鋭敏な感覚が、世界を知らせる。
夜の帷が始まる瞬間も、雨が降り出す直前の空気も。
小鳥の囀り、獣達の気配。
風の流れ、水の動き、梢の微かな揺れさえも。
正に本能と呼ぶべき感覚が支配する身体が教えてくれる。
だが、決して―――考えてはいけない。
“何故?”と。
“どうして?”と。
全てを呑み込む暗い笑みをたたえて、此方側へと誘う声が近付いてくる。
堕ちた穴は存外に深く、そして重く我が身にのし掛かる。
もう遅い、戻れない橋を渡ってしまって居た。
【das Licht aus loeschen.】
男は夜の街中を疾走する。「……っ…!!」
息も絶え絶えに心臓が破れてしまうと訴えても走る事を止めなかった。
無心に走り続けた挙げ句に漸く止まる事が出来た瞬間、全身から汗が噴き出す。
呼吸がおかしい。喉から漏れる奇怪な音。
激しく肩を上下させてどうにかまともに空気を吸おうとした。
「……――――っ」
明日の天気が雨ではないかと疑わせる程の、今夜の蒸し暑い空気が我が身を圧迫する。
一陣の風も無く、真冬の肌を突き刺す様なあの冷たさも徐々に消えて行く最近の気候が恨めしい。
身勝手な考えだとは思いつつも、其れ位にしか今は。
これ以上は無いとばかりに開かれた瞳が真下の地面を見つめていた。
映るのは己の影。
「………」
其処は光の無い空間であるのだと、感じさせるものが己の心には在る。
ともすれば何かに引きずり込まれそうだとも。
それは、つい数分前まで信じていた世界の全てが崩壊したのを見たからなのか。
恐懼の感情、混乱する精神が生み出す幻覚か。
―――だが、決して夢ではあるまい?
男は呻く。
そして額から首元にかけて流れ落ちる汗を拭いもせずに、勢いよく顔を上げて闇空を睨み付けた。
影を創り出す主を求めて。
「……」
今日は満月。
空に白銀の穴を穿つ存在が。
「…ど、う―――…して……?」
感情の水を湛えた銀の瞳が滲んだ。
***
石畳の上に引かれた瀟洒な紺の絨毯。
城全体の調和とはややずれた感じがするのは、其処に在るのが石造りの円卓ではなくて木造の長机だからだ。
丁重に磨かれたものなのか、艶のある光沢を放つテーブル。
其れには明かりの少ない室内を灯す、数本の蝋燭が乗る燭台のみ。
部屋全体を照らす事は不可能な程に細く小さな光でも、この城の主達は暮らしてゆけるのだ。
扉以外の三方の壁に、それぞれ高さも幅も大きめのしっかりした填め込み式のガラス窓があるくらいで、
他に光源となるものといえば暖炉くらいのものだろう。
大きさに於いては十二分であっても、凍える冬をその前以外で過ごす事は少々難しいかもしれない。
その暖炉の前が、冬の――例え夏であっても同じ事なのだが――男の定位置だ。
いつも其処で椅子に腰掛けながら本を読み、微睡む。
それでも完全に眠ってしまう事は少ない。
たった1歩踏み出しただけで、ゆっくりとした動作で此方へと振り向く。
近付いてくる気配を用心に確かめながらも。
口から出るのは決まって同じ言葉。
『…もう、夜か…?』
そうだと肯定すれば、そうかと短く返ってくるだけ。
違うと否定すれば、ならば今の時間を問われるだけ。
男にとってはそのどちらも大差の無い、些末な事項のようだ。
それを答える側としては―――本当に深い意味を持つ問いでは在るとしても。
まるで熱に浮かされている者の様に、曖昧でぼんやりとした返事が返ってくるばかり。
真正面に歩を進めた青年が問いかける。
『出かけるが、君はどうする?』
時折は覚醒しているのかいないのかを分からぬままに尋ねてみても、その反応は変化せず。
億劫そうに、欠伸を噛み殺したように、退屈しきったように。
世界の全てを厭う者のように。
男は『否』と答える。
―――始めの3ヶ月程は、そんな有様だった。
「…其れが今では、こうしてわざわざ面倒事にすら付き合ってくれるようになったのだ。
全く…大した変わり様だな、君は」
「………。ひたすら―――…慣れるのを、待っていたのだ」
青年の独り言ともとれる言葉に男が呟く。
元来喋る事を得意とせず、己の心の内に全てを秘めてしまう男。
多弁は銀なり沈黙が金なりと、褒め称える言葉があったところで其れは無意味な話。
元よりそんなつもりも考えた事すらも無いのだろうから。
言葉を慎重に選んでいるかの様に、返ってくる言葉は短くそして少ない。
二人で共に居る事を選ぶようになってからは、益々其れに拍車がかかっているのではないか―――とは言え、
其れも無理からぬ事ではあるのだと、青年は納得している。
引き込んでしまった罪悪と、共に生きる事の悦びが、鬩ぎ合いぶつかり合い、激しく相殺し合う。
途切れる事の無い波紋は、やがて大きな渦になり、波となり、終いには。
「―――あの夜に…戸惑いや、躊躇いも、お前の気配が打ち消してくれた……だから、俺は」
男の言葉を遮ったのは細く白い指だった。
青年が間近に男の顔を覗き込んでおいて、唇だけを動かす。
《往こう、共に》
そのまま、二つの影は重なった。
***
嘘だ。
何故。
違う。
でも。
(あれは、あれは……!?)
否定。
困惑。
見間違いであって欲しい。
あれは『彼』では無いのだと。
『彼』で在る筈が無いのだと。
―――己の目で見たものを消す事が出来たとしても。
心が何より悲鳴をあげる。
(嘘だと言ってくれ、エルザム……!!)
とうとう。
これで。
解放された。
安心出来る。
もう。
会えぬ。
(わざわざその為に)
日を選び。
時を数え。
機を待ち。
―――唯々見せ付ける為だけに!!
(ゼンガー……此で、君は)
***
茫然と浮かぶ僅かな光。
孤光灯が照らす道に躓く人々。
ある者は嬉しそうにある者は悲しそうに通りを足早に過ぎ去る。
暦的にも、体感的にも―――冬が終わろうとする気配のある此処数日は不思議と夜が暖かく、
日が暮れて暫く経っていても、以前の様に人の姿が途切れる事は無い。
その為、口元を隠す白い空気が余り見えなくなる。
痩せ細った街路樹の、木々の端々に見えるのはまだまだ堅い蕾の芽生え。
長い冬を堪え忍び、命の鬨の声をあげるために生きてきた者。
一層冷たさを増す降雨にも負けず、強く枝を折りそうな風雪にも耐え続けてきた者。
世の循環する季節を知らせる者。
「…この辺りか…」
そんな男の想いは青年の言葉で中断された。
千変万化しながらも巡る季節に想いを寄せる事は、今となっては空しい事なのだろうか。
それとも未だ其れ位の事なら赦されているのだろうか、我が身には。
答えを求めたところで、後者とも前者ともとれぬこの問いに、幾度胸中を支配された事だろうか。
男の雰囲気を感じた青年が肩を叩く。
「…大丈夫か?」
「…無論」
そう答えたところで、心底其れを信用する筈も無い。
更に青年が気遣いの言葉をかけようとした瞬間、男の瞳が青年を射止める。
―――心配無用、か。
「行くぞ」
「承知した」
根強く残る冬の気配は足下から人々に忍び寄る。
しかし、彼らは其れに身体を凍えさせる事は決して無い。
吐く息はもう二度と白くはならないだろうという事を、知っているから。
***
―――これで一体何度目の約束だったか。
更に歩みを速めた男が歩きながら考えたのはそんな事だった。
数ヶ月前に偶然再開を果たした親友と、良く夕食を共にする様になった。
独りでの食事は味気ないものだと、漏らした事がその実決定打らしいのだが。
お互いに都合の合う日がなかなか無いため、毎日とはいかなくとも、週1度は顔を付き合わせている。
しかしここ数週間は全く顔を合わせる事が無かった。
青年が『少し忙しくなる』と言ったきり連絡が途絶えたままだったからだ。
だからこそ昨晩急に、久方ぶりの食事を、と言われた時には思わず頬が緩んでしまった程で。
自然と足も急ぐ事を覚える。
(…息災でいれば良いのだが…)
再会した時の食の細さは、健康体過ぎる程の己から見れば異常とも呼べる振る舞い。
心配をするな、と言う方が無理なのだ。
無理を承知で挑む所が己との共通点であると思うのは自惚れだろうか。
脳裏に青年の姿を思い浮かべて考える。
『―――ぃ…っぁぁ……!!!!』
「!?」
悲鳴では無い、だが尋常では無い声とも音ともつかぬ其れに、男が歩みを止めた。
冬の名残を残した風が傍を通り過ぎた瞬間に鼻孔を刺激した或る臭い。
身の竦む想いを振り払い、その方向へと走り出す。
…その時、止めておけばどうなっていたのだろうな…?
現実が己に突き付ける事実は、どんな冬の湖よりも冷たく又厳しかった。
***
飢えも渇きも制御して居たつもりだった。
残念ながら、叶わなかったが。
その一方で計算をしていた筈だ。
もし、今此処でその愚を犯せば……?
間違いなく、『彼』が駆けつけるだろう。
そして―――。
青年は目を細めて、笑う。
***
「私が選ぶべきはこの道だったのだろうな」
「………」
青年の呟きに男は答え無い。
答え得無い、とも言える。
深い自責の念と自虐的心情が混在している胸中を量れば、安易な言辞は不要のもの。
慰めが欲しいのでは無い、責めて欲しいのだ、本来は。
しかし、其れをした所で一体何の益が生まれるというのか。
結果的に楽な道へと突き進んでいるだけだ。
青年自身も疾うの昔にそんな事は気付いている、だがしかし今は。
「…季節の変わり目に心は移ろいやすくなると言う…」
「どんな寒い冬もいつか終わる。やがては花は実を付け、葉を落とす。
巡り続けるものであっても、二度と同じものは無い」
「…ならば、この想いも……?」
不意に青年が浮かべた鮮やかな微笑が、あの時の笑みと酷似している事に男が気付く。
―――確信的に並べた言葉遊びが。
二人の狭間に在る暗黙の了解。
「変わらず、留まる事の出来るものなど無い」
「……」
力強く男から発された言葉を噛み締める様にして、青年は頭を振った。
否定では無く、自身の頭を明快とする為に。
「…訂正し給え」
「何?」
「君が居る限り…だ」
言い放った後はもう振り向きもせずに歩き出している。
男が呆気にとられつつも満足げな笑みを浮かべた事を、青年は知らないだろう。
***
気配を殺すのではなく、唯自身を意識すればいい。
―――私は何か?
―――何処に生きる者か?
そんな問い掛けに答えが出るよりも早く、世界が変化するのを感じる。
大気の流れが、うねり澱み止まる瞬間が、一番絶好の機会。
走らなくとも十分、夜を生きる者にとっては。
踏み出せば良い、覚悟と共に。
「…すまない」
「っ!?」
青年が謝るのは常の事。
―――これから“命”を奪ってしまうから。
突然の低い囁きが耳元でしたかと思うと、しっかりと口元を押さえられ、
肩を掴まれたまま、乱暴に壁に叩き付けられた。
痛い、と悲鳴をあげるよりも早く、首筋に冷たい感触がする。
自らが一体何をされているのか理解するよりも先に、恐怖という本能が声帯を支配した。
「―――ぃ…っぁぁ……!!!!」
青年は獲物の首筋にゆっくりと口付けて一気に牙をたてる。
口内に溢れ出す赤い液体は、芳しい香りを鼻孔へと持ち上げる。
飢餓感が即座に消滅し、安堵や満足感が全身を駆けめぐる。
乾いた大地が水を吸うのと同じ現象が起きている、今の青年の身体には。
顎に添えられた手に冷たい水の感触。
(其れが何かなどと、問わずとも分かる―――……)
ごくりと音をたてて味わう前に飲み込んでしまう。
今は其れすらも惜しい。
味わうよりも先に、潤いたい。
久方ぶりの感触に青年は夢見心地を覚える。
忌まわしくも呪わしい汚れたこの身が赦されている快楽の時。
どんなに綺麗事を並べた所で、決してこの衝動に勝てはし無いのだ、と。
それから、後一つだけ。
未だ死ねない理由が存在しているからでもある。
「……」
―――来たか。
全てを余す所無く貪ろうとする青年の耳に、届く一つの足音。
それでも口を離す事は無い。
近付く人物に予想はついている。
もしそうで無いならば、不幸な事ではあるが、又。
(…願わくば、来てくれるな? …否、来て欲しい、と?)
此処まで来ていながらも、躊躇する事を止めない脆弱な自身の心。
惨めで滑稽な姿だ、とても。
月が映す影を翠玉の瞳は捉えた、そして瞼を下ろす。
―――さて、君はどうする?
「な、に…?」
男は、青年の親友であるゼンガー・ゾンボルトは、銀の瞳を大きく開き、その光景を見つめた。
今夜夕食を共にする筈であった、親友のエルザム・V・ブランシュタインの姿を。
彼が見知らぬ人間の首元に顔を埋めている。
同性同士の濡れ場かと焦ったが、違う。
醸し出す雰囲気が、そんな甘いものでは無い。
―――此、は。
人工的な灯火ではなく、夜の主が放つ光に照らし出された光景。
犬の様な長い歯――正に牙とも呼べる其れ――を首筋に突き立て、
どんな女の紅よりも赤く口元の彩りを纏いながら、婉然と優雅に嗤う生き物。
一種幻想的で、見る者を引き込む、蠱惑的な視界。
全身を総毛立たせるこの臭いさえ、無ければ、現実など疾うに掻き消えていたのかもしれない。
「莫迦な……」
「……」
「そ、んな」
「……」
ぴちゃりと水が跳ねた様な音と、青年の喉の鳴る音がする。
少なくとも、静かすぎる夜なのかそれ以外の音が、耳に全く入ってこない。
先程風が運んだ臭いが辺りに充満している事に気付き、顔を顰めようとしても顔の筋肉が動かずに。
微動だに出来ぬまま、瞳を大きく見開いている。
中途半端に開けられた口からは、続く言葉が生まれない。
「ち、が―――エル、……」
「……」
言葉などもう届かないのか、青年は眉一つ動かさない。
確かに呼びかけにもならない呼びかけなのだが、掠れた声で彼の名を呼んだ。
―――何か、返事を。
―――お前からの言葉を。
「エ、ルザム」
「―――」
漸く開かれた翠玉の瞳は、男を視界に入れたらしく、青年の行為が止んだ。
酸化した赤黒く乾いてこびり付いた口元を指で擦り、舌に付ける。
そんな一連の動作すら艶めかしく。
「…ゼンガー…?」
母親が赤子を愛おしみ慈しみながら、抱きかかえる時の声音にも似た其れが、青年の口から漏れた時。
「―――帰り給え」
男の背中を2本指で押したのは誰なのか。
厳冬の早朝に降りる霜よりも尚冷たく、金剛石の堅さにも似た其れ。
声が、男を動かしていた。
「…っ…!!」
振り返ることなく、必死の形相で走り出す。
己の意識では無い別の何かに乗っ取られたかの様に通りを駆ける。
青年はその後ろ姿が見えなくなるまで立ち続けていた。
***
震えが、止まらない。
歯の根が合わずに音だけを鳴らす。
―――吸血鬼?
(誰が!?)
―――勿論、『彼』が。
(違う!)
きつく瞳を閉じたまま頭を振った。
焼き付いてしまった映像を振り払いたくて。
御伽噺よりも残酷に美しく恐ろしいあの画を目から消してしまいたい。
だが、当然ながら難しい事。
(あんな…あんな…)
―――でもさっきの光景は?
(見間違いだ…嘘だ、あんな事……!)
―――楽しそうだった。
(!!)
そう、今までにも見たことがないような顔が。
美麗に崇拝さえしかねない様な、瞳が。
彼の口元が弧を描いて。
―――嗤って、居た。
(嫌だ!!)
***
虚ろに開いた瞳が夜の帷を眺める。
此処は慣れ親しんだ、生まれ故郷の森では無い。
幾分星の姿が在っても、心は安らぐ筈も無い。
唯一人の存在が、救いを与えてくれたのみ。
其れも、もう終わり、だ。
「―――何を望む?」
青年は呟く。
春が近い現れなのか、今日の風は生温い。
無風状態だった先程とは違い、風が吹き始めたせいか、月が雲の合間に見え隠れしている。
分厚く、灰色で塗り固められた色合いから考えれば、
遅くとも朝方、早ければ今晩中すぐにでも、雨が降り出すだろう。
町外れよりも更に遠くで、天の裁きが木霊している。
腹に響く重低音と刹那の白閃光を具え、天を覆う。
冬の終わりを告げる、春雷が近い。
鋭敏な感覚が、後1時間もしないうちにそうなる事を予想した。
風は自らに対し、吹き付けるのでは無く通り過ぎるものなのだと、青年は思う。
再び呟きながら闇へと身を投げ出す。
「君が、望むものは……?」
<了>
writing by みみみ
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© 2003 C A N A R Y
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