心をください


「続きを、恋次」
背後から力を込めて恋次を抱きしめる弓親の声が、気のせいか震えている気がした。
恋次はぴったりと貼り付いた背中から伝わる弓親の温もりに意識を向けたまま、一角が閉めた障子をじっと見つめている。
(一角さん……)
本当は、一体何がしたかったんだろう。
この綺麗な人を目の前にして、ただ自分に湧き上がった欲望をぶつけただけだったのではないか。
自分が薬を飲ませるためではなく口付けたとき、弓親は否定をしなかった。
その隙を自分はつけ入ろうとした矢先に、一角が現れたのだ。
(このままで、いいのかよ)
あんな弓親の表情を、初めて見たと思う。一角が背中を向けて出ていったときの、酷く傷ついた顔。
いつもの自信に満ち溢れたそれとは違う、剥き出しの弓親がそこにいた。
泣きそうなのに、本当はどうにもならないくらいに必要としているのに、それを言わずに終わらせようとしている背中の人は、 俺の面倒を口うるさくも見てくれる大事な人ではなかったか。
面食らったような顔をしながら、何事もないようにひらりと部屋を出ていった一角は、自分が心許せる大事な人ではなかったか。
(ああ、俺はなんてことをしちまったんだ)
「……恋次?」
背後でもぞ、と身動きした弓親に気づいたように、恋次が自分の腹に絡まった弓親の指先に触れる。
それを一つ一つ丹念に解いていき、すっと身体を離して弓親へと向き合う。
自分を見上げた弓親の表情を見て、余計に恋次は心の思いを固くした。
(無理した顔をしてやがる、弓親さん)
「すんませんでした、弓親さん」
「え…?」
驚いて瞳を見開いた弓親を、恋次ががっしりとした腕で抱きすくめるようにして包み込む。
「俺の単純な欲のせいで、弓親さんを傷つけちまった。こんなこと、本望じゃないのに」
「……いいんだ、いつか来るはずの出来事だったから」
妙に穏やかな声で答えた弓親に、恋次がぐい、と弓親の両肩を掴んで離すと、苛立った様子で声を荒げた。
「いいわけないでしょう!?あんた、今自分がどんな顔してるか分かってますか?」
「酷いもんだろ?分かってるさ、それくらい」
ぷい、と横を向いて視線を逸らした弓親の肩を、恋次は構わず揺らして続ける。
「俺は、弓親さんが好きですよ」
「……」
「そして同じくらい、一角さんも好きです」
「!…」
「だから、二人が俺のせいで二度と仲が戻れないなんてことは、耐えられないんです」
「君のせいじゃないよ。さっきも言ったとおり、いつかはこうなるはずだったし」
ちら、と恋次を横目で見た後、すぐに視線を逸らし髪で顔を隠してしまった。
「元々、君が思うような仲でもなかった」
「そんな!だって……」
「だって、なんだい?」
冷たい声だけで対応する弓親だが、恋次は負けずに言った。
「いつも、一角さんを見つめていたじゃないですか、弓親さん。ずっと、どこにいたって」
「!っ…」
その言葉に弓親は思わず黙り込む。恋次は掴んでいた肩を離すと、代わりにとん、と弓親の心臓へと拳をつけた。
「?」
「俺は、二人の間に昔何があったのか確かに知らない。でも、外野だからこそ見える部分ってものもあるんですよ」
「………」
「上手く言えないんスが…俺から見れば、二人はたった一箇所、ボタンを掛け間違えているだけのような気がするんですよ」
「一箇所……?」
疑心暗鬼の表情で恋次を見る弓親は、下手をするといつ「何も知らないくせに」と反撃してくるか分からない。
だから、恋次は軽く頷くと合間を空けずに自分の思いを告げた。
「全体としては複雑でも、たった一つの本質が間違えているだけだってこと、あるじゃないですか…以前、弓親さんが俺に言ってくれたように」
「!……………」

『いつだって描くことより破ることのほうが容易くて――――――解くより結ぶことのほうがずっと難しいんだ』

弓親は恋次の言葉に黙ったまま俯くと、無意識に両腕をぐっと握り締めた。
「そこで、お願いがあります」
「……なんだい?」
自分を見上げてくる弓親の色香はまだ充分恋次を惑わせるものだったが、 今の彼にはそれに勝る思いがあったため欲望に打ち勝つことができた。
(本当に大事なものは、壊しちゃならねえんだ)
恋次はもう一度、弓親の心臓に当てた拳で、軽く相手の胸を叩いた。
「あなたの心を、ください」
「!」
「全てとは言いません。過去を全てばらせ、ということでもない。ただ一言、弓親さんの本心を教えて欲しい」
「……そんなことを知って、どうするのさ?」
完全に警戒した瞳で自分を見上げた弓親が、拳から離れるようにして一歩後ろへと後ずさる。
だが、恋次もそれに合わせて一歩前へと進んだ。
「今回の罪滅ぼしをさせてほしいんです。弓親さんの色気に参った俺が悪いのは明白だから、 二人のために出来る限りのことをしたいんですよ」
「嫌だと、言ったら?」
もう一歩後に下がった弓親の背に壁がぶつかる。はっ、と弓親が背後に気を取られた瞬間、恋次は既に目の前に近づき、 もう一度拳をこつん、と弓親の胸へとぶつけた。
「一言でいいっすから。本当に、弓親さんにとって大事なものを教えてください」
「………君に、言ったところで………何ができるのさ」
震える声に、揺らぎを感じる。恋次は落ち着いた声で、もう一度言った。
「確かに、何もできないかも知れない。でも頼むから、弓親さん。俺に、教えてくださいよ」
「……僕は」
普段の気の強い表情からは想像もつかない、怯えた顔をした弓親が今目の前にいる。
恋次はなるべく傷をつけないように注意しながら、無防備な弓親へと腕を伸ばす。
「弓親さん」
「…………もう、遅いんだ。何をしたって、もう……」
ふるふると首を左右に振る弓親を、恋次が優しく抱きしめる。そうして、もう一度宥めるような声で言った。
「遅いなら、返って好都合ですよ。何をしてもこれ以上無くすことがないってことじゃないっすか。 それなら、俺に託してみてもらえませんか?」
ふわり、と弓親からのいい香りが恋次の鼻につく。それを感じながら、恋次はそのまま弓親を抱きしめ続けた。
「………恋次」
「はい?」
「……………っ」
「………………」
しばらく沈黙が続き、恋次に抱かれている弓親が全く身動きをしなくなった。
そのあまりの沈黙の長さに恋次が思い余って声を掛けようとした矢先、 自分の背に弓親の指先がすがるように伸びてきたことを感じ、はっと腕の中にいる相手を見た。
艶やかな黒髪が、微かに震えている。同時に、弓親の頬が埋められている恋次の胸板に微かな動きがあった。
「………お願いだよ、恋次」
「はい」
「…………………」
ぎゅ、と恋次の背中の布が掴まれたことを感じる。そして熱く長い溜め息のあと、弓親がか細い声で恋次に言った。
「助けて……この絡まった思いを、解いてくれ…………」
「ゆみ………?」
「あの頃みたいに僕は弱くない。もう一角に迷惑をかけることもない。だけど、それでも大事なものは戻ってこなかった」
「…………」
「隣にいてくれるだけでいいと思ってた。それだけで充分だと思ってた。でも、違ったんだ」
「弓親さん……」
辛そうに話をする弓親を、恋次はどうすることもできずにただ、黙って抱きしめて聞いている。
もう彼は、この後自分が何をするべきか、充分に理解しつつあった。
(一角さん、あんた………このままでいいのかよ)
ふいに、自分の背中を這っていた弓親の手がぱらり、と解かれる。
はっと我に返った恋次が抱きしめている弓親を覗き込むと、具合の悪さが再発したのだろう、息が上がって頬も紅潮している。
(しまった、熱が出始めたか)
恋次が慌てて布団へ弓親を寝かせようと身体を離したそのときだった。弓親がしっかりとした瞳で恋次を見上げて呟いた。
「一角の、心が欲しいよ。恋次」
「!」
恋次はその言葉に瞳を見開いた後大きく息を吸って、思いっきり笑顔を浮かべ弓親をもう一度抱きしめる。
そして、「了解っす、弓親さん」と言って、相手を安堵させるように彼の背中をぽん、と数回叩いた。
「ありがと………」
「少し休んでください。そろそろ薬が効いてくる頃だ」
「うん」
本心を吐けてほっとしたのだろう。弓親が素直に恋次から離れて布団へと潜りこむ。
そうして、数分もしないうちに穏やかな寝息を立て始めた。
「さて、んじゃ一肌脱ぎに行ってくるか」
とんでもない休暇になってしまったが、悪くは無い。
過ちを犯す前に大事なものを知ることができ、尚且つそれを取り戻すという使命を背負ったのだ。
「…………ねえ、弓親さん」
恋次は弓親の横へしゃがみこむと、ごつごつとした指先で弓親の乱れた髪を整えてやる。
その仕草は、壊れ物を扱うかの如く丁寧なものだ。
「俺はね、諦めない限り未来は幾らだって変えられると思うんですよ。そう、一護達に会ってから感じるようになったんです。だから………任せて下さい」
恋次はそう呟くと、眠る弓親の額を最後にもう一度、そっと撫でる。そして立ち上がると、一角の後を追って部屋を後にした。




尸魂界の殺風景な街並みが遠くに見える。
それらを見下ろす小高い丘の上には、葉をつけない枯れ木がいくつか点在するだけの、寒々しい景色を生み出していた。
風の通り道なのか、足元の枯れ草が一定方向へと流れをつくっている。
一角はその草の上に寝転びながら、薄曇の空をぼんやりと見つめていた。
ここはいつだって曇っている。尸魂界の中心では晴れていても、この丘に来ると必ずと言っていいほど空には雲があった。
一角はその中途半端な曇り具合があまり好きではなかったのだが、サボるには丁度いいこの丘によく弓親と来ていた。
『日に焼けなくて済むから、ここは好きだな』
そう言ってごろん、と枯れ草の上に仰向けで眠る弓親を見て、何度指を触れそうになったことか。弓親は知るはずもない。
一角は鬼灯丸を支えにして、それに凭れるようにあぐらをかいて遠くを見つめる。
だがその視線の先に映るものなどに興味はなく、蘇るのは先ほどの弓親の様子だけだった。
少しはだけた着物に、放り投げられた褌、剥き出しの白い足。
そこまで思い浮かべて、一角は小さく息を呑む。
そう、あの白い足に、昔流れたもの。
それは…………太腿を伝った跡が残る、もう一つの血。

『俺は………こいつを』

「!!ちくしょうっ!」
どん!と地面を思い切り拳で叩くと、一角がギリ、と唇を噛みしめる。そして、頭をがりがりと両手で掻き毟った。
「守れなかった。大事なものを、俺は………」
何度も繰り返し蘇る後悔。だから、弓親にあれ以来触れることをしなくなった。
何事もなかった振りをして、今までどおりに抱くなんてどうしたって出来ない。
抱くたびに自分は弓親の傷ついた姿を思い出し、抱かれるたびに弓親は一角自身を守ろうと必死になるだろう。

『僕が、そうさせたんだ』

「違う、違うんだ、弓親」
本当ならば、そう言ってあげればいい。だが、それを全否定することが出来ない自分がいることも、分かっていた。
初めて弓親に会ったとき、強くなりたければ俺と来いと言って綾瀬川邸から彼を連れ出した。
それは、弱い者はいらないという暗黙の了解を二人の間に漂わせることになった。
弓親は、自分が暴漢に襲われたことを自分の弱さのせいにしている。
だが、それは一角自身をそのことで責めることのないよう、即座に張ってくれた一角への防衛線でもあったのだ。
俺は、それを知っていた。
(分かっている。どれだけ、俺があいつに甘えているか)
あんなことがあり、自分が弓親に触れることをしなくなっても、更木剣八と出会い、余計に強さを求めるようになっても、 隣、もしくは一歩下がって必ず振り向けば自分を見ていてくれた。
もう二人はあの頃みたいに弱くはない。互いに背中を預けて、戦いが終了したときには当たり前のように勝利し、 主語も述語もないような自分の一言でも、弓親は全てを理解し行動してくれていた。
だから、弓親が自分の傍にいることが、当たり前だと思っていた。
どんなことがあっても、あいつが他の奴を見ることはしないと勝手に信じていた。
(一瞬、何が起きているのか分からなかった)
恋次に抱かれていた弓親を見て、俺は頭が真っ白になった。
あの白い肌に、艶やかな黒髪に、案外厚みのある唇に、触れられるのは俺だけだと、無意識に思っていたんだ。
無かったことにして、弓親を抱くことは出来ない。それが相手を傷つけないことだと、ずっとそう信じてきた。
だが、『無かったふり』をして過去に触れずにいたことと、一体どう差があるというのだろう?
一角は今日、初めてそれを身に染みて感じていた。
「・・・・どちらにしろ、俺は逃げていたんだな。これは、その罰ってことかよ・・・・・・弓親?」
この胸の中に燻る苦い思いが、一角を余計に焦らせる。これが世で言う嫉妬というものなのか?
一角は「ちくしょう」ともう一度呟くと、ごろん、と草むらに横たわる。薄雲が風に乗って遠くへと流れていく。
そんな穏やかな風景に触れても、一向に一角の心は収まることを知らなかった。
(そういや、あいつはいつだって俺に言ってくれてたな)
思い出せば、例の件があるまでは弓親は必ず一角に対して『愛している』や『好きだよ』と言った言葉を発してくれていた。
だが自分は逆に一度もそんな言葉を弓親に囁いたことはなかった気がする。
(愛だの恋だの、言わなくても分かっていると思っていた。だから、俺が触れなくなったことも当然理解してくれていると思っていたんだ)
だが、そうではなかった。弓親は自分ではなく恋次を選んだのだ。
言葉にしなかった甘えが、全てを無くす原因だったのだろうか。悔やんでも悔やみきれないが、後悔してももう遅い。
一角が胸のうちにある気が狂わんばかりの嫉妬を持て余していた矢先、ふと尸魂界から一つの霊圧が近づいて来るのを感じた。
「?………………」
一角は苛立った顔のまま身体を起こすと、その霊圧に神経を向ける。
単なる通りすがりの霊圧でも、あることないこと喧嘩をふっかけて少しでも暴れてやりたかったのだ。
だが、それが誰の霊圧かはっきり理解すると、一角は鋭い瞳を余計吊り上げて立ち上がった。
「まさか向こうから来るなんてな」
一角は鬼灯丸を握り締めると、相手と同等くらいの霊力を発して霊圧の主が到着するのを待つ。
間違いない、その霊圧は確実に自分を探している。瞬間、彷徨っていた霊圧がはっきり丘へと向かい始めた。
(教えてやったぜ。俺はここだ、恋次)
まるで喧嘩を売っているような相手の霊圧の発し方に、丘を目指していた恋次が思わず息を呑む。
だが、やっと掴んだ相手の居場所を逃すまいと恋次は瞬歩の速度を増した。
やがて丘の上で仁王立ちをしている一角の前に、恋次が到着する。
隊服を着ている一角とは正反対に単の着物の恋次は、先ほどの情事を思い出させて、一角の機嫌が余計に悪くなった。
だが恋次はそれに構わず、礼儀正しくぺこり、と頭を下げると「探しましたよ、一角さん」と言った。
「………何の用だ」
「一角さんに渡したいものがあって、来たんだ」
「俺に?」
ぎろり、と一角に睨まれたものの、恋次もそれくらいは覚悟をしていたらしく怯む様子はない。
彼は斬魄刀を持たない丸腰のまま、殺気をみなぎらせている一角へと近寄った。
恋次は黙ったまま、一角の目の前まで歩くとそこで止まる。そして、拳を握り締めると一角の前へそれを突き出して見せた。
「なんだ?素手で喧嘩するってか?!」
「ち、違いますよ!とりあえず先に、返しておきます」
「何を………?」
身構えようとした一角より先に、恋次がとん、と先ほど弓親にしたような仕草で一角の心臓を軽く拳で叩く。
そして、穏やかな声で言った。
「これ、弓親さんの心ですよ」
「はあ?」
訳が分からないという表情で相手を睨む一角だったが、恋次の次の言葉で彼の動きは止まった。
「一角さんの、心が欲しいって、言っていました」
「?!」
「………これが、弓親さんの本心です」
「な……!」
驚いている一角から拳を離すと、困ったような笑みを浮かべて恋次が軽く頭を下げた。
「お願いします、俺の話を聞いてもらえませんか?長い時間は取らせませんから」
「………お前」
一角は目の前で垂れている赤い髪を見つめながら、叩かれた胸と共に聞いた言葉をもう一度反芻する。
そのまましばらく黙っていたが、やがてどかり、とその場に座ると恋次に向かって「勝手にしろ」と呟いてそっぽを向いた。
「ありがとうございます!」
恋次は嬉しそうに顔を上げると、一角の隣に座り込む。
そして、相手を刺激しないように、なるべくゆっくりと落ち着いた声で今朝の出来事を話し始めた。