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【 愛してる 】 |
『エルザム、前々から思っていたのだが』
銀の強い瞳は東の国の刀身に似て。
強く美しい輝きを持つ。
『何だ?』
尋ね返す緑の瞳は深い森の色。
西洋の御伽噺に出てくる深き巨大なもの。
『―――どうしてお前は俺を』
言葉はそこで途切れる。
何故切れたのか、と振り返り。
電子ベルの音。
突然引き戻された現実。
ぼんやりと意識をたゆたわせる暇もなく、耳元で鳴り続ける音を止める。
手を伸ばし、ベル停止のスイッチに触れる。
身体を起こし、表示されている時間を見ると何故か夜明け前。
(何故……)
昨晩の記憶をたどるがはっきりとしない。
曖昧にぼやけた映像が、焦点を結んでは消え、結んでは消えていく。
しかしどれも今時計が鳴った結果には繋がらない。
過程もなく結果が起こるわけがないのだからして。
とりあえず寝る前に時計をセットしたことは確かだが。
果たしてそれがきちんとセットされたものだったのかどうか。
確信がない。
(…間違えた、のだろうな…)
久しくしたことのない失態に思わず頬をかく。
十代の頃ならいざ知らず、成人して早数年の歳月が過ぎ、今更こんな事をしてしまうとは。
思わず胸中によぎった呆れた気分に、苦笑する。
幸い、今日は休みの日なので別に損をしたという気持ちはない。
むしろ“早起きは三文の得”なのだから。
(……)
だが何をするべきかと迷う。
室内を見回しても仕方ないので、取り敢えず洗面台へ。
ぬるま湯の温度を保った水で、顔を濡らすと多少は思考がさえてくる。
それでも、以前のように仕事に追われているわけでもない。
こなさなければならない仕事はあるが、別段急ぎでもない。
何となく、早起きをしたのだから普段とは違うことをしてみたい気分に駆られる。
さりとて良い考えも浮かばない。
鏡に背を向け、呟く。
「―――どうするかな」
簡単な服に着替え、腕を組みながら考える。
夕焼けとはまた異なる薄焼けの空が次第に広がって新しい時を告げる。
空と雲の境ははっきりとせず、また白く美しい光が薄青の空を押し上げていく。
夜と朝の境にあってこそか、月は白く大気にとけ込むように空に浮かぶ。
真昼の月ではない、夜の月でもない、朝の薄曇りに在る月。
太陽とはまた違う、柔らかな白さを秘めた。
その風景を眺めていると、不意に昔の記憶がよみがえった。
『何をしている?』
宿舎から少し離れた土手に座る金髪の青年。
声をかけたのは親友である銀髪の青年だ。
『…やはり地球は美しいのだな、と考えていた』
『そうだろうな』
視線を隣に座る親友にやることなく風景だけを見つめている。
不思議にこぼれた僅かな笑みを、銀髪の青年は目にとめる。
(…心惹かれてやまぬ、な…)
コロニー生まれのコロニー育ち。
何度か訪れた地球だが、ゆっくりと時間を過ごしたことはない。
風景を眺めることなど出来もしなかった。
自分が住まうのは暗黒の海に浮かぶ脆い機械仕掛けの箱庭。
大地を離れた人類は、そこに大地を作り上げようとした。
母なる地球とそっくりな空間。
青く晴れる空も流れる雲も。そよぐ緑に優しく吹く風も。
土を踏みしめることの出来る空間が存在し、植物たちに出会える園があり。
用意されて作られて。
だがしかしそれは偽物だと言うこと。
本物のそれにはけして適わないと言うこと。
脆く機械仕掛けの箱庭には収まりきれぬ壮大なものが、この地上にあるのだから。
青く脆いガラス玉を見下ろしては人々が感嘆のため息をつく。
『…綺麗だ…』
と。
『幸せそうだな、エルザム』
『幸せだとも。―――勿論、君もそうだ』
『は?』
『君がいることも、幸せなのだ』
『……』
隣にいた親友は声をかけたことに後悔を示したようだ。
微妙な表情の変化からそう読み取る。
困惑してそのまま押し黙った彼の肩に頭をのせる。
『?』
『風が心地よくてな…』
目を閉じて、頬に感じる大気の流れ。
地球を取り巻く全ての。
世界全てを回る風の渦が、今通り過ぎてゆく。
止まりはしない。
留まりもしない。
流れゆくことを宿命づけられたもの。
『……』
『―――エルザム?』
風のように自由に。
心もてあますことなく。
君を愛している。
『……』
『エルザム?』
ゼンガーに名を呼ばれる嬉しさを、エルザムはかみしめて風を受けていた。
つと回想を打ち切り、エルザムは瞼を上げる。
そんな昔のことではないのに、何故か酷く懐かしく思え。
死が近くに在ればこそ、生きていることをかみしめられる瞬間故か。
そこに別の想いが混じっているからなのか。
懐旧の念を思い起こしながら、脳裏に何かが閃いた。
「そうか、そう言えば―――」
あることに思いついて部屋を出る。
今日は確か。
基地の演習場。
普段は機体が立ち並び、あまり人が近寄ることはない。
忙しなく滑走路から飛び立つ戦闘機、帰ってくるPT、弾倉の交換をこなす整備兵。
それら全てがこの広く巨大なコンクリートの間を埋め尽くし、用がなければ逆に敬遠される。
しかし今は早朝のため、何に気を払うことなく悠然と歩くことが出来る。
当然人捜しも容易になるのだ。
二三度首を左右に回したところで、人影を見つけた。
「やはり……」
近寄れば親友が竹刀を握り、素振りをしているところだった。
澄み渡る空気すら切断しそうな気配が、彼の周りを包む。
閉ざされた瞳で何を見ているのか。
真一文字に結ばれた口は何を思うのか。
上げられた腕が、ひゅっ…と音を立てて振り下ろされた。
「……ん?」
「いやすまない、君の鍛錬の邪魔をするつもりでは……」
目を開けて切っ先を見据えたまま、ゼンガーは問いだけをよこす。
「早いな…」
「偶然時計が起こしてくれた」
「そうか…」
肩より少し上に切っ先を持ち上げ、それを振り下ろす。
足は半歩ほど前に踏み出し、竹刀と肩を平行に保つ。
上下することはあっても、左右に振れることはない。
流れる大気が斬られていくような音がして、振り下ろされる竹刀。
涼しげな色をしたその瞳とは裏腹に額から首筋にかけて浮かぶ汗。
「……」
かける言葉もなくどうしようかと考えた末、その場を去ろうとすると。
「―――行くのか?」
「あ、ああ…」
「もう少し…待ってていてくれないか…?」
素振りをしながらでの素っ気ない言葉。
しかしその中に普段と違う声音を感じ取って、エルザムは頷く。
「…感謝する…」
待っている間、別段飽きることはなかった。
少しずつ変わっていく空の色。
暖かさを含んだ乾いた匂いの風。
灰色の地面、錆びたフェンス、漂うオイル臭。
空に流れゆく風景に心奪われること。
この大地に身を置いて暫く経つのに、飽きたことは一度もない。
そんな中にあって尚鮮やかに色彩を放つ―――彼。
(…君といると、本当に待つことが苦ではなくなるのだな……)
その姿を凝視している自分に気付いて苦笑を浮かべると、ゼンガーの動きが止まった。
ある一定の高さに保っていた竹刀を横に下ろし、脇に構える。
姿勢を正し顎を引き、そのまま腰から頭を下げる。
誰にするわけでもない一礼。
緩慢ともとれるような速度で上半身が持ち上がり、こちらへと向き直る。
「…待たせたな」
「もう良いのか?」
「ああ。…十分だ」
エルザムは目を細める。
太陽が大地を照らすより早く、彼は自分を照らす。
眩しい輝きと言うよりは、淡い光を帯びて。
「それに、お前を待たせるわけにはいかん」
「…!」
何気ない一言で灯される明かり。
照らされる、心。
純粋さの下で暴かれていく。
照らし出される影。
「君のそう言うところが好きだな」
「?」
「簡素で、真っ直ぐで」
「…分からん」
「そうか?」
「……」
考え込む彼を見て笑みを浮かべると、じろりと睨まれてしまう。
「―――今更言うことでもないな」
「何がだ?」
先を歩く彼に微笑みながらこう言った。
「君が好きだ、と」
<了>
writing by みみみ
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