■秘密のお仕事




朝廷をにぎわした外朝一斉の人事整理の後、秀麗は正式に御史台の官吏となった。
貴族派が占める御史台においては、国試派である秀麗への嫌がらせは日常茶飯事。
また、他部署とは似ても似つかぬ仕事をさせられるのも、この部署の常であった。
この日も秀麗は、蘇芳と二人組になって新たな仕事に取り組むようにと命じられたところだった・・・。




「ちょっ・・・!ん、もう!タンタン、ちょっとそこ詰めなさいよ!」

狭い空間に蘇芳と二人、無理やり身体を押し込む羽目になってしまった秀麗は、
傍らの同僚に向かってコソコソと小声で文句をつけた。

「しょうがねーだろ。だいたい、ここ、せまいんだから・・・
 ああっ、おいあんまり押すなよー。クモの巣つくだろー」

押し入れの中の幅は狭く、天井も低い。
それでも蘇芳にはすぐ上の天井を見上げながら、まだ自分の衣服の心配をするぐらいの余裕があった。

「何言ってんのよっ!こんなトコ見つかったらおしまいじゃないの。
 早く、早くっ。早く隠れないと、あの人がこっちに来ちゃうでしょ」

「まったく・・・絶対あんたって年頃の女って意識ねーだろ。
 こんなトコにいい年した男と女がこもっちゃったりなんかして・・・。
 隠れるにしても、もう少し場所ぐらい選べっつーの。
 ねぇ、分かってんの?俺、男よ?いい年したオ・ト・コ」

そう言いながら、間近に顔を寄せられた。
突然のことと、あまりの近さに秀麗は少なからず動揺する。

「え・・・?い、いやね、もう。男っていったって、タンタンはタンタンじゃないの」

「・・・何がタンタンだよ、まったく。俺も一応、人並みに年頃の男って事だよ。
 またあんた忘れちまってるみたいだからさ。・・・あのタケノコ家人に教わんなかった?」

”なんでタケノコ家人・・・”

秀麗には、蘇芳がどうしていつも静蘭のことをタケノコ家人と呼ぶのかが謎であった。
二人とタケノコの間には一体ナニが。

「・・・あのね。静蘭にはちゃーんとセイランっていう名前があるのっ!
 勝手にタケノコ家人なんて呼ばないでよね」

「おーお。俺のことはタンタンで、あいつはちゃんと静蘭かよー。
 ま、いーけどね。・・・お、そろそろ、来たみたいだな」




二人がこんな狭いところに詰まっていなければならないのには、ちゃんとした理由があった。
最近上司となった人物に、とある人物を密偵して来いと命じられたからだ。

「二人・・・一緒に、ですか」

「そうだ。こんなところにお前たちどちらか一人で行ったら、逆に怪しかろう」

――― それは、そのとおりなのだが。
花街には姮娥楼を含めて、いろんな店で賃仕事した経験があるので、行き慣れてはいるが、
こうして客として入ったことなど無いので、多少の戸惑いは隠せない。
まして二人対で行かねばならないようなところなんて。
ここにくるまでに、何度「タンタン・男の一般常識教室」を受講しなければならなかったことか。
すでに秀麗は、男の生態に呆れるを通り越して感心の域に達していた。

「なるほど、世の中にはいろんな商売が成り立つわけよね・・・。」

「お、なかなか分かってきたじゃん。そろそろ下半身の問題にも理解が深まった?
 ・・・おわ、いて!あいだだだだっ」

「・・・・・」

秀麗は返事をする代わりに、無言で蘇芳の足を思いっきり踏んづけてやった。


「・・・っだよ、もう。」

蘇芳は涙目になりながら、踏まれた足をさすりつつ、ぶつぶつとこぼした。



「・・・あ、タンタン見てっ。例の人が来たみたいよ」

秀麗が指差した方向には、目の前の御簾を通して、
廊下の角を恰幅のいい年配の男が曲がってくるところが見えた。

「・・・タンタン。やっぱり、あの隣の人って・・・」

「とりあえずあの若さだし、奥方じゃないよなー。愛人、後妻?・・・いや、あいつは・・・」

蘇芳の口調が徐々に緩やかになり・・・止まる。


「タンタン?」



「・・・おっ、あそこ曲がっていったぞ。・・・行くか?」

彼の口調はすぐ元に戻ったので、秀麗はその理由を聞くことができなかった。

「い、行くわよ。・・・何よ、い、行ってやろうじゃないの!」

こんなところで後をつけるということは、何か余計なものを見てしまいそうな気がしたが、
そこはそれ、仕事は仕事。秀麗は半ばやけくそになって言った。




御簾をかき上げ、今まで隠れていた押入れから這い出ると、二人は彼らの後を追って廊下に出た。
とたん、肩にまわされて来た腕に気付いて秀麗は飛び上がりそうになる。
いや、こんなところであんまり離れて歩くのも不自然な気はするが・・・


「・・・あんま、硬くなんなよな。なんか、俺が悪いことしてるみたいだろ?」

「しょ・・・しょうがないでしょ。こ、こんなことには慣れてないんだから。
 タンタンだから尚更なのよ。き、気にしないでよねっ」

「まぁ、俺はいいけどね」


しょうがなさそうに片眉を上げて軽く笑った彼は、可笑しそうに秀麗の鼻を指ではじいた。




小馬鹿にされたことに秀麗が反論しようとしながら、廊下の角を曲がっていくと、
とたん、肩に乗せられた手に急に力が込められた。
ぐいと後ろに強く引っ張られたかと思うと、後ろの壁にだんと打ち付けられる。


「なっ、タンタ・・・」


ばさりと先ほどまで彼が肩にかけていた上着を頭からかぶせられたのを感じた。
目の前に蘇芳の息を感じて、視界が暗くなる。


「・・・ちょっと黙っててくれる?」


にこりと笑ったタンタンの目元から視線が離せない。
柔らかな感触が口元を覆い、息が止まりそうになった。


「・・・・・んっ・・・!」




真っ白に染まりかけた頭に水を浴びせるように、どたどたと足音がして、
すぐそばを例の人物の声が通り過ぎた。

「どうしてそんなことになったんだ。だいたい肝心の報告はどうした・・・!」

声を荒らげ、先ほどは伴っていなかった痩せっぽちの男を従えて男は足早に去っていく。
自分たちが追っかけていたはずの人物が戻ってきて、すぐ横を通り過ぎたのだと理解するまでには、
ほんの少し時間が必要だった。




「はぁー。・・・なんか、マズイ雲行きかも」

足音が聞こえなくなったとたん、脱力してのしかかる蘇芳に押しつぶされそうになった秀麗は、
視界を遮る上着を剥ぎ取ると、蘇芳の体を一生懸命両手で押し戻しながら文句を言った。


「タンタン・・・歯、食いしばってもいいわよ」

「冗談、俺何にも悪いことしてないし・・・」


その時、耳元でザクッと何かが壁に刺さる音がして、タンタンの視線が一点に集中した。


「・・・タ・ン・タ・ン・君」

「げっ、タケノコ怪人。なんでここに・・・」

「タンタン君が・・・この剣の切れ味を体感してみたいんじゃないかと思いまして。」


・・・ヤバい。もう少し早く見つかっていれば、自分はこいつに瞬殺されていたに違いない。


見つかったのが例の男が通り過ぎた後でよかったと思いつつ、
しらを切れる状況にはないと観念した蘇芳は、無駄な言い訳をせず、おとなしく白旗を揚げることにした。




「あ、あら、静蘭じゃないの。ホホホ。き、奇遇ね。こんなところで・・・」

蘇芳が離れると、後ろの静蘭と目があってしまった秀麗から”ホホホ”がでた。

「・・・・・」

”こんなところで” 静蘭は胡乱な目で秀麗を見た。静かに怒りを抑えているようにも見えた。

もちろん彼には、今日は蘇芳とどこに行くのかなどとは知らせてはいない。
ただ、蘇芳と落ち合って仕事に行くと言ってきたきりだ。

静蘭は沈黙を守り静かに無表情で身動きもしない。こういうときの彼には秀麗は絶対に勝てなかった。



「せ、静蘭、あのね、落ち着いて?」




「・・・えーと、いいの?このままじゃお嬢さんが調べてこいって言われた相手に逃げられるんだけど」

話が長くなりそうだと直感した蘇芳は、秀麗に助け舟を出した。

「・・・ああ・・・、大丈夫ですよ。彼については組連も動き始めたようなので。
 私も実は、胡蝶さんに頼まれてここに来たんですよ」

意外にも、知らないはずの静蘭がずばりと核心を突いてきた。
事情は理解しているので後は追わなくても大丈夫・・・言外にそう言われているようだった。

「それと、タンタン君に胡蝶さんから伝言ですよ。」

「・・・・・」

耳打ちされて、青ざめ冷や汗をたらし始めたタンタンに、秀麗は少なからず同情をした。

”い、一体、何の伝言だったのかしら・・・”







「・・・さて。秀麗ちゃんたちが今日追っていた相手ってのは、
 最近ここいらで派手な動きをやっていたお大尽でねぇ・・・
 あたしたちもそろそろ潮時だなぁとは思っていたところなんだよ」

姮娥楼の中の一室、胡蝶は、裾からのぞくすらりとした長い足を組みかえながら、
しなやかに細い腕を優雅にあごに添えて、ゆっくりと二人に向かって話し出した。


「そこへ、私がお嬢様を姮娥楼へ探しに来たものですから、
 逆に胡蝶さんに、二人の様子を見に行くようにと頼まれてしまいまして・・・」
胡蝶の説明に、静蘭が苦笑いをしながら口を挟む。


実は、胡蝶のところへは二人も最初に足を運んでいた。
下街に詳しい胡蝶に、あの男がいそうな店を探してもらったわけなのだが、
わけも聞かずに、思いのほかすんなりと教えてもらった裏にはそんな訳があったのか。


「いや、そこのボーヤを信用していないわけではないんだけどね。
 あたしの大事な秀麗ちゃんをまかすには、今回はちょいと役不足かもしれないと思ってね・・・。
 そこへちょうど静蘭が来たもんだから、これ幸いと助っ人を頼んだわけさ」


「胡蝶姐さんったら・・・」


二人のあまりの過保護さに思わず秀麗は苦笑いをして赤面する。
こういうとき、自分はまだまだなのだなぁとつくづく実感する。
周りに手を出させるほど心配させてしまうとは・・・。



「・・・そういえば。胡蝶姐さんは行き先を知っているわけだから心配するのは分かるけど、
 静蘭は何で私を探していたの?」

ふとした疑問を感じて、秀麗は静蘭に問いかけた。



「そ、それは・・・」

静蘭は秀麗をちらりと見ながら、言いにくそうに口ごもった。


「・・・実は、私が所用で下街を歩いていたところ、柳晋くんをはじめ、他複数の方々から、
 タンタン君とお嬢様が、その・・・よからぬ町並みに向かって歩いているとの情報が次々と寄せられまして」


「・・・・・」


秀麗は瞠目する。ここでは自分は有名人だということをすっかり失念していた。
おそらく静蘭のところに、柳晋あたりがどなりこんできて、
街の人たちも、わけを聞くためと興味本位とで、わらわらと集まってきたのだろう。
二人に直接声をかけなかったあたり、成り行きを見守ろうとの気遣いだったのかもしれない。


「あー、おじょーさんってホント、隠密活動には向いてねーよな・・・」


秀麗は返す言葉が無かった。
蘇芳との二人組みはそうとうな悪目立ちをしていたらしい。ましてや向かう先があの店では。


「そりゃー、勘違いされてもおかしくはないわよね・・・」

ため息混じりに秀麗は納得せざるを得なかった。



「・・・それで。アンタたちには、あの男が何をしているかは見えているワケ?」

秀麗が落ち込んでいると、横で蘇芳が突然、そのものずばりと切り込んだ。


”タ、タンタン・・・!胡蝶姐さんにアンタ呼ばわりって!!”


時々、蘇芳は無謀な言葉選びをするときがある。
まぁ、無謀自体は自分もそうだと思う時があるので、人のことは言えないが。


「おや、言ってくれるねぇボーヤ。あたしたちが何にも見えていないのに、動き出すとでも?」

「よくわかんねーケド、あの男の後ろにいる奴のほうが黒幕っていうか、
 なんとなく踊らされてる気がすんだよね。
 ここに呼んだって事はあの男の行き先も、あんた達ちゃんと分かってるって事だろ?
 とりあえずはそこまで教えてくれれば俺たちの仕事は終わり。
 ・・・早く報告に行かないとヤバい気がすんだよね・・・なんとなく」


「そうですね。組連が動き始めれば御史台も黙ってはいないでしょうし」


横でうなずいて静蘭は同意した。

「てゆーか、今までの感じからだと、あそこってそれさえも利用するってゆー感じ?
 おじょーさんが動き始めれば、ここをきっかけに組連とかも動き始めるって思ってそーじゃん。
 案外、今頃セーガ君あたりがあの男の行った先で動いてたりとか・・・

 手柄をかっさらわれるぐらいなら別にかまわねーんだけどさ。俺たち常に崖っぷちだから、
 下手すりゃ余計な罪状とかかぶせられたりして、闇に葬られちゃいそーな気配すんだよね」


蘇芳の言葉に、試すように見つめていた胡蝶の口角が上がり、形のいい唇が弧を描いた。


「決まりだね。静蘭」

胡蝶は静蘭の方に目配せすると、微笑みながらゆっくりとうなづいた。






「はぁ・・・。さ、さすがにちょっと疲れたわね・・・」


あれから秀麗と蘇芳は、意味深な笑みを浮かべた胡蝶に姮娥楼を追い出されてしまった。
わけも分からず、一抹の不安を抱えた二人は、とるものもとりあえず自分たちの上司のところへ。

胡蝶から仕入れた例の人物の行先と、周辺からあちこち怪しまれないようにと気を使い聞き込みした内容からは
(それさえも、静蘭の件を考えれば怪しまれて無かったとは言い切れないが・・・)
彼は以前の塩の件に一役買っているようだったが、黒幕とまでは言えない内容だった。

ただ、例の男の行った先が・・・






「・・・ふん、伝手を使ったか。少しはマシなようだが、行き過ぎだな」

彼らの上司、御史台長官である葵皇毅は、報告を終えた二人を冷たく一瞥すると、言い放った。



「・・・・・は?」



「お前とタヌキは目障りなんだよ。まったく、また邪魔ばかりしていきやがって・・・」
長官室の奥から清雅が苦々しげな表情を浮かべて現れた。


「・・・タヌキじゃねーよ。せめてタンタンって言えよな。」
清雅の呼び方に眉をひそめた蘇芳が、いかにも不満そうに茶々を入れる。


「お前なんか俺に言わせればタヌキで充分だよ。お前だろ、余計なこと吹き込んで組連にあんな事させたのは」


胡蝶たちは組連としてどうやら例の人物にヤキを入れたらしい。
かなりすばやい動きだったようで、清雅が向かった時には肝心の本人を拘束することが出来なかったとか。
ただ組連が動いた先の地点の情報を仕入れるにとどまったことが、彼の矜持に傷をつけたようだ。


「さぁな。俺はそうかなって思ったことを言っただけ。どうせ俺達の動きもちゃーんと見張っていたんでしょ?
 ・・・組連を動かしたのはおじょーさんの手柄ね。俺じゃーそんなことは出来っこないからさ」


清雅は怒り心頭の面持ちで睨みをきかせていた。長官の手前、それ以上はできないらしい。



「・・・まぁ、いいだろう。報告書をまとめて提出しておけ。
 どちらにせよ、これですべては動き出した。この動きをせいぜい利用させてもらうとしよう」


そういって長官は元の仕事に戻ると、再びこちらに意識を向けることは無かった。






「今回の件も、世間の荒波ってのがよーく分かる一件だったわ。・・・いろんな世界があるわけよね」
妙にしみじみと語りだす秀麗を、蘇芳は面白そうにながめていた。

「市井に妙に詳しいおじょーさまとしては、裏側の現場を見ることが出来て、さらに理解が深まったろ?
 まぁ、これであと二・三回ほど痛い目にあえば、もう怖いモン無しだっつー・・・イテっ!」

蘇芳の言葉は、秀麗から投げつけられた分厚い冊子によって遮られた。

「まったく・・・タンタン、くだらない事言ってないで、もっと真面目にやってよね!
 ほら、さっさとそこら辺を片付けてっ!もう遅いんだから、とっとと片付けて帰るわよ。
 早く帰って、皆に晩御飯を作らなくっちゃ。タンタンだって帰ればお父様が待っているんでしょ?」

言いながら資料を片付けていた秀麗は、側にいた蘇芳の様子がいつもと違うことに気がついた。
ここはいつもの蘇芳なら、渋々と片付けを始めつつ茶々を入れ出すタイミングだ。
それなのに蘇芳はおし黙ったままで、片付けもせずに何かを考え込んでいるようだった。



「・・・・・タンタン?」


「ん、・・・ああ、いや、なんでもねーんだ。ただ、ちょっと・・・」

「何よ。タンタンにしちゃ、気になること言うわね・・・何か気になっていることでもあるの?」


問いかけに返事もせず、つと秀麗の方に目を向けた蘇芳は、そのまま近くの壁に背中を着いた。
足元に視線を合わせると、少しの沈黙の後、ぽつぽつと言葉を選ぶようにして話し出す。




「今日、下街であの男を追っていた時さ・・・ほら、女連れ、だったろ?」


「そういえば・・・そうね。女の人と一緒だったわ。きれいな髪の女の人だったわよね」


「あれね、俺の母親」


「はい?・・・お、お母さん、って」


あまりにもあっさりといったので、意味をはかりかねた秀麗は思わず蘇芳に聞き返した。
蘇芳は壁にもたれたままで視線を上に上げ、今度は天井の辺りを見つめながら、静かに息を吐いた。



「・・・なんだかね、もう、ここまできたかなーって感じ?
 俺に”一生懸命な人の邪魔するな”って言った頃の母親とはもう全くの別人・・・っていうか。
 ああ、人は変わるんだなーって思ったね」




自分の想いを吐露する蘇芳を前に、秀麗は言葉に詰まった。
蘇芳の目はどこか虚ろで遠くを見ていて、でも口元には形だけの微笑を浮かべて。



「塩の一件で名前明かさないまま会ったときさ、ちょっとだけ淡い夢を見たのは事実。
 また昔のように親父とお袋と一緒に暮らせたら・・・なんて思ったり。
 でも、それじゃあきっと元の木阿弥なんだよな。

 今更、俺の名前あかしてびっくりさせるより、遠くから見ていたほうが、きっとお互いのためなんだと思う。
 もちろん、必要だと思えば駆けつけていくとは思うけど・・・」



ひとつひとつの言葉を自分に言い聞かせるようにしてゆっくりと話す蘇芳に、秀麗の胸が熱くなる。
知らず、胸元に当てた手に力がこもった。



「あー、何で俺、こんなことアンタに言ってんだろ。あ、でも、妙な責任感から同情するつもりならやめて。
 アンタはそれが当然って思ってるかもしんないけど、押しつけがましーのって嫌いだから、俺。

 たぶん、俺達はこれでよかったんだよ。・・・一番大事なものにちゃんと気がついたから。
 それは俺にとっての親父で、親父にとっての俺で。・・・きっともうそれで充分」


父親の話をする蘇芳の目元が満足そうにほころんだ。


「あんたは、初めて会ったときから俺の邪魔、しなかったろう?
 それは、やっぱりちょっと嬉しかった。
 でも、そんなアンタだってこれからもっと大変な思いするだろうし、潰されそうになって、
 横槍入れられたり、邪魔されたり狙われたり・・・
 それでも、アンタは自分のしたいことに向かって全力で突っ走っていくんだろうな。

 俺は、あんたがここで変わってしまうのか変わらないのか。
 ・・・俺はそれを、見てみたい。」



何気なく突きつけられた難題に、秀麗は何度か目を瞬いた。
蘇芳はそんな秀麗の視線を捉えて、その瞳の奥をじっと見据えた。


ふと、鮮やかな笑顔で蘇芳は微笑んだ。
不意打ちに秀麗の心臓はどきりと跳ねて飛び上がる。


見つめ返すと次第に唇は乾き、のども渇いてきた。


華奢な手を胸元で握り締めて、暴走をし始めた自分をもてあましつつ見つめると、
知らず助けを請うような切ないような表情になった。


そこには自分という存在を一生懸命支えている、等身大の十八歳の少女の姿があった。
その姿に触れてみたくて、蘇芳は思わず彼女の頬に手を伸ばした。



「そうしてると、君もフツーの女の子に見えるよ。」



頬に手を添えたまま、親指を伸ばしてゆっくりと秀麗の鼻をなでた。
そのしぐさがとても優しくて、ふっと緩んだ目元がとても意外で。

でも気恥ずかしさで何も言いだせない秀麗は、
文句を言いたげな眼差しを蘇芳に向けるのが精一杯だった。




蘇芳の親指は秀麗の下唇をなぞった。

ゆっくりと目の前が暗くなる。秀麗がまぶたを伏せると、
そっと壊れ物にさわるようにして、暖かでやわらかい感触が唇の上に落とされた。

それはとても甘くて、そしてとても優しくて。唇に全身の神経が集まり絡めとられたかのようだった。



長く時が止まったように感じたのは、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。
離れると、去っていったぬくもりが淋しくて、急に切なさが押し寄せ胸の奥に鳴くような痛みが走った。



「・・・やたらめったら人の世話を焼くなってこと。君んとこの、あの、やたらキレーな家人だって心配してるよ?」



―――だから、ついうっかり男を勘違いさせてしまうのだ。この女は。



「覚えておいたほうがいーよ。大事なことだから。
 あ、でも、あんまり悩むなよー。分かってくれればそれでいーから。
 ・・・じゃーね。また、アシタ。」


曖昧な微笑を浮かべて、蘇芳は踵を返した。




蘇芳が去って行った後、秀麗はよろめいてすぐそばの壁に寄りかかった。
額に手を当て、今何があったのかを頭の中で一つ一つ確認する。
たぶん、自分はまた蘇芳の何かに踏みこんでしまったのだ。・・・きっと、大事な母親の思い出に。

蘇芳は秀麗がここで変わるのかどうかを見たいと言った。
試されているのかもしれない。そしてきっと彼は、変わらない・・・ことを望んでいるのだろうとも思う。

そしてまた、自分も、ここで変わりたくは、ない。
・・・いや、果たして変わらずにいられるだろうか。・・・ここで。



秀麗は、こつん、と頭を壁に打ち付けて、
窓から覗いている星の瞬く夜空を、独り静かにじっと見上げていた。















おわり


緑風を読んだあとの、私の蘇芳×秀麗の妄想です。
必要ない無駄な行動が目に付いても、単にタンタンと秀麗を絡ませたかっただけですから・・・!
原作と台詞かぶり過ぎとか、辻褄あわなすぎとか、肝心なこと書いてねーぞ・・・とかも勘弁してやってください。
ああ、早く続編でないかなー。


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