時々振り返る事が在る。
 振り返りたい、と言った方が正しいのかもしれない。
 今までに己が歩いてきた道に、間違いは無かったのかと。
 軌跡を辿り、不意に問いかけたくなるのだ。
 時が戻ることなど有り得ないと分かっていても、心は其れを望まないではいられない。
 あれが正しい選択だったのか、そうしたのは愚かな選択だったのか。
 触れてくる手は今の現実の姿を更に映し出したかのように。
 冷たく、けれども無情の優しさを。
 光はない。そこにはただ―――――。

【in einer dunklen nacht.】

「―――Guten Abend,meinen freund.」
 紅の空は地平線の際へ追いやられて、濃紺色の幕が天にかかる時刻。
 やがて訪れる冬の到来を告げるかのように、
空気はしんと静まりかえり頬にひんやりとした感触を残して通り過ぎていく。
 孤光灯がついていても、深遠なる闇は人々の足下まで濃く深く沈んでいるせいか、思わず足を取られそうになる。
 さて、そこで他の人々と同じように
帰路を急いでいたある――名をゼンガー・ゾンボルトという――男は足を止めた。
 誰かの挨拶が聞こえた。

『今晩は、我が友』

 と。
 街角の喧噪がその瞬間、消えたような気がしたから、振り向いたのかもしれない。
 或る予感に満ちた慕情が胸を被う前に。
「…久しぶり、だな。随分と」
 そう言うと口元が白い吐息で見え隠れする。
 いつの間にここまで暗くなったのだろう。
 弱々しく灯る光がなければ相手が誰かも分かるまい。
 否、己ならその相手が誰だか分かってしまうのだが。
 男が呼びかける向こう、くすりと笑う影が居る。
「そうかな?」
 おどけた調子で返ってきた声は、確かに昔よく聞いた其れ。
 数年前別れた時と何ら変わらぬ。
 幾分、顔つきは違う気がするが、己の気の所為だとその考えを振り払う。
 ―――その時にその思いを保っていればよかったのだ、とは、後から言えることだろうが。
 男に近付いてくる影は孤光灯の下、微笑していた。
 白磁の肌、翠玉の瞳、絹のように揺れて肩に掛かる金糸の髪。
 美しい、というのだろう。
 それ以外に形容する言葉を、己は知らないだけであっても。
 ゼンガーは一歩前へ足を踏み出した。
「そうだとも。…エルザム」

***

「―――ガー、ゼンガー?」
 名を呼ばれて目蓋を開ける。
 どうやら眠っていたようだ…と思うもののいつ眠りに落ちてしまったのかは分からない。
 己の名を呼んだ青年の後ろ、暖炉で薪のはぜる音。
 灼熱の炎が木々を燃やし、灰にして、落ちる。
 聞き慣れた音に耳を傾けながら、今度は窓の外を見遣る。
 夏の間高く厳しく大地を照りつけていた太陽は、斜に優しく弱くなっていく。
 風は冷たさを伴い、野や森は色を変えていく。
 色鮮やかな季節が去り、静寂に霜が降りてくる。
 やがていつか其れは雪に変わり、世界が白一色に染められる。
 ―――つまりあれからもう1年が経とうとしているのだ。
「やはりどこか具合でも……」
「…いや」
 物思いに耽ってしまっていた己を心配しての言葉を遮る。
 やんわりとそれを否定しておいて、椅子から立ち上がり様に呟いた。
「少しばかり、昔を思い出していただけだ」

***

 どちらが誘うでもなく、自然と二人は夕食をとろうとした。
 場所を決めていなかったにもかかわらず、同時に歩みを止める。
 瞬時目配せをして互いの気持ちを覗き込むのだ、どことなくおかしさを秘めた心地で。
 脇をくすぐられたようなはにかみを浮かべ、彼らは店を指さした。
 店内は温かい料理の湯気と、
人々の熱気で賑わい――何より店自身の暖炉により――外の気候を忘れさせる程だった。
 きっちりと留めていた首もとの釦を緩め、しばし辺りを見回し、近くの空席に腰を下ろす。
 厚手のコートを脱いで椅子にかけると、やってきた給仕に注文するのだが、向かって座る彼はたった一品
――それもおおよそ夕食時に食べるには足りないような料理名――を告げた。
 給仕が去った後、それを尋ねようとして口を開きかけたが、結局一言も発することなく再び口を閉じる。
 表情に内心があまり見えないとよく言われるが、彼にはどうも違うらしく。
 瞳の中に在る微かな戸惑いと、刹那顰められた眉根を鑑みて己の胸の内を量ったのだろう、
困ったような顔つきで言う。
「…食の細い日があってもおかしくはないだろう?」
 と言われてしまえば首肯せざるを得なくなり。
 お互いにぎこちなさが見えているのにあえてそれを見過ごす。
 夕食時であるにもかかわらず、周りの喧しさが遠くに感じられる。
 今、自分たち二人の間に流れている空気を変えたいのに、言葉が無い事にもどかしさを覚える。
 うまく、言葉が出て来ない。
(…いつも……)
 いつも先手を打つのは彼の方で、其れに後から気付く、という形。
 迎える準備を全て整えてから、無理強いではなく、己の意志を以て道を選ばせる
――例えそれが全て彼に見透された傀儡のような意志であったとしても――それは確かに迷い無き己の道。
 自ら取捨したものを自らが否定することなく、進むことが出来ること。
 打破した迷いは自身の中で新しい力に成り得るのだと。
 そう強く感じる時。
 けれど、そんな彼の気遣いに気付くのは大分経ってから。
 今ですら逆に彼はこちらを気遣った。
 心配するな、大丈夫だ―――――心配をかけてすまない、とさえ聞こえてしまうのに。
 ともすれば思わず大きなため息をつきそうになるのを堪え、運ばれてきた料理に手をつける。
「…今年の冬も、また寒くなるだろうか」
「……。ああ」
 返事は酷く曖昧なものだった。
 まるで彼の独白のように聞こえたので、即答いや返事をしかねたのだ。
 何と寝惚けた返事をしたのか。
 漸く見つけた会話の糸口を己から潰した、と。
 男の自己嫌悪は止まらない。
 つもる話もあるだろうに、本当に言葉が出てこない。
 何と言えば良いのだろう。
 聞きたいことは多々ある。
 今までどうしていたのだ、家族は元気か、お互い年をとっただろうか、
いやお前はあまり変わらなさそうだ………そんな、簡単な話ばかり。
 けれど、何より今聞きたいことなのだ。
 これを逃せば再び逢うのはいつの日か。
 今度は、5年以上空くのかもしれない。
 銀の瞳はそんな想いに揺れる。

 やがて出た言葉は僅か一言のみ。
「…エルザム…」

「…?」
「―――!!」
 言ってしまってから慌てて口元を覆ってももう遅い。
 確かにそれは音となり意味ある言葉として姿を現したのだから。
 向かい合って座る相手は怪訝な表情をしている。
 注文の料理を運んできた給仕に礼を言って、暫くそのままに。
 たった一言、不意に口から出た台詞を虚空に浮かばせたままで時が流れる。
 心臓の脈動に似たようなリズムで。
 別段何かを呼びかけようとした訳でも無く、
やけに己の言葉は甘く響いたような気がする―――そんなことを自覚した瞬間、首から耳の先まで熱が走った。
 口元を手で覆い隠したままで、顔を伏せて黙り込む。
 彼にしてみれば突然名を呼ばれたものの、
呼んだ肝心の相手は顔を朱に染めて何か悪いことでも口走ったかのように視線を背けるのだ。
 そうされればこちらとしても次の行動を起こし難く。
 かといって、ずっと相手を待てば己を苛むだけでなかなか話は進まないのだろうと、
思考を巡らせていた束の間、意を決したように重低音が耳に届く。
「…すまん」
「謝ることではない、と思うのだが」
 君ならばそれも仕方がないだろう、と苦笑する。
 再会してまだ数分、目の前にいる男は数年前と変わらないのだと、思う。
 彼の辞書の中、立ち居振る舞いという項には不器用という一文字しかないのでは無いか。
 時々、妙に頭を働かせてみても、何故か自ら迷路に入り込んでしまう。
 今もきっとそうなのだろう―――そんな風に思考を一巡させてから、どこか悪戯な光を瞳に浮かべて告げる。
「相変わらず、君は可愛いままなのだな」
「…っ!」
 男――しかも疾うに成人を超えた年齢である――に向かって“可愛い”とは。
 普通なら怒るところなのだが、何故か彼を目の前にしては反を唱える言葉が無い。
 出て来ないと言った方が正しいか、彼の台詞は常に自分の想像範疇外で、
時機や流れも全く読めないのだから、対処など出来る筈も無い。
 一体どんな思考回路が働いているのか……出そうになった答えを、男は徐に打ち消した。

 食事中も尚、本気なのか冗談なのか判別不可能の言葉を投げかけてくる相手に対して、
怒り半分諦め半分と言った対応をする。

(止めておけ、無意味だ)
 もしや其れを唯己に対してのみ向けられたものであるとするならば。
 有り得無い、浅ましいとさえ嫌悪していても、心の内奥の、
更に奥底深く沈んでいる――遙か昔に沈めた筈の――想いの正体は、
寧ろ其れを願ってしまっている己自身だ。
 意識が無意識に対して無防備になった瞬間、水底の鏡が自身を映し出す。
 禁じられた望みを、暴く。
 苦しみを訴えるのは一体身体の何処なのだろう。
 余りにも相反する二つの想いは己の身一つに本当に収まっているものであるのか、
収まりきるもので有り得るのか、疑ってみても空しいだけ。
 そんな想いを込めて彼に言う。
「…やめろ、俺はも、う―――――」
 ぐらりと、己の身体が傾いだのに気付く頃には彼がその肩を支えてくれていた。
 何が己の意識を奪おうとしているのか考えていたところへ、近くの団体が宴を始めていたことを知る。
 大方それに当てられたのだろう――己は酒に弱いのだと改めて知らされた――と考えつく。
 朦朧とした意識の中で、彼が促すままに出口へと歩みを進めていく。
 彼に貸してもらっている肩には柔らかな金糸の髪の感触がある。
 ふわふわと揺れる髪から微かに甘い香りが漂い、己よりも驚く程に低い彼の体温。
 しかしその冷たさがアルコール成分により更なる熱を発し続ける己の身体には心地よく。
 途切れがちな意識を引き戻してくれはしないか。
 落ちてくる目蓋の下、ゼンガーはそう思った。

***

「また、こうして月日が巡る…不思議なものだ」
 彼はひとりごちる。
 窓の側、室内の明かりよりは月光を頼りに読書を行う友人へ向けて。
 聞こえているのかいないのかは分からないが、
静謐とした空間に月明かりのみで本を読む姿は中世の絵画のように重厚な雰囲気がある。
 勿論今日は満月で、雲一つ無く、
充分に明かりを得られるだけの条件が揃っているからこそ、彼は窓辺で本を読むのだ。
新月や、雲の多い日などはきちんと室内の明かりを使用している。
だが、完全な明かりにはならず、薄暗いままなので「目を悪くする」と言って余り読もうとしないのも事実。
最近は本気で小さなランプを買うかどうか考えているようだが。
 窓からの微かな光はそのまま床へと落ち、彼の影をのばす。
 …不思議とこの城に気に入られているのはこの友人の方ではないのか。
 ふとそんな想いが胸をよぎる。
 互いに静かな場所を好むものの、
本来我が友人が居るべき場所は昼の太陽が燦々と照りつける大地の上であって、
夜の月が寂々と照らす城の中へ閉じこめることは如何なる道理があってのことなのか。
 そう言われても仕方が無いのではと思う。
 蝋燭の火は微かに揺れ、室内の影をぼんやりと浮かび上がらせる。
 豪奢な絨毯が床に引かれ、細やかな調度品の数々。
 椅子ですら精巧なしつらえが部屋の中にあって主張し合っているかの様に。
 しかし、燭台があっても大して必要としないこの城の主。
 あくまでも燭台の役割は彼の友人の為に、頑迷な程に因習を続けている男の為に、在る代物なのだ。
「…? 何か、今―――」
「親愛なる我が友を愛でていただけだ、気にするな」
「……」
 別段気にした様子も無く、数回の瞬きの後、小さくため息をついた。
 思った通りの反応だと笑いたくなる。
「エルザム、前から言うように俺は」
「ゼンガー」
 首筋、耳の後ろにぞくりと冷酷な声がした。
 背筋に何か貼り付けられたかのように、男は身動き一つとれなくなってしまい、背後の気配のみに心を配る。
 するりと回されてきた手が、同じように冷たい。
 冬の夜、冴え冴えとした闇に浮かぶ、青白く光る月。
 葉の落ちた木々の隙間から、日中差し込んでくる陽光とは異なる其れ。
 触れては溶ける、儚い氷の結晶を彷彿とさせる声だった。
 いつもそこには必ず愛しさが含まれているのに、今己が感じているのは本能的な恐怖。
 自然界に於いて自らが居る位置は、食われる…狩られる立場にあるのだと。
 そう、思い出させる確かなもの。
 けれど。
「――…どうか……」
 突如か細くなる願いを秘めた声音になることを、知っている、分かっているが為に。
「…どう、か……このまま―――」
 両肩に置かれた手が小さく震えていることも知っている。
 恐ろしく冷たくなってしまう声は全ての感情が瞬時に消えてしまうからなのだと分かっている。
 それは、星に祈りを捧げようとする子供にも、似て。

***

「目が覚めたようだな」
「!?」
 思わず全身が硬直してしまったのは、至近距離にある翠玉の瞳と睨み合った所為だろう。
 彼が互いの額を合わせて熱がないことを確認していたのだった。
 別の意味で火照ってしまった顔が余程強張っていたのか、
困ったような――しかしどこか楽しそうな――感情が口元を彩っている。
「驚く程のことでもあるまい?」
「い、や…しかし…」
 くつくつと喉の奥から漏れる声。
 一体何歳になったのだと言われている様でふん、と顔を背ける。
 無論、其れこそ子供のような振る舞いには違い無いのだが。
 青年はその笑みを張り付かせたままで、ドアの向こうへと消えた。
 遠ざかる足音に耳を澄ませながら視線を泳がせる。
 ここは、どこなのだ。
 ようやっとそこまで考えが動き出してから、
己が寝かされているのは天蓋付きの豪奢なベッドだと言うことに気付く。
 古めかしい彫刻に、天鵞絨で出来た蒼色の天幕。
 二層三層に重ねられた布団の、柔らかな手触り。
 今は降りている薄布は絹に見えるし、それらを束ねる紐でさえ細やかな職人の技がある。
 広いベッドだと思っていたら、明らかにサイズは王が使うそれと同じ。
 一人で寝るには余りにも広すぎる、贅沢な大きさなのだ。
「あれ、は――…」
 そしてこのベッドの持ち主を示す『それ』を―――
親友の家名が持つ紋章を見つけたときには、全ての事柄に得心がいく。
 実に当たり前の話だが、すっかり失念していた事でもある。
 ここは、彼の家なのだ。

***

 煉瓦造りの堅固な城。
 灰の壁に絡む草花が流れた時を教える。
 所々崩れてきてはいるが、強度自体に何ら変化は無く。
 今は近くの村人はおろか、街道より少し外れた場所にあるせいか、行商人すら寄りはしない。
 元々付近の住人たちは、城としての華やかさもなく難攻不落の代名詞の様なこの城に近づこうとはしなかった為、
昔ながらの住人くらいしか、今現在この城について知っている者は居ないだろう。
 遙か昔に、この土地を治めていた一族が居たことも、もはや流れる時の中で砂塵と化して風化していく。
 朝焼けを、薄布のカーテンの向こうで見つけた男が身体を起こしながら言った。
「お前の父上もまた、この風景を眺めていたのだろうか」
「遠乗りの好きな方だった…この城にいることの方が少なかったかもしれん」
 答えた声はすぐ隣から。
 肩が触れる程に近い距離。
 其れも当然だろう―――声の主は、
翠玉の瞳を目蓋の裏に隠しながら、未だ睡眠を貪ろうとしているのだから。
 あの晩介抱してもらってからは、いつの間にか二人用の寝具となったこのベッド。
 確かに大きさに関しては成年男子が二人寝ようと一向に構わない。
 しかし、問題が、在るには在る。
「君も父上の早駆けの技術を知っているだろう?」
「成る程」
 愉快そうに、しかし尊敬する父の話を得意げに語る青年は、欠伸を一つして寝返りを打つ。
 男の脳裏に刻まれている追憶は暖かな家族が共に居る風景を思い出させた。
 其れを懐かしみ、愛しむのも束の間、繰り返される、記憶。
 何故かはっきりとした像を結び。
 蘇る、確かな感触。
 左右を深き森に囲まれていても、別段不自由は無く。
 寧ろ暗きところに在りてこそ、『我ら』の目は働く。
 笑って、居る。

 ―――夜は我らが母、我らは夜から生まれてきたのだ―――

 恍惚としていながらも、瞳の奥は深く寂しく重く事実を訴える。
 変わらない姿、止まった時、それは何を見てきた者の瞳か。
「残念ながら、俺にはまだ共に馬を並べて森を走ることは出来んな」
「…!!」
 刹那表情を凍らせた彼が、泣きそうな程に張りつめた声で呟く。
 すまない、と。

<了>

 writing by みみみ
 戻る。 
© 2003 C A N A R Y