【 一つだけの約束 】
いつかこの身が消えてしまっても、どうか覚えて居て欲しい―――一途に裂いた、恋心よ。
暗赤色の瞳が焦がす想いは闇の中なお暗く深く、ただ一人を眺めている。
其の傍で、膝で眠っているのは墨色の守人。墨色の瞳と髪をした、大剣の巨人。機械であった頃と変わらず、逞しい巨躯と其れに相応しい艶をした長髪。額に異界の紅玉を持つ少年――ナハト――は彼の頬にそっと触れた。今宵彼の元を訪れたのは、いつも通りに貪りに来ただけだった。然し、普段であれば気配だけで起きる守人は、全く目覚める気配を見せず、仕方がないので斯うして触れ合うだけに留めている。
「………」
―――AIとして電脳空間を漂っていた頃には出来て、機械の頃には出来なかった、そんな触れ合いに夜の子は僅かな微笑を浮かべる。喧噪が支配する昼の世界は彼にとって騒音でしか無く、虚ろに怠惰に過ごすだけで意識を使い果たしてしまう。だから、こんな風には笑えない。
元主には新しい愛機が出来たから、今はテスラ・ライヒ研究所で隠居をする身。
そう言ってあっけらかんと笑うけれども、本当は、未だ少し未練があるのを知っている。
押し隠した心。
自分たちと同じように、矛盾を抱いた其の心。
―――埋めてあげたいのに、自分では埋められない、心の穴。
彼の、元主でなければきっと。
「…、ろ…」
眠る守人の名を呟こうとして失敗したのは、そのあまりにも安らいだ寝顔が、ほんの少しの音でもたてれば崩れそうな気がしたから。たまにしか見る事の無い、静かな寝顔。意識を失うまで求めて、やがて手放される意識の向こうで、彼がどんな夢を見ているのかと考えたこともあった。けれど、矢張り表情は苦しげだった。だからやっぱり今の上は珍しくて、此を崩してしまうのは勿体ない。
序で理解出来ない、と暗赤色の瞳をした少年は呟く。
―――どうして皆自分よりも誰か他の人を優先させるのだろう、自分の幸せだけで満足出来ないのだろう、つい、我慢してしまうのだろう。
しかも、自分の幸せよりも誰かが幸せになること願って、自分の幸せを捨ててしまう。自分が嫌いなのだろうか。自分だけが幸せになることを許すことが出来ない、弱さ。自分だけの幸せでは足りないという、貪欲さ。優しい様な、傲慢な様な。
少年の、額の紅玉が揺れた。
紅玉の輝きは、彼の感情そのままに揺れ動く。
「…ゼロの馬鹿……」
いつも他の人の事ばっかりで。いつも自分自身は後回しで。隠居同然の身だからと笑って、自分自身には本当に頓着しないから。
だから―――。
「…こんな風に…なるんだ…」
最近溜め込んでいた慢性的な疲労は、此処に来て誤魔化しがきかなくなってしまったのか、墨色の守人を眠らせている。原因は恐らく半分程自分にもあるのだろう、其れでも其の睡眠不足の体調を押してまで、様々な人を手伝ったり、影ながら後輩達のサポートに回っている。
絹の様な手触りと、白檀の香りがする髪を一房手にとって。
ナハトはもう一度守人―――ゼロの顔を眺めた。
普段はたまにしか見られぬ様な、こんなにも無防備に、落ち着いた表情で眠る彼の姿を。
「………馬鹿」
―――宵闇に紛れた表情は窺えず。
愛しの守人を膝に抱き、少年はその額に口付けた。
自分よりももっとずっと大きな身体。初めて会った時から変わらない目線の高さ。ひょいと自分を持ち上げる強い腕。―――そして何よりも、口では散々なことを言うけども、邪険に扱われる時もあるけれど、大きくて暖かい手のひらが好きだ。
けれど。
『ゼロ、好きだよ』
『ああ』
こっちは心臓をバクバク言わせながら、成る可く力まない様に深呼吸をこっそり繰り返し、その割には拳を強く後ろで握りしめたまま、愛を囁くつもりで思いの丈を告げたのに―――守人の反応は凄まじく素っ気なかった。しかも片手で秋の新作饅頭――此は自分がお土産で持ってきたもの――を持ち、新聞を読みながらの応答である。
実に、つれない。
大きくて、温かみあふれる彼の手のひらが、稀に自分の頭を撫でてくれるけれども―――其れでは、いつまでたっても彼は自分を子どもとして扱うだけだと思う。
頭を撫でてくれるのは、あくまでも親愛の情であって恋愛の情では無い。
―――違う。
根本的に、違う。
自分が、欲しいのは。
金髪に茶のメッシュが入った少年、アルトは叫んだ。
『ちがーう、違うってば!』
『…?』
困惑の表情を浮かべる守人。
墨色の瞳に、疑問符が見えそうで。
『俺はゼロが好きなんだって…何回言えば分かるんだよー!?』
『ふむ、そうか』
ああああだからどうしてそんな淡白な反応しちゃうかなぁこれって曲がりなりにも愛の告白なんだけど!?
かーなーりーっ俺の想いを込めた真剣告白なんだけど!?
アルトは叫びながら、地団駄を踏みつつ、天を仰ぐ様な仕草でもって、新緑色の瞳を曇らせる。一方で愛しの守人はと言うと、主とのわだかまりが未だ完全には抜けきっていないのか、それとも本気で隠遁する気なのか―――此方の都合や告白や想いなど、全くもって興味無しとばかりに視線を他所へ向けた。
―――こうやって一体何度フラレたのかは分からないが、そう簡単に諦めるつもりは無いので、アルトはずっとゼロに愛を告げている。
電脳空間の頃のまま。
密かに抱いた想いはそのまま。
『………』
『…む』
あーあーあー、草むらの猫には反応する癖に。
手で招いてそんな風に柔らかく笑う癖に。
あまつさえ腕の中にそんな簡単に抱いちゃう癖に…!
自分なんて懐の中に飛び込むまでに一体何時間取っ組み合いをしなければならないのか、腕っ節では到底敵わないのに不利な状況で勝負を挑まなければならない此の我が身の辛さってどうなんだろう、其れに比べて猫ってばいとも容易くゼロの懐ゲットしちゃって―――そんな剥き出しの嫉妬に気付いたのは猫だけで、視線が注がれる本人は意にも介していない。猫は最初此方に怯えていたが、ゼロの温もりに慣れたのか次第に眠り始めた。
『……』
もしかすると、結局自分はこの猫の様な存在なのだろうか。いつまでたっても手のかかる、子どもとかそんな。決して同じ高さの目線では何も考えて貰えず、昔のまま庇護者として対応されるだけの、そんな存在なのだろうか。
少しずつ悲しくなってきたアルトはゼロの傍を黙って離れた―――今はちょっと話したくない。
―――このままの身長で居ても、ゼロは俺を別に可愛いとは思ってくれないんだよなぁ…。
無意識に、成長を止めた神経が刹那呟いた。
「……はぁ…」
故に、守人のもらした吐息が、安堵のため息とは気付くまい。
己が拾った命は、己が最後まで面倒を見ろ。
其れは生き物を育てる時の必定であり、命の重さを知るべきだという教訓でもある。
責任は重い。己以外の命を抱え、最期まで看取らねばならぬのだから。
そうでなくとも、命は想いなのだから。
関わりとはそう言うものだ、縁とは鎖の様なものだ、常に我が身を縛り付ける―――愛しいあの方とも、大切なあの子らとも、結びついた縁が、途切れることなく繋がり続けている。
―――ゼロ!
我を慕うか。お前たちを捨てたのに。微かな想いに気付きながら、其れを無視したのに。
偶然繋がった其の手を、仕方が無い環境とはいえ、手放して。
傍にありたいと願っていた、小さな眼差しを諦めた。
―――ゼロ…?
好きにすれば良い。嬲るなり犯すなり痛めつけるなり。我は、罪を犯したのだから。
出会った時には幼子の彼を、狂気と正気の彼らに分かち、それでも未だ向き合おうとはしていない。
彼らの姿はそのままの罪。我に与えられる、罰。
『ゼロ…元気で良かった』
『疾うに隠居した身ですからな』
心配そうな青鈍色の瞳をした、元主との会話。―――貴方が、何も覚えていなくとも。
『ご覧の通り暇を持て余す身分です、何か御用命ある時はお気軽に。元主殿』
『ゼンガーで、構わん…』
『いえいえ』
我は、貴方と斯うして話せるだけで嬉しゅう御座います―――墨色の瞳の中、棘の様に痛むのは、何。
嘗ての異星人たちとの戦いは黒き愛機に大きな傷を残した。暫くはそれでも良かったが、剣の師匠はある日ゼンガーに新たな剣を与えた。其れは偉大なる天才が創造する計画までの剣であり、だが試作機でありながらも主人の操縦にしっかりと応えたもので、黒き大剣を休ませるには充分な機体だった。機体動作や戦闘モーションもある程度引き継がれ、何の心配もせずに後はゆっくり己は―――ゼロは、休めばよかった。
だが。
―――我は、貴方にとって必要ではなくなった…?
知らず知らずの内に齟齬を来した何か。不意に馴染んだ感触は離れ、機体としての熱も何もかもが奪われていく。メンテナンスの為にプログラムチェックを行う日々―――何処か大きな穴が空いた様で、時は空虚なまま過ぎてゆく。何が一体己にとって問題なのか分からぬまま過ごしていた。
故に気付かなかったのか。
あの時幼かった彼が、どのように成長していたのかを。
どんな想いで、己と戦っていたのかを。
AIとして電脳空間で過ごした二人が、仲間として再会したにもかかわらず、主に仕える者であるが故に裏切り、又仲間として共闘する日々が来た時―――いくら話しかけても何の反応もなかった子は、暫く会わない内に。
『…ゼロ、俺の事…忘れて…!?』
『ゼロっ、俺の嫁に―――ぐほぉっ』
二つの心に分かれていた。
―――其れを知った時の、驚きと、悲しみと、後悔。
どうしようもなかったと、分かっていたのにきちんと面倒を見てやらなかった己が罪。
機体の姿で一緒に居たのはほんの一時、別れは迫り、何度も戦火の中で出逢い。又別れ、必要ではあるが何処か理不尽な闘いに巻き込まれた幼いAIを思い浮かべた。それでも、どんなAIにせよ、機体に入った以上は主の為に存在することが至上命題。
自らの意思では運命を選べぬのが―――機体プログラムの運命なのだと、相手も割り切っているのだと思い込んでいた。如何に幼いAIであろうとも、プログラムに埋め込まれた本能は同じだろうと。
然し。
『我は闘う者…主が為の剣…Aよ、うぬも其れは同じであろう?』
『…命令、実行する…敵、裏切り者…思惑など知った事か、立ち塞がるなら……撃ち貫くのみ…!』
『…っ…!!』
主たち搭乗者の通信に紛れ込んだのは、疾うに見知った筈のAIが見せた、全く知らない顔。
一瞬のビジョンが像を結び、対峙するAIの姿を映し出す。
―――虚ろに笑う、幼子。
『A…!?』
『キョウスケの…邪魔をするならば……お前も敵だ…!』
再び仲間として共闘しても、接触は出来ず、関係は変わらぬまま―――我は、愚かだったのだ、救い難い、罪人。
墨の瞳は憂い、惑い、己が罪に嘆く。
幾ら、搭乗者にある種の因子が拘わっていたとしても。
どれだけ、彼らが未だ開発されたばかりのAIだったとしても。
―――其れは、我が罪。
『はッ今更…!? 俺、が…俺が今まで…どんな思いをしてきたか、知りもしなかった癖に……!!』
ただあの頃のまま懐いてきた昼の子とは違い、蒼き夜の子は暗赤色の瞳を激情で焦がしていた。アルト、という機体の名では無く、ナハトの名を持つ彼は―――怒り、泣き、そしてせせら笑う。黙って罰を受けるだけの己を、嘲り、だが泣き叫ぶ。
『…どうしてッ……!!』
純粋な涙が、押し殺した声で叫んでいる。愛しいと、恋しかったのだと。
そして問い続けるのだ、何故、どうして―――すまぬとしか言えぬ己が酷く、不甲斐無い。
前後左右も分からず、善悪も知らず、清濁混ざった世界に居た頃。
何も分からずにぽとっと落ちた雑多な世界は幼き興味を引いた。
だがそれも直ぐにバレてしまう、同じく若き頃の守人に捕まって。
電脳世界の第一印象。大きくて強そうな――今思えば機体そのままの――とびきり強烈なプログラム。もっとも向こうにしてみれば此方も同じらしく、如何にもマ印だと言われた。今とは違う、若い頃の彼の姿。今改めて彼の姿を見ると、そんなに月日が経っていないはずなのに、彼がどことなく遠い。
墨色の瞳も、髪も、変わっていないのに。何故、その視線だけが違う。
『…ゼロ……ゼロ…』
別れてからはもう大変だったとしか言い様が無い。
勿論今でも解決して居ないのだけれど。
―――想い出語りをすればする程、彼を苦しめるのは分かっているのに、昔の事しか話すことがないなんて。
ああどうすれば良いのだろう。
どうしたら、良かったのだろう―――初めて、会った時の。
『…俺は…忘れた事、無いのに…ゼロ、ゼロだけが……俺は…』
願いはいつも鮮烈で苛烈で、そして脆弱だ。
好きだ。嫌いだ。
ずっとゼロの事が好きだったのに。俺の事忘れてたなんて嫌いだ。
行けばいい。側に居て。
そんなにも未だ大切だって言うんなら押し掛ければいいんだ、行っちゃえよ。漸く一緒に居られるんだ、もう離したくない、寂しいよ傍に、居てくれよ。
色違いの双眸が二つの想いを交互に出現させる、まるで音楽の強弱の様に。
欲しい。要らない。
構わない誰が好きでもいい、ゼロが欲しい。誰かを想ったままの、そんなゼロは要らない。
相反する二つの感情そのままに、心を分かち、存在を分かち、顕現したのは二人の子―――蒼き夜の子、赤き昼の子。彼らが望むのはたった一つの存在であるというのに、いつまでたっても手に入らないもどかしさと、悔しさと、悲しさと、寂しさと、愛しさ。
暗赤色の瞳が―――ナハトが、不意に瞳を閉じた。
「…似合わない、です、そんなの……」
こっそり借りてきたんだよと言った紫苑の王は、春爛漫と言った笑顔でカボチャお化けの衣装を夜の子に渡して、そのまま去ってしまった。確かに、ハロウィンというのは仮装パーティーだと聞いている。だが、此の身体は既にアルトのものだから、衣装も其れに合わせているのに。―――大きなカボチャの被りものの中、狭くなった世界で、ナハトはゆっくりと瞳を開いた。
「あ……」
―――不意に視界を横切る墨色の長髪。
ハロウィンは逢魔が時、即ち夕方からのお祭りだとも言われた。手作りのランタンやキャンドルが、暗い夜道を照らし、まるで其れが人魂の様に見えるから、より雰囲気作りによいのだと。気が付けば空はいつの間にか紺色に変わりつつあって、先程見かけたのは間違い無く、彼の守人だろう。
「………」
頼りない、実にやかましい半身でも時々役に立つ事があるのだと夜の子は感心した。騒がしい夜は嫌いだが、でもゼロと一緒に居られる。普通に、もっと素直に―――だから、夕暮れ時に現れた。
「……こんばんは……」
「…!」
大きなカボチャを抱えた少年が一人、ハロウィンの夜に話しかけてきた事に、守人――ゼロ――は驚く。暗赤色の瞳と額に付いた紅玉が印象的な―――顔見知りの少年。彼がこんな黄昏時に出てくるとは夢にも思わず、まじまじと彼の顔を暫く凝視した後で、その名を口にする。
「…ナハト…?」
「…そうだよ」
ふて腐れた様に此方を見ないのは何故だろう、いつも会うのが夜だからか。今は未だ黄昏時、沈みきっていない太陽の名残が、色濃い影と昼の境目を彩る。それとも此方を見たくない別の理由でもあるのか、とにかくナハトは自身がナハトだと――アルトでは無いと――認めたまま、顔を動かさない。
抱えた大きなカボチャはナハトの仮装衣装らしいが、アルトはコウモリだった為、身体を同じくする二人の衣装が合わさって、こうもりの翼を持ったカボチャ少年が其処に居る。
頑なに視線を逸らしたまま、然し、己が前から動こうとしないので、おかしくて少し頬が緩んだ。静かな彼の頭に触れ―――機嫌を取ろうと試みる。
よくよく考えると、斯うしてゆっくり会うのは初めてかも知れない。
何度も逢瀬を重ねてきたはずなのに、何処か新鮮な感覚。
「…よく出てきたな。今日はこのままか?」
「…ゼロが…」
「ん?」
「ゼロが…そう、望むのなら」
「我が?」
ナハトはこくり、と頷き。己が衣装の端を掴んで此方を見上げる。
真摯に必死な――前にも何処かで見た様な――感情を込めた、静かな暗赤色の瞳。
蒼き夜の子は墨色をした守人に、告げた。
「…ゼロは…本当は……俺じゃなくて…アルトがいいのか……?」
「―――!」
言葉を裏返す。求めと、拒絶。明暗分かたれた世界の中にいる、混沌の双子。
否、迷わせたのは―――己だ。
その瞬間、守人は言葉を失い、二人の間に沈黙が降りた。
干渉してくるのはいつも世界の方からで、自分は好きでこんな風に生まれついた訳じゃなかった。そう思う事で、存在を許されようと思っていた。機体に侵入してきたアインストの因子は、人の身体を得た今も、神経を騒がせる―――やかましくて、昼はとてもじゃないが外に、アルトの身体を借りる気にはならない。
深層意識を共有し、二つの心で一つの身体を使う、奇妙な関係。
『ゼロは?』
何故、とかどうして、とは考え無い。ただ其れが至極当然の事だと最終的には判断する。考え無い様にする、事が自我を保つ手段。気がつけば眠っていて、また気がつけば朝になって居て、結局忘れてしまうのだから此処――この不思議な空間――については考え無くていい、と少年は思い、ごろごろと身を横たえながら瞼を下ろす。
―――とりとめの無い事だけを考えていればいいのだ、朝は直ぐにでもやって来るから。
「………寝てる…」
ナハトが沈むとアルトが浮く、アルトが目覚めればナハトは眠る。
会話は殆ど変わらず、アルトはこの空間について知らない―――忘れている。
其れが、アルトの役目。
其れが、ナハトの役目。
世界を引き受け、関係を繋ぎ、ゼロの傍に居る事、身体を保つ事。
誰にも傷を見せず、誰にも其の関係を知らせず、ただひっそりと隠れ続ける為の殻。
此処は檻では無い、大丈夫。
『そう』
ひらひらと泳がせる手のひらを眺めて。泡沫に溜まっている水面を眺めて。
新緑色の瞳は、唯一ゼロが誉めてくれたものだから失いたく無い、大好きなもの。もっとも他の誰にでもそんな事を言ってるのかもしれないよな外面は良いもんなーと呟き。てかゼロの髪も綺麗じゃんあんなに艶があってストレートなのに何で謙遜するのか俺分かんない、とか。大きな体格してるから破壊力かなりあるって自覚してるのかな愛溢れるあの高速突っ込みマヂで結構痛い時あるんだけど分かってないよな多分、とか。
何もする事が無いし、考えられる範囲も制限されているから必然、飽きが来ると眠たくなってくる。
「……ゼロ…」
好きだと何度言っても届かない。愛してると刻みつけても覚えてすら貰えない。自分がそう望んだにも拘わらず、矢張り恋い焦がれて止まぬ存在に心が千切れる。ずっとこの時を待ち焦がれていたのに、傍に居たいときちんと言える様になったのに。一緒に、居られるのに。
忘れて、いや、覚えていて。
―――ゼロの心は未だにただ一人の為に、初めての主の為に。どんなに押し隠して居ても、ナハトの神経はその心を見破ってしまう。望んでいない力が、見たくなかった想い人の心を映し出す―――恋情と呼ぶには儚くて、思慕というには強すぎる、そんな零式の心を。
『……ゼロ?』
寝ても覚めても静寂に充ちた水面の中で、漂う意識が何かに反応した。深緑色の瞳に宿る影が、くっきりとした像を結ぶと其れは墨色の髪をした巨躯の守人になる。
大好きだって言ってんのにどうして伝わら無いのかなー俺さーゼロ、本当に大好きなんだって!
頬を膨らませて拗ねているけれど、近寄らないのは、距離感を保ちたがるのは、此処が水面の世界だから。ある程度しか過去について思い出せないのは、片翼が過去の担い手でだからで、かと言って少年――アルト――に其れは知覚されない。仮に意識出来る事があるとするならば其れは。
「…っ…もう、…少し……」
分かっている―――理解している。
どんな機体でも、人間の為に生まれてくる事は機械としての必定。其れが専用機であり、この世でただ一人の為に生まれてきたのなら、尚更その人に尽くしたいと思うは当然で。その人を、特別大切に思うのは自然な事。自分とて、兄のように慕い、家族の様に思うものが居る、現主の青年、孤狼と呼ばれる日本人。―――彼に喜んで貰えると、嬉しい。一緒に戦えるのが、楽しい。
だが其れでもこの心は、我が儘な感情は、主に抱くのとは違う感情を彼に抱いたのだから―――ナハトは蹲り、胸を押さえた。夕闇に紛れてアルトの身体を借りたはいいものの、なるべく遮断している神経にはまだまだ負荷がかかって居る。無理をしたと思う、でも。
―――三人を繋ぐ世界が開くまでは、気を失いたくない。
小さな意地は、初めての挑戦に近く―――欠ける事無き半身と、譲れない願いがあるから酷い頭痛や煩う神経をぐっと堪えて歩き出す。伸ばした手が、何かを掴んだ。
『…な…ッ!?』
波紋すら生まなかった意識がざわめき、皮膚感覚が総毛立つとはこの事かと身構えた。視覚では捉えることの出来ない何か。はっきりと気配では感じるのに、分からない何か。―――瞬間。空間が不意に捻れる感覚、何かが侵入してくると思う間もなく、誰かに腕を掴まれて。
アルトは姿を消した。
応えてやれぬ罪。
答えを知らぬ罪。
ゼロには時間が酷く緩慢だと感じられる。
故に隠居同然の此の身には相応しいとも思う。
―――それでも時は選択を迫る、いつでも唐突に。
「狡い…ゼロ……は、いつも…」
「………すまぬ」
結局は選ぶことが出来ない為に、この幼子達を傷付けることが分かっていても、どちらかだけを選ぶことは、出来ない。罪が罪を呼び、罪に罪を重ねて生きていくのだ。血も流れず、傷ばかりを増やし、泣くことも許されず、歩き続けなければならない。どんな結末になろうとも、全てを受け止めなければならない―――。
懐に飛び込んできた夜の子の肩を抱きながら、ゼロは静かに瞳を伏せる。答など聞く気はないとばかりに、ナハトはゼロの大きな胸板に顔を埋め、呟く。小さな拳が、何度も胸を叩く。
「…狡い…最低だ……!」
「……分かっておる」
「…アルトだって……いつも、…いつも……ッ」
「…ナハト……」
夜の子が発したある言葉を聞き、墨色の守人は僅かに動揺する―――アルトという、半身の名を口にしたのは初めてかも知れない。今までは意識的に避けてきたのであろう其の名は、彼にとってどのような意味を持つのだろう。考えたこともなかったが、彼らはお互いを意識しているのだろうか。明るく、楽観的な様で居て、何処か二人を繋げる―――灼熱の恋心。
「―――…知らない」
「…?」
「ゼロの馬鹿…!!」
「…く…!?」
新しい罵りを受けると同時に、ゼロは己が巨躯が宙に浮く、と言うよりも無重力に近い感覚を得た。
見れば足下に広がるのは暗闇で、夜よりも深き虚無が己を引きずり込もうとしている。まさかと思うよりも先に、間近に迫る暗赤色の瞳。弧を描く唇が、音もなく行こうとだけ囁いて。
ゼロも、ナハトも、姿を消した。
「なー本当に大丈夫なんだろうなー? ゼロ、きちんと目が覚めるんだろうなー?」
「……。……煩い…」
「って勝手に連れてきたクセに何なんだよー!」
「……う…」
「「!」」
―――二種類の声がする。
静寂の闇を好む声と、喧噪の直中にあって明るい声。
前者がナハトで、後者がアルトだと、ゼロは朧気ながら思った。
眼帯布に覆われていない瞳がゆっくりと視界を開けていくと、其処には見知った顔が―――奇妙なことに、同時に存在していた。本来一つであるはずのものが二つ存在しているという、兎に角、奇妙な事態が起きていた。瞬きを数回してみたり、もう一度瞼を下ろして開けてみるが、世界は変化しない。
覗き込んでくる二つの顔。金髪の茶のメッシュが入った少年が二人。
一人は暗赤色の瞳をした、大人しい少年。
もう一人は深緑色の瞳をした、元気溢れる少年。
―――どちらもよく知っている、人物。
けれど、彼らは一つの身体を共有する二つの存在だ。
既に非常識な事態は多々起きているし、機械から人の身体を得ている己が言うことではないが、こんな風になるとは一体どういう事なのか。
「……忘れるよ、直ぐに」
「ナハト…?」
「……想いの強さが、比例する場所…此処は…扉の中だから」
「……?」
首を傾げるゼロ。あまりにも抽象的すぎる言葉のせいで、思考がますます混乱する。
丁度良いタイミングで、アルトが溜息をつく。
「分かりにくっ! お前もうちょっと器用な説明は無いのかよ〜」
「……アインスト」
「!!」
わざわざ夜の子に言い直させたと言うことは、昼の子は何となく分かっているのか。だが、己は置いてけぼりだ。
夜の子が呟いた一言で、どうやら其のまさかが可能になる空間へ引きずり込まれたのは確かだが―――兎に角喧しいことこの上なかった。右にアルトが、左にナハトが腕にぶら下がる様な形で口論をしている。己の両脇で喧嘩をされてはかなわないと、ゼロは二人から逃げようとしたのだが。
「「逃亡禁止」」
「こういう時だけ結託しおって…!」
計った様なタイミングで二人は両腕に体重をかけ、ゼロを逃げられない様にする。
開きかけた口は怒りの言葉を其処に待機させていたのだが、二人の何処か嬉しそうな顔を見るとそう言う気も失せてしまう。―――夜の子が浮かべた小さな微笑と、昼の子が浮かべた無邪気な笑みは、なかなか見られぬ稀少価値ある光景故に。
―――すさかずハロウィンの衣装を、アルトがアピールしてきた。
墨色の瞳と、赤暗色の瞳が、その格好を暫し見つめて。
「ゼロ〜なぁなぁこの格好似合うっ!?」
「……」
「……ぷ…」
「だーっナハト何笑って…て、ゼロもー!!」
「おかしいのだから仕方なかろう」
「…うん」
「ナハトだって似た様なもんだろっ」
黄昏迫る時刻には、あの世と此の世の境目が開くという。
黄泉路でもなく、現世でもない、恐らく此の世界がそう言う空間であるならば―――此処で過ごした記憶も、全て忘れてしまうのだろうか。
夜の子が告げた様に?
其れは其れで寂しいと感じつつ、ゼロは周りで騒ぎ立てる双子に重いと笑いながら言った。
<了>
writing by みみみ
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