【 分からない答え 】

 無音で無味無臭で無色の空間。
 時折見る夢はいつもそんな場所から始まる。
 過去の血と煙にまみれた記憶ではなく、オリジナルのものと思われる向こう側の記憶でもなく。
 其処にいると時間も空間も、己と周囲との境目すら曖昧になる様で、だから必死に思考を働かせて、自我を保とうとする。
 手を伸ばせども其処には何もない。
 どれほど叫んでも誰も何も答えない。
 ただ、己が存在しているだけの、透明で暗黒の空間。
 故に問う。
 己という存在を自覚している男が問う。
 左目には大きく引き攣れた傷跡、其れを隠すかの様に伸びた前髪。
光があれば風に透ける薄紫を溶かした銀の髪が見えるはずで、瞳はそれと同じ色。
厳めしい顔立ちと、皺が寄ることの多い眉間。
固く引き結ばれた口元から問いを発するのではなく、自我たる、己たる胸の内からその問いは生まれ出る。
 我々は人では無い。
 ―――人とは、なんだ?
 身体は肉でなく、血は正真の赤で無く。
 ―――心とは、なんだ?
 己が己であると自覚してそうであることを認めて以来、その問いはずっとついて回った。
 温もりが通っている様に見える手も。
 涙の出ない瞳も。
 人ではない人の形をした存在には不要ではないか、
何故我らは、俺は、人型として生を受けたのだ、しかもオリジナルの居る存在として。
 本当に本物の人間というのは、どうやら錆びた螺子で廻る心臓を持つ存在の事では無いと気付いた途端、
世界は一気に天地を逆さまにした―――当然、其処に立っていた己は勢いよく落ちていく、
落ちていくという感覚も分からないが、少なくとも確固たる足下は全て無くなり、宙に浮いた様な感覚。
 糸の切れた人形だと、言われたが成る程そうか、そんな表現もあるか。
 もっともだなと独り納得する。
 周りには何も無い。
 何も、見えていない。
 此処に光はなく、故に色も無い。
 何にも触れられず己のみが在る、それだけの世界。
 俺は人ではないのだ。
 だから人の心を持っていないのだ、きっと。
『違う…! お前は』
 不意に。
 放り出された己を、引き上げる手。
 誰も居なかった筈の空間に現れた一条の光。
 否、濃厚な闇を斬り払う、眩い刀身。
 即ちその化身たる存在が目の前にいた。
『お前の名は―――』
 先程まではあっさりと否定しておきながら、続く言葉は躊躇いがちに伏せられ、中に輝く瞳は青鈍色。
 東洋の刃に似て、常は鋭く輝くその瞳が思ったよりも惑い易いのだと知ったのはいつだったか。
 守る為ならば容赦の無い意思を構えた男の、迷いが己に響く。
 悪を断ち、闇を斬り、未来への道を開く男が、己の小さな一言で躊躇い、戸惑っている奇妙さは、
其の性格がアンバランスな上に何処か危ういものであるという確信を生む。
『…ゼンガー…』
 其の男の名を、小さく己は呟いた。
 夢であろうとも現実であろうとも、こうして思い浮かべるのはただ一人。
 己をこの世界に繋ぎ止め、自由という名の枷を与えた張本人。
 似て非なる者。
 嘗ての敵味方、異次元の自分、未来に存在する一つの可能性。
 記憶は容易く痛みを覚えるのに。
 この手は未だ、あの男を求めている、と。


 広がる世界は青く、少しばかりの重みを含んだ風。
 見渡す限りの青は、近く遠く、高く低くで色が異なる。
 其処に飛沫にも似た繰り返しの揺れる海面と、蒼天に漂う白の雲形が浮かんではまた、消えてゆく。
 目を閉じても直ぐに思い描けるこの光景を、一体何時間ほど見つめているだろうか―――
鼻孔を擽り、混じる潮の薫りが此処は海辺だと教えてくれる。
 もっとも、そうであろうがなかろうが目の前に広がる水平線を見る限り、
間違いなく海に居ると分かるので、あまり潮風について感じる所は少ないかもしれない。
 薄い色素の瞳には鮮やかすぎる青と白のコントラスト。
 照り付ける、というよりこのまま焦がされるのでは無いかと思う真白の太陽。
 天から降り注ぐ熱線だけでなく、目の中からも焼かれていきそうな強い其れに、男はふらふらと揺れる頭を指先で押さえた。
 屋敷の留守を任されることは多くとも、決して貧弱体質ではない。
 趣味の家庭菜園で、それなりに体力は付いていて、日差しも苦手なものにはなり得ない。
 だが。
 矢張り此は。
『………暑い…』
『当たり前だ、夏なのだから』
 肌を嬲り、思考を焼き、視界を白く染める外気からの熱に迫られ、
早くも白旗を振りたい己の呟きに返ってきたのは当然と言えば当然の一言で。
 そんな子どもでも分かっている事を、わざわざ口にするその意図を知ってか知らずか―――
つれない半身の横顔を熱気の向こうにじっと眺めてから、小言を食らう前に水平線へと再度視線を移す。
 ゆらゆらと水蒸気が立ち上る海の向こうには、有りもしない何かが浮かんでいる。
 初めて見た時には驚き、感動を覚えたものだが、見慣れてしまえば何も普段と変わりのない、
夏の風景の一つになってしまい、逆に暑さを再認識させる舞台装置として見える様になってくる。
 ―――熱いのは夏だから。夏が寒いとおかしいだろう。
 四季を重んじる国に生まれた人間を師匠に持ったせいか、
外見とは裏腹にこの男もまた、四季を、暑さも寒さも趣として受け入れる性格なのだ。
 此処は南半球ではないのだからと地理的な意見まで持ち出されてはどうしようもない。
 そんなやり取りが一年の間に何度繰り返されたか、その度に此はそういうものだと言われ、また小さな文句を口にする。
 心頭滅却すれば何とやら、とは流石に言わないものの。
 額や首元に浮かび、流れていく汗を見ては矢張り男も暑いのではないかと言いたくなる。
 其れを口にしないだけでも本来は大したものなのだが、自分と同じ感覚を他人に強いるは良くない、と思う。
 暑いものは暑いのだ、仕方のないこと。
 今回の場合はそれでも暑さに構わず触れようとして怒られ、何を近寄るかと邪険に扱われた挙句、手を軽く叩かれた。
 避けられるだけならば未だ良かったかもしれない。
 然し手を叩かれるともなれば話は別だ。
 ただでさえ意固地な負けず嫌いの性格に、大きく炎が燃え上がる。
 相手が更に距離を置こうとして後ろへじわじわと退くのを防ぎ、結局は互いに腕を組んでの取っ組み合い。
 ―――全く色気の無い話だ。
 艶めいた台詞の一つもなく、無言で相手を圧迫するだけ。
 肌を重ね合わせるという色っぽい希望も、雪の如く消えてしまった。
 ああ、確かに今は夏。
 暑さに魘される神経は、どうにも違う方向へ転がりやすい。
『この…っ暑いと言った先から…!』
『其れと此とはまた別の話、と―――』
『誰が聞けるかっそんな』
『―――と、レーツェルが言っていたぞ』
『な…!?』
 必殺技というか奥の手というか、対口喧嘩用有効戦法というか。
 普通に取っ組み合いをするだけであれば腕力はほぼ互角の自分たちである、
無益な戦いにしかならないが、どちらかに勝敗があがるのであればこの勝負にも熱が入るというもの。
 必要なのは一つの名前。
 己にも、対戦相手にも関係する、絶対の名前。
 彼らの母国語では謎という意味を持つ、一人の青年の名。
 其れを言ってみるだけであっという間に隙有り、と形勢は逆転。
 馬乗りに近い姿勢になった己を見上げてくる瞳には苛立ちと悔しさが滲んでいて、勝者の優越感と恍惚を満たしてくれる。
 軍人にしては長い前髪をかき上げて覗き込む先に、心なしか潤んだ瞳。
 ―――熱された空気に火照ったわけではないのだろう、朱が差した頬と合わせて考えれば、理由は明白。
 思わず浮かぶ笑みは悪戯好きの其れ。
 相手の弱点を見つければ其処を攻めるのは戦略・戦術的に間違いでは無く、何よりどんな返答があるかと期待してみれば。
『そうか…夜に言われたのだな?』
『…違う…っ』
『違うのならもっと強く言え。そんな目をして―――何を言われたのやら』
『やかましい…!』
 首を頑なに振り、近づく己を何とか寄せまいとする手を掴んで唸る。
 夜の情事を思い出したか、それとも今のこの状況への悔しさが滲むか、暫くはぐぐぐと腕に力を込めていたのだが、
思ったよりも抵抗をあっさり諦め、片腕で顔を覆い隠すと深いため息をつく。
 瞳は見えない。
 腕によって隠されているからだ。
 口元だけを見せつけるなど、いかがわしいにも程があるといっそ注意してやりたくなった。
 それから何かを呟いてはいるものの、半分は口の中で消えてしまっていたのだが、どうやら聞こえてきたのは惚気に似た罵声。
 想像の相手へ半分と、目の前の己に半分。
 彼奴に似てきて困るだの、彼奴はどうしてそんなに口が緩いんだだの―――後半に関しては全くの濡れ衣であり、
己がたまたま思いついた推理が見事に当たったと言うだけだったのだが、黙っておいた方が面白い。
 其れが世間一般で言うところの惚気だと気付くのはいつになるのか。
 それともそんなことに気付かないからこそ言えるのか。
 やれやれと、ため息をつきたいのは寧ろ此方だというのに。
 ―――一体いつまで好きに言わせておくつもりなのか、早くこの我が侭を戒めてくれなければ耐えられ無いのは此方なのだ。
 こんな風に擦り寄っても其れは恋愛対象ではなく。
 例え唇を奪ったところで冗談だと思われるのがオチか。
 欲望や衝動に任せても、当然心までは手に入らず。
 何度となく挑んだ全てが空しく、寂しく、恋しい結果に終わる。
 いつからか感情は疾うに暴れ出していて、
荒れ狂った風に晒されながらひたすら背中を押される様な形で相手を求める事が多くなった様に思える。
 例えば陳腐な愛の告白よりももっと直接的な想いの伝え方を知っているから、
だから思わず行動に移してしまう―――其れは相手が手の届く場所に、目の前に居るからだと気付いてしまった。
 いつ居なくなるか分から無いから怯えてしまうのだと、理解してしまった。
 躊躇うなどもってのほかだ、と。
 ―――気付きたくもなかった心の奥底に潜む其れは、剰りにも大きく、深い。
 記憶は綯い交ぜになってゆく。
 心は、絡め取られてゆく。
 緩慢な怠惰が情熱を殺してゆく。
 其れは生きるための動力源そのもので、欲望に端を発する、衝動という名の加速力だというのに、
其れが削ぎ取られてしまう、無力感。
『……。? ウォーダン?』
『…黙れ』
『……―――』
 怪訝な眼差しを無視して、そっと左目を――正確には其処の大きな傷を――隠す。
 今更何が痛むというのか、分から無いまま。

 若々しい芽吹きの見える枝が窓の外に揺れている。
その後ろには突き抜けんばかりに澄んだ青空が広がっていて、白い雲とのコントラストが鮮やかだ。
 やがて来る夏とは違う、空の色。
 新緑の瑞々しさも、夏の其れとは少し異なる。
 暗く冷たい無彩色の冬の影が徐々に薄くなり、艶やかに花が咲き誇る季節は間近だと感じる頃。
 そんな風流さは――例え二十分に理解していたとしても――
今の己には関係無い事とばかりに男は窓に背を向け、そして背を丸めて咳き込んだ。
 先日発症してから続く咳の症状はいよいよ酷くなっており、呼吸すら苦しい。
 喉の炎症も手伝っているので、加湿器を付けながら部屋を十分に暖め、
湿気を帯びたマスクをした上で寝るものの、慣れない寝姿に息苦しさは増すばかりで、矢張り上手く寝付けない。
 薬を飲んでいるので眠ることは眠れるのだが、
体と言うよりもそうした不自由さに苛つく精神の所為か、時間は十分でも、心が疲弊していた。
「…っ、…!」
 己の思う様にならぬ身体に嫌気がさしつつ、体内の熱に唇が震える。
 無意識の震えに制御は出来ず、寒くないと思えば熱くなり、熱い気がすれば寒くなる。
 背筋に冷たさを感じる一方で、頬が酷く火照っている様に感じるなどまるで逆転の体感を味わい、
脳内は混乱して言葉もままならない。
 先程まではひんやりとしていたシーツもすっかり温くなってしまったが、握りしめて意識を保つ。
 普段は難なく力を入れる事の出来る拳も、今ばかりは遠い感覚。
 強く掴んでいるつもりでも、本当はどうなっているのか。
 息も荒く、肩で呼吸をしながらも、視界を少し上げてみれば。
 ―――つい、傍にある人影を軽く睨みつけたのは単なる八つ当たりでしか無い。
 無論、その人影も其れを知った上で、熱に浮かされた瞳に苦笑を返した。
 汗で張り付いた前髪をそっと額から払い―――熱を吸収して暖まったタオルを新しいものと交換する。
 心地よい冷たさにふうと一息を付くが、束の間の気休めだ。
 其れでも、額が気持ち良い。
 周りには体温計を始め、飲料水やバスタオル、簡易の流動食などの看病道具一式が備えてあり、
少し離れた場所の洗面器で新しいタオルを絞る事も出来る様に準備してある。
 全て、己の体調不良を知った男が用意したものだ。
 粥は厨房にいる青年が作ったものだが、何度か同じ症状の相手を看病したことがあるらしく、
慣れた手つきで色々なものをそろえ、己を斯うして寝かせている。
 無論、その前に何故もっと早くにおかしいと言わなかったのかと怒られたが。
 ―――初めての感覚に、此が風邪などとどうして分かるのだ。
 半ばやけくそで言った其の台詞に相手はそうだなと静かに同意した。
 答えるまでに一瞬の間があったことは確かで、また何か要らぬことを考え、
其れを自らの鈍感さであるとか、そういった責に置き換えてしまっているのだろう。
 鈍感さについては此方も言いたいことがあるので、改善を要求したいところだが、
だからといってこの病状はお前の所為ではあるまいに。
 どれほど健康に気を配っていても、こんな時はやってくるのだと青年も言っていたではないか。
 何故俺が倒れたからと言って、お前が落ち込むのだ。
 此は俺の病。
 決してお前の病では無い。
 看病の経験があるという言葉通り、随分と慣れた手つきだなと僅かながら悪態を口にすれば、
はいはいとすげなく扱われて頭を撫でられた。
「本当に珍しいな、お前が風邪をひくなど…」
 漸く出てきたいつもの調子。
 ―――嗚呼、その後に続く言葉も容易に想像出来るが、喉が渇れて。
 此処で調子よく何かを言い返してやらねばまたお前は気にするのだろう。
 それ程までに弱っているのかなどと言われたくない。
 重たい瞼を何とか開きたくて、突いて出た言葉は憎まれ口。
「ふ、ん…明日は…雨…ごほッ」
「とりあえず…大人しくする事だな―――今粥を持ってくる」
 其の半分も言うことが出来ず、猛烈な咳と眩暈に襲われながら遠のく気配に体が動いた。
 肩を出せば冷えるとばかりに、布団を持ち上げてくれた優しい手が離れていく。
 思わずぐい、と掴んだ服の裾。
 ―――振り返ったその男に何を言いたかったのか、忘却の海に意識は沈んだ。


 広い道に男は立つ。
 道だと思うのだが、本当はどうか分からない。
何故なら其れは闇夜を真っ直ぐに貫いているだけのものでしか無いからだ。
 ただ、足下に広がる白。
 光の無いはずの世界にぽつんと続く真っ直ぐな線。
 もし此が本当に道と呼ばれるものであるならば、己は今どちらを向いているのだろう、
歩んできた方なのか、それともこれから歩んでいく方か。
 己一人には十分すぎる幅を持つこの線は、一体何処へと続いていくのだろう。
 両手を左右に上げても、道の幅には足りない。
 それ程までに広い道で、佇むのは己独りきり。
 先は見えない。
 闇夜の中、ただひたすら一直線に延長される白。
 何故―――と男は声にせず、問う。
 立ったままで、足は僅かも動いていない。
 道は此処に在るけれども、其処に居る己は、進む気が無い。
 何故、己だけが傍若無人を許されるのだ。
 その問いに答えが出ない限りは、動けない―――何処にも進めない。
 此の身一つの問題と言えども、自己の存在にかかる問題だ、歩むべき道が其処にあったとしても、
其処を歩むかは自らの意志に因るはずで、なればこそ今は動くことが出来ないで居る。
 ―――どうして、許すのか。
 好き勝手に振る舞い、我が侭を口にしても相手は笑うばかり。
仕方ないといった風なその視線が、時折酷く癪に思えてしまう。
 怒りはするけれども叱りはしない。
 呆れはするけれども突き放さない。
 お前はそういう性格だと、傍若無人な性格なんだなと、妙に肯定されている。
 其れは本来ならば、個性という範疇でくくるべきではなくて、もっと。
 もっと、きちんと。
 俺はお前達に、きちんと。
 ―――いつまでたっても子ども扱い。
 己の甘え方が幼稚なのか、それとも向こうとしては甘えさせるのが当たり前だと考えているのか。
『…そんなもの、同情と何が違うというのだ』
 其れは道端で震える犬猫に向けた、優しい上位者の眼差しと同じ。
 庇護者の視線であり、ある種の思い上がりでは無いのか。
 俺とお前は違うもの、其れは構わない其れは正しい。
 個体とはかくあるべきだ、だが、此は違う。
 甘えさせ、許し、受け入れるばかりではない、きちんとした付き合い方が、距離が。
 己ばかり、取り残される未来が分かっているからか―――違う時の中に生きるからか、
人の心を手に抱えた機械人形に紛い物の心臓を与えておきながら、人間であるお前達は俺に生きろと言ったではないか。
 人形ではなく、俺は俺なのだと。
 存在を認めてくれたのに、どうしてこんな風に扱われるのか。
『俺はそんなもの…!』
 対等な目線で、等価値の存在として―――同じ時を、同じ場所で生きるものとして、認めて欲しいのだと。
 其れがどれほど幼く、純粋で難しい要求であるか、隻眼の男には未だ分からない。
 唯一の瞳は薄い銀。
 朝焼けに似た薄紫が滲む光を宿した其れ。
 拒むには温かい優しさが辛い。
 受け入れるには遠い愛しさが寂しい。
 欲しくて欲しくて諦められないのは、記憶の向こうでの喪失感が拭え無いから。
 もう二度と、この温もりを失いたくないから。

「…好き、とは何だろうな」
「……。独り言で無ければ、其れはもしかしなくとも私への質問かな?」
「無論」
「…そうだな…」
 夕食を終えた眠りまでの束の間。
 加湿器がたてるこぽこぽとした小気味よい音以外は静寂に包まれたこの部屋で、一つ零れた呟き。
 ベッドで体を起こし、回復してきた胃に何か甘いものを所望すると、出てきたのはみたらし団子。
いつもより柔らかめに作ってあるから、ゆっくり噛んで食べる様にと言われ、手に取り口を開けた其の刹那。
 食べようとしていた団子の串を皿に戻し、ベッドの上の男はそう言った。
 其の傍らで其れを聞いていたのは団子を作った青年で、不意の呟きに対して妙に間を空けてしまったのは、
如何に天才と呼ばれるこの青年とはいえ、みたらし団子を口に入れる前にそんな質問が来るとは思わなかったからだ。
 ―――思わず、独り言の如く聞こえる其れが、自分への問いであることを確認し。
 当たり前だろうと言わんばかりの憮然とした声音に、苦笑を浮かべながらさてと答えを考える。
嘗て同じ質問を、あの愛する親友から尋ねられた事があるのだが、其れについては何となく今此処で言わない方が良いかと思い。
さてその時は何と答えたか思い出そうとして―――消沈した様子の男に気付き、逆に質問する。
「…ゼンガーと、喧嘩でも?」
「しょっちゅうだろう」
 確かに、似たもの同士――というか彼の生まれた由来からして必然性の出来事なのかもしれないが――
である彼らの喧嘩はもはや日常茶飯事である。
 寧ろ口喧嘩一つでも起きない日の方が珍しい。
 そういう場合は、どちらかが屋敷にいないと言うことだ。
 仲が良いのか悪いのか、時折本当の区別が付きかねる。
「では…何か悪い夢でも?」
「いいや。最近は全く見て居ない」
 此処へ来たばかりの頃はよく魘されていた彼を知っている。
 其れに悩み、心細く一人孤独に、佇んでいた背中を覚えている。
 己が心の奥のことはどんなに振り払おうとも、繰り返し繰り返し打ち付ける波の様に現れてくるものだから、
また何か彼が夜を怖がる様になったのかと思って。
 然し其れも違うと言う。
「―――悩み事でも愚痴でも、私で良ければ聞くが?」
「…違う」
 其れまでの断定的な強い語調が消えて、ほんの僅かに弱くなる瞬間を見逃す程鈍くは無いとばかり、
青年は微笑んで男の頭を撫でる。
 普段なら拗ねてしまうこの仕草に、今回は無反応。
 代わりにぐっと握られた拳を目の端に止める。
 弱々しい否定と、引き結ばれた口。
 何かを堪えていることに間違いはなく、だが其れを容易には口に出さない。
 我が愛しき親友と同じ、頑固な性質をこんな時まで発揮しなくて良いものを。
 ―――とくればますます。
「ずるい、か?」
「………」
 ぴくりと視線が動き、また伏し目がちになる。
 どうやら当たりらしい。
 幾つか浮かんだ候補の中から一つ選び取って考えてみたのだが、運良く的中した様で密かな安堵。
 だが其れよりも今は―――本来、不平等への妬ましさに端を発する筈の形容詞は、
彼の中で更に正体不明の感情と置き換わると見える。
 不意に飛び出してくるその言葉を何度か耳にして、その度に感情に翻弄される彼を見てきた。
 人間であっても制御出来ぬ感情という濁流に、彼一人がどうして抗えようか、
いつかは自分一人で何とか乗り越えるべきものであっても、
最初の頃は又はとてつもなく困難な流れには、一人ではなく誰かが共に行くべきだろう。
 例えば思いつく感情、其れは。
「…我が侭を、許されるのは不安だとか?」
「…!」
 図星だと明言はしないものの、曲がった視線が戸惑いに震えている。
 ああつまりはそういうこと。
 人としてごく当たり前の不安。
 認められ、受け入れられる、其の曖昧模糊たる不安。
 愛の形は様々あるけれども、許されるばかりでは不安になる時がある―――優しさは大切だ、情趣に理解がある事も重要だろう。
然し、愛される事と愛する事は違う。結局何でも許して受け入れられて、愛される事を当たり前に受容するには彼の傷は深すぎる。
 分からなくなるのだ。
 自分の気持ちも、相手の考えも。
 ―――優しいこの手を、無理矢理ねじふせて乱暴に扱いたくなる位、変な気分になる。
 けれど同時にたまらなく、温かい感情も芽生える。
 余計に迷い、惑い、分からなくなる。
 我が身一つには収まらぬ、激流。
 故に心細くなり、無意識の内に言葉を閉ざす。
「好き、か―――」
「…ああ」
 再度口にした其の感情は、誰しもが一度は抱いたことのある感情で、生きていけば自然と隣にある永遠の相棒だ。
 お前ならば分かるだろうと期待に満ちた眼差しが痛く、そう縋り付かれても此方の答えに満足はいくまい。
得てしてこういった類の質問に、答えは無いと――自分自身しか分からない事なのだと――知っては居るのだけれど。
 然し其れを今言っても、彼の助けにはならない。
 本当に彼が望んでいる言葉は、答えは彼の中にしかないと分かっていても、ヒントも無しにこの流れの中は歩めないだろう。
ならば、自分の言葉が少しでも彼の道しるべになれば良い、と。
 金髪の青年は、我ながら酷い答え方かもしれないと思った幾つかの答えを口にした。
「大切にしたいという気持ち、守りたいという気持ち、
自分よりも誰かを優先してしまう気持ち……悲しみを一緒に背負いたいと願う気持ち…」
「何だ其れは。…結局…決まらんのでは無いか」
 想いとは人の数だけ在るのだと、そんな陳腐な回答が出てきたことで、隻眼の男は肩を落とした。
 分かっていたつもりだ、どうしようもない問いだと知っていた。
 其れでもと期待してしまった。
 少しだけ悲しくなりながら、だが同時に己を恥じる。
 他人を利用して己の心を決める狡猾さなど、己には不似合いだと言うことだ。
「そうだな」
「―――だから、ずるいというのだ…」
 そんな曖昧な話など聞きたく無いと、更に落ち込み。彼を、羨む。
 答えを持っている様に見えても、本当は持って居ないし、然し好きとかいう感情については自然に振る舞える時の方が多い。
 其れは感情ありきの人間だからなのか、其れとも過ごしてきた時間の、経験の差か―――
もうどうにでもなれとばかりにみたらし団子の串を掴み、二口ずつで平らげてしまうと、そのままごろんと寝転んで、ため息をつく。
 こぼれた呟きに、青年も同意を返して。
 結局、一番に閃いた感想を胸の奥から吐き出した。
「好きは重たい、か…」
「確かに」
「だが諦めん」
「勿論」
 好敵手たる己を自覚し、またそんな己を認める青年も居る。
 思っていたよりもことは単純化出来るし、それだけで十分だと思う自分も居る。
 今は、此処までなのか。
 此で一つ、終いにしよう。
 そして二人は小さく笑い合う―――所へ。
「…? 何か楽しい事でもあったのか?」
「「…!!」」
 青鈍色の瞳に疑問の色を宿し、ふと現れたのは正に今話題の人。
 笑う二人の姿に首を傾げ、どうしたのかと疑問符を頭上に浮かべている。
 その一方で。
 別に聞かれて恥ずかしい内容でも無く、まずい話題でも無いのに、
何となく口にしてはいけない様な―――秘密にしておきたい、気がする。
 好敵手ならではの隠し事というか。
 単に、二人揃って悪戯心が発揮されたというか。
 そうして新緑色の瞳と、紫銀の瞳は瞬時に意思を疎通させ、この場を適当に取り繕う事にした。
 深い意味は無いし、隠して何か有益だという訳でも無い。
 だが、面白いだろう、きっと。
「少し…楽しい話を、な」
「勿体無いから貴様には内緒だ。せいぜい羨め」
「? …む? よく分からんが…そう言うなら―――」
 完全に納得した訳では無いだろうが結局気にしない事にしたのだろう、
一応了解した形で頷く男は詳細に深く突っ込んでくる事も無く洗面所に去った。
 その背中を眺めながら、隻眼の男は笑う。
 ―――成る程、たまには分からない方が面白い事もあるか、と。

<了>

   writing by みみみ

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