【 其れは心臓にも似て 】

 規則正しいリズムを繰り返す、大切なもの。

「………」
 祝祭日の今日、町のメインストリートは様々な人であふれていた。
 この町は近隣の町に比べて大きな港を持つため、行き交う人々は家族連れ、恋人同士、友人、
同僚、商売人、観光者、旅人など、民族も国境もなく多種多様だ。
 そんな中、雑踏から頭一つ分出てしまうほどの長身で、しかも隻眼の男が一人とある店の前で立ち止まり、
そのまま瞳をガラスケースにくっつけてしまうのではないかと思う様子でショーケースの中を眺めている。
その傍には隻眼の男と瓜二つの顔をした男がおり、長身の男が二人も揃って何をしているのかと密かな視線の的である。
 然し本人達は全くそんなことを気にせず、隻眼の男はショーケースに並ぶ様々な其れら―――即ち時計をじっと眺めては、
また視線をさ迷わせて次の時計を見つめているし、もう一方の男はというと、黙って隣にいるだけだ。
 本来ならば店主が出てきて何か気になる商品でもあるのかと案内をする場面なのだが、
隻眼の男の相貌――左目の大きく引き連れた傷跡――であったり、その真剣な様子についつい気圧されてしまい、
彼らが店の前に立ってからそれなりの時間が経っているにもかかわらず、結局声をかけられないでいる。
 光に透ける薄銀の髪は薄暮に似た薄紫で、それと同じ色をした瞳は時の経過を視覚化させる技術、即ち時計に視線を注ぐ。
 それこそ、瞬きすら忘れているかの様に。

 長い針は一時間単位で。
 短い針は一分単位で時を刻む其れは、自然界では過ぎ去るだけの時という概念を人間の単位に封じ込めたもので、
一度故障してしまった腕時計を開けてみたところ、中には細かな部品が幾つも連なり、互いに互いが作用して動いていた。
 あんな小さな文字盤の裏に、更に小さな時間の創造空間が在るとは。
『………凄い』
 思わず感嘆のため息を零し、普段聞こえていたかちこちという音は、此処で作られていたのだとより驚かざるを得ない。
 一つの歯車が二つの歯車を回し、その二つの歯車がまた別の機構を動かす―――
初めて見る中身をもう暫く眺めていたかったのだが、早々に修理を終えた精密機械に埃は厳禁と蓋が戻され、
聞こえてきた不変的な規則正しい時刻の音色の秘密を知ったことで、この小さな腕時計に対する見方が随分変わってしまった。
 精緻を極める時の番人に対し、己は何と雑な扱いをしてきたことか。
 もしかすると今回の故障もそういう己に対する反乱の狼煙というか、警告だったのかもしれないと今なら大いに反省出来る。
 寧ろ今後は扱いに注意しなければならないとさえ、思った。
 興奮冷めやらぬ、と言ったその表情に同居人も何か感じる所があったのか――この男にしては珍しい――緩やかな微笑を浮かべて。
『そんなに中が見たいなら…透明なケースのものもあるから、今度見に行くか?』
 ―――そんな質問に、当然一も二も無く頷き。
 普段ならば通常の補給ルートで済ませている買い出しを、久方ぶりに町へ出て自ら行いたいという希望を男が出し、
その荷物運びにと己を連れ出してくれたわけだが、最初はとにかく何もかもが珍しく目移りしがちで、なかなか目的の店が見つからなかった。
 逆にこのたくさんの人は一体どこから出てくるのかと疑問に思ったほどだ。
 すれ違う人々は、肌の色も目の色だけでなく服装や言葉も異なっている。
 特に一番人の多かった市場という場所では、ところせましと品物が並べられ、同じ果物を扱っている店が複数有り、
男がさくさくと買い物を進めていくのを隣で見ながら一体何を基準に買う店を決めているのかと不思議で仕方がなかった。
 そう思って後で聞いてみればなんということはない、あの厨房の主に渡されたメモを元に買っているだけだという。
『こういう目利きはあいつの方が得意でな、今度あいつと来る機会があればそのコツを学ぶと良い』
『………』
 ―――その前に己はこの雑踏に慣れておかねばなるまい。
 今この同居人とはぐれてしまったら、胸を張って迷える自信がある。
 自信を持って言うことではないだろうが、実際そうなのだ。
 こうやって見ている時計専門店にしても、男と通りを何回か行き来して見つけたもので、
流石に同じ道を歩いているのだから慣れてきた筈だと思うのだが、矢張り一人で帰れと言われれば首を横に振るだろう。
 だが、ひとまずは未知なる体験にあれこれ寄り道や驚きを覚えつつも、第一の目的である時計の店を見つけ、
ショーケースに張り付いているという訳だ。
 ふと視線を上げてみると、ショーケースの向こう側に見える店の中にある時計はどれも同じ時を示してはおらず、
普通の人間ならば奇妙な気分に陥るのかもしれないが、正しい時刻が気になるというのであれば後で合わせれば良いだけではないかと、
己にとっては全く興味が無い。
 更には数字が並ぶだけのデジタル時計には見向きもせず。
 昔ながらの歯車で動く其れを凝視して。
「何か気に入ったか?」
「いや…未だ、だな」
 付き添いの案内人はそんな己の様子に問いを投げかける。
 唯一の光を宿す瞳が、何を時計に見ているのか、歯車仕掛けの時に何を思うのか。
 単なる興味と言うだけには収まらない、隻眼の男が見せた執着心。
 いつか与えた腕時計に対するものとはまた違う其れ。
「では…次の店に行くか」
「了解した」
 ただただ無心で見つめている様子に、聖職者の祈りを重ね見てしまった。

 ―――この屋敷で暮らす様になり季節は早くも五回目の巡りを数えたが、己が自ら外へ出たいと思うのは本当に珍しい。
というのも、そもそも己という存在は一度死んだ身であり、何よりも世界の敵として戦ってきた身なのだ。
そういう意味では同居人の二人とて同じなのだろうが、彼らとは更に己は存在を異にする点がある。
『準備は出来たか?』
『あと、少し…』
 久方ぶり過ぎて逆に勝手が分からず、つい手間取ってしまう。
 この屋敷から外へ出ると言うことを己は無意識に避けているのだろうか。
 屋敷の留守を任されるのはかなりの大役だと自覚するものの、では積極的に外へ出たいかと言えば、
怠け癖がすっかり備わってしまったのか特にそうは思わなかったのだから―――
屋敷の庭で、土いじりでもしている方が楽しめる時も多かった。
 最初は青年がしていたことを真似ていただけが、いつの間にか己の方が詳しくなり、
今ではすっかり己専用の栽培区域を持つまでになった。
 野菜果物だけではなく、最近は花も植える様になった。
 思った以上に、はまっている。
『此で良し…と』
 己の準備具合を見かねた屋敷の主にして厨房の王は――手間のかかる人間が好きだと公言しながら――
楽しそうな顔をして外出の準備を整えてくれた。
 体格が同じだから服は彼のものだが、専用のコートやマフラーは準備していたのだと微笑み。
 未だ他にもあるから気に入ったものを選ぶと良いという彼に礼を述べ、さてこの傷はどう隠すかと鏡の前で悩んでいると。
『左目の傷は確かに目立つ。だが、何も隠さなくとも良いだろう? …その傷に、やましい事など無いのだから』
 青年の言葉に続けて、男も頷く。
 左顔面の大きく引き攣れた傷跡は過去の自分をつなぐもの。
 過去に縛られた現在であってはならないのだが、過去がなければ現在が成り立たないのも事実。
 そっと左手で傷に触れた。
 見えないけれど、其処にある左目。
『…そう、だろうか』
『勿論』
 再度問いかけてみると、自信に溢れたその顔につられて己の頬も少し緩む。
 だが布を引き裂くにも似た、悲鳴が響き渡っている。
 ―――温かな感情と、薄く澱む何か。
 しかも此が初めての感触ではないのだ、己は何度となくこの感覚を身に宿し、然し其れに支配されることを拒んできた。
今回も同じように、隻眼の男はゆっくりと其れを己が内に流していくと、黙って知らぬ振りをした。
 流れてしまえばいつか消える。
 消えて無くなればもう惑わされない。
 左目の大きく引き攣れた傷は、徐々に戻ってきた記憶と相まって過去への追想を加速させるが、其れは独りで眠る瞬間の事。
 傍に誰かが居るならば、何も恐れる事は無く。
 温もりに心休まれば傷も痛まない。
『また喪えというのか…!? 更に傷を深めろと…!』
 吠えた、日の記憶。
 喪失の拒絶は、怒りも喜びもないまぜのまま。
 本当はそれだけではなかったはずなのに、無くしてしまう恐怖の方が強く、怯えて立ち竦み、踏み出すことを躊躇わせた。
 己へ差し伸べられた手は一つではなく、一回限りでもない。
 何度となく二つの手が己を導こうとしてくれた。
 だからこそ、そう遠く無い記憶の筈が、いつの間にか思い出す時間の方が少なくなっていたのだろう。
 諦めるなと言う声。
 待っているからと言う声。
 いつかの未来を信じた、二つの声。
「ウォーダン、行くぞ」
「! ああ」
 気付けばそんな物思いに囚われていた己を呼び戻す声は、あの時と同じ声だ。
 うなされた夜は両手の指よりも数多く、諦めかけた事も一度では無い―――何故、再びの生を与えた。何故、死を奪った?
 死んでいられたのに。
 生きなくて良かったのに。
 こんなにも悲しい想いをしなくてすんだ、今こんな風に怯えずとも良かった。
 生きているというその当たり前のことがどうしてもこんなにも苦しいのだ。
 似せ者の、命だというのに。
 そうして男は吠えたのだ。
生きていなければ感じない喜びも悲しみも全てが兎に角厭わしく、食わずとも飢えず、
眠らずとも疲れずの身体に嫌気がさした結果に。
 簡単には死ねぬ、壊れぬ入れ物。
 作られた命。
 虚ろな魂。
 偽りの記憶と、頼れぬ自我。
 壊そうにも壊せないのだ、この体は。
 何かもう一つ別の工夫が無くては己で己を破壊できないようになっていると気付いた。
 ああ自分の終わりすら、自分で決められないというのなら。
『ウォーダン!』
 名を呼ぶ。
 ナンバーでは無く。
 俺が俺であるという一つの証としての名を呼ぶ。
 ―――お前は、お前たち、は。
 其れでも生きろと言うのか。
 安易な死よりも苦渋の生を取れと。
「…ゼンガー、寒い」
 輸送機の座席で隣に座る男の腕を引く。  彼は己のオリジナル―――青鈍色の瞳、癖の強い銀髪、
軍人というよりは侍と呼べる振る舞いに、古風とすら思える愚直さの見える性格。
 大胆な割り切り方をする一方で、時に口やかましく。
 死にかけていた己を拾い、敵であるというのに信頼を寄せて、今に至る己と、この環境を作り出した張本人。
何よりもこの男とは考えというよりも、心が共鳴する不可思議な縁で結ばれる仲だ。
 故に此方もこの世界で一番信頼しているというのに、少しばかりつれない要素があって。
 例えば今も触れようとした手はすげなく叩かれ、くっつこうとすればする程、
逆にぐいぐいと押し返してくる有様だ―――未だそんな下心はなく、家族としてのスキンシップだというのに。
 彼奴には、普通に許している癖に、と内心呟く。
 彼の様な特別とはまた違うのだと分かってはいるが、分かっていても諦めるなと言われた以上諦めるつもりもない。
 もっとも、諦めるなと言ったのはこのことではないのだが。
 基本的には―――不意打ちを狙うしか、甘えさせてはくれないひと。
 恐らくは甘えない、甘えられない性格だから。
「む!? またお前はそうやって」
「別に…レーツェルも見て居ないのだから良いだろう」
「居ないから良いという訳では無いっ」
 大きなため息をつきそうになりながらもぐっと其れを堪えて。
 罪を背負い、罰を受けながらも生涯を共にすると誓った青年の名を出せば、仄かに頬が赤くなる。
 対等に見えても主導権はどちらが握っているのか、非常に分かり易い。
 そうやって初見の印象を裏切るのがこの男の面白いところで、人間にしてみれば妙齢の年頃だというのに、
殊更恋愛事情に疎く、恋愛感情を制御するは敵陣単独突破より難しいらしい。
 ―――戦闘スタイルに似合わぬ奥手さ、が。
 魅力的で蠱惑的で、誘惑に駆られる部分だと、青年は笑う。
『私はあの初々しさがたまらなく好きだよ』
『…つまり、初々しくない彼奴では、面白くないと?』
『ふむ…そうか。そういう言い方もあるか』
 重々しい首肯の仕方だが、内心は切り替えされた言葉に笑みを浮かべているだろう。
 真顔と笑顔を使い分け、言葉巧みに人を誘導するのを得手とする人間だ。
 外見と内面が異なるなど、遙か昔に過ぎた技術だろう。
 珈琲カップを片付けた青年は背に流れる長い金髪をほどくと、黒のエプロンをテーブルの椅子にかけた。
 本人が風呂場へ行っているのを良い事に、何やら初々しさについて語り出したものだから、己は読書を中断して言葉遊びを楽しむ。
 家族、同居人、恋敵、好敵手。
 目の前の青年との関係はある意味奇妙で不思議だ。
 この関係はなかなか上手く言い表せない。
 それでも。
『ウォーダン?』
 低く穏やかな声は、あの男とはまた違う優しさを持って己の名を呼ぶ。
 心地よく緩やかに現在を肯定する。
 ―――日々は愛しく、平穏無事に過ぎていくから。
 今この瞬間を心から笑って過ごしたい。
『有り難う…』
 別の言葉を言いながら、何度となく繰り返した言葉を、密かに想う。
 きっともう口にすることはないその言葉。
 言わずとも良い、もうその思いは半分果たされているのだ、決して残り半分が二度と叶わないとしても。
 青年は聡明な翠玉の瞳に悪戯好きな光を見せつつ、唐突な話題を軽く転がしてゆく。
 冷徹な一面と、子どもの様な一面と。
 くるくると変わる表情に騒ぐ感情を知らぬ訳では無いが、
気にするべきでは無いと思う―――今更、どちらにも想いの振り子は止まれ無い。
 叶わずとも良い、今この時だけで満ち足りる。
 これ以上を望んでしまうなど、世界が壊れるのを望むと同じだ。
『…眠くなってきた』
『後少しだから我慢したまえ、風邪を引くぞ?』
 抑えきれぬ欠伸に大きな伸びをして、ソファに寝転ぼうとしたら窘める一言。
 こつこつと此方に近づくと隣に腰を下ろし、我が友もそろそろ出てくる頃合いだからと、頭を撫でられ。
 まるで子どもの様に。
 庇護を受ける幼子の様に。
 不思議と、逆らう気が起きない、温かな手。
 其れは余計に、眠気を誘うのだが―――君たちは、といつの間にか複数形にくくられて無頓着な性格を苦笑する青年に。
『眠いものは眠い、だから仕方が無いだろう』
 ふとした瞬間の子ども扱いに拗ねた振りをするのもまた、一つの確認だ。
 血も煙も爆音も悲鳴も―――何一つなく。どんな争乱の喧騒であっても、今は此処に届かないだろう。
 否、届かせてはならない。
 此処はただ安らぐ場所。帰る、生きるという約束を静かに叶える為の場所。
侵される事無く、侵させる事を許さず。
 そんな束の間を楽しんでいるのは、青年も同じようだった。

 遅めの昼食にと入ったレストランで隻眼の男はメニューを告げた後、ため息をついた。
テーブルに肘をつき、指をこめかみの辺りに触れさせて。
「同じ種類の店が幾つもあるのが良く分からん…」
 午前中丸々かけて街中を歩き回り時計店をはしごし、多種多様な候補を見てきたのだが、
良いものは見つかるがどうにもぴんと来るものがないらしく、結局購入にまで至らない疲れを吐きだした。
 たかが時計一つの買い物と思った己が愚かだったのだ、
何も感じ取るものなど気にせずとっとと決めてしまえば良かっただろうにと思うのだが、
不思議とそう結論づけることが出来ない―――だからこうして複数の店を見て回ることになり、
其れでも決めかねる己の不甲斐なさと、曖昧な躊躇いに疲れることとなる。
 確かに同じものを扱う店が複数存在するというのは合理的では無い様に見えるかと、其れを聞いた向かい側の男は呆れた顔で。
「まさか疲れたとは言わんだろうな、お前の買い物だぞ?」
「そんな事を口にする程馬鹿では無いが…こう多くては、な」
 そう言えば外出は久方ぶりかと思い―――やや疲労した顔色である事を確かめると、
叱る様な口調ではありつつも男は小さな苦笑を浮かべた。
 この町は然程大きくは無いというのに、時計を扱う店は片手で収まらない数が存在していた。
先ずは近くの店から店を歩いてある程度の目当てをつけ、またその店を回っていく予定だったが、
早くも3件目で迷いが膨れ上がってきたのだろう。
 意外と慎重な買い物をするのだな、と新しい発見をし。
 自分で自分の欲しいものを買うという行為自体、そもそもが初めての経験かと気がつく。
 いつもはあの屋敷にいて、欲しいものがあれば頼めと言われるだけ。
 最初はよく分からないから此方が選んだものをそのまま与えられるままに受け取っていたが、
最近は家庭菜園に精を出すこともあり、しっかりとした注文が来る様になった。
 ―――己の欲するものは、己で掴み取るべし。
 又は、自らが抱える欲望については自らの意志でこそ叶えるべきだ、決して誰かに唆された欲求によって果たすことなく。
 運ばれてきた料理に目を輝かせる様は何とも幼いと見えるが、
ここに至るまでの本当の希望の叶え方が何とも大人じみた忍耐を滲ませていて矛盾する。
 言いたいことを言えずに震え。
 願うことすら己に禁じ。
『嫌だ、もう、俺は…二度も…っ』
 助けて欲しいと言えずに己を殺そうとした一つ目の子ども。
 失いたくないと、何度向こうの世界で味わったのか。
 此方の世界の己など到底及び付かぬ絶望をその身に宿して蘇り。
 再び哀切に魂を引き裂かれるくらいなら、いっそ今此処で果ててしまおうとした我が半身。
「うむ、なかなか美味い」
「確かに」
 よく噛んでから飲み込めとか、口にものを入れたままで喋るなとか
そういう細かい注意を――普段の食卓の如く――しながら、遅めの昼食はゆったりと過ぎていく。
 不思議な感覚だ、目の前にはもう一人の自分。
 相似の容貌と、相反する運命、極めて近く限りなく遠い、其の魂。
 隻眼の男は食べ終わってにやりと一言。
「レーツェルには負けるがな」
「…彼奴と比べる方がどうかしている」
「……。大した惚気だ、俺はもう満腹だぞ?」
「誰が…!」
 暇さえあればレシピを考え、暇が無くとも頭の半分はレシピで埋まり、
ストレスがたまれば甘味を作って己を実験台にするあの青年と比べては、余程の料理人でない限り不憫極まりない。
 惚気と言われればそうなのかもしれないが、事実は事実だ。
 だが其れを認めるのは悔しい。
 そう、此は決して惚気ではない、断じて。

 では仕切り直しの午後一番。
 買い物の醍醐味として最適な出会いを求め楽しむも、其れを無駄な寄り道として理解出来ないと嫌うのも個人差だ。
 さてこの男の場合はどちらか―――店ごとに甲乙付け難しと悩む姿を見ている為、
長期戦になるかと思っていたのだが、答えは直ぐに出た。
 思っていたよりもあっさりとした決着に少々驚きつつ。
「………」
「………」
 これ以上選択肢が増えては適わないから、店を回るのは後1件だけにしようと決めて入った先。
店内の中程に置かれたショーケースにある『100yearS』と書かれたシリーズの時計たち。
 本当に穴が空くのでは無いかと思う程に、隻眼の男の眼差しは熱い。
―――店主曰く、メーカーが100年の無料保証をうたう一品であり、
デザインはシンプルだが少しアンティークな雰囲気をイメージしたものだという。
 少し前から出回り始めた代物らしいが数が少ないために、今は店頭にあるだけの在庫しかないらしい。
 ―――もっとも、そんな言葉が聞こえているとは思えない。
 己が店主から聞いたそういう話を余所に、唯一の眼差しはぶれることなく、その中の一つを見ている。
 つまり、出会ったのか。
 買い物においては限りなく重要で、だが其処に拘れば永遠の迷路に迷い込むというその一点に、響く何かと。
「透明では無いが?」
「…構わん」
「壊れないという事は、中を見る機会も減るという事だ」
「分かっている…!」
「……。そうか…ならば、お前の気がすむまで選べ」
「ああ…そうしよう」
 ショーケースに張り付き――まるで死の間際で思い詰めたかの如く――真剣な瞳でその時計を眺める横顔に、
野暮かと思いつつも確認の問いを投げる。
 結果、邪魔をするなとばかりに荒い声が届くのだから、どうやら見事に当たりを見つけたらしい。
 実際に自分で商品を見る際の醍醐味というか何というか。
 己にもそんな癖があるのを忘れていたが、この男の場合は初めてだからこそ
じっくりゆっくり時間をかけるべきだと午前中からの行程にしておいて良かった。
 何事も始めが肝心。
 そして初めては、いつでも特別。
 やれやれすっかり夢中だなと肩をすくめながら、100年という時間を考えた。
 ―――人が生きるには長い時間、けれど。
『いつか…消える、居なくなる…そんな時が俺は恐い』
 誰が、とも。
 何が、とも口にしないのは自らの弱さを支える為か。
 強さでは無い脆さをじわじわと遠ざけて。
 立ち尽くすばかりにならない様に、振り払い、進む。
 死にたいと叫んだ人形は、ならばと無意識に潜む死を意識しない様な思考回路を持った様だ。
其れでも気を抜けば時折其れは浮かび上がってくる。どんなに押し込めたつもりでも。
どれほど、大きな重しを付けて、沈めているつもりでも。
 生きている限り、いつかは死ぬ。
 永遠の命など存在しない、だから永遠の闘争などと言う子供じみた世界も創造され得ない、と嘗ての敵を思う。
 一度世界に絶望した人間が作り出す世界など碌なものでは無い。
 命を命と捉えられぬ人間が戦う世界など、誰も認めない。
 ―――悲しいかな、彼がこの世界で打ち破られたのは、そういう生命の必定を分かっていなかったからかもしれない。
 そう思えば100年という時間は、無限に聞こえるけれども、本当は逆に有限を証明する物差しでもある。
 無限の証明は出来ずとも、有限の証明ならば出来る。
 終わりを恐れるな、永久にこそ怯えよ。
 時を刻むものが持つ有限性と無限性の包括に、人は心惹かれて止まぬが故に。
 だから、隻眼の男も此処まで惹かれているのだ―――そういう己が心を自覚した。

『100年か、1年か、それとももっと近くか…』
『W17…否―――ラミア・ラヴレス』
 ある意味制作者である彼女が最も望んだ形で生きている、
嘗ての『同僚』は一瞬寂しげな表情をして、直ぐに機械的な無表情に戻った。
 隠れたのではなくて隠したのだろう、続く言葉に秘めた感情を。
 顔合わせをした瞬間は、彼女が生み出した命が未だこの世界に残っていたことに、
同僚にして最新型の姉妹機は驚いていた。
 その時に見せた柔らかな表情に、己が逆に正直驚きを隠せなかった。
 まるで、ひとのような。
 確かな命を得た、それそのもののような。
 私とお前は似て非なるもの、だが同じシリーズであろうと、姉妹機は言う。
 その上で先ほどの言葉に推測を重ね。
『一週間後、明日…いや、一時間かもしれない。私もお前も止まる時間は分からない』
『死ぬ、とは言わんか』
 きっぱりとした物言いは嫌いでは無く、寧ろ己が立ち位置を明らかにする分には境界を際立たせておく為に必要なもの。
 人では無い。
 人の形をしたもの。
 遠慮も容赦も必要なく、大切なことは間違えないこと。
 己がどういう存在であるのかを常に意識するならば、もう道は違えない。
 ひととは違う自分たちは、死ぬのではなく、
止まってしまうのだろう―――壊れる、と言う表現がないだけ、繊細な新型機らしい。
 恐らく己であればうっかりそうした言葉を告げている。
『…少なくとも、ウォーダン・ユミルの前では』
 シリーズナンバーではなく、個体名を口にした姉妹機は、
暗に自分も同じWシリーズである事を示して、小さく自嘲した。
 運命共同体とまでは行かなくとも、どちらかに不調が出ればどちらかにもその可能性があるし、
逆に姉妹機が其処まで感情豊かになったのであれば、己にもその可能性があるのかもしれない、
等と不透明で不確定な予想でつながれた不思議な兄弟機。
 浮かべた笑みが陰りを帯びていて、自嘲の様に見える、
そう気付くのは―――似た立場にあって、似た身体を持つ、己だけなのかもしれない。
 何度となく大きな戦を越え、その度に敵すらも味方へ受け入れて戦ってきた彼らという心強い味方が居ても、
矢張り本当の意味で自分という存在の不安を分かち合えるのは同じシリーズのもの。
 人ならざる存在、人造人間Wシリーズ、その同型として。
『だが、人も明日の運命は分からない筈だ。いつ事故に合うとも限らない』
『同じ時間を過ごせないと―――』
「…分かっている」
「?」
 同伴の男からすれば、その呟きは少々唐突で、何か堅い意志を秘めたものである事しか分からない。
 黙っていた男がふと漏らした言葉は、恐らく彼の中でしか前後が繋がらないし、
また前後など関係なく出てきた言葉なのかもしれない。
 然し、その意志の内容を確かめるとまでは行かなくとも、
隻眼の男にとっては重要な出会いを果たせたのだという事は分かる。
 ―――良い、買い物をしたな。
 ものが決まれば後は色や形やベルトで悩み始めたその姿に、男は青鈍色の瞳を細めて、微かな微笑みをこぼした。
 そして。
「…メーカーの保証があるからと言って粗雑に扱わん様にな」
 からかいの言葉を並べ、普段の行いにも釘をさす。当然、相手は心外だといった表情で此方を睨んでくる。
 漸く心が定まり、思いが果たされ、人心地付いたいつも通りの顔で。
「俺がいつ、そんな扱いをした事がある?」
「…つい最近エッグスライサーとドライヤーを壊しただろう」
 其れを言われた男は、何とも気まずい顔で慌て、いや違うと口ごもった。
 単なる機械を壊すなら未だしも、あの屋敷の主にして厨房の王である青年に関わりあるものを
――己のせいかどうかは兎も角として――壊した記憶は新しく、故に静かな怒りも身に染みていたからだ。
 壊してしまったのは悪気がなかったことであり仕方がなかったのだろうが、
問題は事実を隠蔽したために、大変まずい方向に青年の機嫌が傾いてしまったことだった。
 いつもは物腰穏やかで優しい人間が放つ冷酷で鋭角な視線と言葉ほど、周りを怯えさせるものは無い。
 ―――いやというほど、己は其れを知っている。
 其れを思い出したのか男は違うぞと必死に自己弁護を始めた。
「あ、あれは金具が揺るんでいたのと接触不良がだな―――」
「力の加減と、時折ぶつけていたのが原因に思えるのだがな」
「………とにかく、大丈夫だ。此は絶対に大丈夫だ」
 訳の分からない自信に満ちた台詞に見えてどうにも弱く聞こえる其れは、これ以上剰り突っ込まぬ方が良いのだろう。
 幼い言い訳に、思わず吹き出した。
「時計限定か?」
「うるさい…!」
 子どもの様に拗ね、頬を赤くした男と一緒に笑いながら。
 時を刻む店で、二人は暫し時の流れを留めていた。

<了>

   writing by みみみ

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