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【 味よりも何よりも 】 |
様々な料理を覚えた。
国籍や調理方法、食材を問わずに。
一度自分で試してみてから自分流の味に作り直してみる。
其れでうまくいく時もあったし、失敗する場合もあった。
『本当に貴方って人は、料理にかけては貪欲になるのね。…勿論、其れ以外でも貪欲だけど』
そう言って明るく彼女は笑った。
困った癖ではないのか? と尋ね返してみても笑いが収まらない。
だって私も同じですからね、貴方のことは言えないわと。
(確かにいつも私達は勝負をしていたな)
判定者は時として父であり、親友であり、上司であり、部下であり、弟だった。
周りにいる人間を巻き込んで自らと妻の料理を食べ比べ、どちらの味が良いかと問いつめたものだ。
特に親友には何度晩餐と称した対決を判定して貰っただろうか。
未だ甘いものが苦手だと知らなかった頃に、食後の甘味対決をしてしまい、
青ざめていく彼の様子を妻と二人でハラハラと眺めたこともあった。
(君が無理をしてでも食べてくれたから)
『折角の招待を受けておいて出されたものを残すなどと…!』
東洋にある大きな国での礼儀作法から言えば、次回は更に大量の食事が出てきてしまう。
と、思える程親友は綺麗に食べてくれた。
どう考えてもそのまま帰宅出来る筈も無く、無理矢理一泊させたのだが。
次の日、何とか帰宅の途につく彼の後ろ姿を妻と二人見送りながら、
『…今度から甘いものは弟か父に任せよう』と頷き合ったのを思い出す。
青年はぼんやりとコンロの火を眺めながら鍋に水を入れ終わり、包丁を手に取る。
料理とは思索の過程に丁度良い、そんなことを言った数学者が居たか。
自らの名を捨て、新しい偽りの名前を纏う今になっても尚。
過去は鮮やかに蘇る。
夢であり幻であり、痛みを伴う記憶として。
其れは戦場ではなくこんな穏やかな時間にこそ顕れてくる。
不意に。
心に落ちた波紋。
野菜を切り終わって手製のドレッシングを作りに掛かった瞬間、問い掛けが生まれた。
理由もいつの頃からなのかも忘れたけれど。
―――少なくとも軍に入る前から、自分は調理場に立っていたのを思い出す。
自然と。
誰に言われるでもなく。
最初は見様見真似だったかも知れない。
もしかしたら忘れているだけで生存中の母を手伝ったことがあるからかも知れない。
弟が生まれて直ぐだったか…母が亡くなったのは。
途切れ途切れの印象の中には、少なくとも母と一緒にピクニックへ行った覚えはあっても
台所へ入った記憶が見当たらない。
では、“何故”。
『父上はいつも忙しいから』
違う。
理由としては一番尤もでも其れだけのことで此処まで好きにはならない。
仮に此が理由だとしても、義務感から来る行為に継続性は求められない。
確かに負担にはなりたくなかった。
幼い子供心に映る父の姿は宇宙の帝王に相応しく。
―――純粋に自分もああなりたいと考えていたのだから恐ろしい。
もし、何事もなくその道を選んでいたとしてら今の自分はどうなっていたのだろう?
『もっと美味しいものを食べたいから』
違う。
軍人一族の宗家且つ長子として十分な食を味わった筈だ。
好き嫌いも特に無く。
自分でやってみたかったのだろうか?
さて、当時の給仕長が其れを許してくれたかどうか…。
割と贅沢な理由だな、と苦くなってしまった。
―――では?
『…このまま軍人として生きていく道を歩んでいったら、軍人以外の自分が無くなりそうで怖かったから』
「違う」
「何?」
ダイニングキッチンを挟んで、
ワイングラス――と言ってもその使用目的は主に水飲みだが――を棚から出している男が眉を寄せた。
小さく呟いた筈が、特にフライパンで野菜を炒めている訳でもなく、野菜も切り終わってしまい、
単調に静かな作業が続くだけなので、どうやら男には聞こえてしまったらしい。
しまったなと内心舌打ちをして。
「此ではなかったか? それとも今日は此方の低めを使うのか?」
警戒した矢先に男が言ったのは彼の手にあるグラスのことだった。
気分や料理によって事細かにグラスを変える自らの拘りを分かってくれていて、
何となく料理内容からグラスは此だと決めていたのだろうが、突然の否定発言に少々慌てたのだ。
確認の為に小さなグラスを引っ張り出して、見せる。
「! あぁ、すまない…そうではなくて私の独り言だ」
「……」
独り言? と今にも問い返してきそうな色をした銀の瞳が調理場に立つ自分を見た。
其の言葉に偽りが無いかどうかを問うてきている。
真っ直ぐに澱みのないその視線は、初めて出逢った頃と何ら変わりが無い。
嘘がつけない、正直な心。
幼い頃から装う事ばかりを身につけてきた自分の心をいとも簡単に見抜く其れ。
何も言わないのは、待っているからか。
(私の言葉を?)
じゃがいもを磨り潰していた手を止めて、コンロの火を消した。
いつの間にか用意されていたグラスの中には水がある。
口ではなく行為で示しているのだと気が付き、ふと微笑を浮かべ。
青年はテーブルクロスに視線を落としながら男の目の前に座った。
「何を言わせたい?」
「……」
些か挑戦的な尋ね方をしてみたが、相手も然るもの無言を貫く―――と言っても彼の場合、
元々が無口な人間なので堪えているという様子でもない。
けれど珍しい。
いつもお前の前だと何故か忍耐が切れるという我が親友が。
意地かそれとも考え有ってか、喋ろうとはしない。
(私に喋らせたいのだろう)
「君の求めているものが知りたいのだ、言ってくれなければ分からん」
「……」
甘い夜の蜜と同じく呼びかけを変えてみたが失敗、
親友の頑固さは時として偉大な敵になる事を承知ではあるけれども、矢張り溜め息が押し殺せず。
小さなその溜め息で、男が不意に呟いた。
「料理をしているお前は遠い」
「?」
良く喋る方ではない、だからといって明瞭な会話をしてくれる訳ではない。
何処か抽象的な物言いと、良い足りない言葉が、彼の口からは出てくる。
“抽象的”と俺の言葉を表現するのであればお前も同じだろうがとは、彼の示唆だが。
では此の場合。
彼の言った言葉が示唆するものとは。
距離的な話ではなく、精神的な位置関係に置ける“遠近”。
「私が、遠い?」
「以前は楽しいのだからと思って、声をかけずにおいた。
だが、時折違う表情が混ざるのだと気付く様になってからは…その……」
そう言えばと思い返す。
料理に没頭する様は上司にも友人達にも笑われる程の有様だと話した時に、
『…そうか』と唯一言、笑いもせずに感想を述べたのは此の男だけだった。
―――実の弟にも少々呆れられ気味なのに。
だからこうやって生活を供する様になってからも好きなだけ没頭しろと言わんばかりに、
料理が出来るまで男は一切自分の傍には近寄ろうとはしなかった。
完成する頃になって、一緒にテーブルの準備をするくらいで。
ところが最近はちょくちょく調理場に顔を出しては味をみていったり、簡単な作業を手伝ったりと。
特に其の行動については気にしていなかったのだが、つまり其れは。
「まさか、それで良く料理の準備を手伝う様になったと?」
「…うむ」
こくりと小さく頷く男は、腕を組んでやや視線を下げた。
心なしか頬が赤い様にも思える。
料理に没頭していると時は瞬く間に過ぎて行く。
欧州の夕暮れは亡き妻の祖国と違って長い様にも思えたのだが、自らが調理をし始めると違うらしい。
少しずつ光を無くしていく空は夕闇ではなく、夜の帷に似た青。
ぼんやりと、しかし確実に夜の静けさと忍び寄る冷たさが、部屋の灯りを尚心細げに揺らしている。
今日はいつもと趣向を変えたアロマの匂いが少しでも手伝いをしてくれるだろうか。
以前市場へ出た時に見かけた、花形のキャンドル。
聞けばアロマ効果有りというので興味も手伝って購入してみた。
衝動買い、と人が呼ぶ其れは自分にとっては希少な体験。
晩餐の少し前から小さな炎を灯された掌程の蝋燭に少し視線をやってから。
青年は愛する男の名を呼ぶ。
「ゼンガー」
「……」
黙り込んでいる男は其の心の内奥で一人悩んでいるのだ。
己の不甲斐なさを。
無力さを。
嘆き、悲しみ。
きっと。
「―――私は」
立ち上がり、彼の肩に手を置こうとした動きが、掴まえられ。
男の大きな手が、自らの手首を握っていた。
「何故」
どうして?
「お前はそんなにも」
そんなにも?
「料理に拘る―――?」
りょう、り、に。
先程自問自答したものと全く同じ質問が男の口から飛び出てきたことに驚きを隠せない。
一瞬だけ息を呑み、平静を装う。
「其れはだな」
「亡きカトライアの趣味が料理で、お前も元々料理が好きで…其れは分かっている、分かっているのだ」
「ゼンガー」
男は立ち上がり、青年よりもやや高い視線を投げかけてくる。
大きな立派な身体。
しかし今、小さく見えてしまうのは何故か。
「料理をする時のお前は酷く楽しそうで、
まるで子どもの様に、此から面白いことがあるというような雰囲気で…」
「…だから私は」
何か言葉にしていないと不安なのか?
(無口な君が滑る様に話す)
私の言葉も聞かずに。
刹那、男の銀の瞳と青年の翠玉が交差した、と同時に。
「!! す、すまん…」
またかと想う。
視線を直ぐに逸らして謝罪する男を視界に収めながら。
緑の色の瞳が細くなる。
また、覗き込まれてしまったのだ。
隠しているつもりの心を、反射的に親友は読み取ってしまう。
妙な部分で分かり合う事の出来る不思議な友。
男は足早にその場を立ち去ろうとした。
「今日はもう―――」
寝る、と続くのは分かっている。
己の反省も込めて今晩は大人しくしているという意味。
つい驚きと微かに呆れた声が出た。
「私の料理を食べずに?」
「本当に……すまん…」
すっかり項垂れている男は此以上は喋るまいと固く唇を結んだ。
残念ながらそう言う頑なな姿勢であればある程、青年の悪戯心を擽るのだと。
―――君はいつ気付くだろうか。
もう目線が合うことはない、彼が合わせようとしないのだから。
だから男には見えてない。
青年の唇が弧を描いた事を。
開かせてみようか、その口を。
私が開けば君も開くだろうから。
「せめて水だけは飲んでいき給え、寝る前の水分補給は緊急事態に備えて常に怠るべきではない」
適当に最もらしい理由をつけて言えば。
早く去りたいという心境からか男は素直に従って、しまった。
軽い頷きの後に視線を合わせない様慎重に顔をグラスの方へ動かして―――。
「ああ、そうし…っ!?」
テーブクロスの上でごろん、と何か鈍い、低めの音。
何かが転がった音がする。
青年は割れずにすんだかと内心安堵し、空いた手でグラスを立て直した。
さりげなくもう一つの水が入ったコップを手に取り、空のグラスを遠ざける。
息苦しいのか抵抗する男の顎を掴まえ、ゆっくりと瞼を開けてからふふと唇だけで笑う。
己の顎から喉元にかけて隙間から零れた水滴を掌で拭う姿勢のまま、男が睨んだ。
さて出てくるのは罵声か怒声か。
無論、先手必勝。
「好きに理屈は要らないと思うのだ。
…でなければ私の此の想いも、君への形無き心すら、理由付けしなければならない。
其れは寂しい事だ、非常に。……理由付けとは自らを支えるものであり、又揺るがすものでもあるのだから」
掴まえられた手が掴まえる手に変わり。
男の指を絡め取って唇に寄せる。
悪戯な、笑みを浮かべ。
「―――愛しているよ、君も料理も」
「俺は…」
「ん?」
顔を上げてみたのだが、全てを言う前に視線が何処ぞへと向いてしまった。
男の耳が、赤い。
先程と比べると語勢が無くなっている。
「俺は料理と一緒か」
拗ねた様な声が聞ければ、相手は此方の術中に嵌っているという証。
如何に自らのペースに持ち込むかが戦略に於ける基本中の基本、最重要課題でもある。
冷静さを失っても尚、虚勢でも何でも良いから調子を乱さないこと。
(でなければ勝てないのだ)
君は私に、とは心中の言。
「そうとも。君は食後のデザートだからな、一番のお楽しみだ」
「…っ!! そ…ういう事を良くも平気で…!」
「? 君が言わせたかったのはこの事ではなかったのか?」
「違うッ」
惚けておいて青年は男の耳元に唇を寄せる。
料理に私を取られるのが嫌だと、素直に言ってしまえ。
そう囁いた直後に男が追いかけてくるものだから逃げてみた。
本気ではない、戯れの。
此の屋敷には隠れ場所も無く、当然逃げ切れる筈も無いのだから。
二階の続き部屋のドアノブに手をかけた所で後ろから大きな腕が伸びてきて。
(収まってしまうのだな、私は君の腕の中に)
そんな事を改めて想っている。
とは言え、男に伝わるべくもない。
すると、まるで子どもを叱る父親の様な声が頭上から降ってきた。
「…っ、おま、えはっ!」
「いや、つい」
「なに、がつい、だっ」
三十路を手前にした成人男性が屋敷の中で鬼ごっこなどするものではないな、と苦笑しつつ。
男が耳元に零した溜め息と言葉に小さく笑う。
当然、笑うなというお叱りが来るのだが聞こえないふりをした。
好い加減に行動パターンを学習すれば良いのに、いつまでたっても我が親友は反応が変わらない。
最後には疲れた、と零すことになる結末でさえ、多分そのままなのだろう。
可愛らしい、と称される所以に。
きっとまだまだ気付かない。
「楽しい」
「何が」
「君が」
「だーかーらー」
「! …っぅ…」
軽く重ねた口付けの後、復讐とばかりに男が笑う。
―――其の笑みも親しい人にしか分からない、ちょっとした変化。
あどけなさの残る、笑い方。
「子兎とて黙って獅子に喰われる訳では無いのだぞ?」
「だ、れが…っう、ぎ……、ふ…」
瞼に触れた唇が視界を覆い。
擽る様な軽やかさで今度は耳元へ。
本当に珍しいと想うのはこんな時だろうか、彼の甘える仕草を見て。
肌に、不器用な優しい触れ方を感じる瞬間。
そのまま身を任せたくもあり任せたくなくもあり。
ただ作りかけの料理を放置するなんて事をしたのでは『食通』としての名が廃ると思い直し。
主導権を返して貰おう、と。
「んぅ、…」
男の首へと手を回して、青年は深く口付けを交わした。
<了>
writing by みみみ
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© 2003 C A N A R Y
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