬、後に改葬。
一言メモ 伊東が近藤の妾宅に呼ばれた理由は諸説ある。一つは「伊東先生のご高説をお聞きしたい」というものと、もう一つは伊東が近藤に借金を申し込んでいて、そのお金が用意されたから、というものです。また、「当時の本光寺の門前には茂みがあり、伊東はその茂みの中に逃げようとして後ろから斬られた」という話しもあるそうです。

京都市東山区泉涌寺山内町29

「誠斎伊東甲子太郎」と
刻まれる伊東の墓。
墓碑左側面。
かなり画像を加工してます。

左から「内海忠利」「加納正通」
「阿部隆明」「新井一業」
「秦林親」「鈴木忠良」です。

彼らの新撰組時代の名は
「内海次郎「加納鷲雄」
「阿部十郎」「新井忠雄」
「篠原泰之進「三木三郎」です。
戒光寺墓地の
御陵衛士墓所の
全景。