立花から俺の携帯に連絡が入ったのは、それから十日後のことだった。
そのまま連絡が無ければ、俺はこの論文を処分しようと思っていた。
もう二度と手の届かない光・・・。
ユカリという毒蜘蛛の魅力に捕らわれ、彼女の望むとおりの男へ・・・そして破滅の道へ進んでかまわない・・・と思った。
しかし・・・・彼女は連絡をよこした・・・。
果たして俺は、彼女になにを期待しているのだろうか・・・?
いや・・・俺はただこの論文を返すだけだ・・・。
長い間手放せなかったこの紙の束を、本来の持ち主に返すだけのことだ・・・。
何も期待しない・・・・しては・・・いけない・・。
俺はユカリに適当な理由を言って、その日の夕方からの予定を空けさせた。
そして、普段は使わないホテルの一室を指定した。
過去に肌を合わせたことがある相手とはいえ、ホテルの一室を指定したことで懸念したが、
彼女は指定した時刻どおりに部屋にやってきた。
昔、研究室に訪ねて来たときのように・・・・緊張と期待に震えているような表情で・・・・・。
「・・・そこに座りたまえ」
「・・・はい」
彼女はテーブルを挟んで俺と向かい合わせにソファに座る。
ルームサービスで頼んでおいたコーヒーを彼女に勧める。
「あの・・・教授。渡したい物ってなんですか?」
俺は黙ってあの論文を差し出した。
「あ! ・・・・これは!?」
「覚えているか? 君の論文だ」
「はい! 懐かしいですー」
立花は嬉しそうに論文を捲っていく・・・。
「わあー・・・・ちゃんと添削してくださっているんですねーーー」
「今更君に返しても、仕方のない物だがな・・・」
「そんなことないですよ! 嬉しいです! あの頃の自分の欠点がよくわかりますし・・。今まで預かってくださっていたなんて
ありがとうございます!」
俺はタバコに火をつける。
彼女はページを捲っていく・・・。
昔、彼女と学食で一緒になったことがあった・・・。
その時の穏やかな沈黙の時間と似ていた・・・。
「立花君・・・」
「はい?」
彼女は視線を論文に向けたまま返事だけをする・・・。
「君は・・・・確か、在学中は通訳を志望していたと思ったが・・・、何故翻訳家の道に進んだんだ?」
彼女は暫く黙っていた・・・。
「・・・いえ・・特に理由はありません。ただ、一回生の時に教授が貸してくださった古典文学の訳を見て
頂いたときに、私の翻訳のセンスがいいって誉めてくださったので・・・。そちらのほうがいいかなっと・・・」
「・・・・そうか」
彼女の本意は別にありそうな気はしたが、俺はそれ以上追及しなかった。
「・・・・・教授は・・・」
「・・・なんだ」
「・・・ユカリさんとどうして結婚なさらないんですか?」
「・・・・・・・・・・」
「あ・・・いえ。すみません、変なことを聞きました・・・」
俺は暫く黙ってタバコをくゆらせていた・・。
「・・・・・・・以前に、君に言ったことを覚えているか知らないが、俺とユカリは目的を同じくするパートナーだ」
「・・・パートナー」
「・・ああ。彼女は俺の秘書。そして、俺は代議士。それ以上でもそれ以下でもない・・・。ただ・・・。
・・・ただ、寝る相手が恋人だと言うのなら、恋人だという事になるんだろう・・・」
その言葉の意味がどういうことなのかわかったのか、彼女はキッと俺を睨みつけた。
そう・・・ユカリとは夜を供にすることは多い・・。
SEXに関しても、俺とユカリの相性は良い・・今のところ心身ともにパートナーといったところだ。
しかし、俺は自分にとって利用価値のある女ならば寝ることも厭わない。たとえそれが人妻であってもだ・・・。
そしてユカリもそれを勧める。
そしてユカリもまた、利用価値のある男をその妖艶な身体で虜にしていく・・・。
そんな俺とユカリを恋人同士だなどと呼べるのだろうか・・・・?
「・・・私には・・・よく、わかりません」
力を落としたように立花はそう言う。
「・・・君にはわからなくていいことだ」
いつものように素っ気無く俺は言う。
「でも教授! 政治家にまでなって更に上を目指すって、いったいどこまで行こうというのですか?」
「・・・・さあな」
その質問に対して俺自身には明確な答えはない・・・。
「覇王にでもなるおつもりですか!?」
「・・・・!?」
その言葉に俺の中の何かが反応した。しかし・・・それがなんなのかはわからない・・・。
「くっくっく。・・・覇王か・・・。それもいいかもしれないな・・・」
「・・・! そんな! 今の世の中、そんなことが出来るわけないじゃないですか!?」
「・・・こんな世の中だからこそ、出来ることかもしれないな・・・」
そうだ・・・こんな世の中・・・こんな俺だからこそ・・・。
俺はタバコを手に立ち上がり、窓へと向かう・・・。
そこからは、ゴミゴミとしたビルの立ち並ぶ東京の夜景が見える・・。
これはこれで美しいのかもしれない・・・。
「・・・それが破滅へと向かっていてもですか?」
またそれを言うのか・・・君は・・・。
「・・・以前にも君はそんなことを言っていたな。・・・今の私が破滅へ向かっているというのか? 代議士にまで
上り詰めたこの私が?」
心の奥ではわかっていることを敢えて否定してみる。
「そうです。・・・だって、以前の教授も久し振りにお会いした教授も、ちっとも幸せそうじゃないです!」
「・・・・!?」
その言葉は俺には禁句だ・・・。
「・・今の教授はもっと悲しそうな、苦しそうなお顔をしています!」
その言葉に俺は珍しく逆上した。
タバコをもみ消すと、彼女の手首を掴みそのままソファに押し倒す・・。
「き・・教授!?」
「・・幸せだと? 俺の幸せとはなんだ? 他に幸せなどというものがあるというのか?!」
「・・や・・やめてください!」
「・・ふん・・やめろだと? 君はまたこうされたくてここに来たんだろう?」
「・・・!? ち、ちが・・違います!」
「以前にも言った・・。俺には近づくんじゃないと・・。それなのに君はまたのこのことやってきた・・・」
「そ・・・それは、教授に呼ばれたから・・・」
「来なければいいだけの話だろう・・? こうされることがわかっていながら君は来た・・。違うか?」
「・・・いやっ!」
立花は精一杯の力で、俺の下でもがいている・・。
しかし、力の差は歴然だ。
そのまま、深く口付けた・・・。
懐かしい・・・彼女の香りがする・・・。
その香りが・・・ユカリとは違う清らかな香りが、俺の中を走り、俺に言葉を語らせる・・・。
「・・・・俺にとっての幸せが・・なんなのか・・教えてくれ・・。ここから・・・この闇から・・・。俺を救って・・くれ。未来・・・」
いつの間にか彼女の名前を呼んでいた・・。
「・・・教授・・」
未来の力がフッと抜ける・・。
唇を首筋へと下ろしながら、力の抜けた彼女の手首を離し、服のボタンをはずしていく・・・。
彼女の手が俺の背中へと回されていく・・・。
抵抗のなくなった未来にもう一度口付けようとしたとき、彼女の瞳から涙がはらはらと零れ落ちるのを見て、
我に帰った・・。
以前の俺ならば、その涙をまた嘲りの対象にしただろうが、今の俺には・・・眩しい・・・。
俺は身体を起こした。
「・・・意外と簡単に抵抗しなくなったな・・・。つまらんな・・・」
「・・なっ!?」
「服を直したまえ・・。まさか、本気で俺がこのまま君を抱くと思っていたのか・・・?」
「・・・・・・」
未来は起き上がると、黙ってボタンを留めなおした。
再び俺はタバコに火をつける・・。
「・・・期待を裏切って悪かったが・・・、君に論文を返すために呼んだだけだ。その用事も済んだ。帰りたまえ」
「・・・・・はい」
俺は彼女に背を向ける。
しかし、窓に映る彼女の姿を見つめている・・。
以前、研究室でそうしていたように、彼女は俺に深々と一礼をすると、さも大事な物を扱うように論文を胸に抱き、
部屋を出て行った。
あんなことをするつもりはなかった・・・。
ただ・・・論文を返す。そのつもりだった・・。
「もうこれで・・・・終わったな・・・」
つかの間の過去の幻影に出逢っただけなのだ。・・・そう思う・・・。
俺はそのホテルをチェックアウトすると、ユカリの待つホテルへと向かった。
闇の覇王を目指す、里見修二として・・・・。
戻る 裏へ(裏への道はどこかに・・・)