薄愛性心
店長が床に頭を擦りつけている。私の前で。つまりそれは私に哀願しているという事だ。あるいは強制的に、私の意見を無視して、交渉を成立させようとしているのか。
「ホントお願い。ミヤがこの話を断わったら俺、テスタロッサを手放さなきゃいけないんだ。やっと手に入れてから1月も経っていないんだよ。使ったのも店と家の往復にしか使ってないわけ。そのテスタをまだ手放したくないわけ。その気持ち分かってよ。」
分かってよって、なんで私があんたの心情を知らなきゃいけないんだ。どうせ中古の、しかもちゃちなローンで手に入れた外車のくせに。しかしこの様子では、2つ返事でOKしない限り、帰らせてくれそうもない。静かにため息をついて私は「・・・・・・やるよ」といった。その言葉を聞くや否や、跪く姿勢で私の手を握り、「お前はホント素敵だよ」と白々しいおべんちゃらを語った。店長のほうに視線を向けないで私は「とりあえず今日はもう帰りたいんですけど」と本音を言うと、「じゃ、詳しい話は明後日にでも」と言い、やっとこの場から開放される事になった。
時計を見ると午前5時を過ぎている。空が白けている頃だろう。
店長との対話が終った途端、キャミソールから私服に着替えるのが億劫になり、着替えないでこのまま家に帰ろうかと一瞬思った。人も殆どいない時間だ。


瞼が上がる、それは脳が「もう眠らなくていい」と私に合図しているからだ。その指示に従ってベッドから上半身を上げる。しかし急に合図されたものだから、私のほうはまだ準備が万全ではなく、暫くは座ったままだ。
やがて体のほうも準備が整い、ベッドから起き上がる事が出来た。ふと見ると昨日の私服のままだ。しかしキャミソールから私服に着替えた記憶が何故かなかった。メイクはちゃんと落としているのにだ。自分の体になにかやばい事が起こっているのでは、そう思いつつ玄関から朝刊と夕刊を取り出し、それらを机に放り出し、ユニットバスへ向かう。そこでするべきことを一通り済ませた後、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、飲み干した後で体内の二酸化炭素を搾り出す。それでやっと昨日(明け方の事だが)の事について自問自答することが出来た。
@ 何故引き受けてしまったのか。
 「店長がテスタロッサを売らなければいけない」ということは、私の食い扶ちも危うくなるという事だ。私より可愛いイメクラ嬢なんて余るほどいる。第一何の取り得もない32の女を雇ってくれるところが今の店のほかに在るだろうか。

A 覚悟はあるか
 「世間から信頼を得る」ため、障害者を客にとるというのが店長のアイデアだった。アイデア自体はどうでも良く、問題は私自身が彼ら相手にセックスができるかという事だ(うちの店では女の子と客の交渉次第では本番も可能というシステムになっている。意外とそれを望んでいない客が多い。何か法外な請求をされると思われているのだろうか)。
この問題に関してはなるべく深く考える必要があった。

B 知識はあるか
 何も車椅子の相手ばかりではない。耳が聞こえない客、目が見えない客、或いは知的障害者なんかも来る筈だ。そういう相手に対しての対応は出来るのか。

夕刊に目を通し、夕食を食べ、テレビをみながら頭の片隅でそれらの事を考え続けた。そうして午前3時を過ぎた頃、一応の区切りをつけるために問題の回答を出す事にした。

@ 少なくとも単なるお情けで引き受けた訳ではない。でなければこんなに強引に回答を出す訳がない。
A 彼らも、なりたくて障害者になったわけではない。その気持ちを少しでも和らげさせよう。無いところから無理やり慈愛の心を引っ張り出して。
B 明日、店長とその事について相談しよう。あいつからこの話を持ち出したのだから、何らかの対策はある筈だ。
これで対策は完璧だ。そう思ってベッドにもぐりこんだ。あまり深く考えないために強引に答えを決めた訳ではないと、そう自分に言い聞かせて。


身障者専門のイメクラ嬢が誕生しても、直ぐに客が入るわけではなく、暫くは介護のための専門書で一人イメトレに耽り、身障者が書いたエッセイ本を読んである程度の心理を読み取るだけだった。ある時メイク室で適当に目を通してみると、後輩の娘が入ってきた。無視して本を読んでいると、背中に視線を感じる。振り返ると彼女が訪ねてきた。
「ミヤさん、店長になんか握られているんですか?」
その質問の意味は理解できたが、私は何も言わなかった。その後も同僚の娘達が似たような質問を浴びせかけてきたが、私は最後まで寡黙を通した。勝手に人を哀れな生け贄扱いするのが不愉快だったからだ。

半年前から「やばいやばい」というのが店長の口癖になっていた。詳しい事情は知らないが(知っていたかもしれなかったが)、とにかく借金が焦げ付き始めてきたのは大体その頃だった様だ。自慢のテスタロッサであちらこちらを疾走しまくった挙句、ようやく肩代わりをしてくれる所にたどり着いた。
店長の言い分だと、「互いを補っていこうじゃないか」というのが相手側の条件だったらしい。福祉事業に色々と繋がりがあるらしく、障害者相手のセックスケアを任されたという訳だ。任されたといっても、店の女の子全員が納得したわけではない。人権に反すると分かっていても、彼女達の中のバリヤーが過剰に反応してしまい、首を縦に振る事が出来なかった。そうしている内に、「店長と幼馴染だから」的な空気が私の周りに漂ってきた。確かに「その男」とは小学校からの知り合いだが、その理由だけでその大仕事を任される私はあいつの何だとしか言いようがない。


ヒーリングの音楽が薄いピンクの証明と共に室内をみたしていく。店で一番広い部屋のためか、いつもと勝手が違って、それでもベッド、浴槽、小型冷蔵庫、ビニールマットと言ったお馴染の物が在ることにはあったが。
障害者に対するケアの本をざっと見通してみる。すべての本に共通する事は、愛情をもって接する事、だった。だったら私のすることは、そう思ったとき、電話が鳴った。受話器を取ると、店長からだった。来たぜとだけいった。本をベッドの下に捨てるようにして隠した後、ロビーまで迎えに行った。


年齢は30代前半だろか、障害者特有の吃音で車椅子を押している店長に何か話しかけていた。
「ミヤといいます」と、普段どおりに挨拶をする為に近くによると、股間が出っ張っていた。おそらく女性経験がまだ無いためであろう。心なしか少し震えていた。「どうぞこちらへ」と私が案内すると、男は何かを訴えてきた。どうも尿意を催してきたらしい。一瞬、私と店長は以心伝心で「しまった」とお互いに叫んだと思う。客はセックスをやりに来るだけだと思い込んでおり、その他の、いわゆるバリアフリーの用意は最低限の事しかやっていなかったのだ。少しの間を置いて店長が男を私に預けると、どこかへ走っていった。残された私はとりあえず一般のトイレへ向かう事にした。
 いざトイレに着いても、どうしたらいいか分からずにいると、店長が見知らぬ初老の女性を連れてやってきた。そうしてその女性は、持っていたバッグから尿瓶を取り出し、客の尿意の処理を済ませた。どうやらこの客は、この女性に連れて来てもらったようだ。「迷惑をおかけして申し訳ございません」と店長が申し訳なさそうに言っていた。女性は黙って尿瓶の尿を便器に捨てた。バシャッという音がやけに耳に響いた。


何か胸に痰を飲んでしまったのような気持ち悪さを抱えながら部屋に入った。最低限の用意をしていたおかげで難なく部屋に入れた。何か言おうとしたが、つい無意識に「じゃあ脱ごうか」と言ってしまった。その言葉に相手は鼻息が荒くなった、といえば古臭い表現方法だろうが、実際その時はそういう言葉がぴったりだった。
男のシャツとジーンズとブリーフをなるべくゆっくりと脱がしていく。私は障害者の裸を見るのはこのときが始めてだったのだが・・・普通の30代前半の男の肌に、普通の30前半の男の肉体、そして普通の30代前半の男のペニスがそこにあった。その光景を見た瞬間、胸の痰が少し吐き出された気がした。
そうして男を障害者専用のイスに座らせるため、男の左側から抱きかかえて(自慢じゃないが私は割と力はあるほうだ)見よう見まねで持ち上げた。さすがに付け焼刃では安定させることは出来なかったが、それでもどうにかイスに座らせることは出来た。そうして私もキャミソールを脱いで、普段どうりにボディソープを塗りつけ、人間スポンジになって男の体を洗った。洗いながら私は、しかし又、ひとつの壁にぶち当たってしまった。
 《沈黙》
普通の男相手なら他愛も無い話でもするのだが彼の場合は明らかに違う。しかしこのまま黙っているわけにもいかない。彼は今日が始めてなのだから、余計な口出しはしない方がいい。頭の中で好都合な自答が浮かんだが・・・・・
結局都合のいいほうを選んで、男のペニスに手を触れると、既にカウパー液が溢れており、足を滑らせてしまう程に床に垂れていた。男にとって私は初めての相手になる訳だ。30過ぎた少し痛みかけてきた女が。ひょっとしたら、私が最初で最後の女になるのかもしれない。ふと、そう思った自分の中に何か水のようなものが溢れ出てきた気がした。しかし黙って、男の体を洗い流した。そのまま体を拭いて、ベッドまで男を持ち上げた。丁度合い舐めの体形になると、男は私のクレヴァスをケーキを目の前に出された子供の様な視線で黙視していた。
私がフェラチオをしようとすると、男の手が太腿を触ってきた。イチゴを最後に取っておいて先にスポンジから食べるような感じが手から感じられた。暫くはそうさせていたが、私がふいにペニスに舌を絡ませると、悲鳴とも思える声がした。そのままフェラチオをしようとした瞬間、私の口にドロッとした少し暖かくものすごい苦い液体が溢れ出てきた。初体験(そう断言できた)で口内射精出来たというのはいい思い出になったのかもしれない。ウェットティッシュでペニスと自分の口を拭いた後、「もう一回出来る?」何気に聞いてみたが、男の方は目にうっすらと涙を浮かべている。


結局、二回目が行われることは無く、無常に時は過ぎていった。終わりを告げる電話が鳴ったとき、正直救われたと思った。男をロビーまで送って行く途中、会話というものが無かった事に気付き、車椅子を押しながら深い敗北感をじんわりと噛み締めていた。ロビーには店長とさっきの初老の女性が待っていた。女性は私に会釈を交わし、何か申し訳なさそうな顔をした。風俗嬢にとってはこれが一番つらいことだ。別に何か悪いことをしたわけでも無いのに、何かタブーを犯したような感じになる・・・・・レストランで出された料理を食べる程度でセックスをしてくれればこっちとしてはありがたいのだが。


「あの人今日の客のお袋さんでさ」
灰を灰皿に落としながら啓三はそう言った。この日相手をしたのは車椅子の男だけで、だから《とりあえず試運転は成功したってことで》と、朝食をおごってくれるという誘いを断われるほど疲れてもいなかったので、ファミレスでとりあえずの祝いをしようと思った途端にいきなりの衝撃をくらってしまい、その途端に疲れがどっと押し寄せてきてしまった。
「店の事を知るまでは彼女が息子さんの処理をしてたんだって。仰向けにした状態でさ、エロ本で息子さんの顔を覆い隠すようにしてからさ、チンポをしごき上げるわけだよ」
「こんな所であんたいきなり何を言ってる訳?」嫌悪感丸出しで店長もとい啓三に突っかかると、
「何をって、おふくろさんが言ってたんだよ。有り難う御座います。これで息子も悪夢から開放されたと思いますって。分かるか?あの人にとってお前は慈愛の天使そのものなんだよ。臭い言い方だろうけどさ、少なくとも俺はそう思ってるよ」
啓三のおべんちゃらを聞き流しながら私がそのとき思ってたのはその「お母さん」の事だった。息子の為に人目を忍んでエロ本を購入し、息子のペニスをしごき上げ、精液を放出させる・・・・彼女こそが《慈愛の天使》と呼んでも、もとい、呼ぶべきではないか。啓三の喧しい祝辞を振り切ってそう言おうとした時に料理が運ばれてきた。私は何故だか恥ずかしくなってしまい、彼の顔を観ずに食事に集中する事にした。「お前ってそんなに食い意地があった方だったか?」啓三の嘲るような喋りが今度はしっかりと耳に焼きついた。


自宅に戻ると、何故か先刻まであった疲労が無くなって、代わりに得体の知れない虚無感が全身を覆っていた。取敢えずはベッドに腰を下ろし、傍らに置いてあった読みかけの身障者のエッセイ本に目を通してみた。これまで何冊かそれらの本に目を通してみたが、《偏見を無くそう》《私達にも出来る事があるはず》等といった所謂《正しい事》が大半を占めており、セックス等といった《いけない事》については殆ど触れてはいなかった。そういう事を書く身障者がいても良いのではと思ったが、出版社側がそれを禁じているのかもしれない。やはり何かしらのタブー的な匂いが漂っているのだろう。ベッドに横たえ、ガラにも無く《難しい問題》に頭を使っていると自然と瞼が閉じていく。私は昔の漫画のキャラかと自分で突っ込みを入れながらそのまま眠りについた。


翌日、メイク室で唯何と無く時間を潰していると店長が呼んできた。「トイレの段差のやつ、あれ補修するから手伝えよ」昨日のバシャッという音が不意に甦り、手伝う事に(単に釘やら板やらを手渡しするだけだが)した。そうして出来た即席のそれを見て、私は何故か目頭が熱くなっていくのを感じた。それが情けなさのせいでないのははっきりと分かっていた。私の中に慈愛の心が目覚めて来たのかも知れなかったが心の何処かでそれを否定しているのもはっきりと分かっていた。


開店の時間になり、各自其々が自分の部屋に閉じこもっていった。という表現も変な気がするが、する事といえば薄明かりの部屋でのセックスだけで、しかも様々な衣装でことに及ぶわけだから、ある意味豪華なオナニーショーと考えたら、そういう表現も適切といえば適切であった。
私はと言えば、滅多に来ない《私だけの》客を気長に待つだけだった。