【 愛しているなら離さないで 】

 壁の時計が、七つ、鐘を鳴らした。
 その音に男は顔を上げて、窓の外へと視線を送る。
 ―――季節は冬本番。
 肌を刺す様な冷たい風が吹き荒れる。
 街路に灯る明かりのみが闇夜に浮かび上がり、そして。
「…!」
 音も無く降る、白い其れに瞬間目を奪われ。
 思わず立ち上がって窓へと近付く。
 触れなくとも手を近くに寄せるだけで如何に温度差があるのか理解出来る程。
 天より薄氷の華が舞う程。
(寒く、なったのだな)
 男は目を細める。
 窓ガラスに映された己の姿では無く、愛しき親友に思いを馳せて。
 今は静かに階下で読書をして居るであろう、とある人物にもその丈は及ぶ。
 長く深く、心より想う。
 親友からの提案で、降誕祭の時期を普段の孤島より離れ、陸地で過ごすのも悪くはないだろうと。
 非常時に備えての態勢に変わりは無く。
 だがしかし、街角を歩く度に聞こえる音楽や華やかな風景は心を和ませてくれた。
 赤や緑のリボン、青や金のモール、様々に包装された大小の箱。
 雑踏の人々は足早にだが嬉しそうに過ぎて行く。
 夜の帷が落ちても尚、街は仄かに輝いている。
「? ―――!?」 
 不意に懐の携帯端末が振動する―――手に取ったディスプレイには『Mail』の文字。
 今までに殆ど使った事の無い機能の反応に首を傾げ、疑惑の思いと共にメールを開ける。
 件名に、差出人の名がある。
 本文はたった数行の文章。
 男は、コートを片手に部屋を飛び出した。

***

 時は経る。
 忘却の彼方より、追憶せよ。
 其の名は罰。
 決して忘れべからざる汝の罪よ。
 誰が赦し給うな?

 海に面した小さな街にはしる比較的広めの街道。
 小さくはあるが港を持つこの街の生命線とも言える其処から、少し視線を外すと深い森がある。
 二度にわたる旧暦の世界大戦をも辛うじて逃れた古くからの森。
 多少人の手入れがあるものの、生い茂る木々や草花は静かに鎮魂の鐘を聞く。
 鐘を鳴らしているのは―――森の入り口にある小さな教会。
 建てられた当時は白亜を誇る壁も、今では数カ所のひびや修繕痕が見える。
 だが背後に佇む深き森が其れを感じさせない。
 暗き微睡みの入り口に佇むは聖なる祈りの祭壇。
「愛してはいけない者を愛してしまった場合、この胸に懐く愛情は罪でしょうか?」
 今宵、礼拝堂には人影が二つ。
 独白とも取れる様な問をした青年と。
「…何故、愛してはいけない、と?」
 穏やかに問い返す、この教会の牧師と。
 微かに揺れる蝋燭の炎が、通路を挟んで椅子に座る二人の影を床に落とす。
「……」
「何故あなたはそう思いますか?」
 重ねられる問いに、青年は応えず顔を上げた。
 ほぼ天井に近い位置で、填め込み型の窓から覗くのは深淵の闇に降る粉雪。
 そして浮かび上がるステンドグラス。
 聖書の一場面を模した硝子細工が、無表情に此方を見下ろしている。
 鐘は時を告げ、何かを呼び覚まさせる。
 記憶の奥から忌まわしき感触を。
 忘れるなという警告にも似て。
 まるで音を立てることが禁じられた様な世界で、青年は呟く。
「…私のこの手が、汚れてしまっているから」
「汚れている?」
「ええ」
 自嘲する形でそう言うと、手袋を外して自ら眺める。
 外気に触れた肌がちくりとした痛みを感じた様だが、大した事では無い。
 室内であっても、殆ど暖房が意味を成さない礼拝堂に於いては、
喋るたびに零れる吐息が白くなるのだから当然といえば当然の反応だろう。
 だがもしかすると、この時の青年の瞳はそれ以上に凍えるものだったのかも知れない。
 軍人という職業に似つかわしくない、細い指。
 軽く握ったり開いたりを繰り返し、歪む唇。
 此は誰かを殺すことの出来る手―――大切な、者さえ。
「…私は妻を殺しました」
「…!」
 懺悔には程遠い、告白。
 唯言ってしまいたかっただけだ。
 私の、罪を。
 私が、した事を。
「例え其れによって多くの者が救われたのだとしても。私は結局たった一人の大切な人を殺してしまった」
 掌に落ちる視線は静かに悲しみを降り注ぐ。
 表情は凍り付いた様に動かず。
 過去の傷を抉る。
「今でも時折、思い出すことがあります…」
 脆く儚き、星々の海に浮かぶ箱庭。
 崩れて、無くなり。
 流れてまた一つの星にでもなるというのか。
 其の骨の欠片すら手にする事も出来ず、見る事も叶わなかった。
 爆炎の向こうで彼女はどんな顔をしていたのだろう。
 どんな思いでその最期を迎えたのだろう。
『私を……愛して……いるのなら……』
 もう引き金を引くことを躊躇わないで。
 愛しい弟の為に、従姉妹の為に。
 私を、撃ちなさい。
「カトライア―――…」
 亡き妻の残酷な命令。
 生者を縛る因業の鎖。
 名を呼ぶ事すら躊躇う様な。

 バタン!

 教会の扉を開けて入ってきた者が誰なのか、青年は理解していた。
 だが立とうとはしない。
 深く瞼を下ろしたままで其の人物を待つ。
 窓に吹き付けていた風の一部が、扉の隙間から流れ込んだ。
 青年の長い髪が揺れ、頬に触れる。
 牧師は立ち上がり、『彼』に向かって手で此方へと促すと、一礼の後に男は青年へと近付いた。
「…では、私は此にて」
「!」
「貴男のその言葉を本当に聞かせたいのは、私ではないでしょう?」
「……」
 頭を少し下げて言葉では無い感謝の意を示す。
 口に出せば陳腐になりそうな感情を。
 教会の扉は、閉じられる。
 奥の方へと去っていく牧師の姿を眺めつつ、男は今まで牧師が座っていた場所へと座った。
 少々の荒々しさに男の体躯も加わり、椅子が軋み。
 盛大な溜め息を一つ。
「驚かせるな…!」
 何処か抑えた感じのする低い声で、俯いた男の横顔が見えずとも、怒りの気配が伝わってくる。
 肩で荒く息をしているのは、此処まで急いで駆けつけて来たのだと言うこと。
 しかし閉じられた瞼は開かず、言葉だけが投げられた。
「君は、あの時のことを覚えているか?」
「―――…あの、時…?」
 突然の質問に戸惑いの声音。
 青年は薄い微笑を唇に保ったまま、告げる。
「私が君を初めて抱いた日のことだ」
「―――!!」

***

 彼女を彼岸の彼方へ送り出す儀式も終了し、喪に服している隙もなく彼は戦場へと戻ってきた。
 直属の上司であるカーウァイ大佐の気遣いを断り、黙々と作業に打ち込んでいく。
 周りが驚く程に、依然と変わり無い様子で。
 ただし、一部の者達だけは以前の彼とは違うと、確かにその違和感を感じ取っていた。
 上手く言葉にする事は出来ないが、少なくとも変わっていない等とは思えない。
 ―――内面的なもっと奥底で何かが。
 昼だというのに、昨夜から降り続く雨のせいで外の天気は暗い。
 室内灯の明かりも何処か頼りなげに、時折点滅する。
 男は簡素な休憩室で、窓の外へ視線を送っている青年に声をかけた。
 僅かな、躊躇いと共に。
『…エルザム…大尉』
『テンペスト少佐』
 慌てて敬礼をする青年を遮り尋ねる。
 此の者もまた愛する者を喪った過去を持つが故に。
 己が幾年もの年月を重ねても見つけられなかったその答を。
(お前は見つけたのか)
 重く深い決意を込めて、真っ直ぐに見据えながら。
『何故、お前は未だこうやって戦おうとする?』
『……!』
 突然の言葉に翠玉の瞳が見開かれた。
 今まで誰も触れずにいた、部分。
 腫れ物を触るかの様に扱われていた箇所。
 其れを、この目の前の上司は沈痛な面持ちをして訊く。
 何故、と。
『身の内に憎悪にかられた鬼は生まれなかったのか? どうしてそれだけ冷静に振る舞うことが出来る?』
『―――いいえ、私は…』
『……』
(己を苛み続けるその記憶と、どうやって折り合いをつけたのだ)
 自身を憎み続ける余りに生まれたこの空虚さを、お前は知っているのではないのか。
 男は待つ。
 思わず立ち聞きをしてしまった人物はその言葉を反芻していた。
 続く問に答を失ったかの様に見えるだけの時間が流れ。
 青年は数秒の間の後に、答える。
 見逃せはしない感情を瞳の奥に秘めて。
『私は、そんな人間ではない…』
 見え隠れする感情は、確かに以前の己と同じもの。
 背負う十字架の重さに耐えられず、だが其れを捨てる事も出来ず。
 歯を食いしばり、涙を堪えながら、ふと流れる時を荒野として見る者の顔をしている。
『…ですが…あれは彼女が望んだことだと―――そう、思うことにしています』
『強いな、お前は』
 一回り年の離れた青年は、それでも視線を逸らさずにはっきりと応えた。
(迷いながらも掴んだものを必死で得ようとする、か…)
 目を細め、妻と娘の、唯一の家族を一度に無くしてしまった男が想う。
 悲しみに彩られている瞳の奥には。
 怒りが、ある。
『一族の長子として生まれた者が進むべき道として、私はこの職業を選びました。
だが、彼女に出逢ってから気付いた事がある―――大切な誰かを守る為に、この道を選んだのだと…』
『守るべき者を守れない力がか…!?』
『!』
 口をついて出た言葉が如何に残酷なものであったのか、男は理解していた。
 それでも問うてみたかった。
 何故お前は――自分自身が――此処に居るのか。
 どんなに誤魔化しや綺麗事を並べてみた所で、己だけは騙せないのだ。
 思い出を美化する事も、最期の言葉を拠り所にして生きるも又、残された者の自由。
 しかし現実はもっと残酷で、過去の砂は戻す事が出来ない。
 例え全身の血が全て無くなったとしても、己が無力である事は拭い去れない。
 喉元へ突き付けられた刃を、どうやって振り払ったのか。
 其れを尋ねてみたい。
『…だからといって、この力を暴走させてしまえば……』
 きっと彼女は悲しむだろう、と。
 青年の言葉には悲しみが、声音には穏やかさが。
 外で吹き荒れる雨風に吹き飛ばされてしまいそうな細さで存在していた。
 質問をした者は其処で気付く。
 危うい琴線が、今も。
(お前の中にはあるのだな)
『……』
『彼女が私に望んだのです、最期に……皆を守って欲しいと』
『…そう、か…』
『はい…』

 ―――エル、あなたの留守を守るのは、妻である私の役目なのです―――

 いつもそう言って笑いながら支えてくれた人。
 その彼女が、最期に望んだこと。
 殺される者が殺す者に向かって突き付けた言葉は。
 強く美しいあの人は。
 青年は無意識に、拳を強く握った。
 其れを視界の端に見届けると、男は謝罪する。
(果たして俺は……?)
『…すまなかったな、きつい事ばかりを言ってしまって』
『気になさらず。…丁度、良かった』
『!?』
 彼が放った台詞の意味など、理解する閑も無い鮮やかな一瞬の微笑み。
 思考が停止し、全身の感覚が警告する。
 本能的な危機感を。
『慰めより、余程―――…』
『…!』
 思わず息を呑み、相手は苦虫を潰した様な面持ちでその場を去った。
 密かにその場に立ち会っていた人物が、
十分に足音が遠ざかってゆくのを確認してから、青年の前へと向かおうとする。
 が。
『エルザム!』
 青年は膝から床に崩れ落ちようとしている所だった。
 間一髪のところで肩を受け止めると、安らかな寝息が聞こえてくる。
(お前は……)
 抱きとめた身体は余りにも軽い様な気がして、怖い。

***

 教会の鐘が鳴り響く。
 一つ、二つ、三つ……九つで反響が止まる。
 男はコートのポケットの中に入っているものを手の甲で感じながら、拳を握りしめた。
(どうして、今―――!!)
 顔も上げずに黙っていると、青年が言う。
「テンペスト少佐と交わした会話を、君は聞いていたのだろう?」
「すまん…その、立ち聞きする…つもりでは―――」
「―――知っていたよ」
「!」
 余りに素っ気ない告白に男は目を見開き、顔を上げた。
 ふふ、と幼い子どもの様に笑い。
 此処では無い何処か遠くを見つめている瞳が、更に告げる。
「だから、私は彼処で倒れて見せたのだ…君と話す時間が欲しかったが為に」
「…何故…?」
「そうすれば君が手に入ると思ったから」
「!!」
 側にいる男の事などまるで気にもかけぬ様な独白。
 懺悔と言うには希薄過ぎる面持ち、感情のこもらぬ光り無き瞳。
 唇が弧を描き、回想は続く。

***

『こ、こ…は……』
 ゆっくりと開いてゆく翠玉の瞳が一番最初に視界に入れたのは、
心配そうな瞳をしていた――表情では無い、何故なら感情を表に出す事が苦手である――男だった。
『目が、覚めたか…?』
『う…』
 上体を起こそうとする青年を手伝い、男は問い掛ける。
 此処へ運んでくる時から、否。
 本当は彼女の式後からずっと、考えていた。
『寝ているのか、お前は』
『…無論―――』
『ならば、ど』
 ―――どうして。
 問うつもりだった言葉が不意な感触に妨げを受ける。
 唇に触れた、何処か冷たい細い指先。
 今、彼の、指が。
 己の唇に触れている。
 訳もなく慌てる男に青年の答は激しい。
『…寝られると、思うのか……罪人である、この私が―――!』
『!!』
『許されず筈も無い、許されるべきでは無い、私が』
『そんな…』
 男が否定の言葉を口にしようとすれば、青年は先手を打つ。
 温度を感じさせない酷薄な笑みを浮かべながら。
 だが其れは他人を嘲り笑い貶める為のものでは無い、笑みの向かう先は。
 本当に嗤いたいと彼が想っているのは。
『《守るべき者を守れない力》を持つ者がか? その力で大切なものを殺した者が許されると思うのか?』
『ち、が』
『何が? 何処が違うというのだ?』
『違う!』
(お前自身なのだろう…!?)
 語気を強めた所で、今の青年には効果が無い。
 決して聞く耳など持たぬ。
 徒に自身を傷付けたいのだと、彼自身の心の底が願う事を止めない限り。
『人を殺した者は死刑に処されるべきだろう? なのに何故私は此処で未だのうのうと生きているのだ?』
『違う…エルザム!』
『まさかゼンガー、君は私を許すとでも言うつもりか…?』
『っ!!』
 とうとう言葉を無くしてしまった男が俯く。
 青年の悲痛な心情が分かってしまうのに。
 無表情で述べられる言葉のどれもが悔しさや悲しみから出来ている事を知っているのに。
 彼の心を引き留めておく事が出来ない、其れが歯痒く。
 上手に言葉を造り出せない己が、情け無く。
 それでも、か細いその呟きを。
 救いの手がある事を。
 伸ばす刹那を。
 見逃しはしない、決して取り逃がしはしない。
『私が、また―――…誰かを愛しても良い、と…?』
『…っ―――そ…んな、事、は、当たり前だろう!』
『!』
 強い言葉に青年が瞬間怯んだ。
 真直線に翠玉の瞳を捉えたのは銀の瞳。
 怒りと、悲しみの。
 どうして良いか分からない当惑の。
 月影清かに映える剣の色をした者が、告げる。
『喪った者はもう二度と帰ってこない…だからといってその悲しみばかりで生きるつもりか!?
 お前に、悲しみをこれ以上背負わせない為に、彼女は―――カトライアはお前に“撃て”と言ったんだろう!?』
『―――!!』
『辛い選択をした事で、お前が潰されない様に…お前の苦しみの半分を、
彼女は持って行った筈だ…なのに未だお前は…!』
『あ…』


『カトライア、いつも…すまない…』
『また、そうやって貴男は私に謝るのね…悪い癖です、エル』
 苦笑する彼女は青年の肩にかかる髪を手に取る。
『…だが』
『何故?』
 尚も口籠もろうとする青年の言葉を、彼女は問い質す。
 大人しい様で実は水面下で熱い心を持った人が。
 残念そうに、言う。
『なに?』
『何故…貴男はいつも私に謝るのですか?』
『いつも君を残して私は…―――っ』
『酷いわ、エル』
 続く拗ねた様な口ぶりと髪を引っ張られて、青年は目を丸くした。
 彼女は背を向けて歩き出す。
『一人で何もかもを背負い込んで。そうして私を置いていく事が、今までに何度あったと思いますか?』
『……』
『ブランシュタイン家の次期当主として忙しい事は知っています…
それでも私に出来る事が幾らでもある筈―――そう、思っている私の気持ちを踏みにじるのですか?』
『そんな事、は―――』
『本当に?』
 軍人一族であるブランシュタイン家、其の次期当主の対になる者として此処にいる以上。
 彼女には彼女なりの覚悟と想いがある。
 決して守られるだけの女では無く、その後ろを見守る者として。
 だからこそ心配しないで欲しい。
 無用な気遣いも必要無い。
 何よりもこうして、躊躇う事、謝る事が侮辱に為り得てしまうのだから。
 ―――どうか迷わず惑わずに。
『私は、貴男と共に在る事を選んだ者…』
『カトライア……』
 腕の中へと顔を寄せた彼女は、小さく呟く。
『其れを決して、忘れないで下さい…』
『…了解した』
 細く小さな肩が、震えていた。


 ―――そうだ、彼女は。
『思い出したか?』
『そう、だ…そうだった……』
 軍人の妻である以上、自身の死も覚悟していただろう。
 宇宙に名を馳せる一族である次期当主の妻―――彼女であればこその想い。
 何故忘れていたのか。
 彼女の強さは。
 真の美しさは。
 其の心。
 其の意思。
 共に運命を背負う事の出来る、人。
 あの一族の重い家名にも耐え抜いた人。
『彼女は、私より余程、強く…』
 青年の唇が震えた。
 自身が忘却していた事に、何よりも愕然とし。
 そして芽生えた感情に恐懼する。
『テロリストが自身の目の前に現れた時点で、彼女は覚悟を決めていたのだろう…』
『だが私は彼女を殺した―――!! 此は、変え様の無い、事』
『変えなくとも良いのだ、忘れさえしなければ』
『………』
 冷たく暗い冬を乗り越えた花が、春の陽光に誘われて蕾を開かせるのと同じように。
 薄曇りの空から、鈍色の雲の向こうに差す光が。
 心に、触れる。
 渇きを癒し、闇を祓い。
 新たな道を指し示す、手を。
『彼女が本当に望んでいたのは…“忘れるな”と言う事だ』
『…!』

 ―――其れを決して、忘れないで下さい…

 あの時彼女が言った言葉を、此の男が知る筈も無い。
 だがそれでも。
 男の言葉は澱み無く。
(本当に、もう一度…私は……)
 誰かを愛しても良いのだろうか。
『ゼンガー、私は―――』

***

「そしてあの時…私は初めて君を抱いた……」
「ああ…」
「だがあれは間違いだったのか―――」
「!?」
 男は驚き立ち上がる。
 青年の姿を眼下にしながら。
「私は、私の罪を赦してくれる者が必要だっただけではないのか―――? 私の、為に、君は…」
「お前は一体何度言えば…!」
(此の胸の内を知って貰えるのだ、どうしていつもそうやって独りで…!?)
 男の呟き等知らぬまま。
 虚ろな瞳が、教会の正面へと視線を上げる。
「―――否、違う…」
 ふと気付いた。
 彼に与えるべきは言葉では無く。
 違う、もの。
 男は一歩を踏み出した。
 不意に背中に良く知った気配を感じ、青年は振り向こうとした…が。
「!」
 唇から微かな驚きの息が白く零れる。
 突然、背後から回されてきた大きな腕。
 今漸く現実へと返ってきたかの様に、全身の血液が心臓に合わせて鼓動する。
 驚きと、そして怯えに因り。
「ゼ、ゼンガー…?」
「……」
 相手は答えない。
 暫しの無言の後に、
「…エルザム…」
 と低い呟きが聞こえた。
 それに返事をしようとしたが続く言葉で音にはならず。
「…愛して、いる…」
「!」
 はっきりとした口調で背中から抱きしめられながらその囁きを聞く。
 初めてかもしれない、と青年は思った。
 不器用で滅多に感情を表に出さないこの男が、たった一言でも。
 言葉にする事が苦手で、ともすれば無口だと言われかねない様な此の男が。
 告げた。
(…私を…)
 愛していると。
 好き、では無く。
 恐る恐る振り向こうとしたが、止めた。
 代わりに回されてきた腕に触れる。
「…何故…?」
 こんな時に、急に。
 言外の台詞を読んだ男はこう応えた、曰く「…俺からは、あまり……言った事が無い様に思えた…」と。
 実際数える程しか言われた事が無いと思うのだが、今回はそれを不問にしておく。
 元来、男には縁遠い言葉だろう。
 其れを――一体どんな決心を以ての事か――口にした。
 為ればこそ何も言うまい。
「…そうか」
「…ああ」
 短いやり取りには百の言葉に勝る千の想いがある。
 そういう付き合い方をしてきたが故に。


(お前が必要としたから、俺はお前を好きになったのでは無く…
他の誰でもない俺が、お前を好きだと―――愛していると)
(私は君にカトライアと同じ光を見た。同じ、強さの意思を感じた。
…だからこそ勘違いをしてしまったのか…私が気付くのが遅れてしまったのか…)
(言葉にしてはいけないと、諦めてしまいたかった。想うだけで、口には出せずに)
(元々同じだった―――君とカトライアの心は、強く美しい折れぬもの)
(だが躊躇わない。躊躇いはしない…)
(きっと…私が惹かれたのは君が君である事の根元)
(告げよう、今お前に)
(其の心に私は貫かれた)

 降りゆく雪は静かに積もり。
 街の全ての屋根を白く、静寂の空間へと変化させる。
 木々の隙間を通り過ぎる風も今だけは其の動きを止めた。
 一切の音もたてずに。
 立ち入る事を赦さぬ夜が。
 闇に浮かぶ月だけを頼りに教会の中の二人を包む。


 教会の屋根から雪が落ちる音を聞き、男はもう一つの決心と共に言う。
「エルザム、目を瞑ってくれ」
「? 一体何を…」
「と、兎に角早く」
「別に良いが…」
 早鐘の様に鳴り続ける己の鼓動を煩いと思いながらも、如何に此が大事な時間であるかは重々承知した上で。
 男はそっと青年の肩に回していた腕を外し、ポケットから取り出したものを握りしめる。
 決断したは良いものの矢張り肝心な時には緊張を隠せない。
 浅く深呼吸を一つ。
「……」
(…良し)
「…?」
 掌に何か冷たい質感のあるものが乗せられた気がして、青年は訝しむ。
 其れの正体を尋ねようと青年が口を開くよりも先に、男が目を開ける事を許可した。
「…此は…」
「…頼むから文句を言うな」
「誰が―――」
(文句を言うものか…!)
 青年は自身の掌に乗る其れを見つめた。
 小さなリング。
 何の装飾も無い、銀の指輪。
「ゼンガー…!」
 喜びを前面に押し出して男の方へと向き直るが、
明後日の方向を向きながら耳まで真っ赤にした男はなかなか視線を合わせてはくれないだろう。
「左手の…薬指に……」
 はめておいてくれ、と皆まで言わずとも分かる。
 同じく男の左手を探そうと視線を下げてみたのだが、ポケットに入れられているので確認は出来ない。
 ―――けれど、きっと。
 我知らず浮かぶ笑みに頬が緩み、綻ぶ。
「ああ、無論。だがどうしてそうするのか知っているか?」
「…確か、其の指の血管が心臓に繋がっていたから、と…」
 賑やかなある部下がそう言っていた様な、と思い出しながら男は答えた。
 青年は微笑む。
「そうだ―――古代エジプトで、左手の薬指にある静脈は“愛の血管”と呼ばれ、
心臓に繋がっていると信じられていた。そして其処に指輪をはめる事で…契約の証としていたという」
「…っ…」
 青年は椅子に膝をつき、男の頬を両手で挟み込んで無理矢理此方を向かせる。
 真っ赤な顔をして動揺し続ける瞳に、先程までの力強さは何処へ行ってしまったのか。
 つい吹き出してしまいそうになるのを堪える―――今は喜びに打ち震える心が其れを容易にした。
「有難う」
「…う、うむ…」
「段階をとばして―――結婚指輪になってしまったが…」
「何!?」
「!?」
 突然大きな声を出して男は慌て始める。
「結婚指輪だと!?」
「ああ」
 逆に其の様子に驚く青年。
 知らなかったのかと再び解説役に回ってみる。
「初期の結婚指輪が鉄だった事と、
また生涯…毎日着けるものだった事から結婚指輪とはシンプルなものに決まっている」
「では婚約指輪は!?」
「正式に言えば…ダイヤモンドの入ったものを贈る事になっているが……。ゼンガー?」
「―――!!」
 半ば泣きそうな顔をして俯く男に、青年は苦笑した。
 彼は婚約指輪と結婚指輪の違いを知らなかったのだろう―――
彼の部下である彼女が、わざと教えなかったという可能性もあるのだが。
 さぞかし苦労した事だろう、自身に知られぬ様にいつの間に準備を。
 一体いつ頃からこんな事を企んでいたのだろう、隠し事が出来る程器用な質でも無いというのに。
 もしかしたら。
 指輪を選ぶ事になって考えていたのは。
 此のリングにする事を決めたのは。
「長く着ける事が出来るもの…そして飾らないものを選んでくれたのだろう?」
「……」
 確認のつもりで言うと、男はゆっくりと顔を上げた。
 そして首肯する。
(結婚指輪とは、“神への誓い”を表すもの…だが)
「私達二人が契約するのに、互いに誓い合う為に―――神は必要無い、と思うのだが」
「誓い、合う?」
 おそるおそる繰り返された言葉にエルザムは笑う。
 椅子に膝をついた状態から、少し背を伸ばし。
 ゼンガーの頬へと手を寄せる。
「…愛する、事を」
「…ん…」
 二つの影は重なり合い、そして。
 十の鐘の音が鳴り響く中で、そっと青年は尋ねた。
「君の指にもあるのだろう…? 私と同じものが」
「…ああ」
「…見せてはくれないのか?」
「……」
 緩慢とも呼べる動きで、男は左手をポケットから外へと出した。
 確かに其処には同じ輝きを持つ証がある。
(永遠で無くとも、唯此の瞬間だけを想いたい)
 ずっと。
 これからも。
 共に二人で居られる様。
「愛している、ゼンガー」
「…エルザム」
「……」
「…俺も…」
 鐘の音に掻き消されてしまう様な小さな声が耳に届く時。
 もう一度、青年は男に口付けた。

 互いの左手の薬指に光る銀の指輪は、天井の細い窓から差し込む月光を反射した。
 例え光無き夜が来ようとも、もう二度と迷いはしないだろう。
 唇から漏れる吐息が彼らの証。

<了>

 writing by みみみ

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© 2003 C A N A R Y