【 眠りに落ちるまで 】

 朝目覚めれば、隣に愛する人の顔があること。
 何も纏わぬ肌に、ふわりと彼女の髪が触れていること。
 安らかに規則正しく聞こえてくる寝息に、小さな笑みを浮かべて。
 自分自身ももう一度微睡みへと落ちてゆく。
 彼女が先か、自分が先か、次はいつ目覚めるのかは分からないけれど。
『カトライア…愛しているよ』
 返ってこないと分かっている囁きを君に。
 蒲公英の綿毛の様に軽く、柔らかな髪を耳からそっと押し退けて。
 吐息がくすぐったいのか、彼女は寝返りを打って向こうを向いてしまった。
 おかしくて、嬉しくて、幸せで。
 青年はもう一度、笑みを零した。

 ―――――其れはもう二度と返ってこない、灼熱の炎に灼かれた砂糖菓子の時間。

***

 早朝。
 大地には霜が降りる季節。
 ある程度暖房を効かせた室内とはいえ、容赦のない外気は硝子を通して室内へと至る。
 底冷えとはまさに言葉通りで、じわじわと忍び寄る冷たさ。
 夏の火照った気怠げな空気とは違い、此は此でピンと張りつめた静寂さを己は好むのだが、
さて彼はどうなのだろう?
 男はゆっくりと身体を起こして、ベッドから抜け出た。
 目覚ましは必要ない。
 朝の鍛錬を日々繰り返し行っていれば自然と身に付く身体のリズム。
 出たくないと駄々を捏ねる己を叱咤するのは瞬き程もない。
 目を開ければ、既に覚醒済だ。
 そして。
 ―――いつも、いつでも。
(気が付けば隣にいて、気が付けば隣にいない…)
 成人男性が二人眠るにしては狭いだの小さいだのと言いつつも、
軍の支給品であるからと特に変えようとはしないベッドのサイズ。
そんな記憶が途切れるまではきっと同衾していた筈の人間は、影も形もなく、
此の部屋から消え去っている様だ―――しかも己が目覚めるよりも随分早くに。
 冷ややかなシーツに手を置いて呟く。
「…多忙だと、知っているのだがな」
 最早溜息すら出ないのは、繰り返された行動が日常的な習慣として己の中に根付いてしまっているから。
 そう言えば久方ぶりの邂逅にしては、剰りにも味気ない分かれ方だと漏らすのも良いが然し。
 仕方の無い事だと、判断する度合いが今では遙かに大きい。
 台所に残された白いメモが一枚。
 手に取るでも無く無感動に其れを眺めて、常套句だなと意識の片隅で考えた。
 “また逢おう”と。
 又今度、いつになるかも分からない約束だけを残して。
 彼は帰って行く。


『賑やかな場は苦手かな?』
『……』
 曰く、狐と狸の化かし合いだと会場を揶揄したとある人物は、
それなりに大人として諦めの境地に入っているらしく、黙って無愛想ながらも上官の傍に付き添っていた。
生真面目に、如何にも軍人らしいと言った受け答えが更に興味の種になると分かっていながら。
 階級以上に、年齢から考えても自然と立ち居振る舞いが問われている様な気がする。
士官学校出身者が段々と低年齢化している事から考えれば、
己よりも更に年齢を重ねた人間は果たして現場に相応しいものかどうか。
(教官は俺の柄じゃないんでな)
 立場上、いつかはそうなるかもしれんが戦える内は前線で戦うといった同僚もいる。
 其の同僚も又、今は華やかな喧噪の中で狐とか狸と仮称される様な人物達と対峙しているのだ。
 矢張り、己の鍛錬はまだまだらしい。
 生温い風を頬に受けつつ、ぼんやりとそんな事を考えていると突然背後から声が掛かる。
 振り向けば一人の青年がグラスを傾けながらこちらへ歩いてきた。
 隣に失礼する、と自らの行動を予期した台詞を吐き。
 夜目にも映える長い金の髪。
 其れを緩やかに背になびかせながら、新緑の瞳が此方を見据えたままで次の言葉を口にする。
 ―――育ちを彷彿とさせる佇まい。
 つまり此こそが貴族が貴族たる所以、生まれてから身につける、無意識の所作。
 滑り込む様な軽やかさ。
 隙を見せないあざとさ。
 何よりも瞳の奥に全てを隠し込んで、表には出さない絶対的な表情。
『それとも』
『興味が無い』
 同じ部隊に所属する、同期の人間であるにせよ、個々人として対する場合は、
普段とは違って何か別の感覚が鋭利に相手を判断する。
 朴訥な返事は隠しようのない己の不器用さ加減ではあるものの、一つ、他人を計る事が出来る物差しでもある。
 一瞬目を丸くした相手は、だが直ぐに常に変わらぬ微笑をたたえ。
 己の側へと寄ってくる。
 先ずは他の多くと逆の反応を示したか、と思い。
 先程まで内心で反復していた己の苦みに目を向ける。
(軍需産業に於ける支援者たちとの大事なパーティであるのだとは重々承知している…だが、
理解は出来ても身体が、心が其れを拒絶する場合……)
 ―――受け付けないのだ、と。
 素直に白状すればそうなる。
 そもそも己の気質とは合わぬ雰囲気。
 まさか上官によって己の心情を確かめに来た訳でもあるまいが、青年は未だ会話を続ける様だ。
『テンペスト大尉は』
『分かっている』
 二の句も告げない。
 己一人が何をのうのうと逃げているのか。
 愛想を振りまかずとも良いのだ、その場に居るだけで―――資本家たちの肴になるだろう。
 下手をすれば、何を勘違いしたのか良く分からない婦人との相手をせねばならなくなる。
 断りを入れた所で、強引と傲慢さが彼らの生き方だ。
 上官の様なあのやんわりとした言い方を学ばない限り、愛玩動物と大して変わらない。
 此の年になっても未だ、己には制御出来ない感情が存在するのだと思い知らされ。
 不必要な事は喋らぬよう、応答が酷く簡素なものになってしまった。
『……』
 そう言えば。
 己に飽きた様子もなく然し馴れ合うでもない、不思議とそのまま会話を続けようとする青年。
 彼こそあの場に相応しい人間の筈だ。
 男の真っ正直な視線に気付き、青年が微かに首を傾げる仕草をした。
『?』
 軍人一族であり、旧西暦から続く彼の家も又、一般的に言えば上流階級であり、
今会場にひしめく有象無象の集団と何ら変わらない。
何よりも宇宙を統べる帝王の長子として、彼の名は世間にも知られる者である。
 なのに、何故、今。
『……。お前が抜けているのはまずいのではないか?』
『私が居なくともあの人たちは十分に満足しているよ』
『……』
『―――という答えでは不服かな?』
『いや…』
 そうさらりと言ってのける辺り、嫌味っぽく聞こえそうなものを、
淡々とした物言いで終わらせてしまうのは流石と言うべきか。
まるで己に対する免罪符の様な役割まで果たして。
肝心な理由には触れず、そもそもどうして此方へ来たのか、己に話しかけたのかという事さえ封じてしまえる様な口調。
 出会った時から彼の印象は変わらない。
 緻密さと不敵さと兼ね備え、優雅に全てを当然としてしまえる存在。
 思えば彼のその振る舞い方も、矢張りあの家に生まれた事から来るものなのだろうか。
 部隊の初顔合わせが、酷く印象に残っている。
『不躾ですまないが』
『?』
 不意の質問。
 一瞬だけ自らの持つグラスに視線をやっておいて。
『もしかして…君は酒が苦手なのか?』
『!』
 僅かに目を見開いただけなのだろうが、相手には十分肯定として伝わったらしい。
 ―――そう言った観察眼が、最も恐ろしい所なのかも知れないが。
 微笑が苦笑に変わり、堪えきれずに吹き出した。
(……変わった、男だ…)
 話していて時々不思議に思う事がある。
 もとい、いつも。
 今まで己が出会った事のないタイプの思考回路を持ち合わせているらしく、
何が彼の笑いを誘うのかは己にはサッパリ理解不能だ。
序で言うのならば、彼にとって己とは随分興味のある対象なのだろう、何かと話しかけてくる。
例えば、今さっきの様に。
 分からない、が、嫌ではない。
『…ああ、すまない。本当に…失礼した』
『構わん、慣れている』
『……』
『どうした?』
 相手の沈黙に、此の答え方は嫌味に聞こえたかと思案しかけた瞬間。
 心底愉快だという笑みで。
『面白い男だな、君は―――と思っただけだ』
『お前もな』
『君程ではないだろう』
 冗談とも本気とも付かない言い合いを続ける内、不意に突風が二人を襲う。
 揃って顔の前に手を上げるなど風に備えたのだが、青年の持っていたグラスが割れて、其の命を散らした。
 今までの雰囲気が終わりだと告げている様な音。
 思わずどうして良いか分からずに給仕を呼ぶべきか、情け無い事に一瞬の判断をし損ねた。
『しまった、な…』
 青年はしゃがみ込んで割れたグラスの欠片を拾おうとする。
 其処にはさしたる咎めの情念はなく、普通にそのまま破片へと手を伸ばし。
 やけに、ゆっくりとした動作で。
『放っておけ。何も拾わずとも―――』
『っ…』
『! だから言っただろう』
 男も慌ててしゃがみ込む。
 案外不器用なのか? と思いながら。
 思慮に長けた人物であるが故に、何かがおかしいともっと早くに気付くべきだった。
『切れてしまったか…』
『…医務室に行くぞ』
『いや、とりあえず今は此で良い』
 そう言って青年は赤い一滴を口に含む。
 何処か艶めかしい仕草に、訳もなく男の心臓が跳ね上がる。
 其れを忘れようと立ち上がり、背を向けた。
 意識すまい、同性の所作など。
 けれどそうであればこそ背を向けるのは正しくない行動だった。
『雑菌でも入ったらどうする』
『酒よりも余程酔える、私にとっては…な』
『馬鹿なこ―――』
 男の言葉は続かない。
 ぐい、と驚くべき力で肩を掴まれた、次の瞬間。
『ほら、甘いだろう?』
『な、に…を』
 無造作な口付け。
 だが触れるだけではないもっと貪欲なキス。
 一瞬で割り込まれた青年の舌に、口内が犯されて。
 鼻まで登ってきた、独特の酸味在る薫りに目眩がする。
 此、は。
『…何だ、本当に―――』
『……』
 酒に弱いのだな、とでも言っているのか。
 悠々と唇を離してから青年が笑う。
 と言っても、最早口元しか分からずに。
 男は意識を失った。


 一瞥しただけのメモを丸めてゴミ箱へ投げ捨てる。
 誰の署名も入っていないが、流麗な其の文字に心惹かれる時もあった。
 しかし見れば見る程名残を惜しんでいる女々しい我が心を一刻も早く捨て去るべく、最近は直ぐに投棄処分だ。
 未練がましい、情け無い恋心など必要ない。
 もう、そんな年齢もなければ付き合いの長さでも無いのだから。
「……」
 ふと目覚めれば微かに薫る彼の存在が。
 耳の後ろから首筋にかけて朧気に彼を想起させるもの。
 恐らくは極微量の香料であっても、今の己には十分すぎる程熱を呼び覚まさせるもの。
 重ねた肌と、絡み合う手と、そして何よりも―――。
 ベランダと窓を一斉に解放し、台所の換気扇のスイッチを入れ、男は其の香りを全て追い出そうとする。
(無理だが)
 何よりも、一番覚えているのは。
 忘れる事など出来ないのは。
 男はバスタオルを片手に浴槽へと向かう。
 所有物であると、刻み付けられた己が身体を洗いに。


『………大佐に何と言われるか』
 覚醒した意識が、先ず一番最初に口にしたのは此の状況に際して酷く場違いな言葉だった。
 会場に残る我が上官に、どうのような叱責を受けるかと心配する。
 黙って会場から抜け出して、こんな所で。
『君の介抱をしていたと言えば、私も見逃して貰えると思うのだがな』
 別段男の本気とも冗談とも取れぬ呟きに対し、青年も真面目に返答してくるのだから、矢張りおかしい。
 此が先程までの、会場のテラスであれば何の問題もなかっただろう。
 己の寝ている場所がベッドで、尚かつ。
『悪い事を言う』
『ならば戻るか? この身体で?』
『……』
 ―――誰がそうしたと思っている。
 男は黙って瞳に全ての意思を込めて青年を睨み付けた。
 近接戦闘での鬼神さを謳われた男の瞳は、東洋の刀に似た銀。
 癖の強い髪と同じく、冬の凍えた清冽な薄青が滲む。
 其処に込められた意思は裂帛の構えでもって相手を威嚇し続けるのだが。
 今、此の状況に至っては何の意味もない。
 軍から与えられた個室、其の寝室で両手を縛られている身には。
『そうだな…此処へ来たときのように私が君を運べば問題はないか』
『御免被る』
『確かに』
 くすくすと笑う。
 ベッドに横たわる己の横に腰掛けている青年は熾烈な怒りを込めた己の瞳を受け流して会話を続けた。
 他人から見れば明らかに不可解な此の状況を、未だ続ける気らしい。
『本当に、弱かったのか』
『……』
 応えたくはないとばかりに沈黙を貫き通す。
 其の頑なな態度に青年も戦略を変える気になったのか、素直に詫びた。
 揶揄めいた口調の、温度が急激に下がり。
『…すまない』
『……』
 ―――何を今更。
(謝罪の言葉は火に油を注ぐ事になると気付かぬお前ではあるまい…!)
 そう言おうとしたのだ、本当に。
 体内に起こっている烈火の如き感情を一切合切吐いてしまおうと。
 だが。
 男には其れが出来なかった。
 銀の瞳と、新緑の瞳が真っ直ぐに交錯し。
『…質の悪い悪戯だとは、承知している……』
『……』
 演技?
 此が?
 もし仮にそうなのだとしたら。
 男はぞっとする。
 ベッドの傍にあるランプで照らされている此の表情が、全て嘘なのだとしたら。
(敵うまい)
 絶対に永遠に。
 己は此の男に勝てないのだろう。
 自虐的な笑みを浮かべて、突然一回り年齢を重ねた様な雰囲気でもって、男の反論を封じる。
 青年の態度は、豹変と呼ぶに相応しい速度。
 抗う気が、一瞬で殺がれてしまったのだから。
『だが、君が良かった』
『な、にを…言って……』
 理解出来ない。
 理解、したくない。
 震える唇と、混乱する思考はまともな言葉さえ紡げずに。
 二人の距離は詰められる。
『君が良いのだ』
『! 止めろっ』
 底の見えない暗い瞳を宿したまま、青年はそっと男に近付いた。
 腕を伸ばし、己から軍服を剥ぎ取ろうとする。
 其れに気が付いた瞬間、男は大きく抵抗しようとしたが身体が左右に捩れるばかりでどうにもならない。
 結局最後のボタンが外され。
 外気に触れた肌が冷たさを覚える。
『―――…欲しい』
『!?』
『君が欲しい…』
 いけないか? と青年の瞳が懇願していた。
 自分以外の体温が、晒された上半身に触れている。
 どうにもならない困惑の状態で唯其れだけが、明確な感想だった。


 浴室から湯気と共に現れる体躯は、鍛え上げられた軍人のもの。
 剣の師に教えを請う様になってからは更に厚みを増した様にも思える。
 軍に入ってからどれくらいの月日が流れたのか、こんな生活が当たり前になってどれ程の時が。
 機械的に繰り返される日常の動作、即ち髪先から滴り落ちる雫に構いもせず、男は衣服を重ねていく。
 己にとって今日は非番の日だから別に構わないとしても、
彼には現部隊での仕事以外の――彼の父上の補佐という――仕事がある筈だ。
それでも彼は不意にやってくる。己の非番の日に合わせて、度々。
 互いのスケジュールを把握してしまっているのかどうか、其れすらも分からない。
 けれど。
(夕暮れ時に顕れては…朝焼けよりも早く帰る)
 己の気付かぬ間に。
 何ら温もりの残らぬベッドが其れを証明している。
 彼は疾うの昔に去ったのだと。
 気配に敏感な己を全く起こすことなく、隣から抜け出していく不思議さ。
 恐ろしい程の、器用さ。
 先程から換気を行った部屋は寒く、すっかり冬の大気を取り込み、白い息さえ出てしまいそうな程だ。
 もう十分だろうと施錠し、エアコンのスイッチを入れる。
 ベッドからシーツや枕カバーやあらゆるものを引き剥がして、洗濯機へと放り込む。
 機械が洗浄してくれている間に新しいシーツをベッドへとセッティングする、
これでもう彼の名残はなくなったと―――部屋を見回した瞬間。
「…忘れ物を、取りに来た」
「……そうか」
 不覚にもぎくりと驚いてしまった。
 音もなく、気配もなく。
 彼が入り口に立っていたが故に。


『何故?』
『何故』
 彼と出会って一体何度そう問い掛けただろう。
 何故、俺に興味を持ったのか。
 何故、今一緒にいるのか。
 何故、こうして―――。
 その度に、彼は鸚鵡返しに疑問を返す。何故問い掛けてくるのかが分からない、と言った様子で。
『……駄目なのか』
『当たり前だ…!』
 不条理に対する怒りなのか、彼の強引さに対する怒りなのか。
 上手く判別出来ずに男は声を荒げる。
 兎に角、此の状況で有無を言わさず承諾させるなど以ての外だと。
 其れ以外にも問題はあるというのに、彼は首を傾げた、まるで子どもの様に。
 あどけない、無邪気な仕草。
『どうしても?』
『ああ』
『…冷たい男だな、君は』
 小さな溜め息を一つ付いて、拗ねてみせる。
 常であれば愛嬌在る仕草としてすませられるものも、今にあってはなお怒りを煽る要因にしかならない。
 本気なのか、冗談なのか。
 からかっているにしても、質が悪すぎると。
『同性と寝たいなどと願うお前の方がどうかしている』
『違う』
『何?』
 男は無意識にこれから先の事を考えた。
 倫理が崩壊していく、数分後の未来を。
 やけにきっぱりと断定した青年の言葉に視界が霞む。
『同性や異性が問題ではなくて、此の場合は君という存在が私にとって必要不可欠な者であると言う事だ』
『屁理屈だ! 其れは』
 己が問題にしているのはそう言う事ではない。
 観念論の話など今は要しない、今は。
 男の我慢も限界に来て声を荒げる。
 それでも青年の淡々とした表情も口調も変わらない。
『一般的に言えばそうかも知れない。
だが、普遍的観念からすれば取るに足らない問題なのだ、存在の必要性からすれば』
『…訳の分からん事を…離せっ!』
『嫌だ』
『だから―――!!』
『…添い寝だと思えばいい、忘れてしまえばいい』
『!?』
 軍人にしては細くしなやかな指だと思った。
 以前一度だけピアノを弾いてくれた事もあった。
 其れでも此の指は人を殺す為に使われているものなのだと、寂しそうに。
 彼は、嗤う。
 唇が弧に変わる。
 射竦められたかの様に男は身動きが取れなくなってしまった。
 温度を無くした青年の声だけが、全身全ての神経を麻痺させて凍結する。
 暴れる為の気力を根こそぎ奪い去る、何かが青年の纏う雰囲気には、在るのだ。
 ―――もしかして、もしかしなくとも。
『だが、君に其れは出来ない…ゼンガー』
『止め、ろ』
 婉然と微笑しながら、己の名を呼ぶ。
 優しく。
 穏やかに。
 乾いた声が己の喉から出た事さえ分からなかった。
 心の底から震えて、しまう。
 残酷なお前の言葉に。
『何故なら―――私を好きなのだろう?』
『…!!』
 暴かれた己の心が、悲鳴を上げる暇も無く、青年の手の内に堕ちた。


 頭に被ったままのタオルが思わず視線を隠してくれたのは幸いだった。
 昼間に彼と目を合わせるのは苦手だ、あの時以来。
「忘れ物…ああ、此か」
 青年の言葉を受けて、視線を室内へと泳がせ。
 入り口近くの靴箱、その上に置かれた黒革の時計に目を留める。
 其れを取って受け渡そうとした手を掴まれて、後悔した時にはもう遅い。
「有難う」
 互いの口が離れて直ぐに、青年は踵を返し去っていく。
 皮肉の様な感謝を残して。
 ドアが閉められてから、男は力無く全体重を壁に預けた。
 つまり奪われたと同義ではないか。
 忘れ物を取りに来たのではなく。
 “忘れては居ないだろう”と念を押す為に。
「…帰ってきたのか、エルザム…お前は……」
 部屋から懸命にお前の存在を消そうとする俺に釘を刺すべく?
 ―――其れこそ思い上がりだ。

 堪えきれなかった一滴が、男の頬に伝った。

<了>

 writing by みみみ

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© 2003 C A N A R Y