そしてパーティも終盤を向かえる時間となった。
里見教授がいつ帰ってしまうか気が気じゃなかったけど、どうやらこの時間まではいてくれたようだ。
せめて、帰るときにお見送りくらいしたかった。
もしかしたら、もう二度と逢うことはかなわないかもしれなかったから・・・。
・・・教授がこっちに向かって歩いてくる・・。
今、私は出入り口付近のテーブルで飲み物を飲んでいた。
木村君は最後の挨拶回りで側にはいないし、コウ君も取材されに側を離れ、堂本君もそれにくっついて
行ってしまっていた。春子は今しがたトイレに行くと言っていない・・。
最後の挨拶をしようと、教授に向かってペコリと頭を下げた。
すると、私の目の前で教授は立ち止まった。

「立花君・・」

「は、はい!」
びっくりして、かばっと顔をあげた。

「君に渡したい物がある」

「渡したい物・・・ですか?」

「・・・ああ。来れる日が決まったら私の携帯に連絡をくれ。事務所にはかけるな。名刺を渡しておく」

「は・・・はい」

教授はスーツの胸元から分厚い名刺入れを取り出すと、名刺を一枚渡してくれた。

そしてそのまま出て行ってしまった。
私はぼーーーっと教授の背中を見送っていた・・。

(・・・私に渡したい物? なんだろう? それに事務所にはかけるなということはユカリさんには内緒ということ?
でも・・・今更私が・・・教授に?)

四年前のあの出来事を思い出すと、私はすぐに決断ができないでいた・・。




教授の携帯に連絡を入れたのは、それから10日後のことだった。
大きな仕事が入り、それにかかりきりだったのと、そして迷っていたからにほかならない。
四年前、教授は私ではなくユカリさんを選んだ。
そしてあの時のユカリさんが言っていた道をそのまま突き進んでいる教授。
今更私が教授に会ってどうなるものでもないだろう。
でも・・・私は心の底でこうなることを望んでいたかもしれなかった。
それを期待して翻訳家になったのだし・・・。
それに渡したい物というのも気になった。


教授が指定してきたのは、ある有名ホテルの一室だった。
ホテルと聞いて一瞬ドキリとしたけど、有名代議士が喫茶店でというのも困るのかなとも思い、
あまり深く考えないことにした。
そして今、指定された部屋の前にいる。

(ああ・・こうしていると研究室を訪ねていた頃の緊張を思い出すなあ・・・。心臓がドキドキ)

思い切ってノックをする。

「里見教授、立花です」
もう教授じゃないのに、ついそのまま呼んでしまう・・。

「入りたまえ」
そして懐かしい響きの懐かしい声がした。

「失礼します」

何一つ変わっていない入室の仕草・・・唯一つ、ここが大学ではないということを除いては・・・。

さすがは有名ホテル・・・広い・・・。
っていうか、ここってもしかしてジュニアスイート?さすがは政治家さんだ・・・。
思わず部屋をキョロキョロと見回してしまう。

「そこに座りたまえ」

「は、はい」

促されたソファーに座る。
教授は私にコーヒーを煎れてくれると真向かいに座った。

「あの・・・渡したい物ってなんですか?」

私はこの緊張から早く逃れたくて、すぐに本題を切り出した。
教授は黙って閉じられた紙の束を私の前に出す。

「あ・・これって!」

手にとって見て驚いた。これは在学中に私が提出した英文論文だ。
そういえば、卒業論文とまた別のテーマでいろいろとチャレンジしてみて、教授に
見てもらっていたっけ・・・。

「覚えているか? 君の論文だ」

「はい! 懐かしいです」

本当に懐かしい。当時の私の字・・・・あ・・ここのスペル違ってる!
それに赤くサインペンで添削してくれている・・。

「わあー添削してくださっているんですね」

「今更君に返しても仕方のない物だがな」
教授が苦笑しながらそう言った。

「そんなことないですよ! 嬉しいです! 今まで預かってくださっていてありがとうございます!」
本当に嬉しい・・。今まで忘れずに持っててくれただなんて・・・。

教授がタバコに火をつける。あの頃と変わらないメンソール系のタバコ・・。
懐かしい香りに包まれながら、私はページを捲っていった。

「・・・立花君」

「はい?」

ふと、教授に呼ばれて、私は耳だけを教授に向ける。なんとなく、恥ずかしいから・・・。

「君は、確か・・・在学中は通訳を志望していたと思ったが、何故翻訳家の道へ進んだんだ?」

私は答えに窮した。
だって、ユカリさんと同じ職業に就きたくなかったとも、教授とどこか繋がっていたかったとも言えない。

「・・・・・いいえ。特に理由はありません。ただ、一回生の時に教授が貸してくださった古典文学の
訳を見ていただいたときに、私の翻訳のセンスがいいって誉めて下ったので、そちらの方がいいかなと
思っただけです・・」
これも本当のことだ。

「・・・・そうか」

教授はタバコを深く吐き出すと、そのまま黙ってしまわれた。
私の答えに納得してくれたのかな?
そして、今度は私から質問してみた。
・・・一番聞きたくて、聞きたくないこと・・・・。

「教授・・・あの」

「・・・なんだ」

「教授は・・・・・・ユカリさんとどうして結婚なさらないんですか?」

そう・・あの時教授はユカリさんを選んだはず。今もユカリさんは教授の側にいることも知ってる。
名秘書としてそれこそ、いつも・・・・。
子供っぽい考えかもしれないけれど、適齢期を過ぎた二人がどうして結婚しないのか私には不思議だった。
それに、結婚しちゃってくれれば私もきっぱり諦められる・・・・・かもしれないのに・・・。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

教授は黙ってタバコを燻らせている。
(お・・・怒っちゃったかな?)

「す・・・・すみません! 変な事を聞きました」
私は慌てて謝った。

教授はそのまま静かに言った。

「・・・・・以前に君に言った事を覚えているかは知らないが、私とユカリは目的を同じくするパートナーだ」

「・・・パートナー・・」
(・・・・それって?)

「ああ。彼女は私の秘書。そして私は代議士。それ以上でもそれ以下でもない。ただ・・・」

(・・・ただ?)

教授はそこで一瞬沈黙すると、口元に意地悪そうな笑みを浮かべて言った。

「ただ、寝る相手を恋人だというのなら、恋人だということになるのだろうが・・な」

私はその言葉に顔中がカッと熱くなったのを感じた。顔だけじゃない、怒りにも似た感情に一瞬のうちに
支配されたのだ。
勿論、頭では理解していたつもりでいた。教授とユカリさんが当時からただならぬ関係であったのは。
だって、私と出会うずっと以前から二人は・・恋人同士だったわけなのだから・・・。
でも・・私の気持ちを知っていながら、そんな私の感情を煽るような事を言う教授が・・許せなかった。
四年前のあの抱かれた時の教授の冷たさには、私はただ悲しかった・・。そしてくやしかった。
でも、四年たった今は・・・許せなかった。
私は教授を睨みつけた。

「・・・・私にはよくわかりません」
精一杯に怒った口調で言った・・・・・つもりだった。

「・・君にはわからなくていいことだ」

「・・・とにかく、更なる高みを目指すためには、ユカリというパートナーが今は必要だ・・」

教授は平静に言って返す。そこがまた憎らしい。
思わず爆発した。

「でも教授! 政治家にまでなって更に上を目指すって、どこまで行こうというのですか?」

「・・・さあな。上には上があるだろう」

「・・!?」
(そんな答えって・・・・。それじゃ、やっぱりユカリさんに引っ張られているだけじゃない!) 
私の頭の中にはある記憶と里見教授が重なった。でも、それはほんの一瞬ある言葉が浮かんだだけだった。

「・・覇王にでもなるおつもりですか?!」

その言葉に教授も一瞬ハッとした表情をした。
ほんとに一瞬だったけれど・・・・。

「・・・・・・・・・・くっくっく。覇王か・・。それもいいかもしれないな・・」

ユカリさんのあの時の勝ち誇った笑い声が聞こえてくるようで、私は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
教授からこんな言葉は聞きたくない・・・。

「・・そんな! 今の世の中でそんなこと出来るわけないじゃないですか?!」

「・・・今の世の中だからこそ出来るのかもしれない・・・」

教授はタバコを持ったまま窓へと向かった。
静かに景色を眺めている教授の広い背中に、私は更なる苛立ちを感じて言葉をぶつける。

「・・それが破滅へと向かっていてもですか?!」
・・そう破滅。小宮山学長のように・・知らぬまに破滅の道へと引きずり込まれる・・。
あの時も私はそう訴えた。また今度も教授は聞いてくれないのか!?

教授が怪訝そうな表情でこちらを向く。

「・・・以前も君はそんなことを言っていたな。今の私が破滅へと向かっているのか?代議士にまで
上り詰めたこの私が?」

(それは違うよ、教授!)

「そうです。・・・だって、以前の教授も久しぶりにお会いした教授も、ちっとも幸せそうじゃないです!」

「・・・!?」

教授の顔色が変わる。それでも私の言葉は止まらない。

「以前よりも・・・・もっと悲しいような、苦しそうなお顔しています!」

およそ表情の変わることのなかった教授の表情まで変わった。
そこで、私はハッと言葉を止めた。
教授はタバコをもみ消すと、私に向かってズンズンと足を進めてきた。
そして手首を強い力で掴まれた。

・・・・・怖い・・・。

こんな怖い教授は初めてだ・・・。
身がすくむ・・・。

教授はそのまま私をソファに押し倒した。
恐怖から私は必死に抵抗する。
しかし、力でかなうわけがない。

教授は私の上にのしかかったまま、激しく言葉を吐く。

「幸せだと? 俺の幸せとは何だ? 他に幸せなどというものがあるというのか?!」

「・・・や・・・やめてください」
必死に腕を振り解こうとするけど、教授は動かない・・。

「・・やめろだと? 君はまたこうされたくてここに来たんだろう?」

鼻で笑ったような言い方で教授が言った。
私は愕然とする。

「!? ち・・ちがいます!!」

「・・以前にも言った。俺に近づくんじゃないと・・。それなのに君は、またのこのことやってきた・・」

「そ・・・それは教授に呼ばれたから・・・」
違う・・・これはいい訳だ・・。
私は教授に逢いたかった・・・。こうして二人きりで逢いたかったんだ・・・。
今更ながら自分の気持ちに気づかされる・・。

「来なければいいだけの話しだろう? わかっていながら君は来た・・。違うか?」

「・・・いやっ」
違わない・・・違わないかもしれないけれど、こんなのはいやだった。

そのままキスをされた。
深いキスだ・・。

懐かしい教授の香りがする・・・。
いやなのに・・・こんなことはいやなのに・・・、それでも胸の奧が熱くうずく。

ふと、教授の力が抜けたような気がした。そして・・そのまま私の胸に顔を埋めるようにして教授が静かに言った。

「・・・俺にとっての幸せがなんなのか、教えてくれ・・。ここから・・この闇から・・俺を救ってくれ・・未来・・」

「・・・教授!?」

教授が私の名前を呼び、そして助けを求めている・・?
私は胸が締め付けられた。
やはり教授はなにかに捕らわれて、本当の教授じゃなくなっているんだ・・。
でも・・・でも、私にはなにもしてあげられない・・・。
助けてあげたいのに・・・こんなに愛しているのに・・・どうしていいかわからない・・。
自分のふがいなさに涙が溢れて止まらなかった。
そして、教授が可哀相で・・・・・。

私は逆らうことをやめた・・。
私を抱くことで教授が少しでも救われるのなら・・・そう思った。

教授は力の抜けた私の手首を離し、私のプラウスのボタンをはずしていく。

私は自然と教授の背中に両手をまわす。

そこで、教授の動きが止まった。

怪訝に思って目を開くと、教授が驚いたような表情をして身体を起こした。

そのまま私の身体から離れた。
私も身体を起こす。

教授は立ち上がると、また無表情になった。

「・・・・意外と簡単に抵抗しなくなったな。・・・つまらんな」

「なっ!?」

その言葉に私は顔がカッと熱くなった。

「服を直したまえ。まさか、本気で俺がこのまま君を抱くと思っていたのか?」

意地悪そうな笑みを浮かべて教授は言う。
さっきまでの教授はもういない・・。

私は黙ってボタンを留めた。

教授はその様子を見ながら再びタバコに火をつける。

「・・・期待を裏切って悪かったが、君に論文を返すために呼んだだけだ。
その用事も済んだ。帰りたまえ」

教授はそのまま私に背中を向けて、窓から外を眺める。

もうきっと、振り向いてはくれない・・。
もうきっと、私を見てはくれない・・・。

「はい・・」

私はそれ以上言うことは出来なかった。

私はまた拒絶されてしまったのだ・・・・。
それでも尚、この論文を今まで大事に持っていてくれたその教授の心を信じたかった。
私はそっとその論文を手に取ると、胸に抱いた。
そして、ペコリと昔したように教授に頭を下げると部屋を後にした。


もう忘れなくちゃいけないんだ・・・。
もう、何も期待しちゃいけないんだ・・・。
こんなに好きなのに、助けてあげたいのに・・・。
私の名前を呼ぶ教授の声が頭に響く・・・。


溢れる涙を拭うことも忘れ、私は東京の暗闇の中に姿を消した・・。




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