【 ワルツもタンゴも 】
―――大切なものが見つかりました。
其れは貴方です。
―――無くしたものが戻ってきました。
其れが、貴方です。
西洋での習俗曰く、黒猫とは不吉の象徴らしい。
朝出掛ける時に目の前を黒猫が横切るとその日一日は不幸が起きるとか何とか。
病や死を引き連れるのだとか。
現代でこそ愛らしいと評される猫にも、種によっては昔は疎まれていた時期があった様だ。
其れ以外にも、魔の遣いだとされた所為もあるのか―――曰く、魔女の使い魔だとも。
魔女と黒猫の付き合いの長さなど知らないが、確かにすんなり来ると言えば来る組み合わせで。
頭の中に思い浮かべると、楽しかった。
「…かわいい……」
「はぁ?」
然し魔女伝説自体、まだまだ科学の発展していない時代に、悪魔の仕業と呼ばれた伝染病を、何とかして人心の荒廃から追い払う為に強調されたに等しく、酷い噂話に過ぎない。
其の名残故に御伽噺では専ら酷い役回りが多く、魔女は悪いものだという印象もある。魔法使いという言い方なら、お姫様を助けてくれる役回りの場合もあるので、多少なりとも地位は向上しているにも拘わらず、矢張り魔女は悪いイメージの方が強いかもしれない。
そう言ったオカルトじみた話をウキウキというのか輝く瞳で見つめる青年が一人、居る。優しげに揺れる長い髪は同じく優しげな藤色で。背中に流れる其れを一つに束ね、竜胆色の瞳はこの話を始めてから輝く事を止めない。
―――好奇心が兎に角旺盛だ、この坊ちゃんは。
そもそもこの話をする切っ掛けになったのは、彼が今度のハロウィンでする仮装が黒猫だからだという。
魔女との関係について話している時に嬉しそうに頬を赤らめた点から推理すると、もしやあの最速のお馬鹿眼鏡は魔女っ子でもやるというのだろうか。いや、まさか男だからなと思うが、昔は男の魔女も居たというので出来ない事もないなと呟く。するとそうなんだと頷く紫苑の王。
もしかしなくても、真実なのか。
「…昔から赤頭巾ちゃんを襲うのは狼さんと相場が決まっているネ!」
「狼さん?」
こんな時こそ悪知恵の働く脳味噌はフル回転。
勿論、仮装衣装が魔女ならば赤頭巾ではなくて黒頭巾になっているのかも知れないが、其れは其れ此は此。
未だに何の事なのか思い至らない王は首を捻りながら、でも楽しそうだから良いかと放置。
―――やっぱり感覚ズレてんな。
此の部屋の主にして彼の映し身である、もう一回り大きな体格をした青年は小さく溜息をついた。
二人を結び付ける瞳は同じ色、髪は青く、隠れている耳には01と刻まれたカフス―――其れが、嘗て運命を呪い、人間を憎んだ機体が取った人間の姿である。
だが此の二人の関係は奇妙な事に、人間に紛れて暮らす内に知り得た無駄知識というのか、バーでのちょっとした雑談代わりというか、密かな蘊蓄をついつい話してやっている内に、妙な感じで懐かれた、と言うのが正しい―――此の青年にとっては何も知らなかったと言うよりも、世界はとても小さなものでしかなかった、なのだろうか。
『知らなかったよ…何も、誰も……』
あの子以外はね、と小さく呟く青年の顔は少し赤い。
オリジナルであり、唯一無二の存在であったが故に温室で育てられた奴なのだと唾棄していたのも昔の話。
今では何故かやたらと無防備に無邪気に――余程暇を持て余しているのか――遊びに来る事が多い。
(いや、俺様暇人な様で暇人じゃないんだけど)
一応自分にも今の自分の生活があるのだから。
『…ん……?』
無傷で、とはいかなかったものの修復可能な彼のデータが発見されたのはいつだったか。
明確にこのぼんやり青年の存在を認知したと同時に、一つの溜息が漏れ出たのも記憶に新しい。
―――微かにではあるが、共通する感覚。
無意識のリンクが、途切れずに伝えるのは剰りにも初々しい感情。
『…あーあーあー』
天真爛漫な紫苑の王と、其の彼に見初められた朱の従者。
目にも鮮やかな朱の髪と、穏やかで優しげな藤色の髪がそっと触れ合うに至っては、青春映画もバカらしいと思える程の再会っぷりで。
あてられたこっちの身にもなれと言いたくなる。
「…オイコラ」
「んー…?」
そんな回想をしつつ黄昏れていた自分を余所に、紫苑の王は今までの流れで一体何がどう眠気を誘ったのか――まさか俺の話が就寝前の御伽噺だったとでも言うのか――首を上下に揺らして、直ぐにでも夢の国へ旅立とうとしている。流石王様、やることなすことマイペースすぎる。
「勝手に人様宅にやってきてぐーすか寝ようとしてんじゃねぇよッさっさと起きろ!」
「…だ、め…ねむ……」
「シーオーンーッ!!」
おやすみと身勝手な挨拶を一つ告げ、怒鳴り声だけが虚しく部屋に響く。
ふわふわと軽く揺れる藤色の髪の下、竜胆色の瞳は閉じてしまい。
何故どうして急にこんな所へ来たのかと――何となく想像は出来るが口にするのは阿呆らしいであろう――理由を尋ねる暇無く、王は眠りについてしまった。
嘗て最強と謳われた、地上の覇者の為の剣。ヴァルシオンと、その量産型であるヴァルシオン改の試作機第一号。
一体誰が信じるのだろう―――人に使われるだけだった機械に、魂が宿り、人の姿を得たのだと。
しかも其の機械である頃から、AIの電脳空間で、密やかな愛が囁かれていたのだと、誰が知り得ただろう。
人間の身体を得た機械達は、本当に人間の様に誰かを愛する事を知り、心を揺らしているなどと。
0と1の世界の中、混じる此の想いを感情と人は呼ぶけれど。
ノイズに近く、精密に分類不可能な其れは、今確立されて俺様を繋ぐ。
「………」
―――神様は皮肉にも程がある運命を俺達に投げやがった。
同じ色をした瞳は、けれど違う感情を秘めたまま、今までの時を生きてきた。
其れより少し前の事。
ハロウィンの準備で忙しなく人が行き交う中を、シオンは危なげなく避けていく。
見た目が優しく穏やかで大人しそうに見える為、動きが鈍いと考えられるかも知れないが、実は斯う見えても機動性は高い。其れが一番身に沁みて良く知っているのは、文字通り、王が見初めた朱の従者―――元はとあるエースパイロットが乗る機体であり、嘗て黒き竜巻となった者。
目当ての人物を見つけ、その後ろ姿を目視で確認、声もきちんと確認して、気付かれていない事もチェック。
後は思い切って飛び出した―――。
「えいっ」
「ギャーッ!?」
背後から近寄ってきた気配が誰なのか分かってはいたものの、ラーゼンは振り向く事をしなかった。
其れは一応未だ着替えが途中だったから、という歴とした理由があるのだが、其れは此の場合不幸へと働いてしまった―――妥協と譲歩と懇願と睨み合いの末に、何とか膝下までの長さを確保したスカートが、後ろから思い切ってめくられる。
漸く、漸くミニスカの恐怖から逃れたばかりだってのに何をするんですか!
と、ラーゼンは振り返り、予想通りの人影と笑顔を見つけてその場にしゃがみ込んだ。
勿論、スカートなのでおしとやかに。
「うっうっ…シオン様何と言う事を…」
「…え、あ…泣いてる、の…カーマイン…?」
嘘泣きではあるのだが、あわや男としての尊厳みたいな物が木っ端微塵にされかけた事を思えば声も自然とトーンダウン。多分本当に信じては居ないと思うのだが、嘘泣きを凄く心配するのがこの人の長所であり短所だから気にせずに顔を覆い続ける―――何が悲しくて魔女の仮装なんだろうと引き当てちゃった自分のくじ運が悲しい。
思えば幸運なのか悪運なのか其れとも悲運なのか良く分からない人生だった。
人生って言うのかどうかは分からないけれど。
「あの、ね…カーマイン…」
その衣装よく似合ってるよというフォロー―――になってませんから。スカートなんて生まれて初めてですよ、屈辱通り越した負の栄光ですよ。
私黒猫をする事になったんだ―――知ってます、普段と逆ですよねだから何なんですか。貴方其れでも俺を襲う気満々でしょう、今も襲ってきたし!
似合うと思う…?
―――似合わない筈無いでしょう其れよりも色んな意味で俺が無事でいられるかどうかが不安極まりないです。
貴方の猫耳姿!? 尻尾も付くんですか!?
そんなの他の野郎に見せたい訳無いでしょうって言いたいけど言えないんですよ恥ずかしいので。
嗚呼然し駄目だ、俺此の姿一番見られたくない奴が居るから早く此の格好止めたい。
「……いぢわる…」
「……うん」
苦し紛れに呟いた非難もあっさり王は受け止めた。
―――って其処で肯定しちゃうんですか、貴方って言う人は全くもう!
掠れて呟いた声を、王は聞き取り、よしよしとその頭を撫でる。
子どもみたいな貴方に子どもみたいに慰められてる、いつも光景で懐かしい風景。
もう戻ってこないと思ってた、取り返せないと思ってた過去。
分かってはいるんですけども。
「…好きですから」
「うん。私も…」
悔しいけれど一応言っておく。何度確認しても足りない、貴方への感情。
斯うして喋っているだけでも本当は嬉しすぎて。
貴方が傍に居るだけでも、泣きそうで。
悔しいけれど、認めているから、だから此処は怒ります―――スカートめくりなんて一体何処の時代の男子学生ですか貴方は!!
「でも、其れと此とは別ですから…!」
「…えー…」
「公衆の面前でこんな恐ろしい事をやってのける貴方が悪いんですよッ!?」
「………」
都合が悪くなったからって視線を逸らさないで下さい、卑怯な。
「………」
怒られて、しまいました。
傍目から分かる程に落ち込んだ様子を見せる紫苑の王。
少し大きめの背丈がぼーっとしているだけでも目立つというのに、人望も篤く性格が良い為直ぐに顔見知りが増えていく中にあっては目立ちすぎた。然し其れも仕方のない事かも知れない。通年初恋カップルとか言われる二人にあってはこれくらいの喧嘩は他人から見れば些細な事だろうが、実はさり気なく時間と共に深刻さを増していく。
着替え中ですからと更衣室を放り出されてぼんやりとシオンは最初立ちつくしていた。
―――恋しい、愛しい、カーマインという名の青年に。
彼は人間としての身体を得てから、元主人である青年にラーゼン――其れは彼の元主の母国語で、駆けるという意味の言葉――という名を貰ったらしい。だが、彼の髪色に因んだ此の名を、彼は大切にしてくれていて、再開してからも自分が口にする度に嬉しそうに照れ臭そうに笑うのが印象的だった。
『だってシオン様から貰った名前ですから!』
そんな、カーマインに泣かれたり怒られたりしてしまった。
どう見ても自業自得なのだが、其れは其れとしてショックなのだ。
ハロウィンまであと数日。
最後の寸法合わせなので結構際どい格好だったりする―――のがシオンとしてはちょっと気になるので、成る可くならずっと傍に居たかったのだが、カーマイン自身から傍に居る事を拒否されたのでは身の置き所がない。
他人が思うよりもずっと、シオンの世界はカーマインを中心にして回っているのだ。
―――滅多に口には出さないけれども、実のところ其れはカーマインことラズも同じな訳で。
相思相愛にも拘わらず二人の仲は進展がとにかく遅い。
「………」
どうしよう、と考える。
自分の衣装合わせはとっくに終わってしまったから、後は特にすることが無くなってしまった。
お菓子は某謎の食通さんから届く分と、買い出し班が全て揃えるらしいし、飾り付けはもうちょっと先。
電脳世界から飛び出して、こんな風に人間の身体を得てから初めて、自分の身体は普通よりも少し大きいのだと気付く。電脳世界では剰り気にした事がなかった、カーマインともう一人―――ふと、彼に会いに行ってみようかと考えたが、彼も彼で忙しそうなので止めておいた。
艶のある墨色の髪と瞳を持つ、巨躯の剣。
機体同士の直接対峙はなくとも、AIの姿を知っている。
もし、自分があの時と同じ様な姿になったのであれば、彼も又。
「……うー…」
―――行きたい、でも。
迷惑がかかる、と言うよりも何となくカーマインが又怒りそうな気がするので止めておく。
何もする事がないけれど、カーマインの側を離れるのは嫌だと思う。
だけど今の自分はカーマインの邪魔にしかならないというのなら。
シオンは狭い交友範囲の中、顔を見たい人物を思い浮かべ。
「…だからって俺様の所に来るんじゃないヨ、おぼっちゃん!」
「……駄目?」
数回鳴った呼び鈴に、誰が来たのかを確かめもせずにドアを開けたのが運の尽き。
自分よりも少し低い目線の、春の笑顔がヒラヒラと手を振っていて、うっかり脱力したが為に、ドアを閉める事すら出来ず―――ブラウは取り敢えず此の界隈では悪目立ちする其の青年を、シオンと呼ばれる青年を中に入れる。
じーっと此方を見てくる瞳の色は同じでも、相手は無意識に相手を従わせる才能を持った王だ。
此方は単なる其のコピーであり、劣化版なので生憎とそんな能力はない。
だが然し唯一王の眷属たる証として、王に対しても抵抗力があるらしい―――ホントかよ?
確かにいちいちどっかの馬鹿みたいにコイツの言う事を聞いたりはしていないし、結構しっかり怒る事の出来る立場には居るんだが。
「でも……ブラウ、しか……」
「行く所がないって言うのかネ、もしかして?」
「うん」
「…ああはいはいそうですか〜」
竜胆色の瞳が伏せられて、小さく御免ねと呟く。
世間知らずのおぼっちゃまと―――最初は憎んでたかも知れない相手。
嫌いだった、生温い生き方だと思ってた。
蝶よ花よと育てられた様な、温室育ちの存在だと。
―――だが。
『…めんどくせぇなぁ!』
出会いが人を変えていく。
関わり、触れ合う事が想いを変えていく。
どっかの五月蠅い坊主に感化されたのか、既に生きる事に対して疲れている自分が、更に妙な繋がりを持った相手を恨んでみたところで何が返ってくる訳でも無し、今までの運命が帳消しになる訳でもナシ、と。
考え方が変化する―――世界が変わっていった。
寧ろこの王様大好き命賭けてますな何処ぞの莫迦馬に蹴られるだけだから、痛い分ソンしてない俺様?
ラーズちゃんからかうの面白いんだけども、本気になった所で勝てる自信はあるんだけども。
本気って、正直、疲れる。
『………』
だから、もう止めた。
憎むのも疲れてる。
虐めるのは楽しいけど、本気でやるのはもう飽きた。
特に望む事はないし特別好きな趣味もないし、いつ死ぬのかだけ分かれば結構今は十分だと思う。
―――狡いよ、お前らは。
伝播してくる此の感情が、俺様を変えたのだと怒ってやりたい。
怠惰な此の生活を愚かだと鼻でせせら笑っていたあの頃が、若かったと思える程には、変わってしまった。
「…カーマイン…怒ってた…」
「あ・た・り・ま・えっ、でしょーが!」
「……うん…」
そんな泣きそうな声で俺様の所へ無防備に遊びに来るお前がどうかしてるぞ、この間抜け王様。
―――と、どんなに言った所で聞かないし、素直に従う様な奴でもない。
良くも悪くもコイツは王様、本当の王様。
元、が付くけれど、未だにコイツは本当にアイツの王様。
世界の覇者になろうとしたとある総帥の愛機、夕日に抱かれて死んだ、彼の人の愛機。
強くて優しくて大きな人だったと、誰かが言う。
愛機ってのは主人に似るもんなのか?
『あの子しか…知らなかったよ……世界を…』
普段とは違う笑い方をして、藤色の髪が揺れる。
籠の中に閉じ込められた、純粋な剣。
知っていて、知らない振りが出来るけれども、本当に知らない事の方が多い世界で。
唯一見つけた世界の真理。
『あーあーあー、はいはいはい、もーいいっ』
『…?』
下らない。
漸く見つけたのに。
殺意を、憎しみを、あらゆる負の感情で、俺を殺してくれる相手だったのに。
退屈な生を終わらせる事の出来る、折角の機会だったのに。
―――ああつまらない。
「とっととラーズちゃんに連絡とるヨ? こんな大きな荷物、即座にクーリング・オフで叩き返すっ」
「く…?」
「返品って意味!」
あの最速お馬鹿が迎えに来て、連れ戻されると分かった顔が急に青くなっていく。慌ててベッドの中に潜ったりしてみても無駄だから。大体大きな身体してるんだから隠れてませんって。思いっきりシーツを剥がすと頭を抱えている―――何とも間抜けな、王様の姿がある。
おかしいなぁ…俺様コイツのコピーなんだけども。
だから俺男ですってば。
今回は仮装だから仕方なくスカートはきましたけど、泣く泣くはかされてますけど男ですから!
それなのにどうして女の子みたいな悪戯されなきゃいけないんですか、うう。
「……」
と、ラズは嘆きを其処までで止めた。
そして、大人しくあの人は外で待っていられるだろうかと考える。
昔なら、何も無い電脳空間でもあの人は過ごせていたけれど、人の身体を得てからのあの人は兎に角あちこちへ行きたがる。今までも何も見てこられなかった分、今まで世界は映像でしかなかった分、ありとあらゆる情報に興味が向いているといった所か。いろんなものを見て、触れて、楽しむ。時には恐がり、時には驚き。―――大きな身体をしたあの人は、けれどまるで子どもの様に世界の全ての新鮮な反応をする。
嘗ては俺が遊びに行く事で、あの人は世界を知った。俺だけが、世界の窓口だった。
嬉しそうに迎えてくれる、あの人が可愛かった。
どんないい加減な話でもあの人は真面目に聞いてくれたし、楽しそうだった。
だから今は、昔よりもずっとよく喋る様になった気がする。やっぱりスローペースな事に変わりはないけれども、語彙が増えたというのか。おまけに余計な知識まで増えているのは何ともいただけないが、世界について勉強するのが楽しそうで良かった。序で、朗らかな顔と雰囲気の御陰か、何処へ行っても直ぐに周りと打ち解ける事が出来るし、いろんな人に好いて貰っている。
―――寧ろ、俺が知らない人とまで仲良くしてるけど。
好きな人がみんなにとって人気者になるのは、ある意味良い事で嬉しい事で、少し寂しい事。
密かに頭を出した独占欲が、チクリと胸を刺す。
あの人の噂を、良い噂を聞くのはいい、だけど好意にまで話が及ぶと少し苦笑する。
我ながら、器の小さい話だ。
『私は…カーマイン、だけ…だよ…?』
ぎゅーっと抱きしめてくれたあの人の腕の中、充足感と幸福感に充たされて。
嘗ての様な触れ合いが出来る事に、涙を零した。
一切の制御が利かずに、泣き崩れる。
『か、カーマイン…!?』
あの人がおろおろするのも前と同じ。
俺が泣くと自分が何か悪い事をしただろうか、何か痛い所でもあるのだろうかと、しきりに尋ねてくるのも同じ。
頭を撫でて、背を撫でて、よしよしと、大丈夫だと言うのも同じ。
勝手に零れてくる涙の所為で上手く前が見えずに―――繰り返し、繰り返しあの人の声だけが聞こえる、そう言う感覚も同じ。
嗚呼良かった、貴方が居て。
嬉しいです、貴方が生きてくれていて。
何事も無く俺の事を忘れずに、覚えていてくれたのも、僥倖に近い。
「………」
思い出すのも恥ずかしく、ラズは耳まで赤くした。
つくづくこの場にそういうからかいの得意な連中が居なくて良かったと思う。
さて、と着替えをすませて漸く外へ出て、暫く辺りを見回して、歩き回る事数分。
「ど、ど、ど…」
―――見当たらない、想い人の影。
何処ですかシオン様と絶叫するラズの姿があったそうな。
「帰れ」
「…嫌」
「ラーズちゃん探してるヨ?」
「…そんなこと、無い…」
「大好きなシオン様居なくて泣いてるヨ、きっと」
「…か、カーマイン…なら、大丈夫……」
一言ずつ語調が弱まるのは分かった。
首を振る回数も減ってくる。
駄々をこねる子どもの姿は確かに愛らしいと呼べるのだが、言うなれば此は痴話喧嘩なので、巻き込まれた方はたまったものではない―――昔から、夫婦喧嘩は犬も食わないと決まっている。
しかも年齢というのか経験に似合わず、此の二人は揃って初々しいのだから喧嘩の内容も馬鹿げている。
一体今回もどんな経緯でこっちへ来たのかと尋ねてみるのだが、案の定答えてはくれなかった。
―――阿呆らしい。
結局先程の電話もシオンに壊される前に止めておいた。
恐らく放っておいてもあの音速馬鹿は、嫌な予感を察知してここに来るだろう。
もっとも、其の馬鹿は事態に対して冷静さを欠いていると予測されるので出迎えをきっちりしないと、ドアの無い家になりかねないが。
「ラーズちゃんてばシオン様だぁいすきなのヨ? そこんとこ分かってる?」
「………」
もう、一押し。
大きく頭を振った後、何を考えているのかもう一度頭を激しく振った。
その後、ぽつりと。
「私も…」
「ん?」
小さくて聞き取れなかった其の台詞。
永遠に聞き逃してしまえば良かったとは後の祭り。
「私も…カーマイン…大好き、だもん……」
「………」
―――ハイハイ勝手にしてくれよもう。
火を付ける前に床へ落ちた煙草が酷く勿体なかったが、残念ながらストックは無い。
ブラウは切れた煙草を買いに、外へ出ることにした。
<了>
writing by みみみ
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