【 背中合わせの体温 】

 つまりは。
 互いの顔すら見ることが出来ないのに、離れることも出来ない間柄。
 互いが互いに寄りかかってしまっているのを解っていながらも、
自立した人格がそれを頑なに拒み、認めては自己嫌悪。
 果てしなく続く螺旋の階段にも似て、然し行き着く先は一つではないのかと疑いをかけて。
 即ち、破滅だと。
 手に入れた温もりは離しがたいが、安易に触れることの出来ないものであることも承知済みなのだ。
 そんな関係は続いている、今も未だ―――。

 冷たく長い廊下の向こう、人影が立っている。
 戦場を生きる戦士たちが安らげるようにと、無骨な建物が多いこの基地で、
デザイン性のあるこの場所は、逆に目立っている。
リノリウムの床は白と灰の四角形が織りなす模様を、今日も視界に届ける。
 だが其れは日中での話。
 今は深夜。正直日付が変わってしまった時間には驚きすら在るのだが。
 そんな時間に、親友との待ち合わせ、とは。
 一体何度この道を通っただろうか。
 元々広い建物ではない故、自分が今歩いている道以外に何十通りもの道があるとは思わないが。
 それでも毎回同じこの道を使うことに思わず意味を見つけたくなる。
 かつん・かつん…
 足音が空虚な音を立ててこの空間にこだましている。
 幾重にも繰り返す、乾いた音がピタリと止んだ瞬間、顔を上げて青年は月光の中で佇む男の名を呼ぼうとした、が。
「お前が遅れるなど…珍しいことだな?」
 先程まで近づいてきていた足音すら耳に入っていなかった様子だったにもかかわらず、
真面目な様子でいてからかいを含んだ声音でそう尋ねてくる。
 …この男は。
 苦笑したくなるところを抑えて謝罪する。
「…すまない。少々出るのに手間取った」
「…そうか」
 単調すぎる答え。
 昔から一応、人の心情をはかることに長けていたつもりでも、この男だけは全く読むことが出来ない時がある。
 今も、そうなのだ。
 別に『何』に手間取ったのかすら聞こうとしないのは。
 思惑が有ってのことか、単純に興味が無いのか。
 どちらにせよ、時々こちらが試されているかのような気分に陥るのは穿ったものの見方なのだろうか。
 男は一つ、小さなため息をついてから言う。
「今日は一体何の用で俺を呼びつけたのだ? 何か重大なことなのか―――」
「ゼンガー」
 相手の言葉を遮り、不意に名を呼ぶ。
 呼ばれた相手は真っ直ぐに、射抜くような強さでこちらの方を見た。
 怯んでしまったのは刹那のこと。
 機械のような笑みを張り付かせておいて、相手に立ち向かわなければならないのだから。
 創世記の神が持つ、同神であっても死んでしまうほどの矢と同じ色。
 魔を退け闇を祓う、月の光と同じその色。
 銀、の。
 普段ならば愛しさという熱で狂ってしまうかと思う程ではあるのに、今日は何故か冷たささえ持ったままに。
 月明かりの元にいる彼に、影の中から一歩出て、近づくことが出来ない理由。
 それと酷似していた。
「……」
 言いたい言葉があったはずなのに、全く口からは一音も漏れ出ることはなかった。
 相見えるたびに、心が躍らされている。
 激しく時には緩やかに。
「ゼンガー…私は…君、を……」
 どうしてもその先は言葉にすることが出来なかった。
 残された時間は少ないのだと脳内に声が響いて警告しているが、開いた唇は何も紡ぎ出さない。
 躊躇うな、戸惑うな、懼れるな……!!
 言えばいいのだ、目の前の男に。


 ―――どうぞ春までに戻られます様、父上様からの命です。
『何…!?』
 ―――お忘れではありますまい、貴方はいずれコロニー統合軍を率いる御方。
     なればこそ、連邦の元にいる訳には…。
『分かっている…っ…! しかし春までとは早すぎる、せめて―――!!』
 ―――貴方の今所属されている隊も、1ヶ月後には解散が命じられます。
     当然、こちらへ戻る様辞令も回されますのでご心配なく。
『な…っ』
 ―――では、失礼致します。

 突然生家からかかってきた久しぶりの電話だと思えば、
父との形式的な挨拶もそこそこにすぐに世話役に電話の向こうの主が変わった。
父はと尋ねれば、急務で出かけられましたとだけ。
別段気にすることではなかった。
緊急的収集がかかるなど、確かにいつものことではあったのだから。
 しかし今回ばかりは何か勘を働かせるべきだった。
 一方的な宣告、高圧的だが当然の命令。
 ずいぶんと前から――もしかしたら、一時的に連邦軍へと入隊した時期からかもしれない――
予想してきた事態が、こんな時に選択の余地すら無く迫ってきた。
電話で告げられた通りにこれからは周りが動いていくのだろう、
あくまでも電話で告知してきたのは何らかの猶予のつもりか。
 それとも?
(甘い、期待だな…)
 反抗手段など特に無い。
たかだか青年尉官一人が騒いだところで、生家が持つ家名の重みは役に立つ反面過重な負担をかけてくるのだから、
結局最後には戻ることになるのだ―――あの家へ。
コロニー統合軍を率いる、ブランシュタイン家の下へ。
 何にせよ、こうやって電話での直接的な話がきた時点で、とうの昔に水面下での会議は終わっているのだろう。
根回し手回し手配済み。
後はこの身一つ、という訳だ。
 エルザムは強く握りしめていた拳を、壁に叩き付けた。
 彼1人置いて、帰ってこいと言うのか……この冬の初め、尊敬する人を亡くした彼を残して!!
 特殊戦技教導隊隊長、カーウァイ・ラウ大佐。
 夏からの無重力下でのPT起動訓練も終わり、他の隊員たちもようやく宇宙になれてきたばかりのことだった。
 丁度訓練も新しい段階へと進めた矢先。
 彼の人は深遠なる闇の向こうへと消え去った。
 そして、彼――親友でもあり、密かな想い人でもあるゼンガー・ゾンボルト――もまた、
大切な人を喪った所為で、一時期心が大きく不安定になったのだ。
 あまりにもその様子は痛ましく、涙こそ流さないものの、いつ倒れてしまうのか気が気でなかった。
 今もそれは変わらないだろうに、“自分1人が戻る”という命令。
 もちろん彼も充分な成人男性として、今ではすっかり立ち直ってはいる。
だが時々あの事故の悪夢にうなされていることも、気づいてはいる。
あの瞬間に、彼だけではなく隊の全員が深い傷を創ってしまった。
誰もが自分自身を責めて、お互いにかけることの出来る言葉が少ないという酷くぎこちない状況。
これを許し癒すことが出来るのはたった一つのみ。
 時間、だけが。
 少なくとも、それすらも無い立場に追い込まれたようだった。
 1ヶ月?
 そんなことをしろというのか……。


「エルザム?」
 青年は立ち竦んでしまっていた。
 後1週間も経たぬうちに本当に自分は別れを告げることになるのだろう。
 慌ただしく去る中、『想い』の一つも告げられないまま―――?
 いてもたってもいられずにこんな夜更けに逢う約束までしたものの、
それでも本人を目の前にすると言葉が何一つ出なくなってしまった自分がいる。
 歯がゆいと思う前に、莫迦らしい。
「いや、君と久しく…ゆっくりと話していなかったと思ったのでな」
「?? この時間にする必要がわからんのだが」
 心配していた表情が呆れ半ばに変わっていく。
 気まぐれだと、そう思ってもらえるのであればどれだけ気が楽なことか。
 先ほどよりかは自然に笑えている、と考えた。
 苦笑して呟く。
「昼だと―――邪魔が入るだろうからな」
「?」
 良くは解らないが、取り敢えずは納得させたのだろう。
 頭の上に疑問符を浮かべた後、相手が腕を組んだ。
「だからと言って…」
 今度は心底呆れた様に言う相手に悪戯っぽく言い返す。
「明日は互いに非番だろう?」
 だから、多少の夜更かしも見逃してくれ、と。
 子供のように幼く、出来れば無邪気な様子で――そう、相手に見えていればいいと願いつつ――片目を瞑ることで。
 凍りついていた空気がとけていく。
 しかし告げるまい。
 あまりに大切なこの時を壊さない為にも。
 何となく他愛ない会話の後、青年は去ろうとした。
 幾度と無く離れようと思ったが、足は依然として動かない。
 その上視線は彼に注がれたままなのだから。
 柔らかな月が彼の髪を照らせば、癖のついた髪がその色を丸ごと銀光として照り返す。
 それに見惚れている自分に気付いては心中穏やかではいられない。
 それでもはっきりと山際が濃紺から青藍へと色鮮やかに明るく変わるのを見れば、そろそろ別れを言わねばならない。
 そう言って青年は去ろうと思った。
 突然の別れ―――彼は一体どんな表情をするのかと考える事は難くない程度の話。
 愚かにもそんな事態を楽しんでしまう気持ちが確かに、自分の中にはあるのだ。
 自室へ戻る直前、親友がふと微笑した。
 笑うことなど、ましてやこのように表情を弛ませることなど滅多に無いこの男が。
 背筋に駆け抜けたのは、或る程度予想された警告。
 ああ、そうか…。
「?」
「感謝しているのだ、お前に。
大佐が死んでから腐抜けていた俺をずっと支えていてくれたこと。深く、礼を言う」
 そして続けるのだ、これからも宜しく頼む、と。
 男が照れながらの言葉であったことは十二分に承知した上で、理性が情動を抑え続けられたのは、ひとえに。
 無二の親友であるお前を、心の底から疑わずにただ信じているから、
これからも共にいよう―――――そう言った彼の笑みだろうか。
 情けないことに、触れるだけで精一杯とは。
 触れた指先、その感触、温もりのみで心が洗われて変わっていく。
 ああ、と首肯してそのままドアを閉める。
 最後に彼の肩を軽く叩いて、勿論だと答えた瞬間に強く刻み込んだものが在った。
 ドアの向こうに遠ざかる足音を確認して暫く経った後、上着を掛けもせずに放り出したままベッドに倒れ込む。
「…君、は、こんな………っ…!!」
 やがて訪れた眠気に身を任せて、意識が徐々に薄れていく。
『お前だからこそ、俺は良いと思ったのだ…エルザム』
 夢現では彼の人の腕に抱かれ、安らかな寝息が聞こえてくる。
 例え『想い』を告げることが出来たとしても、それはあまりにも儚い幻。
 夢の中、彼の腕の中はとても温かく、耳に直接彼の心音が届く。
 どんな言葉も要らない、彼の囁きだけが降ってくれば良い。
 いっそこのまま―――。
 エルザムの意識はそこで途切れた。

 …大切にしすぎて届かない思い。
 …大切にしすぎて縮まらない距離。
 裏切れない、裏切りたくないものが在る。
 そんな時もくるのだと知った。

<了>

 writing by みみみ

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