【拘束されしは時の中に】
 今はもう、誰も知らない名前。
 呼んでくれたのは後にも先にも唯一人だけ。
 其の人を―――今も想い続けている。
『カーマイン。私だけのカーマイン…』
 舌足らずに。
 よく甘え。
 抱きしめてくれた孤独の王を。
「ヴァルシオン様…」
 紫苑。
 其の名は淡く揺れて笑う花。

 鮮やかな紅(あか)。
 戦場を駆け抜ける為に生まれた者。
 嵐となって、主に従う定めを持ち。
 遊ぶことを知らない私に。
『…はい? えーと、じゃあ…お、鬼ごっこって分かります?』
 初めて一緒に居てくれた、真面目に付き合ってくれた子。
 眼鏡の下に隠された。
 真実の想いは。
 どうか私だけの為に在らん事を。

***

 正直、初めての出会いは覚えていない。
 印象的なのはあの人の笑顔。
 明らかに封じられている其の姿とは裏腹に、人懐っこい日和笑顔。
 やがて其の両の腕が解放されて、もっと自由になった時。
 何やら近付いてきて一言。
『……お前が知っている遊びは? それで、遊ぼう…?』
 嗚呼初めて。
 ―――貴方は今まで何も知らなかったんだと気付く。
 何も思いつかずに咄嗟に浮かんだ遊びが、子供じみていて酷く恥ずかしかったのだけれど。
『鬼…の、ふり…? それは凄い遊びを知っているのだね…』
『ん? あああ違いますそうじゃなくって!』
 妙な勘違いをした貴方に、困ってしまった。
 そして教えてあげたいと思った。
 もっと多くの、楽しい事を。

 あの子は名前が無いと言った。
 量産機である自分には名など必要ないのだと。
 主が決まっているならば、付く名が其の愛馬の名前である事も想像に容易いと。
 其の理屈は良く分からなかったが、ただあの子がいつも呼んでくれる自らの名前から考えて。
『…ならば私が…シオンだから…、カーマイン…?』
 はっきりと眼に冴える紅の色。
 私とは又違う感触をした髪の色。
 不思議と名前を与えた事が愛おしく、抱きしめて頬を寄せた。
 幾度も名を呼び、撫でては髪を梳く。
 ふと私だけの―――と、そんな言葉が口を突いたのは。
『だけって…ヴァルシオン様専属ですか、俺?』
 必然にして当然のこと。

***

『…え? 違った…かな? お前は、主は別だが…私だけの、お前…だろう?』
 てっきり冗談だと思っていたのに。
 後ろから抱きしめられて、突如降って湧いた言葉に苦笑する。
 ところが、振り向き視界に入ったのは無垢な微笑。
 よく考えてみれば、冗談を言えるような人では無い。
 分かっていた、筈なのに。
『…今は、ね。俺を専属に選ぶなんてお目が高いっ、さっすがヴァルシオン様』
 どことなく特別な響きを持つあの人の言葉に、不覚にも此の心はざわめいてしまい。
 其れを誤魔化す為に調子よく、囃し立てた口調を使ってみたけれど。
 あの人には通用しなかった。
 嘘なんかじゃない、本当の気持ち。
『……共に、いような。カーマイン。お前がいなければ、私の日々に彩りが…欠ける…』
 ―――名を呼ばれる其の喜びは、一体何なのだろう。
『やーだなぁ、俺じゃなくても世界は広いんだからいっぱい他のいい人見つかりますって〜』
 ―――駄目だと分かっているのに、糸は絡み付く。
『お前だけで、いい。広くともお前はお前一人だけ、なのだから…』
 愛想笑いなど気にも止めない。
 ゆっくりと一度首を左右に振って、あの人は真っ直ぐに、真剣な瞳で告げてくる。
 目が眩むような、とは此の事か。
 言葉だけ知っていても実際の場面に遭遇するのは初めて。
 突き付けられた刃は、くらくらする程に純粋だ。
 
『そら、そうですけど…駄目ですって俺なんかに決めちゃ。もったいなさすぎますよ』
『……私には。お前、だけでいい』
 いつもと少し違った顔―――困っていると分かっていても何故か止められなかった。
 どんな新しい遊びを覚えた時よりも、あの子に触れている時よりも。
 別れるのが惜しい。
 離したく、無い。
 軽く笑ったあの子が一歩退くのを感じ、本能は一瞬で逃走の意志を察知する。
 嫌だ、逃げないで―――そう想うと同時に身体が自然と動き。
 壁に手を付き、何処へも行かせないようにした。
『……えー…と、あの? ヴァルシオン、様?』
 困っている其の顔が、戸惑いという感情だと知ったのは後の事で。
 どうしようとあの子が囲んだ私の腕を暫し眺め、顔を上げた隙を突き。
『…っ!』
『鬼ごっこ。…早く捕まえるコツ、考えた。…思考を読み…経路を塞ぎ…動けなく……すれば、いい』
 もう、あの子がどんなに困っても。
 此の柔らかな唇に、口付ける事を止められない。
 私は、あの子と―――。
『そそそそ、それはないでしょっ』
 ふと眼鏡がずり落ちているのを見て、手を伸ばす。
 今程此の眼鏡が邪魔だと思った事は無い、あの子と私との口付けを妨げる者。
 不要になるだろう、今からは。
 案外あっさりと抜けた眼鏡の縁を畳み、離れた場所へと置いておく。
 心なしか、あの子の表情がより一層慌て始めたような気がした。
『私も学んだ…私は、喋るの…得意でないから…、どうすればお前に伝わるか。
…こうすれば、言葉ではもう、誤魔化せまい?』
 心からの微笑。
 どうやったらあの子に此の想いを伝える事が出来るのか。
 其ればかりを考える。

 思考はさっきからずっと警告灯が回りっぱなし。
 普段ならば喧しい程、流暢に言葉が流れてくる口も、
さっきのアレ――あの人からのキス――で完全に敗北。
 最後の砦に近かった眼鏡を奪われた以上、取り繕いは最早綻んで決壊寸前。
 何とかしていつものペースを取り戻さなければ。
 でなければ、いつまでたっても貴方に俺はやられっぱなしのままだから。
『確かに、それはそうなんですけど…でも、でも言葉にして欲しいことだってあるんですよ?』
 拗ねた態度を示す。
 我ながら幼稚な手段だと分かっていても、これ以上あの人の顔を見る事が出来ない。
 視線を余所へやり、何とか間を持たせようとしたのだ、が。
『カーマイン。愛している』
 いつものあのゆったりおっとりのんびりほわわんな口調は何処へ行ったと叫びたくなる程の声音で。
 貴方はきっぱりと俺に告げた―――所謂、愛の告白。
 別に此方の戦略を読んでいた訳でもなくて、ただ単純に言うべき時に言ってしまっただけの事。
 限界だとかもう無理だとかそう言う言葉じゃなくて、ハッキリと俺に伝えてくれた。
 ―――俺の事を、愛しているのだと。
『だーっ!! 何処から誰からいつどうしてっていうか俺いつの間にヴァルシオン様とこうなったのかなー!』
 全くだ、本当に其処の所を是非とも教えて頂きたい。
 此処は笑うべきなのか泣いた方が良いのか、取り敢えず逃げたいんだが逃げられない。
 困った事にあの人は本気で俺が好きだなんて言っている。
 嗚呼もう今日は一体どうしたんですかと尋ねようとしたら。
『私は、一目ぼれしてた』
『うわぁ待ってマヂでお願いしますからちょ…ちょっとタンマ!
俺に考える余裕を下さい! 出来ればこの密着状態をー!』
 逃がさないよと捕まえられた。
 しかもまた少しあの人との距離が近くなったのは気のせいだろうか。
 やけに明瞭な発音でそんな事を囁かれるとは。
 夢にも思わない。
 不思議でならない。
 何故今日に限って―――遊んで帰るだけじゃすまなくて、俺は貴方に迫られているのでしょう?
『…離したら逃げる…だからだめ。考えるはこのまま、しなさい』
 付き合いはそんなに長くないのだが、あの人にとって俺は唯一の遊び相手だ。
 だからこそ俺の事を良く分かっている。
 哀しい事に、良く分かっていらっしゃる。
 鬼ごっこで俺が逃げる役の時に、あの人は捕まえた後も抱きしめては頬を擦り寄せてくる。
 拘束期間故か、あの人の中身は見た目以上に幼く、スキンシップの一環だと普段は普通にしていた。
 何も意識してなかったからだ。
 当然だ。
 だが、今は。
『(うわ良い匂い…じゃなくて! 俺! しっかり!)……!!』
 虚しく鯉のように開閉する口は落ち着けない深呼吸用の息を出し入れするだけ。
 回らなくなってきた頭が言葉を何も形に出来ないまま藻掻き続ける。
 無駄だとそろそろ分かってきてはいるのだが、もしこのまま受け流されると―――。
 あまり、口にしたくない未来が待っている。
 というか確実にそうなる。

『私は。…もっとずっと、こうしてたい…』
 足りない、ともう一人の自分が言う。
 もっともっと。
 ずっとお前と。
 もどかしい言葉より直接的な口付けを選ぼう。
 私より少し背が低いお前だから、口付けるなら少し高めの位置から。
 額に目許に頬に耳に。
 顎に首筋にそして肩口に。
 ―――お前は私のものだと証を残しておこう。
『ええええヴァルシオン様誰か来たらどうするんですかっ、
わぁ駄目ですやめ、止めて下さいってばーっ』
 段々と身も蓋もなくなってきて、普段の大人しいイメージは何処へやら。
 あの子がこんなに表情豊かだったなんて。
 涙を浮かべて潤んだ瞳が然し可愛いなぁとはやっぱり口にしたら怒られるだろうか。
 パニックで暴れてはいるけれど直ぐに取り押さえられるよと思っていても。
『…ん…カーマイン、いい匂い…ちょっと熱、ある? 大丈夫?』
 暖かいと言うよりも、火照る頬。
 互いに寄せた其の頬の温もりに誘われて、そろりと手は動き出す。
 唇を寄せるだけでは足りないならば、お前の肌をもっとハッキリ感じたい。
 知らなかった―――こんなにも自分が貪欲な事を。
『ぎゃあああ駄目です嫌ですもうちょっとこれ以上は理性がも、もたな…っ』
『…いらない。理性、もう私には無い、し…。あっちに行こう、カーマイン。
…確か床上だと…カーマインの体に負担がかかりすぎる…』
 何だかいつもと立場が逆転だね、と呟いて。
 そう言えば理性なんてものがあったのだと思う。
 でも、要らない。
 お前の眼鏡と一緒だよ。
 邪魔されたくない。
 私とお前の間を隔てるものを何一つ無くしてしまいたい。

 待て。
 待て待て待て。
 時よ、盛大に今止まってくれ。
『はいいいいぃぃぃ!? 負担!? 負担って気になるけどでも聞きたくないんですがー!』
『ううんと…、とりあえず、すれば解る…』
 あの人の笑顔が今程恐ろしいと思った時はない。
 俺よりも大きな体格に反して、実はあの人の動きは早かったりするのだ此が。
 邪気のないにこにことしたお日様のような笑みで、でもがっしり俺の腕を掴んで離さない。
 あ、寧ろその前に腰に手が回って―――。
『する!? やっぱりそっち? そっちなんですかってかそんな軽々と俺を持ち上げないでくださいっ』
 青ざめた俺を余所にあの人はさっと俺の足を持ち上げて両腕に抱きかかえる。
 今までこんなにも強引な人だっただろうかと回想してみるが、其れは所謂現実逃避というやつで。
 先程から繰り返し待って欲しいと頼んでいるのも聞いてくれない。
 穏やかに。
 爽やかに。
 微笑を浮かべつつ。
 けれども俺を離そうとしない。
『おひめさま、だっこ♪ ふふ、私も…やっとカーマインに『教えてあげる』ことが、できる…』
 ―――いいい一応俺の性別は男なんですが。
 そんなツッコミをしたくても出来ない。
 近すぎる。
 あの人の真っ直ぐな瞳も、柔らかな唇も、良い匂いがした髪も。
 本当に嬉しそうな顔をして、あの人は俺を抱いて歩き出す。
 正に、問答無用。
『おおおお教えて貰わなくてもいいですよ大丈夫ですよ俺だって一応たぶん大丈夫ですよ』
 混乱状態の思考は、完璧に石化している。
 何を教えてもらえるかなんて、尋ねるだけ野暮というもの。
 必死の抵抗だって、もう。
『俺乗られる側であって乗る側じゃないですからー!!』
『主の愛馬の名前…呼ばれてるなら、乗っかられて…なさい』
 ね? と言われてしまって、いつも通りに可愛い笑顔だなと畜生思ったじゃないか俺の馬鹿。
 実は命令形なんだけども、あの人の纏う雰囲気でそうは感じない。
 然しやっぱり有無を言わせぬ迫力はある。
 御陰で身体が動かない。
 一体何の緊張なのかは分からないが、あの人から逃れられない。
 心底、敵わない。

 ぎしり、と寝具の軋む音。
 顔を口付けられる位置まで近付けて。
『カーマイン、…いやよいやよも好きのうち、って言葉…知ってる?』
 落ち着きのないあの子に囁く。
 やっぱり嫌なのかなぁ、でも本気で逃げてないし大丈夫だよねと一人で結論付けておいて。
 掴んでいる腕から伝わればいいのにと思う。
 歯痒い。
 こんなにもあの子の事が好きなのに。
 大好きで大切で。
 世界で一番の宝物。
『知ってますけど実践はしたくありませんー!』
『んー…カーマイン、二回くらいイくと…素直、なるのに…』
 少しだけ不満げな態度を取る。
 遊んでいる時ならいつも普通にはいと頷いてくれるのに。
 簡単に、くっついたり出来るのに。
 ―――実はこの言葉遣いも少し寂しい。
 何度直して欲しい、そのままで喋って欲しいとお願いしても。
 此は大切な分別だから破る訳にはいきません、と頑なに断られてしまう。
 寂しい。
 何だか、お前との距離が開いていくよう。
 行かないで。
 もっと傍に、一緒に居よう。
『誰が回数まで聞きましたか! というかそんな熟語もないですしっ』
 眼鏡を返して下さいと言われても無視。
 あの子にとって眼鏡は生活必需品で、あれがないと殆ど見えないらしい。
 だからきっと今も私の顔は近付けないと見えない筈。
 軽く啄むような口付けを数回した後は髪を撫でつけたり頬を寄せたり。
 まだまだ足りない、全身でお前を感じたい。
 すると突然首が重くなった―――というよりもあの子が抱きついてきた。
 何だか少しずつ呂律が上手く回らなくなっているのか、
半分位は何を言っているのか聞き取れないのだけれど。
『素直、なりなさい。ね? …んー、カーマイン、可愛い〜』
 よしよしと後頭部から首筋の後ろまでを撫でたり、背中をポンポンと軽く叩いたり。
 こうやってぴったりくっついているのが、心地良い。
 私からじゃなく。
 お前からなのが、更に好き。
『だ…れがっ、俺はも、元々っ、…!』
『…元々?』
 目線が合うと黙ってしまう。
 耳まで赤くなってると気付いたのは今は口にせず。
 ぎゅっと瞼を強く瞑ってしまったのは、非常に残念。
 仕方ないのでキスをしたらびくっとして、開いた―――これで、良し。
 何かを言いかけたのを待とう。
 こくんと、首を傾げた仕草。
『も、元々素直なタチですからっ!』
 嗚呼、何だろう。
 今とても、胸の奥が温かい。
 一体私の身体に、何が起きているのだろう。
 お前と居ると、本当に不思議な事ばかり体験するよ。
『じゃあ…私を愛していると言える、ね?』
『卑怯ですよ狡いですよあんまりですよ…っこん、な…状況、で…ッ』
 優しく笑いかけて、肯定でも否定でもない首を振るお前に。
 たくさん口付ける。
 泣きそうな顔をしているその瞼に。
 震える頬に。
 真っ赤になってしまった耳に。
 そして、首元に。
『…うん。…でも、好き。愛してる。…それだけは本当。信じて…カーマイン…』
 名前の由来になった紅い髪を。
 夕暮れとも炎とも付かぬ色をした其れを。
 優しく指の間で梳く。
 幾度と無く、ゆっくりと。
『…っだから…そ、こが、狡い…!!』
 とん、とあの子の額が私の肩に置かれて。
 まるで子どもをあやすように。
 彼を抱きしめ続ける。

***

「…ラーゼン?」
「ん〜? どしたよ相棒」
 人の身には厳しい風の中、外へ好きこのんで飛び出す相棒をじっと見る。
 さて昔からそうだったかと言われると難しい。
 早くから鋼の身体を与えられた己には。
 主が付けた名前の通りに、生まれつき駆け抜ける性質が備わっているのだとしても。
 荒れ狂う風のままに生きる此の男が。
 凪となるにはもう暫く。
「吹き飛んで落ちるなどという醜態を晒さぬようにな、忠告を」
「お前さんじゃあるまいし大丈夫だと思うよ、ヘタレパパ」
「うぬは…いつもいつもその、一言が余計よな…!」
「はははん♪ 今此処でやったら二人纏めて落ちるけど〜?」
「ぬぅ…」
 ―――互いに忘れ得ぬ疵を持ち。
 そして未だに想うは誰か。

***

『――――』
『…!!』
 ひそひそと囁かれた其の言葉に思わず絶句する。
『俺にそれを言わすんですかヴァルシオン様の馬鹿ー!!』
 涙目の抵抗など効果がないと分かっているのに、どうしても力無く拳で軽くあの人を叩く。
 どうするの、と言われても。
 こんな時に俺にそれを決めさせるなんて。
 なんて。
『…うん。カーマイン言った、言葉が欲しいときもあるって』
 初めて会った時から変わらない笑顔をそのまま此方に向けられると反論が難しい。
 其れは確かに俺がさっき言った言葉だ。
 ―――まさかこんな風に返されるとは思ってなかった。
 ぼんやりした様に見えていても、本当は俺よりもずっと経験を積んで居るんじゃないか。
 そう、思う。
『それとこれとは話がちが…っ、絶対に全力で違います大間違いっ』
 嗚呼もう自分が何を言ってるのかが分からん。
 混乱し戸惑い、躊躇いすら封じ込まれた末の震え。
 愛してると言われて。
 急にキスされて。
 そして今こうやって貴方に抱かれている。
 ――――訳、分からん。
『……うーん? でも、言って』
 そんな風に可愛くお強請りされたら、俺。
『…っく、えぐ…』
 どうしたら良いか、分からないです。
『カーマイン? …カーマイン、ごめ、ごめんなさい、泣かないで。…ごめん、ね?』
 とうとう限界が来てしまった。
 頭だか何だか良く分からない俺の中で、ぷっちんと音を立てて本気で決壊。
 貴方実は鬼でしょう、最強じゃなくて最凶なんでしょう。
 思わず泣き出した俺を見て、あの人は驚き、慌てる。
 みっともない格好だけど。
 悔しいけれど。
 大好きです―――貴方が、好きです。
 泣く程。
 嬉しくて。
 勿体なくて。
『っく、ぅう…ヴァルシオン様のっ、いじ…っ』
『……ごめん。ごめんね、もう聞かない。聞かないから、ね…』
 抱きしめて背中を叩くとか。
 頭を撫でるとか。
 頬を擦り寄せるとか。
 兎に角どうやってもなかなか止まらない俺の涙に、あの人はずっと謝り続けた。
 こんなどうしようもない俺を、あやし続けてくれてた。
 最初はぼろぼろと零れてきた涙も暫くすると落ち着いてきて、気分がスッキリしてきた―――で。
 問題は其処から。
『…すん、ん…わか、りました……』
『良かった…泣き止んだ。カーマイン、…カーマイン…』
 嗚呼なんという醜態。
 人間にしてみればいい年こいた大人二人して一体何を。
 寧ろ、俺が、か?
 どうにも恥ずかしくなって黙りこくる俺を、あの人は抱きしめて名を呼ぶ。
 愛しい響きを以て。
 甘い、声。

 泣かないで。
 どうか。
 私の好きなお前だから。
 悲しませたくないよ。
 御免なさい。
 ごめんね―――あの子が泣きやまなかったらどうしようかと思った。
 嫌われてしまったら?
 こんな、こんな簡単に絆というものが失われるなんて。
 気が気でなくオロオロするばかりだった私に、お前は言った。
 少し大人しめの声で。
『あ…その、俺も……すみ、ません…』
 お前が謝る事はないのに。
 私が、つい―――。
『いい。…私が、望みすぎたね。
傍にいて…カーマインが傍にいるのが、笑ってくれるのが私の幸せだよ…』
 其れ以外は何も望まない。
 もう、要らない。
 初めて感じた喪う事への本能的な恐怖。
 今まで普通に、傍にあったものが急に消えて無くなる感覚。
 ―――何て恐ろしい。
『だ、だけど、俺は…っ!』
 気にしなくても良いという想いを込めて、そっとあの子に口付ける。
 優しく、大切に。
『…ん? 大丈夫、大丈夫…』
 ただ重ねただけの唇からちろりと互いの舌が触れ合った。
 熱い、何か。
 離すのが口惜しくて堪らないけれど、そんなに多くはもう望みはしないから。
 ふと。
『ん…ぁ、あま……』
『………?』
『……え、あ、その、…その……』
 名残惜しげに去る唇の端から、あの子の声が聞こえた。
 今までとは違う、何処か、誘いの香りがする其れ。
 もしかして何か言いたい事でもあるのだろうかと少し待ってみる事にする。
 潤んだ瞳が、触れられない熱を思わせて。
 あの子の顔が真っ赤だ。
『……うん?』
 ―――お前が笑えるように、私も笑った方が良いよね。
『ああああ甘いんですよねなんだかヴァルシオン様からのキスってねーあははははは』
 凄まじい勢いで笑い出したあの子の姿に安心する。
 うん、此で漸くいつも通り。
 泣き顔なんて似合わない。
 そうだろう? 私のカーマイン―――。

『…そうなのかー、それは知らなかった…』
『ぅ…はい、そう、です…』
 素直に納得するあの人の笑顔を見て、内心実は焦りまくり。
 今日は色々と初めての事が多すぎてどうしようかと思考が追いつけない。
 そう、初めての事ばかり。
 で、有り得ないけれども―――気持ち良くなりかけたとは言えない。
 快楽に、溺れそうになったなどとは。
 そんな俺を余所にあの人は笑顔を振りまき素直に喜ぶ。
 多分、泣きやんだだけでも良かったんだろう。
 哀しい事も。
 寂しい事も。
 貴方は苦手だから。
『ん、良かった。カーマイン、喜んでくれた、かな』
『よ、喜んだ…と、いうか…ええと…』
 心も嬉しい。
 そして身体も悦んだ、とか言える筈も無く。
 実はそう言う意味じゃなかったんだと気付くのは此からだいぶ後の事。
 貴方の天然無意識誘惑癖を何とかして欲しいです、
と言うか俺は押し倒される側だったのかとか考えている隙に。
 いや別に貴方を押し倒したいとかそう言う不埒な事は考えてませんよ?
 考えてませんってば。
『? 耳まで真っ赤だよカーマイン…美味しそう』
『ひゃぅっ!』
『ん? んむ…ここ?』
 全く―――油断も隙もない。
 美味しそう、だなんて実にあの人らしい発想で。
 俺の耳を甘噛みされた。
 妙に柔らかな感触と、とろけそうに熱い舌と。
 貴方からの吐息で。
 ―――正直、一瞬にして俺の腰が砕けちゃったんですが。
『ゃ…っ、ぃや、です…って…!!』
『! ごめん、…いや、だった…?』
 俺が泣いてしまった事により、あの人はもう俺が嫌がる事はしないつもりらしい。
 泣かしたくない、きっとそんなところだ。
 多分、誰だって好きな人や大切な人には泣いて欲しくない。
 笑ってて欲しい―――どうか、幸せな顔で。
 そんなに強く言ったつもりはないのだが、あの人は直ぐに離れて、顔を強張らせる。
 過敏な程の其の反応に。
 感じてしまった、と言えない俺が結局真っ赤になって悩んでいると。
『あぅ…そ、では、なく…て……』
『………可愛い、カーマイン…』
『ん、ぁ…?』
 もうお互いに熱の入った声しか聞こえない。
 潤んだ瞳が相手を誘う。
 低く穏やかに降ってくるあの人の声が俺の思考だけでなく全身を支配していく。
 さっきよりも少し深い口付けに舌が絡まり合って、押し倒される。
 適度な弛緩状態の身体にあの人の腕が回り込み。
 全てを、任せてしまおう―――とばかりに暴れる気を無くした。
『…ん…カーマイン、カーマイン…』
『…っ、は…っ』
 不思議だけれども妙に慣れた手付きであの人は首筋から鎖骨へ、
鎖骨から胸元へと次第に唇を下ろしていく。
 くすぐったいけれども落ち着けないけれども柔らかな其の感触に、小さく震えつつ。
 あの人の愛撫を受けている。
 文字通り、愛されている。
 全身にあの人が印してくれるなら。

 しっかりした身体だと思うけれど、抱いてみると意外と細い。
 勿論、あの子以外なんて抱いた事がないから比較しようがないのだけれど。
 思ったよりも腕の中に入ってしまう感触が。
 酷く嬉しくて、独占欲をそそる。
 素直に大人しくキスを受けて、互いに少し笑う。
 又口付けて、何度でも重なり合う口は、名残惜しくも吐息を吐く。
『……して、いい?』
 ね、今更だけど。
 一応ちゃんと、聞いておきたいから。
『へ…あ、あの、えと』
 突然我に返りました、と言う顔をしてあの子は此方を向く。
 もう大分はだけた服はさておき、
どうしてこんな時に俺なんですかと言わない口に代わりに瞳が物申す。
 ふと思えばさっきも其れであの子を泣かしてしまったような気がするんだけど―――忘れた。
 まぁいいや、きっと今度は答えが貰える。
 そんな気がする。
 とびっきりの笑顔で、お前の返事を待つよ。
『……今なら、…まだ…耐えられる、から…』
 お前が傍に居てくれるだけで充分だから。
 ゆっくり時間をかけて。
 お前の答えを私は待とう。
『た、耐えられる…?』
 するり、と背中に回した腕が小さくあの子の服を掴む。
 私の額はあの子の胸元へ。
 そっと置かれた。
 戸惑うお前の声が、もの凄く近くに聞こえる。
 其れだけでもとても、幸せ。
『……強引にしそうになるくらい…欲しい…のを、耐えられる、から…』
 でも―――本当は、堪えるのが結構きつかったりする。
 欲しくて、欲しくて堪らない。
 喉から手が出る、と言うのはこの事か。
 身体中を駆け巡り暴れ出す此の感情を、言い聞かせるのは大変な事。
『…さ、さっき…のことですか?』
『……さっきよりもっと、強い…どうしよう…カーマインが欲しい、よ…』
 互いに苦笑し合う。
 眼が交差して、私が見上げる形に。
 お前の胸元にあった眼が、ゆっくりと上昇する。
 我慢できなくなった―――だから、と。
 取り繕う必要はないよね?
 今、此処にいるのはお前だけだから。
 お前の前だから。
『俺、が? 他の…誰、でもなくて? 本当に……俺だけ、ですよね…?』
『……カーマインだけ。…お前だけ、欲しい…』
『どうしても…?』
『? …うん。どうしても…』
 不意にぎゅっと、強く腕を掴まれた。
 少し躊躇いがちな其の動作に、一瞬胸中へ不安が過ぎる。
 珍しいね、お前がそんな風に俯くのは。
 いつもは眼鏡で隠してしまう、瞳の中の気持ちを、又斯うして隠そうとしているのだろうか。
 心がざわめき、戸惑う。
 けれど。
『だったら…いいですよ、俺でよければ…ヴァルシオン様の期待、応えられるか分かりませんけど』
 ―――嗚呼気付いていたかな?
 微かに震える声。
 強く握りしめた拳。
 躊躇いや戸惑いのない、本当のお前の笑顔。
 作り物じゃない、心からのお前の笑い方。
 照れた其の笑みに、つい。
 思い切り抱きついて、口付けをくり返す。
『あり…ありがとう、カーマイン! 好き、大好き…!』
 其れしか、言葉に出来なかった。
 感謝も、嬉しさも。
 何かもかも。
 ただ、伝えるには遠くて。
『あ、ちょ…っと、くすぐ…ったい…』
 一度互いの瞳を見つめ合い、軽く。
 二度目はゆっくりと瞼を下ろして。
 三度目は滑るように閉じた瞼の向こう、口付け合う。
 もう数えるのも飽きて、言葉にするのも馬鹿らしく、其れでも口付けたくて堪らない気持ち。
 ね、やっぱりお前の笑顔が好きだよ。
 どうか笑っていて。
『愛してる…、カーマイン…笑顔が、全部、お前の総てが私の幸せ…』
『な、泣かないで下さいよ…! 駄目ですよそんな俺の為に…!』
 込み上げてきた嬉しさに、目もとが熱くなった。
 お前に言われるまで気が付かなかった―――私が泣いて居るだなんて。
 そう、此が涙。
 少しだけ、しょっぱい。
 慌てるお前を見て、苦笑して。
 もしかするとさっきの私も斯うだったのかなと、思う。
『…嬉しくても、涙は出る…初めて知ったよ…。お前のおかげ。ありがとう、私のカーマイン…』
『な、泣かないで、下さい…よ…?』
『…うん。でも、嬉しい、どうしよう…』
『すぐに止まりますよ、大丈夫』
 躊躇いがちにお前がしてくれたキスが、何だか特別なものに思えて仕方がなかった。
 そっと触れた柔らかな唇。
 唇同士とは又違う、不思議な感触。
 指で触れるのでも、掌で包み込まれるのとも違う。
 一瞬だけ、頬に触れたキス。
 照れ臭い気持ちも分かったよ、少しだけはにかむ笑顔で返すから。
 ―――愛してる、カーマイン。

 やっぱり泣いて欲しくないですよ。
 笑っていて欲しいですよ。
 貴方は笑顔の人だから。
 外の世界の戦乱も、戦場の血と煙とも。
 未だ無縁で、どうか別の世界の出来事で、貴方とは関わりなく。
 笑っていて下さい。
『そうだね…カーマインが居てくれるなら。…うん…』
 はにかんだ笑顔から無駄な力が抜けていつもの微笑に変わる。
 ふんわりと柔らかな貴方の香りが漂う中、抱きしめられてゆっくりとベッドへ沈んでいく。
 並ぶ、貴方と俺の顔。
 でも。
『(うわ何か逆に眠れねぇ…!)』
 ―――すみません、あの、俺、収まりがついてません。
 別に身体が浮ついてるとかそんな尻軽な意味じゃなくて、自然な事だと思うんです。
 とっても普通だと思うんです。
 こんな。
 こんな所で止められる、とは。
 内心泣きそうだったところへすかさず貴方の死刑宣告第一弾。
『…ほんとはもう一回したかったけど。一回じゃ、終わりそうにないから、明日にするね♪』
『はははい〜』
 顔は笑って心で泣く、此が真の男道。
 さらりと凄い台詞を言われた気がするんですけど、この際気のせいにしておきます。
 予定を明日に回されて良かったのか悪かったのか。
 勢いとか雰囲気とか、又明日同じ事をするのかという不安はあるんですけどね。
 取り敢えず生殺しには違いない―――。
 そんな俺の迷いを何処から察知したのか、貴方ははっとした顔でにっこり笑う。
 本当に貴方の笑顔は曲者です。
『……入れなくても悦くすることできるね。する?』
『だから貴方は一体どっから何からどうしてそんな知識を仕入れちゃってきやがるんですかー!?』
 追い打ちにも程がある。
 追い詰められたリングの上で更に綺麗な左ストレート。
 鐘が鳴っているよ俺の脳内で。
 もう、二十分にノックアウトの判定だ。
 今日で一体何度目になるか分からない俺の叫びを聞き、一呼吸の間を置き。
『………ビアン博士がー(以下自主規制)…だからかな?』
『(あんの天才科学者はぁ〜!!)』
 あの人が口にした答えは奇想天外予想外。
 問題外のアウトオブ眼中。
 相手が相手だけに怒れない。
 嬉しいとか恥ずかしいとか困ってるんだとかそう言う事も言えない。
 貴方の愛機が俺に以下略とか相談できる訳が無い。
『…ううう』
 結局再び俺が――精神的に――追い詰められた形となり、項垂れていると。
『…まあ今日はゆっくり、休もう。…カーマイン、腰痛そうだし』
『だ、だから…っさ、さわ…!』
 ―――あの人に悪気はない。
 きっと、多分、絶対に。
 泣いた俺の頭を撫でたのと同じ要領で、寧ろ全く其れと同じ気分で。
 優しくもう休もうと休養を勧めてくれている。
 だけど触ってるのは俺の腰。
 詰まるところ、俺の弱点な訳でして。
 収まりがついていない俺の身体としてはですね、其の、感じるんですよ分かります?
 分かって下さいお願いします。
『よしよし…、痛いの、とんでけ』
 切実な俺の願いも虚しく、あの人はあくまでも治療のつもりで腰を撫で続けてる。
 其の動きが巧みだなとかは思ってない。
 キスよりも何よりもこの人の場合は手が凄いんじゃないかとは思ってない。
 思ってないんだ―――恐らく。
『ち、ちが…ッそ、こ…がぁ…っ』
『?? だめ、さすらないと楽にならない!』
 どうにかして貴方から離れようとして、俺はずるずるとベッドの上を這い回り、逃げる。
 だけど貴方としては治療中なんだから逃がすつもりは毛頭無く。
 しかも嬉しいかな哀しいかな、其れは俺の為。
 俺の為、ってどっちの意味ですか?
『ふぁっ、お…おねが、いです、から、さ、さわら…っ』
『大事なカーマインの体なのだから、ねっ』
『だ、大事、だからっ、だからぁー!』
 泣いたら止まるだろうかと一瞬頭に過ぎった考えも、泣くの意味が違うので無理。
 歯を食いしばって堪えてみるんだけど、かなりキツイ。
 やっぱりこの人の手がヤバイ。
 おかしい―――位に、ピンポイント。
 震える声も身体も痛みに換算されているのか、当分あの人の手は止まらない。
 純粋に。
 実に非道。
 無垢であるが故に。
 怒る事さえ出来ない。
『もう、カーマイン。黙って治療、うけなさい』
 呆れたように笑って。
 まるで子どもだねと言って。
 深く口付けられて、抗議の声をあげる予定の舌が絡め取られてしまった。
 はい、お手上げ。
 降参するから、だから。
 ―――其の手、止まりませんか?
 もしかしてワザとかも知れない。
 態と俺の腰の辺りを撫で回してるんですか、貴方は。
 其れ、充分立派なせくしゃる・はらすめんとですよ、と。
『ん〜っ』
 腰が痛いんじゃないんですと心の中で叫ぶ。

 好きだなんて、暫く言えない。

***

「ね、ね、カーマイン」
「はい?」
 其の次の日。
 あの子がいつもより少し遅い時間に遊びに来たので。
 暇な間に考えていた、メモを見せてみた。
「…どれが、好き…?」
「はいー!?」
 多分、拙い字だと思うけど、一応四つは考えてみたんだよ。
 お前が喜んでくれるかな、と思って。
 SとかMとかは良く分からないけど、お前が望むならそうしてあげる。
「カーマイン、が…選びなさい♪」
「………」
「…ハチミツ…ってあの、ハチミツ……かなぁ…」
「……」
 ―――ゆっくり、待つからね。
 お前が答えてくれるまで。

 一緒に居よう、私だけの愛しいお前と。


 writing by みみみ

〜後日談?〜
ラズ「…俺、もうお婿に行けねぇ…」(めそめそ)
シオン「…ん…? だいじょー…ぶ…」(ニコニコ)
ラズ「何がです?」
シオン「お嫁においで〜…」(両手を広げて超絶爽やか微笑)
ラズ「其れは違いますから!」(涙でもキッパリ←ささやかなプライド)
シオン「敬語…」(ぽつり)
ラズ「は?」
シオン「敬語、寂しい…ね…」(じーっ)
ラズ「ええと、でも…それは…その…」
シオン「シオン」
ラズ「はい?」
シオン「…言って、シオン、って…」(お強請り)
ラズ「えーとー」(汗)
シオン「ね? カーマイン…お願い…」
ラズ「ううううう」(滝汗)
シオン「…言って、くれなきゃ……」(俯く)
ラズ「く、くれなきゃ?」(もの凄ぉ〜く嫌な予感)
シオン「もう、してあげない」(キッパリ笑顔)
ラズ「……」(石化)
シオン「…カーマイン……」(見つめる)
ラズ「…シ」(頑張る)
シオン「…言って、ごらん……?」
ラズ「シ、……」
シオン「………」
ラズ「シ…シ…」(必死)
シオン「あ…でも、駄目…だったら…カーマインが、抱いて、くれる……よね?」(頬を赤らめ期待の眼差し)
ラズ「シオン様の馬鹿ぁ〜!」(泣きながら逃走=敗北)
シオン「言ってくれた、ね…でも……逃げた…」(残念そうに)
※結論※敬語は治らない。
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