【 深海の光 】

 廊下に出ると先程まで暗く沈んでいた空に青い空と白い光が見えた。
 その眩しさに目を細めながら手を掲げ、新緑色の葉を透過させる太陽を思う。
 宇宙に出た時とは全く異なるその輝きは、地球で見るからこそ暖かみを持って迎えられるのであって、
しかも其れは地球上でも豊かな土地のみに限られる―――少なくとも、熱砂の大地において太陽とは死の使いでしかない。
 環境が変われば対象の意味する所も変わり、そうであるならば当然人間の考え方も変わってくるのだとは、
ここ最近宇宙と地上を行き来したからなのか。
 部隊編成に伴い支給された真新しい軍服は未だ着慣れず、少し肩や首回りに違和感が残る。
 此もそのうち慣れてしまうのだろうかと首をひねりながら歩き出そうとした瞬間。
『ゾンボルト少佐』
 名を呼ばれて振り返る。
 視線の先には髪の短い――然し軍人にしては寧ろ長い方に入るかもしれない――青年が立っていた。
 肩まで切り揃えた黄金の髪は、癖が強いのか少しばかり緩やかな波を思わせ、
涼しげな目元を彩るのは先ほど窓の外で見た新緑そのもの。
 同じ軍人であるはずなのに、誰が見ても爽やかな好青年といった風貌と洗練されたその所作が、
どちらかといえば彼を血生臭く埃っぽい世界とは別次元の人間の様に見せかける。
 ―――其れは血に潜むDNAの仕業なのか、生まれ育った周囲からの影響か。
 青年とはまだまだ馴染みの薄い人間関係ではあるものの、
つい先日の部隊顔合わせで会ったばかりなので、流石にその名は覚えている。
 何よりも、本人と共に告げられたその名は、
軍人であれば誰もが一度は聞いたことがあるほどの、強烈な名だ。
 エルザム・V・ブランシュタイン。
 ファーストネームもさることながら、聞いた人間にとって
更に大きな印象を与えるのは彼が持つファミリーネームの方に違いない。
 ブランシュタインという家名は旧西暦から続く軍人名門一家として広く知られる一方、
現連邦宇宙軍総司令の嫡男であり、本人もその家名に恥じぬエースパイロットとして名高いエルザムという個人名。
 噂では耳にしていても、実際に会うのはあの時が初めてで、此が二度目。
 何故だろう―――彼が居るとこの普通の廊下でさえ、何処かの洒落た迎賓館の一角に見えてしまう。
 其れは相手を意識しすぎなのだろうかと、己を顧みていると。
『落し物だ』
 差し出された掌にあるのは無機質な鍵。
 最初は一体何だろうかと思っていたのだが、よくよく見れば其れが己の部屋の鍵だと分かり、
内心かなり焦ったのだが、傍目には分かり難い為に無表情なままだと見えただろうか。
 此が無くては自室へ入ることはおろか、軍の備品を無くしたと言うことで、
配属早々上官からの叱責を受けねばならない。
 下手をすればこの部隊から出て行かねばならないのではないかと
最悪の想像までして血の気が引いたが、矢張り表面的に見ればその表情に変化はなく、
僅かに青鈍色の瞳が揺らいだくらいだった。
『有り難う』
 軽く頭を下げて礼を言うと、鍵に付けていた鈴が鳴る。
 ―――そう。此があるから、落としても直ぐに気がつく筈なのだ、余程に煩い場所で無い限り。
 万が一という状況を考えた上でそのために付けていた鈴だというのに、鳴らないのでは意味がないし、
鳴っていても己が気付かなかったというならもっと間抜けな話だ。
『其処の販売機で珈琲を飲んで居ただろう? 恐らくその時に…ポケットか何処かから落ちてしまったのだと思うよ。
次からはベルトにでも紐を通して持っておくと良い』
『…成程』
 渡された鍵に注がれる怪訝な眼差しの意味に気付いたか、其れとも何か別の思考が働いての台詞か。
 微笑みながら自らの推理を披露し、次いで今後に向けたアドバイスを残した彼は、ではこれでと去って行った。
 確かに自室へ戻る前にと寄った自販機の前。
 基地内でも数少ない現金が使える其れに硬貨を投入した際に、鍵も落としてしまったのかもしれない。
 そして、紐でベルトに結びつけておくというのは非常に良案だと思った。
 寧ろそんな方法もあったかと――簡単だがそれ故に――目を見張る対処法である。
 ふと顔を上げて周りを見れば、彼が去った後の廊下は、いつも通りの廊下になっていた。
 軍靴の響くリノリウムの床と、同系色の壁。
 己もまたその場を去るために逆方向へと歩き出した、自室へと戻るために。
 思えばたった其れだけの会話が。
 ―――何故か鮮明な記憶として、今も脳裏に浮かび上がる。
 感じたことや思ったことに何か特別なものが含まれていたかと言えば、せいぜい彼のそのアドバイスぐらいで、
それともあれが彼との初めての会話だったからこんなにも覚えているのだろうか、と思うものの、
果たして二言三言の言葉のやりとりは会話と呼べるかどうか。
 そんなに昔の話では無いと思う事でさえ、人の記憶は容易く薄れて不確かなものになるというのに。
 何故、覚えているのか。
 どうして忘れていないのか。
 例えば其れがどんなに大切な人との記憶であっても、己にとって意味のある重要な出来事であったとしても、
脳の忘却装置に容赦は無く、正しい形で記憶される事は少ない。
 けれども、覚えている。
 はっきりと記憶している。
 噂に聞いた名ではなく、テキストとして見る名ではなく、己が己の意志で呼んだその名を。
『エルザム…エルザム・V・ブランシュタイン…』
 呟いた名は、彼が宇宙を統べる軍人一族である事を示すもの。
 知らぬ者など居ない、天才という称号を冠するにふさわしいエースパイロットであり、ゆくゆくはその一族の長となる人物。
 若き、帝王の子。
 さていつからなのか―――そんなお前と俺が、名で呼び合う友になったのは。

*****

 光の届かぬ海を泳ぎ、世界を支える力になると決めた一つの鯨が居る。
 黒い黒い大きな体の中には生きているとも死んでいるとも分からぬ人々がいて、
金色の艦長と、銀色の剣兵を筆頭に、影となりて光の歩む道の傍に佇む。
『我らは影たれば光との縁もまた強いでしょう』
 大義を掲げた戦は終わっても、母星の中で戦火は止まず。
 人の数だけ、星の分だけ、想いと願いをかけて、戦いが起きる。
 嘗ての戦で使われたその力が誤った方向へと行かぬよう、
力なき人々に戦火が降りかからぬよう、黒き衝角船は暗く冷たい闇の世界を行く。
 ―――まるで御伽噺を聞いている様だ、彼が言葉を音に換えると。
 低く穏やかで悠然とした振る舞いが滲む彼の声を聞きながら、男はそう思う。
 自らの母艦――このスペースノア級万能戦闘母艦、参番艦クロガネ――を一匹の鯨に譬えたことからしても、
彼が昔年の離れた弟にしていたのではないかと思うくらい、自然な響きだった。
 童話は得てして動物を好む。
 人ではなく、動物を主体にして物語を描く。
 其れは人だらけの世界の物語には、何故だか悲しい結末が多くなってしまうからなのか。
 けれどその比喩が紛う事なき真実であることを、男は知っている。
 己達が行く先の多くは暗い世界だ。
 普通に生きていくだけならば、知るはずのない世界だ―――否、知らない方が良い。
 そんな男の想いとは別に、青年の言葉はもう少しだけ続いた。
 ひとたび気を抜けば冷たく緩やかに死を忍ばせてくる闇という存在は、
いつでも傍らに寄り添ってはいるけれども、この胸に灯る炎が続くならば何も恐れる事は無い、と。
 では、その炎とは何だろう?
 死を、闇を、暗き世界を退け、祓い、道を照らす炎とは一体何だろう?
「……む…」
「我が友よ、君ならば何と応える?」
「…其れは……」
 ただ単に聞き流していただけの物語が、どうやら己への問いになるものだったと気付いた時にはもう遅い。
 当然、長い長い前口上全てを覚えている訳は無く。
 あまりにも非情な突然の問いに、男は思わず眉間の皺を深くした。
 旧西暦からのゲルマン系の血を濃く受け継いでいるのか、堀の深い顔立ちに、更に影が落ちる。
 非常灯と呼ばれる赤い照明で、問うた相手の顔はよく見えないものの、
恐らく声から察するに少し楽しそうな――言い方を変えれば悪戯好きだという態度を隠そうともしない――顔をしているのだろう。
 人類の様々な技術が進歩や発展をし、宇宙に出て生活が出来る様になって暫くたったこの新西暦の時代になっても、
旧来の海軍方式に則り、艦内標準時間が夜間の場合は艦内照明が非常灯の其れに変わるクロガネ艦内で、優しい御伽噺と鋭い問いのセット。
 そうだ、こんな時間に聞いた話だからこそ―――寝る前に子どもが、両親に読んでもらう様な、その物語のイメージと重ねたのだ。
 然し其れが分かった所で何のヒントにもならないのが悲しい所。
 元より謎解きは得意では無いし、己が考えを分かりやすく他者に伝えるのも苦手だ。
 ―――知っていて尋ねるのだから、この青年は。
「…いつに無く、唐突だな」
 ふと嘆息混じりに呟いた一言が、非難めいた声音になってしまったのも致し方無い。
 そうかなととぼけるのも常の事で、背に流れる金髪が彼の笑みに寄り添う様に揺れている。
穏やかなその様はまるで漣に似て、ゆらゆらと波間をたゆたう錯覚に身体が動きそうになる。
 話の上手い人間というのは得てして口の回りが早い、賢い人間のことでもある。
 そうして己が熟考を重ねている内に、彼はその先の答えに辿り着いていることも一度や二度ではない。
 己からの答えを待ち侘びている気配を意識的に避けつつ、男は思いを巡らせる。
 因みに、現在は目標の補給地点まで残り二、三時間の距離を航行中で、先ほど最短距離にして難易度の高い海峡を抜けたばかりだ。
人が辿り着けぬ深海では海流の激しい所を避ければ比較的無事な航行が可能になるが、
今回は先日新しく配置された練兵訓練も兼ねての航海スケジュールだったため、空気も張り詰めていた。
 其処を過ぎて交代シフトの変わるタイミング――即ち海流の穏やかな海域に到達して一時間ほど経過した頃――に、彼からの質問。
 たゆたう波と、彼の髪とを重ねて見ている場合では無かった。
 彼からの問掛けは泡の様にいつか消えるものでは無いのだ、愛馬であり愛機の名に因んだ性質か、
はたまた彼がそうだから愛馬の名も愛機の名もそうなのか―――竜巻の如く。
 不意に、突然、唐突な言葉を、動きをするものだから尚更困る。
 しかも付け加えて言うならば。
「何も難しい話では無いつもりだったのだが…」
「…よく言う」
「?」
「いいや。何でも無い」
 此処は艦橋で依然として哨戒任務が続き、戦闘配置が解かれた訳では無いのに―――いつの間にか
絡ませた腕をしっかりと組んで、己にもたれかかる様な姿勢を取っている青年に、不謹慎だと怒りを通して呆れたくもなる。
 二人きりの時ならば未だしも、今は任務中だというのに全くこの親友ときたら。
 本当に、この愛しい人と来たら。
 再びのため息に、再度青年は首を傾げる。
 冷静で隙のない戦場での指揮官とは異なるその仕草は、彼のそうした幼い部分をより強調している。
 己とて嫌なら恥ずかしいと拒絶を示し、本気で振り払えば良いのだし、厳しく注意をすれば彼も当然其れに従って腕をほどくだろう。
指揮官としての意識を忘れたという訳でも、戦士として神経を緩和させた訳でも無い。
 単なる、愛情表現だ―――死と隣合わせに生きる軍人だからこそと彼は以前に言っていたが、
己も其れは肌で理解しながらも、その言葉をいざ実践するほどの蛮勇は持ち合わせていない。
 冷徹な思考で戦略を立て、戦場では正確無比の射撃を行える技量を持ち、趣味は玄人顔負けの料理と、形容には事欠かない恋人。
 その一方で、とにかく皆を驚かせることに情熱を注ぐのだから、昔から振り回されてばかりだ。
 けれどこうして触れ合うのは嫌いでは無いと思う己も居る。
 ―――複雑な、だが何処か心地よい空気。


「そんなに悩まずとも…素直に考えている事を口にしたらどうだ?」
 ついに無言に耐えられず、何も其処まで深刻な表情をさせるつもりはなかったのにと、金髪の青年は苦笑しながら言葉を促した。
 愛しい親友には親友なりの考えがある筈なのだから、其れを思う侭に言ってしまえばよいのだ―――
今更、多少の荒っぽい言葉を告げられた所でどうということはないし、相手を常に気遣う様な遠慮する仲でも無い。
 それにしても、まさか何も浮かばないという訳でもあるまいに、一度眉根を寄せて以来、
愛しき親友は石にでもなった様に沈黙を保っている。
 此方としては本当に単なる世間話程度のつもりで尋ねただけだったのだ―――今は地上時間にして深夜の頃、
場所は深海という航路の途中であればこそ、他愛の無い言葉遊びの一種として。
 その前に話していた、母艦を鯨に譬えた話にも大した意味はなく、
幼い頃、弟に話していた様な口調を思い出しながら思い浮かべたままに話しただけだったというのに。
 ―――が、まさかそんな何の変哲もない一言が、
とにかく真面目なこの親友を此処まで深く考えこませる事になるとは思ってもみなかった。
 怒られるかもしれないが面白いという感想を秘めたまま、腕を絡ませた姿勢で少し視線を上げると、
其処には少し長い前髪に隠された青鈍色の瞳と、固く意志を結んだ口元をへの字に曲げた男の顔が見える。
 その横顔は何度見ても何時間見つめても飽きる筈が無く、
そういう意味ではこんな風に時間が過ぎていくのはとても貴重な事かもしれないと、青年は不意に感じた。
 思えば大戦終結に紛れる形で、この旅は始まったが為に、ゆっくりと時間を過ごす機会は少なかった。
そもそも人知れず世界を駆け、影の世界に生きる者としての道を選んだ自分たちにはお似合いの、
密やかな船出である以上そのような時間など望むべくも無いのだが、
それにしても慌ただしく、けれど覚悟を固めなければならなかった時間だ。
 彼は自らが所属した部隊を、軍を、大切な部下を裏切った。
自分は、安寧の世に弓を引き、世界中を争乱に巻き込んだ―――故に、お互いもう表の世界には立てぬと理解している。
 大罪人という消えぬ咎。
 世に戦乱という名の火種を蒔いた、逆賊。
『私という人間は、疾うにあの時死に果てたのだ』
『…死、か』
『…そうだ。だからこそ、死して尚…私は罪を償う必要がある。罰を受ける必要がある』
『……』
 東洋思想の一つにある、地獄の手前、賽の河原での石積みか。
 それとも閻魔によって決められる地獄のどれかなのか。
 死んで尚、その魂は救われず、地獄で苦しむことになる。
 西洋の宗教とて其れは同じだろうが、身近ではない分、東洋のその地獄絵図という言葉の方が、死後の苦しみは苛烈に思えた。
 かつてそういう風に自分の覚悟を言葉にした瞬間、苦しむ相手以上に辛そうな感情を押し隠し、
東洋の刀を思わせるその瞳が奥悩するのを見て、青年はそっとその腕に触れ、今と同じように自らの腕を回した。
 何故、親友が苦しむのだろう―――そんなにも悲しそうな顔をして。
 普通の恋人同士であれば、至極当たり前のこんな仕草でさえ楽しくてたまらない一方、
切なく狂おしいまでの罪悪感に襲われたことを思い出す。
 謝りたいと思ったが、何を謝るのかと心の中で反問した。
 ―――謝るくらいならば最初から、きっと彼を好きになってなどいない。
 好きだとは、未だ恐ろしくて言えなかったけれど。
 ただし今はその時と全く状況が異なる。其処までのシリアスな話ではなかったつもりが、
逆に雰囲気を沈ませてしまったものの、いつもなら怒って手を払う彼の不器用な姿を
――自分の出した言葉遊びに悩んでいるので――傍で飽きるまで眺めていられる。
 不幸中の幸いという言い方が、正しいのかどうか。
 瞼を下ろし、唇を曲げ、青年は微笑する。
「神も…此位の幸福なら、罪人に許してくれるだろうか」
「…? お前…」
 自分で神というその存在について口にしておきながら、頭から爪先まで神の存在を、神の奇跡を信じている訳では無い。
信じているかもしれないし、信じていないかもしれないのだ、要はそんな程度の曖昧な信仰心しか持っていない。
 何より、愛する人が同性である以上はまともに神の恩寵は得られまい。
 神は人間に対し掟を決め、遵守する者には寛容を、違反した者には厳しい罰を与えるのだから。
 互いに其れを覚悟した上で付き合っているのだ、こうした問掛けは一度や二度では無く、今後永遠につきまとう呪いの様なもの。
 が、今回は単なる呟きだ。感傷には至ら無い。
 ふと顔を上げると、一度は互いの視線がぶつかったのだが、親友はその後すぐに明後日の方向を向いてしまった。
 ぶつぶつと何かを言っているのは―――刹那見つめ合った気恥ずかしさからだろうか。
殊更恋愛については分からない事が多いと、普段嘆くというか慌てる親友はいつまでも初々しく、
いつも新鮮な気持ちで向き合う事が出来る喜びを与えてくれる。
 ―――願わくば、君もそう思っている事を。
 避けては通れぬ自分の過去の中、浮かぶ亡くした彼女の姿に胸を痛めつつ、伸ばした指先が大きな胸板に触れ、数回のリズムを刻む。
 とんとん、とんとんとん、とん、とんとん。
 回数や拍子には特に深い意味は持たせず、気の向くままに、指先が上下する。
 心臓の鼓動を聞くと泣き止むのは赤子だとよく聞くが、其れは大人にも有効なのではないだろうかと―――この大きくて逞しい胸板を思う。
 自身、男性として小柄では無いと思うのだが、如何せん鍛え方が違うのだ、親友ほどの逞しさはもう持てまい。
 もっとも、この広くて温かな胸に抱かれる瞬間は極稀なので残念な話。
 自分から懐に飛び込まねば、なかなか彼は動かない。
 然し、出会った時から――任務以外の事で――喋るのは苦手だと常々言っては居たものの、
最近は元部下の影響もあってか多少上手くなったと思っていたのだが。
「エルザム。…こら」
「あ、ああ…すまない、然し、だな」
 心なしか頬を朱に染めた男を見て、青年は口元を掌で覆い、肩を震わせて笑いながら謝った。
 親友のこうした所作がたまらなく愛しいのだと感じつつ、あまり長く笑っていると本気で拗ねてしまう可能性もある。
 愚直というか頑固というか、一度こうと決めれば信念を曲げない男の事だ、下手をすれば一日二日は顔を合わせても口をきいてくれまい。
否、実際何度かそういう危機に陥ったことがある。
 ―――ああ、そのたびに私は難攻不落の要塞を落とす、そういう愉しみを覚えてしまう。
 じわりと滲む様に浮かんできた愉悦を堪え、青年はジロリと此方を睨む親友に何度も謝って許してもらい、
親友の顔が此方を向いた隙に、頬に口付ける。
 ほんの少しだけ自分よりも高い彼の身長は、一瞬の背伸びですぐに縮む。
「っ…!?」
 何もそんな驚かずとも良いだろうに―――些か心外だ。
 それでも、狼狽したせいか先程より更に赤くなった顔も見れた事だし、
此方を窘める言葉を口にしながらも満更では無いと感じる雰囲気に任せてあと少し―――大胆になろうとしたが腕力の差で叶わない。
 まぁ無理もない。
 何せ今は航行中のクロガネ艦内、しかも場所は此処艦橋である。
 夜間の照明状態とは言え、決して密室ましてや二人きり、という訳ではないのだから彼が慌てるのも仕方のない話。
 勿論、青年はこの状況を踏まえた上で実行しているのだが。
「本当に君は…遊んでくれないのだな」
「場を弁えろ、場を…!」
 常識的な箴言である。
 所構わず親友を愛でる自分に対し、幾度となく発せられたことのある彼の警告。
 時と状況は違えども、斯うした台詞を聞くのは両手足の指でも足りない程。
 特に今は索敵レベルとは言うものの、練兵も兼ねた戦闘配置であることに変わりは無く、
しかも此処は艦橋で他からの目線もあり、士気に関わりでもしたらどうすると畳みかけられた。
 珍しく色々と喋っているなと感心していると、結局先程の問掛けは何なのだと逆に問われた。
否、寧ろ請われたと言うべきなのか―――この場は口付けで無く、
触れ合いに留めて他愛の無い言葉遊びに興じて欲しいと云う、彼の懇願。
 此で断っては恋人という立場が危うくなるかもしれない、いやいや今晩の楽しみが、
等と一人もの思いに耽っているとそんな邪な考えが顔に出てしまっていたのか、親友の視線が痛い。
「矢張り熱でもあるのでは…」
 ―――失礼な。
 冗談であれば皮肉だと思うし、真剣にそう言うのならばいっそキスでもしてやろうかと考え、
青年は少し怒った振りをして、男の耳を引っ張り、囁く。
「君が答えだと言う、素晴らしいプレゼントに何を言うのだ全く…!」
「………。何?」
 とっさの事に流石の彼も判断が鈍く、青年は繰り返し―――今日が誕生日の彼に、愛を囁く。
 艦内時刻では、先ほど日付が変わり、現在時刻は午前零時十分。
 日時は一月の五日になったばかり。
 即ち、彼の誕生日。
 もう子どもではないのだから、一つ年を重ねた所で嬉しくはないのかもしれないが、
彼を愛する者にとって今日という日は特別な時間。
「だから―――私にとっての光は君で、今日は君の誕生を祝う日だろう?」
「………」
 数度目を瞬き、急に硬直した親友は何かを言いたいのだろうに、そのまま何も言えずに自分で自分の頬を引っ張った。
 ―――何とも痛そうだ。
 実際に痛かったのだろう、微かに腫れた様な頬をさすりつつ、更に今日の日付を艦のシステムで確かめてから、此方を見る。
 何とも時間のかかる事だとその一連の動作を眺めながら、青年はゆっくりと傍に立つ。
 我が胸に灯る火よ、光よ。
 どうか彼に幸在らんことを。
 どうか、これからも今まで通りに、この日を迎えられる様に。
 今日が特別な日であるからこそ、とびきりの顔で君を迎えたい。心からの願いを、想いを伝えたい。
 絡めた腕をほどき、けれど手のひらでそっと彼の胸に触れる。
 位置は左の胸、ちょうど心臓の位置。
「恐怖はいつでも傍に在る。決して克服は出来ない―――だが、君が隣に居る限り、私は強くなれる」
 ―――そう、だから本当に恐ろしいのは、君を喪う事。
「故に、君の生誕を祝おう…私の中に在る光を愛でよう。おめでとう、ゼンガー」
 ―――生まれてきてくれて、有り難う。
「今日は、君の誕生日だ」
 存在を祝う。
 生命を祝う。
 あらん限りの感謝と想いを。
 君というただ一人に込めて。
 もし彼が今日という日に生まれなければ、こうして出会う事もなく、話す事も触れる事も姿を見る事さえ無かった筈だ。
または、同じ年でなくとも、同じ場所でなくとも、生まれてきて育った命が、
今こうやって共に同じ時を過ごせることを奇跡と呼びたい―――偶然でも構わない、そんなにも幸運なこと。
 大袈裟だろうか、と苦笑する。
 それでも構わないと心から思う。
 青年は小さく微笑んでゆっくりと男に近づき、その腕の中へと収まった。
大きな大きな背中へと腕を回し、思いきり彼を抱き締める。
―――時折、儚く感じる背中であり、戦場では誇りある頼りの存在。
 もう、場所も状況も構わない。
 ただこの一瞬の時間を、私にくれないか。
 そんな囁きに、やがて恐る恐るといった様子で男も青年の背中に手を回した。
 ふと青年の耳に聞こえる返礼の声。
 有り難う、ともう一言。
 其れが聞きたくてたまらなかったのだと、青年は満面の笑みをこぼした。

<了>

   writing by みみみ

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