【 花の床 】

 舞い散る花びら、平穏な昼下がり。
 半日だけ取れた休暇に、二人は揃って近くの山へ降り立った。
 聞くところによると其処は今、山桜が丁度見頃になっており、
 訪れてみれば確かに新緑の木々に淡い色の花々がよく映えている。
 祖国にはあまり無く、師によって知ることとなった其の花の名は。
 春の象徴、日本という島国で良く愛でられる、何処か悲しい花。
 美しく儚く見る者の心を何処か惹き付けてやまない何か。
 彼の亡き妻もまた愛した花だろうかと、男はふと思う。
 柔らかな日差しに透ける髪の色と同じ瞳は、くすんだ灰ではなく東洋の刃そのもの。
時に鋭く、時に美しく、けれど今は心安らかなる光の青。
 公の身分ではなくなったとは言うものの、己が戦場に生きる人間であることを自覚している男は
矢張り軍人と呼ぶに相応しい人種で、如何に休暇を楽しむ時間であろうとも、凛とした姿勢は崩れることはなかった。
 その隣。
 同じ軍人とは思えない秀麗な相貌と背に流れる金糸の髪。
整った目鼻立ちもさることながら、生まれ育った環境がそうさせたのか、
振る舞いすら優美な人間が其処に居る。
 人知れぬ山間に簡素なランチシートを敷いて、軍服ではない私服を纏っているにもかかわらず、
彼が醸し出す雰囲気は何ら出会った頃と変わっていない。
一言何かを言えば空気が一変するだろう、少しの仕草で何かしらの注目を集めるだろう。そんな、人物。
 機嫌が良いのか鼻歌交じりで手を動かしてはいるものの、ひとたび戦場に立てば己よりも
大局で物事を見据え、数多くの部隊を指揮することの出来る人間である。
 彼自身の技量もまた破格のものでありながら、冷酷なる軍配を振るうことの出来る―――
そんな人間が持つ趣味の一つが料理で、人間一つの道を究めるともなれば全てにおいて応用されるのか、
達人は獲物を選ばない、とは良く聞く話で、然し場所をも選ばないとは思ってもみなかった。
 己が手に持つパンの、最後のひとかけらを味わいながらしみじみと思う。
 確かにパン生地自体は彼がこの日のためにと作り置いたものらしいのだが、
それにしても普段食べているものより舌が満たされているのを感じる。
 何が、と言う説明は出来ないが、美味い。
 不思議と一口一口が、ゆっくりになる。
 調理器具は必要最低限しか無く、煮る・焼くは原始的な火に頼るしか無いものを、
どうやったら此だけふっくらとした――寧ろ普段よりも美味しく感じる――パンを焼けるのかと、
いつになく真面目に調理を眺めていたら小さな笑みを浮かべておかわりならもう数分後だと言われた。
 ―――そんなにひもじい顔だったか?
「…違うのだが」
「? そうか、其れはすまない」
 正しく非を認めて謝ってくれたものの、確かにその言葉は的確で、
酒の飲めない身にとっては花見だけでは腹が膨れる訳も無く。
流れる様な手さばきで進められる調理を見ていても、せいぜい工程が分かるだけ。
 酒による胃袋の膨張が起きぬとあれば自然と食欲が優先されて、芳ばしい匂いには勝てず、
ついつい出来たものから手を伸ばして口に入れてみる。
 普段の厨房ならば怒られて叱るべき其れも、今は子どもの様だと笑われるだけ。
 当然、どれも旨い。
 簡単な様に見えて、とても美味しい。
 地球連邦軍北米基地に所属していた頃は専ら基地内の食堂か、
其れを逃してしまった場合は簡素な携帯食になりがちだった。
軍人用の食事と言えば行軍中の糧食が想像されることも多いが、
実際基地内で勤めている者に限らず食事は数少ない軍人生活における楽しみの一つなので
――基地によりけりだが――種類が豊富で栄養バランスもきちんと考えられたものなのである。
 但し、味付けには少々濃い薄いがある。
 元より其の味付けに文句など在るはずが無く、日々の訓練に耐えられるよう、
標準的な食堂メニューばかりを食べていた頃をふと思い出し。
 ―――毎日この味を食べているから、贅沢になっているかもしれない。
 昔に比べると。
 遙かに。
 美味しいものを知ってしまった。
「………」
「…あと、は……」
 ふうと小さく息を吐いて作業を一段落させた青年が視線を別の場所へ移す。
 携帯用のプラスチックの平皿を取り出し、其処へ作り終わったものを並べると、
今度は持ってきたバスケットの中を何やら探し始めた。
 そうして出来上がったものを半分ずつに皿に分けてはいるのだが、
料理人の皿が減る早さと試食人の皿の減りは異なるのは当たり前の話。
 ―――成る程、飢えている様に見えるか。
 ならば親友の言葉ももっともな話だと一人納得し。
 両手が塞がっている相手に向け、己ばかりが食べている気まずさ混じりに、
お前も少しは食えと皿を差し出すと、丸い口が開かれる―――
まるで餌を待つ雛の様だと思ったのは内緒の話。
 何となく幼い仕草におかしさをこらえつつ。
 無防備な其の姿にふと胸を躍らせて。
 ぽいと口に放り込んだ其れを作った本人も嬉しそうに食べ。
 一つだけでは足りないだろうからもう一つを持ち上げると同じように口を開く。
 微笑みながら有り難うの礼が返ってくる。
 ―――こんなささやかなことで、そんな楽しそうに嬉しそうに笑われると。
 思わず頬が熱くなるのを感じ、慌てて視線を上げた。
頬を撫でるが如くゆるゆると吹く風に合わせ、頭上で揺れる淡桃色の花びら。
 全てが満開というわけではないが、蕾も見える梢には厳寒の季節が過ぎ去ったのだという知らせが見える。
 そうした花々よりも目の前の調理結果をとも言わず、
花も団子も大事だと思うだけだとは食い意地のはった言い訳だろうか。
 何故って其れは隣に居るのが超一流のシェフなのだから―――
それこそ、星が5つでも足りない様な、それくらいの腕前を持った。
少なくとも、己には何がどうなっているのか時々分からないものさえあるのだ。
 国籍も食材も問わずに日々その腕を磨き続ける孤高の料理人。
 一体何が彼を其処まで駆り立てるのか分からないほどに、静かにけれど妥協の無い、
飽くことの無き向上心を持って彼は調理の道を邁進し続けている。
思えば其れは、己が剣の道を歩み続けるのと同じ傾き加減かもしれない。
 パスタを何種類かとり出すと湯通しのみのもの、完全に茹でるもの、
柔らかくなった頃合いで引き上げるものをサラダボウルに盛り付ける。
因みに己は少し芯が残っている方が好みだったりする。
 数回手首を翻してからかけるドレッシングは自家製で、胡麻と醤油をベースに―――
玉ねぎと、後は忘れてしまったが何かしらの香辛料を加えたものだという。
 サラダの内容や栄養バランスも考えてドレッシングさえ様々な味に変わる。
 少なくとも、己には分からないこだわりだ。
 出来ない、と言い換えた方がよいかもしれない。
 鮮やかな手つき。
 一連の動作は、きちんと見れば決まった手順。
 料理をしていれば当たり前の様に見える其れも、己には未だ分からない。
 いつか分かる日が来るのかと言われれば沈黙するしかないのだが。
「…見事だな」
「慣れだよ。君も出来るさ」
「いや、俺は」
 ほら、と差し出された菜箸を押し戻す。
 朗らかな青年の笑顔の下に、隠れているのは悪戯好きな子どもの顔。
 思わず見とれていた手捌きを誉めたらうっかり墓穴を掘るなどと。
 ―――此処が桜の下であるだけに、洒落にもならない。

 ひら、ひら、ふわり。
 地球に浮かぶ島国の一つ。
 季節を愛し、花を愛し、特にこの春と桜を愛する国。
 彼の亡き妻はこの国の人間だった。
 故に彼もまた、この国についてよく知っていた。
 桜の木の下、死体が眠る―――其れは旧西暦の作家の言葉。
 揚々と咲き誇りながらも散り際という最後に美しさを感じる其の趣こそが。
 恐らく彼の愛したところ。

 料理の基本は化学反応、と言うと味気なく聞こえるかもしれないが、
味は単品よりも複数ある事で旨味を増すことになるという説明をすると、
化学反応と表現する意味も分かってくれるだろうか。
 材料それぞれが持っている旨味をかけ合わせて『美味しい』という答えに至るまでの道のりは非常に険しく、
試行錯誤の繰り返しと其処から得た経験で、何となく合わせるべき食材と目指すべき味が見えてくる。
 数ある科学的手法も調理に於いては役に立たず、兎に角試してみるしかないのが料理の妙というか、
難しくも楽しいところかもしれない。
 やがて慣れてくれば食材と味に系統立てが出来る様になり、
蓄積された知識や経験からある程度の予想でもって完成品が分かる様になるのだ―――
とか何とか饒舌に語る親友はさておき、男は頷きつつもその手に触れる。
 青年の料理談義が切れた合間を狙い、すっと。
 触れるというか、おもむろに手首を掴んだのだから親友が驚くのも無理からぬ話。
 語る言葉を無くしたまま、まじまじと自らの掴まれた手を凝視して、
何かを言おうと口を開きかけ―――何も言うことなく閉じた。
 その代わりに唇を曲げて微笑を返す。
 男は小さく苦笑した。
「…特に、意味を持たないのだが…何となく、な」
「……。そうなのか?」
「ああ」
 思わぬ親友の一面に目を丸くして、今度は音をたてて笑い出す。
 何もそんなに笑わなくともと言われるかもしれないが、駄目だ、どうにもおかしい。
 動物的と言えば君は怒るかもしれないが、私はそれ以上に良い表現を見つけられないのだ、
許してくれいや別に突然で痛かったなどとは―――だから謝らなくても良い、
私は面白かった其れで十分ではないか?
 男の大きな手の平で掴まれた手首がほのかに熱い。
 ベッドで共に居る時もそうだが、自分の体温が低いのか、親友の体温が高いのか、よく分からなくなる。
夏は私の体温の低さが、冬は彼の温もりが、無意識に互いを近づけさせている要因だと、
果たして彼は気付いているかどうか。
 そうやって一頻り笑った後で、目端に浮かぶ涙を指ですくわれた。
 優しい瞳と不意に目が合う。
 初めて見た人間には、きっと冷たい凍える冬の瞳だと思われるのだろう其れが、
本当は強くてしなやかな慈悲の裏返しだと自分はもう知っている。
 悲しく無くても、楽しくても泣いてしまうのだと分かっていても、
涙にはあまり良い思い出が無いから、彼は静かに其の雫を拭う。
 愛しいひと。
 哀れみでも妬みでも構わない、君からもらえるものならば。
「ゼンガー、君の手は温かいな」
「眠いからかもしれん」
「…私の目の前で眠ると、悪戯をしてしまうが?」
 ―――俺の眠りを妨げるつもりかと、男は笑った。
 青年の悪戯好きは今に始まったことではないし、
本当に其れをするかどうかは大体の雰囲気で見抜くことが出来る。
 知り合った期間は短いとは言え、共に居る時間は多い。
 お互いに成人の年齢は疾うに過ぎた、立派な成人男性だ。人前で泣いた事は無く、
あったとしても其れはお互いに――気の置けない親友同士の間柄だからこそ――見ない振りをした。
曰く、『少し背中を貸してくれ』であるとか、『肩を借りるぞ』と言った様に。
 別段其れは泣くこと自体を恥じているのではない。
 何のために泣くのかを、固く禁じている。
 決して徴兵制度と言った強制的な選択肢の中で軍人をしているのではなく、
自ら志願した職業軍人である以上、悲しい、寂しいからと言ってそう簡単には泣け無いだろう。
 そもそも自分自身が泣く事を許さないのだ、鍛えられた剣の意思と、澄んだ輝きを翠玉に宿す王は。
 大体能動的に人殺しの道を選び、其れを実行した人間が何を言うのか。
悲哀や寂寞など、戦場に持ち込むべきではないだろう。
また、安易なヒロイズムに酔いたいからこの仕事をしている訳で無く、
誰かを守る為に誰かを殺さなければならない覚悟を負った上で選んだ道であると自覚しているし、
割と向いていたのか吸収は早いと誉められた。
 大義の為に、と彼は口にする。
 悪を断つ剣、と己は口にする。
 血で血を洗う道をただ進み続けるだけ。
 そうして誰かを殺す事でしか自分の仕事を成立させられない人間になってしまった。
どれだけ大切なものを守りたいと綺麗な言葉を口にしても、
剣を持った手は赤々とした生温さに覆われている。其れは、他人の命だ。
どのような理由が在れども、自分が終わらせた幾つもの時間だ。
 己が手にかけた敵の怨嗟も。
 助けられなかった人々の呪詛も。
 覚えている。忘れずに、忘れられずに。
『…死ねないというよりもきっと死なない』
 ―――昔、同じ部隊に居た頃。
 隊長の死をきっかけにプロジェクトは解散を迫られて、皆がバラバラになる前。
 基地の裏手にある山の中には、今の状況と同じように幾つか早咲きの桜が綻んでいて、
どちらが誘うでもなく非番を利用してふらりと向かったのだ。
 実際の花見には未だ肌寒い風が吹く中、ふと青年の呟きが聞こえた。
 風に攫われてしまいそうなほど、小さく。
 けれど硬質な響き。
 何よりも青年の言葉には負の質量を持つ単語が含まれている。
 受動的な死を否定した、能動的な死の否定。
『戦場に於いて…強さは生を掴む為のものだ。
…ならば私はなかなか死なないだろう、そう、強く在るが為に』
 強く、もっと強く、更に…皆を守れる強さが欲しい―――
そう在りたいと願ったのはきっと幼い時だけで、
今となっては自分を殺さない為に強くなろうとしているのでは無いか、と。
 妻を殺した男の瞳は酷く乾いていた。
 涙を忘れてしまったから?
 英雄と祭り上げられ、だが然し弟からは詰られたと聞く。
 仲の良い兄弟としか見えなかった己には、其の弟からの言葉を、
青年が一体どんな風に受け止めたのか想像でしか分からない。
 彼は一言、弟には酷く怒られたと言っただけだ。
 それ以上を、己は問おうともしなかった、問いたいとも思わなかった。
 強く在りたいと純粋に信じられる、其れは昔の強さ。
 若しくは盲目。
 開ききっていなかった、澄んだ眼。
 笑いもせずに淡々と喋る親友の姿を思い浮かべ、
生も死も押し退けて在り続けなければならない贖罪者を想う。
 償うために生きる。
 罪を抱えて生きなければならない。
 苦しみながら、其れでも死ぬことは許されない。
 この世で最も大切な人間を自らの手で撃ち殺さなければならなかった者の末路。
 ―――だから、本当は死んだのだろう。
 あの時に、彼女だけでなく、彼も。

*****

 しゃくり、と音をたてて林檎をかじる。
 未だ青さの残る甘酸っぱい赤の果実は、身近だったからという理由で
禁断の実のモチーフとして扱われることが多い。
其れを今、自分たちが食べているのだから、ある意味よく出来た光景かもしれない。
 もっとも良くある実と言うことはつまり誰でも口にする機会があると言うことで。
 其れでも赤く熟れた此の実に、何処か禁忌じみたものを感じるのは、根強い宗教観からだろうか。
自分も親友も、世界や自分の内にも外にも神は居ないと思っているけれど。
 殺人は禁忌―――相手だけでなく、自分をも殺してしまうから。
 姦淫は禁忌―――何故。
 青年は一言二言ずつの会話を交わしながらぼんやりと脳裏にそんな事を思い浮かべては消していく。
 神と交わした十の約束。
 いずれ導かれる理想郷。
 それだけを思い、生きる人に、世界は一体どんな風に見えているのだろう。
 そして、自分たちはどう思われているのだろう。
 次々に罪を重ねてゆく、業深き者?
 つらつらと流れる思考にあまり深い意味は無い。
 ただ今在るこの時だけに、価値がある。
 愛しい恋人と時間を共にしながらも別の事を考える等、酷い話だとふと笑みを浮かべ。
 其れをめざとく見つけた恋人に袖を引かれ、じろりと睨まれた―――少しも恨みがましく無いのが不思議だ。
 冬の空に似た青鈍色の瞳は、昔と変わらずに尋ねてくる。
 ―――どうしたのだ?
 自分が団子も花も愛でる性格だと分かっているからこそ、満開の花の下で、
花では無い別の何かに心寄せる自分が気になるのだろう。
何故其れが親友に伝わってしまったのか、自分の未熟さを恥じつつも、
それだけの付き合いになるのかとある意味納得は出来る。
 言葉になっていない問いかけを、読み取る自分もまた。
 通じ合う仲か。
 もしかすると険しい顔を隠しきれていなかったのかもしれないし。
 普段ならば取り繕える顔面神経も、二人きりの時ばかりは緩くなる。
 甘えているのか、甘えて良いのか。
「来年も…さ来年も、これからもずっと…この花は咲き続けるだろうか?」
「多分、な」
 男の瞳がほんの少しだけ細くなる―――唐突に話題を変えてぽつりと呟く自分に問いを重ねる事はせず、
肯定の言葉を口にした。
 親友であり、恋人であり。
 戦友であり、敵であり味方であり。
 互いの罪と罰を知る仲である。
 嗚呼今更何を言わん哉、戯れにしても潜む刃は鋭すぎて毒しか残らない。
 時折視界を横切り、降り始めの雨粒の様に舞い落ちる花びらを掴もうとして手を伸ばしてみるが、
こういう時程上手く花びらは掌には落ちてこない。
 自分の頭や肩には――勿論我が友の髪や腕にも――幾つかこぼれているというのに。
 既に在るものには落ちてこないのか、それともこの手には何も掴め無いという表れなのか。
 ―――この手は。
「手折るには惜しい花だが、散っても尚、手に落ちたく無いと見える」
「…!」
 思わず言葉を無くしてしまった。
 伸ばした手を引っ込めることも忘れ、呆然とした心地で親友の顔を見る。
 戦場で見るのと酷似しているけれども、何処か穏やかで、だが荒々しく、魅惑的な笑み。
 相反する雰囲気を醸しながらも桜舞う景色の中でそんな台詞が親友の口から出てくるとは―――
失礼なことかもしれないが、まさかと驚いてしまう。
 そんな台詞が言える様な男だったのか、君は。
 知らない。初めてかもしれない。
 急に心臓の鼓動を意識し始める。
 常であればそういう冗談や洒落は此方の領分だ。
 だからこそ驚きは大きく。
 続く言葉にますます我が耳を疑う。
「若しくは…花がお前に嫉妬したか?」
 まさか、と声にはしないままで唇だけを動かす。
 付き合いに自惚れる気は無いが、流石にこの物言いは、その眼差しは、
あの笑い方には―――時が止まるかと思った。
 否、きっと止まった筈だ。
 降り止まぬ花びらは地へ落ちずに空で停止する。
 梢を鳴らす風は枝の端に引っかかり、鳥すら例えばさえずりを忘れ。
 そして自分はというと。
「…て、良いだろうか」
「む?」
 頬が緩むのが抑え切れない。
 すっかり満たされた胸に軽く触れ、春の陽光に負けない気持ちで笑い返す。
 不敵な笑み。
 自分が、恋をしていると自覚させられる、其の笑顔。
 ―――どうか。
 どうか許して欲しい。
 どうか許さないで欲しい。
 不実な夫の、秘められぬ程に不甲斐ない恋心を。
「今一度、君に惚れ直して―――君を、もっと好きになっても良いだろうか」
「………」
「いや其処は黙ってもらっては困るのだが」
 普通こんな場合こそ勿論と答えてくれるべきだろうと主張していたら、
みるみる内に首から耳まで赤くなっていく親友の姿。
 もしかすると、あの言葉や仕草は彼特有の天然成分から来るものだったのだろうか―――
そう、つまりは意識して言葉を選んだ訳では無くて、無意識に浮かび上がるそのままを口にしただけ、という。
 自覚のない、凶器。
 無意識の、鈍痛。
 何という刹那的な暴力構造だろう。
「……」
 青年は少し考えて顎に手を当てた。
 其れは困る。
 正直に言ってはっきり言って、其れは問題だ。
 もしこうした台詞が自分だけに向けられるのならば構わないのに、
周りにも同じ事を言われたのでは恋人もへったくれも無くなってしまうではないか。
 下手をすると、いつの間にやらライバル出現という事にもなりかねない。
 ―――困る、困るぞ我が愛しの友よ。
 額に指を当て大仰にため息をつく。
「…無自覚、というのは一種の心労だな…」
「す、すまぬ」
「……。まぁ今回は私だけだから、良しとしようか」
「………」
 だからそんな分かりやすく落ち込むと、愛しさがあふれ出してきて余計に困る―――とは言えないまま。
 青年は男の肩に落ちた花びらを指で一つ摘んだ。

 何はともあれ、己の言葉を振り返ろうにも、此処には録音機など無いから分かるはずもなく、
人間の記憶ほどあやふやなものはないため、自然と相手の主張を受け入れることしか出来なくなる。
 しかもわざとらしいため息などつかれた日には苦笑するしかない。
 とりあえず此方としてはすまんと謝ることしか。
 意識することで止められるのであればそうするのだが、
如何せん無意識となると精神修行を積んでも上手く制御出来るのかどうか―――
今度研究所に寄ったら師に聞いてみようと考えたのも束の間。
 難しいと思うのは其れまでが容易い位置関係にあったからで。
 意識し始めたが最後、どうして良いのか、微かな身じろぎすら出来なくなるからだ。
 こうなった原因は己の発言である事に間違いはなく、過去は変えられないし、
一度口から飛び出した言葉はどうやっても戻らない。
 ―――寧ろ戻ったらびっくりだ。
 と、困り果てた思考がうっかりと明後日の方向へ向かっているとは気付かず、男は我が身の無意識に恥じ入った。
 此もまた無意識の動作なのだが、腕を組んでしかめっ面をしながら、考え込む。
「その口…甘いものが苦手でも」
「…?」
 ふと沈黙を破り、笑顔を絶やさぬまま喋りかけてきた青年の顔を―――
思いっきり真正面から見てしまったのが運の尽き。
 顔を上げた先には新緑色の瞳。
 両手で挟まれた頬。
 逃げられない、距離。
 近づいてくる顔は悪戯好きな下心など隠す気皆無で。
 ―――嗚呼、それにしてもやっぱり。
 弧を描く唇も、そよぐ風に揺れる髪も、凛とした声も、優しくて意地悪で強くて悲しい手も瞳も。
「甘い言葉なら得意らしいな」
「…知らん」
 好きだな、と―――小さなため息は降参の白旗。
 と言っても、疾うの昔に此方は白旗を掲げたつもりなのだが。
 くすくすと鈴が転がる様な微笑みの音。
 耳に心地よい其れが、重ねて睦言を囁く。
 好んだものに好意を寄せられる快感は、己一人では言語化出来ない。
 歯がゆい感覚は、何処か快い。
 どうしてだろうと訊くのは野暮なのだろうか、目の前の、恋しい人に。
「口の中に既に甘味が在るから甘味が苦手なのか―――それとも別の理由なのか…確かめてみても?」
 構わないだろうかと許可を求める一方で、肯定以外の言葉を許さない迫力がある。
 許可というよりも確認に近いなと男は笑う。
 ―――たかだかキス一つに一体幾つの手続きが必要なのだ、普段ならば有無を言わさぬ略奪さえ発生するのに。
 二人の関係に、何を今更。
「…しい、と」
「?」
「お前が欲しい、と…この状況で俺に言わせる程…野暮では無いだろう、エルザム?」
 問いに対して答えは一つ。
 頷きを口付けの許可にして、花降る中、言葉無く二つの唇は重なった。


 花よりも、団子よりも、英雄は色を好む。
 即ち、ささやかな愛の交し合い。

<了>

   writing by みみみ

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