【 重ね年月 】

 何も怖くないから、今、眠っていられる。
 貴方の傍で、等しく不平等な時の流れを感じていられる。
 休日を共に過ごせる日が来るなどと。
 果たしてあの頃は考えることが出来ただろうか。
 束の間の平和に。
 祈らずには、いられない。


「エルザム?」
「……」
 厳格なる冬も終わり、春を過ぎて寧ろ季節は初夏へと足早に通り過ぎていく。
 窓の外に眺める景色は澄んだ青。
 頼りなく、然し楽しげに浮かぶ雲に一度視線をやってから。
 身体を下手に揺らさない様に顔だけを動かして。
 安らかな寝息をたてているものの、恐らくは狸寝入りに違いないと男は思う。
 木漏れ日差し込む木々と同じ色をした瞳は、今は瞼に隠されて見えないけれども。
 春の陽気さと命の瑞々しさを謳う其れと同じ。
 疲れた、と言うなり腕の中に倒れ込んできて、折角整えたシーツがくしゃくしゃになった事は否めない。
 庭に翻る真新しい白のシーツを、さっき取り込んだばかり、だが。
 相手の顔を覗き込んでしまえば、言葉も出ない。
 ―――幸せな、落ち着いた顔。
 指揮官の冷静な顔でも、戦陣に舞う竜巻の荒々しさも無く。
 唯眠っているだけの青年。
「エルザム」
「……」
 返事は無い。
 けれどそっと服の裾を掴む指が動き。
 起きている事を知らせた。
(互いに、帰投の挨拶も出来ぬまま)
 一瞬目線を合わせて寝てしまった、彼の人を膝に抱き。
 彼の人の眠る顔を見つめ。
 安らかに穏やかに流れる時を過ごす。
 春の風に遊ばれる髪がふわふわと宙に浮いては又額に落ちて触れ、其れがくすぐったいのか少し瞼が揺れる。
 けれど目覚めない。
 幸せ、と呼ぶべきだろうか。
 何よりも先ず一番に己の元へ駆け寄ってくれたことを。
 そして全てを預けてくれていることを。
(…愛しい)
 柄にもない言葉だと自身の内にて反芻しながらも、知らず零れる微笑。
 柔らかに波打つ髪の一房を、掌で遊ばせ。
 良い天気だ、と一人呟く。
 全く、本当に。
 先の大戦から流れ出た多くの血を吸った大地の上で、必死に生きる人々を守る為に、影となって生きる道を選び。
 其れしか出来ないのだなと互いに笑う。
 不器用だ、と。
 唯、彼が其の言葉を口にする時には、微かな翳りが過ぎるのだ。
 自嘲めいて。
 自棄を退ける。

 ―――――生きなければならない。

 生を放棄するなと以前怒鳴ったのは己であり、今度其れを口にしたのは彼なりの意思表示。
 遠くを見据えながら、もしかしたら弟君を想ったのかも知れないなと気付いたのはつい最近の話。
 真っ直ぐに何かを捕らえている新緑の瞳が、脳内で微笑する。
 戦う為に?  生きるという行為を生きるという手段と目的に置換しても尚、
人間の感情と記憶は密接に結びついて分かちがたく、そして現在の自身へと反響する。
 血塗られた引き金をに指をかけ。
 血の染み込んだ刃を其の手に構え。
 然し、生きると言うこと。
 生きていくと言うこと。
 断続的な生の延長に於いて意味を見出すことは老いてからすれば良いのだと、言われた。
 生を、急ぐなと、諭されて。
(長かったな)
 口には出さずとも、其れが彼の悩み抜いた末の結論であり、
其れを漸く口にすることが出来る様になったのだと、隣に座していれば自然と分かる。
 人とは絶えず成長を続ける生き物のことである、等と定義をする訳ではないが、
彼に於いては其れも当てはまるのだろう―――厳密に言えば人と定義する限りは、
全ての人に対して言われうることでなくてはならないが。
 少なくとも今の自分と彼には、当てはまる。
 必ず、当てはまるだろう。
 今此処で斯うして生きている事が、そもそも兵士にとっては贅沢だろうから。
 茫洋とした思考が一陣の風に起こされて。
「………」
 ふと気づき顔を上げれば、空がある。
 仮初めの命でもなく、機械的な戦いでもなく、此が自分自身の選んだものであるならば、
決してその責任は誰に負わせるものでもない、誰かに背負わせるべきではなく、
自らが歩いていく限り見つめて見据えて掴んで離さずにいなければならない、と言うだけのこと。
 しなければならない。
 義務、を重荷に感じるのであれば。
 生とは斯くも深海の様に深く蒼天の様に高く。
 我らの前に在り続ける。
「…ん…?」
「……ああ、目が覚めたか―――?」
 眼下より聞こえた、低く小さな掠れ声。
 膝枕で眠る恋人の顔を見つめれば、そんな膿んだ思考など消えてしまう。
 今は未だ、もう少しだけ。
 例えば束の間の休息に。
 愛しき誰かを思う余地は在る。


 忘れ得ぬ記憶。
 不意に浮かび上がる夢。
 そう、あの時も同じ目をして彼は言った。
『…いつか小さな料理店を持ちたい』
『……』
 青年の瞳が己を映す。
 いつもの悪戯な瞳ではないその中に、青年の次の言葉を静かに待つ己が居る。
 直ぐではなくとも多少の間をおいて。
 彼は密かな夢を語る。
『君と二人で、やっていける様な…そんな小さな店を』
『…俺と?』
『そうだ』
 君以外に誰が居る? と可笑しげに喉を鳴らして笑い。
 しなやかな指を男の胸に当てた。
 俯き加減の顔は、男よりも僅かに下で。
 時折見せる見上げる様な仕草が、からかい半分真剣味半分と言った、青年の常態を取り戻させている。
 弧を描く唇は尚も囁く。
『駆け抜けるのではなく、歩く事を選ぶその日まで』
『―――…』
『君は私の傍に居るべきだ』
 強い勧誘。
 命令形に近い。
 それでも。
『…歩く? まるで年寄りじみた…』
『老人になっても、私は君の隣が良いと言っている』
『!』
 男の言葉の先を読み、そして甘える様に男の腕の中へ滑り込んで、告げる。
 硝子の器は打てば硬質の響きを返す。
 だが本来は脆い儚いもの。
 金剛石とは違うのだと、模造品は輝く。
『好きだよ、ゼンガー。君ならば、私は諦めずにすむかも知れない―――――』
『…!!』
 戯けた口調が、刹那真剣味を帯びて。
 赦されざる恋の傷を開かせた。


「……」
 漣が遠くに聞こえる。
 四方を海に囲まれた此の地では極当たり前の事だけれども。
 今は其の音に耳を澄まして横たわりたい気分だ。
 空は底抜けの蒼。
 海を薄めた、鮮やかな彩り。
 一瞬此処は一体何処なのか、自分は一体何者かを忘れたくなるのを堪えて。
 噛み殺すのに失敗した、欠伸を一つ。
 二人で住むには広すぎる――正確を期すのであれば、
此の島には研究者から技術者から多数の他者が居ると言えばいるのだけれども――
この館へ、此の島へ、闖入者を連れてきて久しく。
 通常、受け入れられぬであろう存在を必死に肯定し。
 然し己とは違うことを認めさせ。
 馬鹿だな、と笑われ呆れられ。
 今ではすっかり己の方が置いてけぼりを食らっている感さえする二人を眺めながら。
 男はシートの上でぼんやりと空と海の狭間を眺めていた。
「こら」
「!」
 だから多少驚きの意味を込めて、目を見開いた所で大袈裟ではないだろう。
 不意に声をかけられるまで全く意識を飛ばしていた程に。
 久方ぶりの、長閑な昼下がりだった。
 つい、何を言い返せばいいのかも忘れてしまっている。
「……」
「目を瞑ったままで眠れるのかお前は。器用だな」
「ウォーダン」
「何だ?」
 相変わらずの憎まれ口をさらりと聞き流しておいて。
 反射的に名を呼んでから、一緒に居た筈の人物を捜して視線を泳がせる。
 己のお下がりであるシャツとズボンという至ってラフな格好で――勿論其れは自分とて同じなのだが――
男は隣に腰を下ろした。はて、さっきまでお前と喋っていた、あの青年は何処へ?
 似て非なる者の特性と言うべきか、それとも僅かであっても顔に出ていたのか。
 此の屋敷の本来の主である青年について、向かった先の情報が飛び出す。
「あいつなら今度は畑の手入れをしに行くと」
「そうか…」
「全く間抜けな、惚けた顔を―――何を考えていた?」
「……」
 黙秘は即ち肯定であると分かっていても継ぐ言葉が見つからない以上は黙っておくしかない。
 隻眼の男は長い前髪を潮風に揺らせている。
 深い疵痕を、太陽の下に晒して。
 其れを痛々しいと思わなくなった半面、傷を消すとどうなるのだろうという好奇心も最近は出てきた。
 青年は振り返らずとも己と男の差異を見分けてしまうのだ。
 一度何処かどう違うのかと尋ねたが、笑っただけで何も言ってはくれなかった。
 この返答は、男も――訊いてみたようだが――同じだったらしい。
「物思いに耽るのは勝手だがな、折角の楽しい時間を貴様のしけた顔を見るのは気に食わん」
「酷い言われ様だな」
「だったら手伝え」
「何を」
「魚釣りだ」
「………」
 一瞬何を言われたのか理解出来なかったのは、何故だろう。
 至って普通の会話だったのだが。
 いや、違う。
 接続詞の使い方が些か強引すぎた節はある。
 結論から遡れば、憎まれ口もその為でしかないと言うことなのだが。
「だからそんな間の抜けた顔をするなと言って居るっ!」
「…あ、いや、すまん」
「謝るなと言うのに…貴様は何処まで不抜けて」
 心なしか肩が下がった様に見える男が強制的に己の腕を掴んで、海辺へと誘う。
 日も高くなりつつある、時間が惜しいらしい。
 特に断る理由もないので取り敢えず任せていたのだが。
「おい、シートは―――」
「既に固定済だ」
「……」
 成る程。
 確かに、あの大きさの獲物ならば飛ぶまい。
 振り向いた先に転がしてある魚に目を見張りつつ、歩を進めた。

「出来た」
 青年はそう一人で呟いた。
 自身が立つのは厨房―――即ち、自分が尤も得意とする戦場である。
 畑の様子を見てから、一足先に仕込みをしたいので帰っていると言うと、
では大漁を期待しているが良いと言い放つ男。
何処からそんな自信が湧いてくるのか、そもそも釣りをするという発想がどうやって生まれてくるのか。
我が親友にして愛しい相棒に似ている筈なのに何処か違っていて、
最近はその違いを一つ一つ見つけるたびに愉快になる。
生活に顕れる変化の兆しが、楽しい。
「…次は…」
 簡単に湯でまな板を洗い直して、包丁を構える。
 鍋の火は弱火で後5分程。
「ふふ」
 自然と零れた笑みはドアが開くのを待ち侘びている証拠。

「レーツェルが待っている、のだから大漁でなくては帰れん」
「…そんな事を約束したのか」
「ああ」
 当然だろう? と言った雰囲気さえ漂わせている人物の顔をまじまじと眺めてしまった。
 何処からそんな自信が出てくるのか非常に知りたい。
 と、釣り竿を持つ人物を前にして、男は台所に立つ青年と同じ疑問を内心で抱えた。
 我が映し身にして最大の他人である此の男は、子どもの様に不敵且つ不遜な存在である。
 正に世に怖い者知らず、と言った風情。
 出逢ってから今の今まで成長を止めたことがない。
 日進月歩の有様。
「……」
「……」
 海面に垂れた浮きに視線を落とし、暫く渡された釣り竿を眺めていると。
「…お前と二人きりの時間が持ちたい、唯其れだけだ」
「!」
 言うなり明後日の方向を向いたのは多少の気恥ずかしさからか。
 無論本人とて言うつもりはなかったのだろうが、己の困惑気味の態度を少しでも解消させるべく言ったのだろう。
 とするならば、わざわざ言わせてしまった己に非があると言う事になる。
(無粋な事をしたか)
 其れと気付かず振る舞う我が身を鑑みて。
 男は釣り竿を波間へと揺らした。
 詰まる所、子どもに気を遣わせたと同義なのだから。
「…良く、釣りをするのだろう?」
「お前程の獲物は偶にしか釣れんがな」
「…。ふむ」
 気のせいだろうか。
 声の調子がやや上がった。
 恐る恐ると言った声が、嬉々とした音に。
 こう言う所は分かりやすいと思うのに、素直ではない頑迷さは矢張り己に由来するものか。
 となれば人の振り見て我が振り直せ、では無くて、正に自身と向き合う自省の要領を得たことになる。
 不思議な、感覚だ。
「……」
「……」
 岩に弾けて消える波飛沫。
 潮風にはためく服。
 獲物が掛かる其の瞬間だけを待って、ぼんやりと空と海とを眺め、何かを想ったり思わなかったり。
 釣りとは孤独を愉しむ時間であって、誰かと賑やかにやるものでは無い様だと考えた。
 古代の賢人達にも釣りに於いて一国の主を待つ者が居たとも言う。
 しかし。
「……」
「……」
 ちらりと横目に一瞥をくれた限りでは其の表情は僅かながらに。
 ―――嬉しそうである。
(悪くはないな、二人での釣りも)
 そう、口に出して言わないのが己の悪い所だと気付かないのが此の男である。


「有難う、此で三日は保つ」
 大きなクーラーボックスが二つ並べられると、やはりあの広く見える厨房も狭くなるだろうかと横目で考え。
 本日の収穫を青年が見遣ってから笑顔で礼を言う。
 ところが、其れに驚くと言うよりも失望する人物もいる。
「三日しか保たないのか…!」
「大の男が三人、三食食べるのだから仕方のない事だ」
「むぅ…」
 其れは大仰な言い方だなとは敢えて突っ込まない。
 成人男性が三食きっちり取るにしても、此だけの量を三日間連続で使った所で捌ききれるのかどうか。
 此の青年ならば有り得ない話ではないと思ってしまうのが、恐ろしい所だ。
 とは言え、流石に三日三晩全てが魚だけというのも剰り戴けない。
「夕食にしよう、スープが冷めてしまう」
「! そうだな」
 思えば表情が豊かになったなと半ば感心しつつ。
 青年は台所へと荷物を運ぶ。
 其れに続いて男二人が今日の獲物を家へと運び込む。
 ひとまずは台所の大型冷蔵庫へ。
 当然廊下を歩いている内に食欲中枢を刺激する良い香りが漂ってくる。
 隻眼の男が声をあげた。
「今日はシチューだな?」
「正解だ」
 もう一つ気が付いたことと言えば、この食欲に対する貪欲さか。
 欲望に忠実である事が子どもの証拠だと言えば、当然拗ねるには違いないけれども。
 途端に足を速め出すのは一刻も早く席について食事に預かりたいという気持ちの表れなのだろうから。
 仕方がないと言えば仕方がない―――青年は分かり易い其の行動に小さく笑う。
 十も下の弟を思ってか、保護者の顔が垣間見える。
「きちんと手を洗ってうがいをしてから、にしてくれ」
「無論」

 長くなってきたとはと言え、鐘が九つの時間を知らせる頃には、十分辺りは暗くなっている。
 此処はビル立ち並ぶオフィス街でも、人々が集う住宅街でも無い。
 大海原に浮かぶ小さな孤島。
 街灯など、外には玄関先程しか存在していないのだ。
 人類が拒絶した、真の闇が星々に紛れ迫ってくる。
 リビングの灯りはどちらかというと夕闇に近い明るさ、もとい暗さで、
偶には機械的な光のない時間を過ごしたいという青年の希望もあって、眠りを誘う。
「寝るならベッドで眠れ、此処で寝るんじゃない」
「…連れて…行け…」
「甘えた事を言うな」
 本人はまさか自分が子どもと同じ扱いを受けているとは知らないであろうが、
今この態度を見れば正否はどちらにあるのか一目瞭然。
凭れかかってくる隻眼の男に対し、溜め息と共に注意を発する。
外見はそぐわずとも、内面的には二十分子どもで通ってしまう。
「なら…近いベッドで寝る…」
「! おい、お前―――」
「―――寝てしまったか?」
「狸寝入りだ」
 呼びかけたが時既に遅し。
 ソファで頭を左右に動かしていた事で問うに限界が来ていたのは分かっていたのだが、
久しぶりの時間に男ははしゃぎ、いつまでも二人を離そうとはしなかった。
 滅多に二人揃う事は無いだけに、男にとっては大切な楽しい時間なのだ。
 そう分かっていても己は特別に振る舞うことなど出来はしない、普段通りに同じ事しか。
 真後ろからかかってきた青年の声に、冗談交じりの溜息をつく。
 其れを分かっているから、したり顔で青年も言葉を返す。
 コーヒーカップから上がる湯気。
「…こんな表情をして狸寝入りが出来るようなら、大したものだ」
「お前に似たからな」
「そんな事を言う口は此の口か?」
「っ」
 青年の指が男の唇に触れる。
 軽い、諫める為の行動。
 悪戯な笑みで、そっと男の隣に移動し。
 男は甘味の全くないそのコーヒーに口を付けた。
「ウォーダンの気持ちも分かる気がする」
「何?」
「君は実に凭れ甲斐のある体つきをしているからな、楽だ」
「……」
 不服そうに眉を寄せて、男は青年の方を見る。
 が、瞼を下ろしているので瞳の奥に隠している筈の気持ちは読み取れない。
 数秒の後。
「…エルザム」
「……」
 名を呼んだ所で何の反応も返ってこないことは予測済み、だから続けて。
 青年が本当に眠ってしまう前に。
「昔、お前が俺に言った事を覚えているか?」
「…―――昔…」
「ああ」

『…いつか小さな料理店を持ちたい』

「そうだな…そんな事を言った時もあった…」
「過去形にするな」
 懐旧の慕情をはねつけて、男は告げる。
 ゆっくりとだが青年の意識は深い微睡みに落ちつつあるのだ。
 こんな時くらいしか本心を明かしてはくれないが、然しそのまま寝入ってもらっても困る。
「俺の中では現在でも有効な言葉だ」
「ふむ…」
「あの時は二人だった、二人しかいなかった…だが」
「今なら―――…?」
 青年が茫洋とした口調で男の続きを引き取り、疑問の音で尋ね。
 恐らく新緑の瞳にも、薄明かりの中同じ景色が思い出されているだろう。

『俺とお前と、あいつで…家族になればいい』

 脆い人形が泣き叫んだその日に、男は言った。
 喪う事を恐れる人形に。
 約束ではない、誓約。
 おいでと、道を指し示して。
 人一人分の人生をあの時に決めてしまったのだから。
 秘めた決意を今口にする。
「三人で、其の料理店をやりたいと…俺は思うのだ」
「……」
 いつの間にか青年は男の掌と自らの掌を合わせて、強く握りしめていた。
 そっと絡める様にして触れてきた手を、男も握り返す。
 現実的に考えれば、苦笑せざるを得ないどんな想いにせよ。
 叶うか叶えられるかが問題ではなくて、そう言うことを夢見るお前が好きだと。
 告げる代わりに。
「…ならば今の内に精進しておいた方が良いな」
「ん?」
「給仕係として」
「―――ああ…」
 青年の頭が男の肩に乗せられて。
 男は瞼を閉じた。
(大切な時間)
「いつか」
「いつか…」
 二人の声が自然と重なる。
 そうであるようにと。
 祈る様に。


 無事に幾つもの戦場を生き延び。
 同じ年月の歳を重ね。
 平和な世の末にひっそりと。
 ある日、ある場所で。
 一流のシェフさえ顔負けな品を出す料理店が生まれるのだろうか。
 年老いても尚凛とした料理長と。
 相似の顔つきをした給仕係が二名。
 まるで親子の様な顔つきをした、少し強面の給仕が。
 海の傍か。
 山の麓か。
 何処にあるかは分からないけれどもいつか出来る小さな店。
 その時には嘗ての部下がきっと来る、呼ばれもしないのに。
 子どもが二人は居る筈だ、相変わらず元気なお母さんと無口なお父さんという対照的な夫婦が。
 どれだけの人間が生き延びるかは分からないけれど、もしかしたらそう遠くない未来。
 夢見ることは誰にだって許されている。
 想えば叶う、等とは言わないけれど。
 そうでありたいという気持ちが、いつも必ず此の胸の内には在る。
『ようこそ、我が料理店へ』
『『ようこそ、いらっしゃいました』』
 小さな店の、小さな幸せ。
 そして笑顔と賑やかさだけを。

『料理を考えるのが楽しい』
『…いつも悩ませるなと言っているのは何処の人間だったのだ?』
『さて其れは私の与り知らぬ処として―――』
 誤魔化された、と思うのも無理はない。
 朝食のメニューを考えるのはさして困らないが、
夕食だけはそうもいかないのだよと嘯く人間がそう言って視線を逸らすのだから。
 然し、青年の本質から言って。
 全てが真実ではないにせよ、全てが嘘であるという事も無い。
『毎夕、市場へ行って、君たちの為のメニューを考える…いつか此処を出たらそんな生活をしてみたい』
『……必ず、な』
『約束してくれ、ゼンガー』
『―――…』
 低い同意の声に対し、一瞬戸惑いの表情を瞳に込めて男は青年の方へ向き直る。
 怯えずたじろがず、真っ直ぐに。
 青年の緑の瞳が此方を射抜く。
 有無を言わせぬ雰囲気は真剣勝負そのもの。
『…出来ない約束は…』
『しない主義だと? 分かっている、だが今は…其れを曲げて欲しいのだ』
『……ん…』
 頼む、と口だけを動かして音も無しに青年は懇願する。
 代償は刹那の口付け。
 甘える様な、優しい声と手。
 ―――どうか。
『……そう…お前が望むなら』
『望むなら?』
『俺はお前について行く。…約束だ』
『有難う…』
 再びの口付けは、何処か甘い香りがして。
 自然と彼が纏ういつもの空気に慣らされてゆく。
 思えば応えてくれる、そんな時間を。


「三人で」
 作りたいと、唯願う。

<了>

 writing by みみみ

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